MATTのブログ ~ 政治・経済・国際ニュース評論、古代史、言語史など ~

MATTのブログ ~ 政治・経済・国際ニュース評論、古代史、言語史など ~

元新聞記者。 アメリカと日本を中心にニュース分析などを執筆します。

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 西洋占星術では、その時々の太陽系の惑星の位置と相互関係を見て、地球上のさまざまな現象を解釈し、また予測します。そして、今年2020年の1月12日前後に、33~36年に1度しかない土星と冥王星という二つの凶星のコンジャンクション(合=角度が0度)が山羊座で起こり、地球上に長期にわたり影響を及ぼします。この効力が2019年11月~2020年2月頃まで続きます。この二つの惑星の合が山羊座で起きるのは500年ぶり(1518年以来)です。

 

 土星と冥王星の結合は、地球規模の困難と大変革、抑圧的なパワー(権力)からの解放を示します。まさに、新型コロナウイルスの登場と世界的なパンデミック(大流行)の開始、そしてパンデミックによって引き起こされた大衆の自宅隔離や生活困難、経済活動の停止、政治的な激動と変革がそれにあたります。これが山羊座で起きるため、土星の意味が強化され、大きな抑圧、抑制、困難を伴うことを意味しています。

 

 

 土星と冥王星は、過去には1982年11月に天秤座でコンジャンクションし、第五次中東戦争が勃発しました。今回はそれ以来、38年ぶりです。さらに歴史を振り返ると、土星と冥王星の合が大きな政治的変化に関連していることは明らかです。1914年の蟹座での合では世界を巻き込んだ第一次世界大戦が開始され、1947年の獅子座の合の際は東西冷戦(共産主義陣営との深刻な対立)が始まりました。

 

 一般的に、冥王星は変革の力として働くと考えられています。冥王星の影響は深層的で遅いので、その変化をリアルタイムで把握するのは難しい場合があります。

 

 しかも2020年1月には、冥王星、土星と併せて水星までがコンジャンクションしており、数百年に一度のきわめて重大な変化を表すいわゆる「惑星直列」状態が起きました。これらの星の配列は、商業活動や思想、政治の革命的変化を含んだ激しい出来事、大変化が2020年中に起きることを意味します。

 

 ご存じのとおり、新型コロナウイルスが中国武漢で2019年11月に発生し、2020年1~2月にはこれが世界中に拡散し、世界的なパンデミック(大流行)につながりました。

 

 しかも、2020年の年始から年末にかけては、毎月のように重大な惑星配列が起き、長期にわたって地球上の出来事に影響を及ぼすと予想されます。2019年末の12月26日に山羊座で日食が起こり、3月は木星が土星に追いつき重なり、4月は木星が冥王星と重なります。これらの配置は国家権力や権力者や学術界の権威が困難や激変に見舞われることを意味します。

 

 2020年8月は火星が冥王星と90度、9月は火星が土星と90度、12月には火星と冥王星が90度の凶角をつくります。その結果、世界中の至るところで対立や闘争が発生し、緊張が激しくなります。

 

 結論としては、新型コロナウイルスのパンデミックが今後、一時的に収まるように見えても、第二波、第三波の到来で長期化していくか、あるいは政治・経済的に深く大きな影響を及ぼし、少なくとも今年1年は思いもよらぬ激動と新たな幕あけが起こる可能性が高いでしょう。

 

 

 

 

英語の民間試験導入に対する反対論に反論します

 

2020年からの大学受験制度の改革に際して、TOEFLやTOEICなどの英語の民間試験を取り入れることが決まった。英語の民間試験導入に関しては、メディアなどから反対論や疑念の声が上がっている。こういった民間試験導入に対する代表的な懐疑論について、一つひとつ考えてみたい。

 

1.    複数の異なる民間試験のスコアを用いて選抜するのは公平性を欠く

それでは聞きたい。一般受験とAO受験という複数の制度を併用している大学は、もともと公平性を欠いているのではないか?一般受験と帰国生受験の併用は公平と言えるのか?数学と社会をいずれか選択できるシステムにしている大学は公平と言えるのか?また、民間試験と大学独自の試験のいずれかを選択できるとした場合、それも公平性を欠くのではないか。それを言い出したら、完全に公平な大学受験など、実際には無理ではないのか?

