靭・江之子島コース
大阪あそ歩’24春から 靭・江之子島コース今回は、江戸時代から明治の初めまで大きな塩干物の市場があった靭・永代浜、鮮魚の市場があった雑喉場そして、明治7年から約50年間大阪府政の中心であった江之子島をめぐりました。4月8日(月)桜が満開の靭公園界隈からスタート水の都と言われた大阪でも、この辺りは特に江戸時代初期につくられた運河が多く江戸時代の大阪経済を支えてきました。(昭和30年代前後に、埋められてしまいましたが・・・)今回も江戸時代の古地図、明治中期から昭和30年代くらいの地図『摂津名所図会』『浪花百景』などをお見せしながら、楽しく歩きましたよ。参加者の皆さんにも喜んでいただいて、嬉しいでした。信濃橋洋画研究所跡の碑たった一つの碑ですが、多くのことを語ります。大正11年、まだ木造の2階建てくらいまでの家が並ぶ中四ツ橋筋、市電の信濃橋駅のところに日清生命ビルという6階建てのビルが建ったそうです。そこの4階に大阪生まれ、フランス留学から帰ってすぐという小出楢重国枝金三、鍋井克之たちが中心となって・・・話していて、30代後半の洋画家の情熱、大大阪に向かう大阪の活力が今も我々に力を与えてくれるように思いました。昭和15年ごろから出征まで、水木しげるもここで学ばれたそうですよ。靭公園の南側、靭中通にある「カネマン村瀬」さんの店頭には江戸時代の錦絵(永代浜)と靭海産物市場の解説文が掲げられています。いいですね~今回もいろんな碑に出会いました。どの碑もじっくり向かうといろんなメッセージを送ってくれています。その時代の人々や、その時代そのもの、碑を建てた人々の思いガイドをする醍醐味って、当日のガイドや出会う人々はもちろんガイドをするために調べて、学んでいくこの過程でいろんな登場人物に会い、その時代を知り、そして今それを教えてくださる人や資料と出会い気持ちが通じ合う、そんな喜びを得ることのような気がします。熱い思いが伝わります。本当の人間かと見まがうような像です。それぞれにタイトルがついています。飛行場跡の碑は、茂みの中でした。話の中で、昔の賑わいを感じてもらえたらいいですね無機質なビルや道路のそばで、映えます雑喉場と呼ばれた魚市場の碑は『摂津名所図会』が描かれています。初代大阪市庁舎跡の碑はマンションの茂みに隠れています。二代目大阪府庁舎 空襲に会うまで残っていたとか・・・見てみたかった!入ってみたかった!木津川橋の碑もいいですね。最後は、埋め立てられた百間堀の跡にできている津波・高潮ステーションでお勉強をさせてもらいました。わかりやすく、丁寧なご説明を頂いて有難いでした。災害に備えよう肝心の靭公園の説明、最後になりましたが・・・東西約800m、南北約150mの靭公園は元飛行場終戦後、連合国軍の小型機の発着に使われたそうです。今はなにわ筋で東園と西園に分かれていますが、なんとなくイメージできます。こうしてみるとテニスコートの大きいのもよくわかりますね。右上の茶色いところが、公園が開園する前の昭和28年にできた靭庭球場で1954年~1983年まで日本テニス選手権会場として使われたそうです。今は「なみはや国体」の時につくられ、大坂なおみさんにもご縁のある西園のセンターコートや一般コートがよく知られていますね。ここは元蹴球場でした。今日もお越し頂いて、有難うございました。