 

2.    問題作成と採点にかかわる民間団体と受験者の間で、民間団体に利益をもたらす接触が規制されていない状況では、試験の公正な実施を損なう恐れがある

これは可能性がゼロではないが、それなら、大学が独自に実施する試験は、保護者からの依頼や金銭の授受により不正な点数操作や試験問題の漏洩が起こらないと言い切れるのか?民間試験だって、不正操作が行われているという風評が立てば、それこそ飯の食い上げだ。むしろ民間試験のほうが、安全・公正を重んじているということだって言えるのではないか。

 

3.    試験の公正・公平な実施環境が確保されない危険性がある

これも、大学の教室で行われる入試であれば、公正・公平な実施環境と言い切れるのか?受験地を2か所つくった場合、あるいは異なるキャンパスで実施する場合、必ず公平となるように実施できると言えるのか?民間試験の実施企業だって公正・公平な実施環境をつくるべく努力している。また、現場で実際に試験が公正・公平に行われているかどうかは、文科省の役人が行って監査することもできる。

 

4.    採点が適正に行われない危険がある

これも同じだ。大学が独自に実施する試験なら、必ず採点が適正に行われると言い切れるのか?大学教員が全員、それほどまでに倫理性が高いのか?私は決してそうとは思わない。大学教員にもいろいろな人がいる。また、民間だから倫理がないと考えるのは偏見ではないのか?

 

5.    地域的・経済的格差を助長する危険性や障碍を持つ学生への配慮が十分でない可能性がある

そもそも東京の大学の場合、地方の受験生には不利であり、宿泊も移動時間もお金も必要になる。これも地方格差を助長する差別にあたるのではないのか。それに比べて民間試験は大抵、全国各地の主要都市で受験できるので、普通の大学入試より地方格差は助長しなくて済むだろう。もしも大学が民間試験の成績証明書とスコアだけで選抜すれば、受験生が東京まで来る必要もなくなり、経済的にずっと楽になる。

経済的な問題は、たとえばTOEFLは1回受けるのに22,000円程度かかり決して安い金額ではないが、2回受けても44,000円だ。だが、私大の受験料は1校あたり30,000~35,000円で、もし4校受けたら12万円~14万円かかる。しかも移動交通費と宿泊費がかかる人はさらに上乗せだ。それと比べれば、受験生が住む地域で受けられる民間試験の受験料は、決してばか高いとは言えない。また、民間試験をつくり実施する負担が減るのだから、大学側がその分、受験料を安くすればよい。各大学が似たような英語の試験をそれぞれつくり、実施するのは、経済的な無駄であるともいえる。

障害を持つ受験生への配慮という意味でも、どうして民間試験のほうが大学の独自試験やセンター試験より劣っていると言えるのか?これこそ、文科省の職員がよく監査して、どういう配慮がなされているのか調べればいい。

 

6.    受験生の英語力を十分に識別できない危険がある

これもおかしな議論だ。それでは、大学が独自に実施する英語の試験なら、英語力を十分に識別できるのか。センター入試の英語試験なら可能なのか。そこに問題があるから、スピーキングも含めた4技能を識別できる民間試験を導入しようという話になっているのではないのか?

 

7.    学力評価に適さない問題や選抜試験として適切でない出題がある

なんのことを言っているのか、さっぱり分からない。たとえば、TOEICはビジネスに使う英語力を測定するのが目的だから、たしかに大学で使う英語とは異なるかもしれない。しかし、それなら完全に大学入試用につくられているTOEFLにすればよい。あるいは、スピーキングで「趣味について語れ」という問題が出たら、それが学力評価に適さないとか言いたいのか。そんなことはまったくないだろう。

 

8.    解答例の公表や採点ミス、機材故障に対する対応が万全でない

そんなことを言ったら、大学が独自に実施するテストは、採点ミスや機材故障に万全に対応しているのか?民間試験とどちらが万全なのか、よく研究してから言ってほしい。また、解答例を公表しなければならないと言っているのか?これもなんのためか、よく分からない議論である。

 

9.    受験生に対して過重な負担がかかることへの懸念

過重な負担がかからないテストが良いシステムなのか?それって、いったいどんなテストのことを言っているのか?寝る間も惜しんで毎日18時間勉強しなければ受からないテストとか、そういうことか。これもよく分からない議論だ。勉強を多くすれば(あるいは才能があれば)点数は上がり、少なく勉強すれば(あるいは才能がなければ)上がらない。それだけのことだ。受験生が楽ができる出題が本当に良いのであれば、最近流行りのバンド名やアニメの登場人物の名前でも出題していればいい。

 

10. 高校生の「英語力向上」に資する方策として適切ではないのではないのか

これもよく分からない議論だ。ではいったい、どんな方策が高校生の英語力向上に適切なのか?英文学から抜粋した英語教科書を毎日和訳させることか?

 

11. センター試験を運営するノウハウが喪失する

アメリカのTOEFLを運営する機関は全世界の受験生から受験料を取り、かなり稼いでいるのは事実だ。日本も本当にやりたいのであれば、予算も人も使って、TOEFLなどに匹敵する、スピーキングもライティングも含む日本発の英語テストを開発すればよい。だが、英語圏ではない日本がそれをするのは、相当に難関であることを承知してかからなくてはならない。それが嫌なら、既存の民間試験を使うしかない。

日本人のミトコンドリアDNAには、中東系のDNAが含まれていることは以前、このシリーズで書いた。進歩が目覚ましい遺伝子研究の結果、私たち日本人のDNAの中身は、お隣の中国人や韓国人とは異なる部分が多いことがわかっている。

 
 
 
 

 

D2グループを持つのは日本人だけ。D、Eグループは主にアフリカ、中東系である。

 

日本人の遺伝子には、世界の中でも非常に珍しい古代の血統(ハプログループ)とされるY染色体D系統が多いのだ。しかも、日本人が持っているのはD系統のなかでもD2系統。D1やD3血統はチベット人や東南アジア諸民族にあるが、D2系統は、驚くべきことに世界の中で日本人しか持っていない(フィリピンのマクタン島、ルソン島でわずかながら発見されている)。しかも、かなり高い割合で残っている。とくにアイヌ人には9割近くも集積している。沖縄本島にも多く、本土の山間部にもやや多くなっている。ということは、D2系統が縄文人の特徴であったということだ。

 

さらに、この日本人のD2系統の中に、特徴的な変異である「YAP(ヤップ)」と呼ばれる挿入部分があり、この部分は、DとE系統のみが持っている。遺伝学者によれば、D系統とE系統は同じ仲間であるらしい。そして、E系統を持つのはユダヤ人であり、世界中に散らばるユダヤ人が共通して持っている。イスラエルの失われた12部族のうち、エフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部を持つD系統。そのほかはE系統。つまり、日本人が持つD2系統は、古代イスラエルを起源とするユダヤ人と共通しているのだ。したがって、古代ユダヤ人がはるか東の日本まで移動してきて、そのまま住み続けたものとしか考えられない。やはり、イスラエルの失われた十部族の末裔は日本人らしい。

 

以前も書いたとおり、古代ユダヤ人は三度にわたって日本列島まで大移動してきたと考えられる。三度目の波は、平安京を造った秦氏の一族だ。秦氏は、5世紀頃(古墳時代)、日本に土木技術を始め大陸の先進技術を持つ集団として、朝鮮の辰韓より渡来したとされている。始祖はタミール高原の北端(現在のキルギスタン~カザフスタン)地域の遊牧王国である弓月氏(紀元前161年~5世紀)とされる。古代イスラエルに起源を持つ秦氏は、中央アジアに移動して弓月氏となり、さらに秦王朝(紀元前778年~前206年)への服属を経て、辰韓(朝鮮半島南部)に脱出した。

 

 

魏志倭人伝によると、朝鮮半島における秦氏は、その習慣も言語も文化も、朝鮮人(馬韓)とはまったく異なっていて、中国人でも朝鮮人でもなく、倭人の一派とみられていた。そして秦氏は朝鮮半島南部で任那(マナセ族の意)を建国したが、結局、日本列島へ渡来した。秦氏は景教(1~5世紀)由来の一族である。景教というのはネストリウス派のキリスト教、原始キリスト教、あるいは東廻りのキリスト教といわれるが、内容はキリスト教というよりも、ほぼユダヤ教だ。正統派キリスト教からは異端視されている。秦氏ら一族は、この景教を日本古来のアニミズム(八百神信仰)とを融合させ、神道に強い影響を与えたと考えられる。

 

   高野山の景教的な石碑

    マークはユダヤの五芒星

 

秦氏一族の日本大移動は、すでに日本に到達していた同胞たちを追ってのことだと考えられる。そして、この東海上にある「約束の地」で、古代イスラエルの十二支族すべてが出会い、日本の建国と文明化に取り組んだ。つまり、日本の平安時代の京都(平安京)で、旧約聖書の預言が成就されたわけだ。
  

芝山古墳(千葉県)から出土した埴輪。ユダヤ人特有の帽子と鬢がある。

 

さらに歴史家の田中英道氏(東北大学名誉教授、日本国史学会会長)が、考古学的見地からも、日本列島にユダヤ人が渡来している証拠を発見して報告した。千葉県の芝山古墳をはじめとする群馬、茨城県など主に関東地方の古墳から出土する埴輪に、ユダヤ教徒特有の帽子と鬢(びん)があり、少なくとも6世紀には少なくないユダヤ人が日本に住んでいたことを明確に示すものだとしている。これまで書籍やネット上では「日ユ同祖論」として指摘されていたことだが、マスコミや歴史学会では眉唾ものとして無視されてきた。しかし、正当な歴史家の手によっても、ついに日の目を見ることになった。

 

 

 

 

 

 

米「ポリティカル・インサイダー」誌によれば、元FBI顧問弁護士であるジェームズ・ベイカー氏は、トランプ政権がヒラリー・クリントン氏を起訴すべきかどうかを検討していることを明らかにしたという。

 

クリントン氏は国務長官在任中(2009-13年)、政府のメールアカウントを持たず、公務上の通信であるにもかかわらず私的なアカウントを使っていたことが明らかになっている。政府の機密情報の取り扱い方に問題があるとして、当時、大統領候補だったトランプ氏や共和党、政府の透明性を求める専門家から批判の声が上がっていた。

 

この間明らかにされたことは、ヒラリー氏の私的アカウント使用は、意図的であったということだ。しかし、ベイカー氏によれば、オバマ政権高官にヒラリー氏を起訴する意図がなかった。その一方で、米国政府はトランプ氏のロシアゲート事件の捜査に2,500万ドルもの予算と2年間という月日を費やした挙句、ネズミ一匹出てこなかった。

 

これについて、「ポリティカル・インサイダー」誌は、「ヒラリー氏はその説明責任を問われるべきだったが、腐敗した人々が腐敗した政治家を保護していたようだ。ヒラリー氏が起訴されるだけでなく、​オバマ前大統領も、宣誓の下で証言しなければならない」と指摘している。

 

 

 

今年5月の個人情報流出に端を発するフェイスブックをめぐる立て続けのメディアによる不祥事報道により、同社は大いに揺れているが、一連のフェイスブック対メディア(ニューヨークタイムズ、CNN、CBS・・・)+議会の動きを見ていると、どうやらこの問題は、トランプ大統領と大物ユダヤ人投資家ジョージ・ソロス氏との代理戦争であるらしい。米メディアは大方、ソロス氏を代表格とするウォール街金融資本家のコントロール下にあるというのが常識だ。つまり現職大統領のトランプ氏寄りのフェイスブック経営陣を、トランプ大統領と対決関係にあるジョージ・ソロス氏らウォール街の金融資本家(=米国を支配するディープ・ステイト)が追い落とそうとする構図に見える。

 

ことの起こりは、米フェイスブックのユーザー約5千万人分の個人情報が不正に第三者にわたっていた可能性があると今年5月、米紙ニューヨークタイムズと英紙ガーディアンが内部告発者の証言を基に報じたこと。これらの情報は、英データ分析会社を通じて、2016年の米大統領選でトランプ陣営が使ったとの指摘が出た。米英の議会も巻き込み、フェイスブック社への社会的な批判は一気に高まった。

 

報道はフェイスブックを通じてユーザーの調査を行った英ケンブリッジ大の心理学の教授が、そこで得た約27万人分の個人的嗜好や行動に関するデータを不正に英の選挙分析会社ケンブリッジ・アナリティカ社に渡したというもの。

 

ケンブリッジ・アナリティカ社はデータを使って選挙時の有権者行動に影響を与える業務に従事しており、創設にはトランプ氏の側近だったスティーブ・バノン氏が関わっていたとされる。2016年の大統領選でトランプ氏が有利になるようにユーザー情報が使われた可能性が指摘された。

 

フェイスブックは記事が出る前夜、ケンブリッジ・アナリティカを同社のサービスから締め出すと発表。2015年の時点でデータを消去するよう申し入れていたとする声明を発表。また、情報が盗み取られたわけではなく、所管外の組織による不正であるとして、フェイスブック社の正当性を強調した。

 

さらにニューヨークタイムズは、ザッカーバーグ氏と最高業務責任者(COO)のシェリル・サンドバーグ氏が「危険な前兆を認識しながら、無視していた」と経営陣を追及する論陣を張った。これによると、フェイスブック社は、ロシアがフェイスブック内の記事に干渉していたことについて、早ければ2016年春の時点で把握していたと主張している。

 

さらにニューヨークタイムズなどによると、フェイスブックは2017年10月、共和党と関係が深いロビー会社、ディファイナーズ・パブリックアフェアーズ社を雇い始めた。同社は当初、報道をモニタリングするために採用されましたが、フェイスブックへの批判に対する反論を行ったり、フェイスブックに対する批判派を中傷する情報を拡散したりし始めた。中傷された批判派には、大物投資家のジョージ・ソロス氏や政策評論家などが含まれていた。

 

ソロス氏は世界経済フォーラムでのスピーチの中で、フェイスブック(とグーグル)が独占企業であると批判する一方、デ社は、ソロス氏が反フェイスブック活動の大部分に対して資金提供している黒幕だと主張したとされ、両者の対立は高まった。

 

ザッカーバーグ氏は、デ社がソロスを中傷することを「許可したことはないし、私たちの会社が関与したものだとは思わない」と自社の関与を否定している。さらにザッカーバーグ氏は11月20日、CNNのインタビューに応じ、自らのCEO辞任を否定するとともに、デ社の活動について「ニューヨークタイムズの記事を読んで初めて知った」と改めて自らの関与を否定している。

 

フェイスブック社の公共政策責任者だったエリオット・シュラージ氏は辞任したが、ディファイナーズ社を雇った責任を取ったらしい。テッククランチ誌の取材によると、シュラージ氏はディファイナーズにライバル会社(アップル社)に関する否定的な情報を拡散させたことは認めたが、フェイクニュースを流す依頼やその報酬の支払いについては否定している。

 

 また、フェイスブック社はトランプ大統領がイスラム教徒の米国入国について「全面的に完全に遮断すること」を主張して議論を呼んだ2015年の投稿を、自社が放置してことでも批判されていたが、ザッカーバーグ氏は判断の正当性を主張している。

 

さらに、2016年の米国大統領選におけるロシアの情報操作による介入を見落としたことについては、「私たちがとても重要なことを見落としたのは間違いない」と認めながらも、「私たちが予測できたものではなかった」と過失がなかったことを主張。COOのシェリル・サンドバーグ氏も、CBSの番組に電話出演し、「フェイスブック社はだれかのためにフェイクニュースを作ることは絶対にしなかった」と語っている。

 

 

 

きょうは、インドのサンスクリット語と日本語の共通性について書いてみます。サンスクリット語は、かつてインドなど南アジアや東南アジアで使われていた古代語です。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられていました。仏教、ヒンズー教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、生活で使っている話者は少ないものの、現代インドの22の公用語のうちの1つとなっています。

 

サンスクリット語は梵語ともいわれ、その多くの言葉が仏教とともに中国経由で日本に輸入されたことは有名です。印欧(インド-ヨーロッパ)語族と呼ばれるだけあって、サンスクリット語は東洋の言語よりも西欧系諸語により濃厚な影響を与えたのですが、日本を含む東アジアや東南アジア全体にも少なくない影響を与えました。

 

 

たとえば、ブッダ→浮屠(ふと)→仏(ほとけ)、ストゥーバ(仏塔)→卒塔婆(供養のための細長い板)、ダン(寄付する)→旦那(寄付できるほど裕福な男性)、ダルマ(達摩=世界を支配す法則、または仏教の高僧の名前)や、サンガ→僧(男性の出家修行者)、アンバ→尼(仏門に入った女性)、ヨーガ(ヨガ)、ゴマ(護摩=護摩木を燃やす祈禱)、エンマ(閻魔=地獄の主)、ディヤーナ(瞑想)→禅那→禅(座禅)、ナーマ(南無=名前)、ウラムバナ→盂蘭盆(お盆)、ボーディ(覚りの境地)→菩提、ニルヴァーナ(生死を超えた覚りの世界)→涅槃、カーシャーヤ(僧侶の衣服)→袈裟、サリーラ(身体)→舎利(ブッダの遺骨)、カッピナ(釈迦の弟子)→金毘羅、アシュラ(仏教の守護神)→阿修羅、マーハ(偉大な)→魔訶(非常に)、アーガ(水)→閼伽(アカ=仏前に供える水)、サーナ(時間の最小単位)→刹那、アウン(サンスクリット語で最初の音と最後の音、宇宙の始まりと終わり)→阿吽(あうん)などがあります。

 

いずれも、仏教と関係の深い言葉ばかりです。魔訶に不思議がついて「摩訶不思議」(人知を超えた素晴らしさ→非常に不思議)という言葉があります。「魔訶」は英語で言えば「very」(非常に)ですね。「阿吽の呼吸」とは、「息の吸い始めと息の吐き終わり」が転じて「息がぴったり合っている」の意味になりました。

 

しかし、仏教が日本に伝来したのは6世紀で、4世紀の漢字の輸入と比べてもかなり遅い伝来であり、ある意味、日本語にとっては外来語といっても良いほどです。その意味では、それよりかなり早い時期(3世紀以前)に日本語に影響を及ぼしたかどうかが問題なのです。そのためには、仏教とは関係のない言葉、漢字の音読みではない言葉を探す必要があるでしょう。

 

この考えで行くと、やはり日本語に取り入れられた言葉が少なからずありました。たとえば、カーカ(カラス)、カター(お話)→語る、語り、スルガ(空、天国)→駿河(するが)、キラナ(光線)→キラキラなどです。ナーマ(なまえ)もそうです。仏教とともに伝来した「南無阿弥陀仏」の「南無」ではなく、そのはるか以前から伝わっていたと思われる「なまえ」です。「な」「なまえ」は漢字の音読みではありません。つまり漢字とともに輸入されたわけではないということです。

 

 

 

一昨日にも書いたとおり、日本語の最初の原型はどうやら南方のオーストロネシア言語と同様、中国南部の福建省あたりから来た可能性が高いと考えられます。そのためと思われますが、中国南部の福建省や広東省の言葉と日本語は、お互いに非常によく似ているのです。

 

この「似ている」というとき、日本の「音読み」、つまり漢語(中国語)の読み方を取り入れた読み方が中国の言葉に近いのは至極当然のことですので、ここでは敢えて触れません。日本固有の「やまと言葉」と中国南部の言葉がよく似ているという点が重要なのです。漢字とともに漢語が日本に渡来したのは、4世紀頃といわれており、このとき中国から伝来したのが日本語の「音読み」です。ですから、それ以前、つまり少なくとも3世紀以前に中国から(漢字を伴わず)日本にわたってきた言葉がどれくらいあったのかを問題としなければなりません。

 

中国南部から琉球経由で来たか、朝鮮半島経由で来たのかはこの際問いませんが、私としては航海術に長けた福建人(閩民)のことですから、紀元前の時代から丸木舟で頻繁に渡来しているうちに(しかも互いに)、言葉が渡ってきたのではないかと考えています。

 

たとえば、福建省や台湾で使われている方言を閩(びん)語と呼ぶのですが、このうち厦門(アモイ)や台湾で話されている閩南語では、「リム(飲)」(古語では「イム(飲)」)が「飲む」、ついでに広東語でも「ヤムチャ(飲茶)」の「ヤム(飲)」です。

 

 

また、閩南語で、一から十までの数詞を「イッ(いち)、ニー(に)、サン(さん)、シー(し)、ゴー(ご)、ラック(ろく)、シッ(しち)、ペー(はち)、カオ(く)、ヂャップ(じゅう)」といいます。日本語ときわめてよく似ています。これらは音読みなので当たり前と言えば当たり前ですが、北京語より中国南部の閩南語のほうが似ているということを言うために取り上げました。閩南語では「猫」という漢字を「ニャウ」と読むのですが、これは日本語における猫の鳴き声とほぼ同じですね。

 

閩南語の方言である潮汕語(福建省に隣接する広東省北部で話されている言葉)では、何処を「ドコ」と読みます。閩語のうち福建省の福州で話されている閩東語では、「スワヤー」が「座れ」の意味です。

 

香港などで話されている広東語では、「ハイ」は日本語の「はい」、英語の「Yes」の意味です。日本語と同じです。また、日本語では文節(文)の最後に「か」をつけると疑問形となりますが、広東語でも「ガ(嘎)」をつけると疑問形になるのです。この点もきわめてよく似ています。

 

さらに、これは中国南部の言葉に限らずいえることですが、中国語で「馬」は「マー」。これが日本に渡来して、「う」という接頭辞が付いて「うま」という大和言葉(なぜなら「うま」は音読みではなく訓読みである)になったと考えられるし、中国語の「梅(メイ)」に「う」がついて日本語の「うめ」に、中国語の「水(シュイ)」に接頭辞の「み」がついて日本語の「みず」に、中国語の「魚(ュイー)」が日本語の「うお」になったと考えられます。

 

また、中国語で「太る」は「パン」というのですが、これが日本に渡来して「(お腹が)ぱんぱん」になった。中国語で「痛い」は「トウ(疼)」ですが、これが日本に渡って「いたい」になったと思われます。広東省北東部の客家語で「おいしい」は「ホウシッ(好吃)」というのですが、これが日本に渡来して「おいしい」になったと考えられます。

 

 

きょうは昨日に引き続き、インドネシアの隣のフィリピンで使用されているタガログ語と日本語の共通性について書きます。タガログ語もやはりオーストロネシア語系なので、日本語との共通性が少なくないのです。タガログ語はフィリピンで、約1,700万人が第一言語として使用しています。

 

タガログ語の「アワ」は哀れ、慈悲の意味。「カワワ」が「かわいそう」、「スカ」が酢、「イノム」が「飲む」、「フカイ」が「(深く)掘った穴」、「クスコス」が「こする」、「ガスガス」が「(ガサガサと)ひっかく」、「ナク」が悪い知らせを受けた時の感嘆詞。「ハバ」が幅、高さ、広さのことで、「マタ」が「まなこ」「目」です。

 

タガログ語で「ゲレン」は、「ばか」と人を罵るときの言葉なのですが、沖縄の言葉でも「ゲレン」は「ばか」を意味しています。ついでに日本語(やまと言葉)にも「ケレン」という言葉があり、これはど派手な演出で観客の度肝を抜く歌舞伎役者を指して使うものです。さらに日本語には「ケレン味」という言葉があり、これは「はったりやごまかしを効かせたさま」という意味で、当然、歌舞伎の「ケレン」とは同じものです。たとえばある映画を「けれん味のない作品だ」と言う場合、「正統派の落ち着いた作品だ」といって誉めていることになります。

 

「キモナ」が女性の緩い上衣(着物)、「モチ」が緑小豆のあんが入った生菓子、「カバン」が「かばん」ですが、これらはひょっとすると、もともとのタガログ語ではなく、安土桃山時代の交易を通じて、もしくは太平洋戦争時の占領中に日本人が教えたものである可能性もあります。

 

一方、タガログ語の母音はア、イ、ウ、エ、オの5つだけで、子音は日本語にRとLの区別を加えた程度ですから、日本人にとって発音は大変容易です。

 

しかし、タガログ語は、サンスクリット語(インド北部)やスペイン語、英語からも多くの影響を受けているため、日本語とは似ても似つかない単語も多いようです。古代に使われたタガログ語の文字は、サンスクリット語に近いものだったようです。

 

タガログ語は、インドネシア語やマレー語とは当然よく似ているのですが、それよりも台湾の高山地帯に住む先住民(高砂族)や台湾南東沖の蘭嶼の先住民が話すタオ語がきわめて類似しているということです。

 
 

 

インドネシア語をはじめとするマレー・ポリネシア語と日本語には、多くの共通性があるといわれてきましたが、最近、インドネシア語を少し勉強したため、きょうは日本語とどの程度似ているかを書いてみたいと思います。

 

まずは単語から。インドネシア語の「イクッ」が日本語の「ついて行く」、「スルッ」が「させる」、「マサ!」が「まさか!」、「スカ」が「好き」、「ナマ」が「名前」、「アンダ」が「あなた」「あんた」、「ビビル」が「くちびる」、「スダ」が「済んだ」「もう終わった」、「チャンプル」が「混ざり合う」、「ポトン」が「切る」、「ボチァ」が「坊ちゃん」、「ミヌム」が「飲む」、「マヌ」が「目」「まなこ」、「ナガ」が「大きな長い蛇」、「ビチャラ」が「しゃべる」、「トコ」が日本語の「店」という具合です。

 

さらに面白いのは、インドネシア語で「ヌラカ」が日本語の「奈落」、「ソルカ」が「空(そら)」「天国」ですから、インドネシア語で「ヌラカ、ソルカ」というと、日本語だと「地獄か天国か」という意味になります。日本語の「乗るか反るか」にそっくりですね。実は日本語の「乗るか反るか」という言葉については、その語源がよく分かっていないのです。

 

しかし、日本人がインドネシア語に親近感を持てるのは、なんといっても母音の構造がほとんど日本語と同じである点です。「あ」「い」「う」「え」「お」はほぼまったく同じ発音でよく、違いといえばもう一つ「あ」と「う」の中間にあるあいまい母音があるくらいです。

 

外国語を学ぶとき、ある意味、いちばんむずかしいのは、日本語にはない母音を上手く発音できないことでしょう。言語というものは、たとえ子音が上手く発音できなくても、母音さえ合っていれば、結構通じるものです。それくらい母音が重要なわけですが、その母音がほとんど同じなのですから、これほど日本人が学びやすい言語もないといってもよいのです。

 

では、インドネシア語はどこから来たのでしょうか。マレー語の一方言がインドネシア語になったといわれています。さらに、マレー語、インドネシア語、タガログ語、マオリ語やアボリジニの言語、台湾諸語(高砂語)、その他のポリネシア・フィリピン諸語をひっくるめて、マレー・ポリネシア語族といいますが、これらの祖先にあたるオーストロネシア祖語は、実は約5,200年前の中国福建省や台湾付近で使われていた言葉でした。

 

 

そしてこの言葉が南方に向かい、約3,000年かけて様々な言語に分岐しました。逆に北へ向かった子孫が沖縄の琉球語であり、南九州の隼人の言葉であり、日本語(ヤマト言葉)であり、アイヌ語です。ただし、日本語は、南方から上陸したこのオーストロネシア語系と、シベリア方面から南下してきたウラル・アルタイ語系が縄文時代に日本列島で出会い、混交したものと考えられます。母音をはじめとする音韻やごく基礎的な単語は南方系が基礎となり、そこに北方系言語の単語や文法が加わってできたのが日本語であると考えられます。

 

台湾に伝わるのが高砂族など原住民の台湾諸語であり、中国南部・福建省付近に伝わるのが北京標準語と大きく隔たりのある閩(びん)語です。これらも、オーストロネシア語の子孫といわれています。中国・福建省出身の知人によれば、福建省の方言と沖縄の言葉には共通する言葉が多くあるそうです。

 

ミクロネシア、ポリネシアなど太平洋諸国とフィリピン、台湾、中国南部、そして日本は、かつて一つの大きな共通文化圏であったということですね。古代から中国・福建の人々は(縄文時代の日本人と同様に)好んで遠洋を航海し、諸外国と交易を行ってきたことで有名ですが、みな共通の文化圏であれば当然といえば当然のことですし、航海が得意であったからこそ、言語・文化が広がっていったのだと考えられますね。

 

オリバー・ストーン監督の映画『スノーデン』をDVDで見たのですが、これは思った以上に深いです。

 

 

監視対象はテロリストだけではなく、世界中のあらゆる人々のメール、SNS、レンタルサーバー、電話がすべて盗聴され、自分のPCの内蔵カメラでさえ勝手に操作して撮影され、弱みを握られているという恐ろしい告発内容。とくにFacebookなどのSNSは誰と誰がどうつながっていて、どの程度親密か、何を会話しているかがすぐに分かるため、諜報機関にとっては宝の山というわけです。

 

 

スノーデン事件を受けてオバマ大統領はNSAによる大量個人情報収集を中止しましたが、米中露の情報戦が激化する中、個人のプライバシーがどれほど守られているかは怪しいものだという感想を持ちました。

 

非常に怖いのは、なんでも情報が筒抜けで弱みを握られ放題の日本は、「いまはまだ米国と同盟国だから良いが、もしもいったん敵対国になれば・・・」という下りです。

 

それにしても、スノーデン氏はえらく勇気のある人物ですね。

 

あの事件を世界中の人々が忘れかけている今日、どのような思想傾向の人も、この映画は見たほうが良いのではないかと思いました。