『バガボンド』の世界観の解説 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

漫画『バガボンド』の解説を始めることにする。

あ、最後にちょっと追記しました。

以前、この記事でバガボンドの老子的な発想について触れた。

その後、『荘子』って本を読んだのだけれど、ハハァーンと思えるような内容があったために、バガボンドの世界観の解説の記事を書くことにした。

バガボンドってのは宮本武蔵さんが主人公の漫画で、『スラムダンク』の作者が書いている大人気漫画になる。

あんまりバガボンドについて僕は言及してこなかったけれど、言うことがないから言っていないだけで、普通に読んでいた。

バガボンドという漫画について、この漫画はなんだか特殊な世界観を持っている。





(『バガボンド』37巻より)

言いたいことは分かるのだけれど、何言ってんのかちょっとわからない。

以下の話について、ちょっと調子乗りすぎて好き放題書いてしまったから、理解しづらい内容もあるだろうから画像のところまで飛ばしてもいいかも知れない。

飛ばしても分かるように書くので。

…と思ったら真面目に解説する限り、結局どうしても小難しくなってしまうみたいだから、もう全部適当に流し読みする程度でいいと思う。


バガボンドは大体、吉岡衆を倒したあたりから、こんな風な思想というか哲学というか、そんなものの話が入ってくる。

実はその前からちょっとは入っているのだけれど、なんだか戦いよりそのような思想の話ばかりになってくる。

僕はどっちでも面白く読めるのだけれど、戦うのが好きでバガボンドを読んでいる人には退屈な内容なのかもしれない。

で、この世界観というか考え方には元ネタがある。

元ネタは『荘子』。

もっと言うと、おそらくは井上先生は荘子だと思って描いているわけではないのだと思う。

日本の仏教にはいくつか系統があって、一つは死んだら極楽浄土に行きますよってタイプのやつで、もう一つが座禅して肩をぺちぺちやったりするあれになる。

他にも密教とか色々あるけれど、今回の記事には関係ないからあまり気にしない。

で、極楽浄土を目指す方が…あれ?なんて名前なんだろう。

浄土宗とか浄土真宗とか、日蓮宗とかいう名前の宗派で、多分念仏仏教とか呼ばれるタイプの宗派になる。

南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか唱えたり、お経とか唱えたりするタイプの仏教。

それに対して、禅宗というタイプの仏教もあって、臨済宗とか曹洞宗とか、まぁ細かい名前はいいのだけれど、修行して解脱しようという発想を持つ仏教になる。

修行するぞ!修行するぞ!修行するぞ!って感じで。

で、バガボンドなのだけれど、この禅宗と呼ばれる仏教の世界観を作品の中に落とし込んでいる。

バガボンドで見られる世界の理解は、禅宗の世界観と大体同じになる。

問題は、その禅宗と呼ばれる仏教の教えは、別に仏陀の言ったこととは限らないということで、思想の多くが中国に元からあった『荘子』の思想になる。

馬鹿じゃないの?と思うけれど、人間的な所作であって、あのー、ね。仏教だか道教だか、儒教だか神道だかわかんなくなっちゃうというのが人間の基本的な在り方みたい。

ホントぉ?と思うかもしれないけれど、世界中で普遍的に起きている。

数年前にフィリピン史の講義を受けたことがあって、その中で彼らのキリスト教需要についてのレポートを書いたことがある。

参考にした本によれば、フィリピン人たちはキリスト教のドグマ、すなわち教義をそこまで理解していたわけではなくて、「祈ればいいことある」程度の理解しかしていなかった。

そんなことキリストに祈ってもしょうがないでしょ、みたいな内容を、例えば豊作祈願とかをフィリピン人は祈っていたみたい。

おそらくは、その祈りとかは土着のフィリピンの宗教の儀礼なわけであって、こうしたことは基本的に世界中で起きている。

ニジェールかどこかの氾濫原と呼ばれる特殊な地形のところ住んでいる人々のドキュメンタリーを見たことがあるのだけれど、そこの漁師はイスラム教徒で、コーランが書かれた紙切れを釣り針に括り付けて漁をしていた。

祈ったら釣果が良くなるという話であって、コーランの利用方法としてはムハンマドは絶対に想定していない。

そもそも、そんなものはコーランを粗末にしているわけであって、普通に考えてコーランを燃やすことと大差はない。

なのだけれど、その漁師は真面目にコーランの言葉を呟きながら釣り針に括り付けていた。

もともとは土着のおまじないだとは思う。

古代インドの宗教であるバラモン教の『ブハリッド・アーラヤニカ・ウパニシャッド』には、解脱の方法が書いてあって、その方法の一つに欲望を持たないというものがある。

仏教にも執着という発想があって、この世界に欲求を持っている限り解脱はできないという話をしている。

けれども、恐らく仏陀自身はそんなことを言っていない。

仏教徒の中で、どれが仏陀の教えでどれがバラモン教の教えかわからなくなってしまった結果だと思う。

実は、ジャイナ教の教えも仏教には混ざっている。

よく、日本の仏教への批判で、土着の日本の神道の教えが入っているから駄目だという話があるのだけれど、そもそもインドの時点で腐ってる。

で、途中にあった中国でも思想の流入がしっかり存在する。

禅宗と呼ばれるタイプの仏教は、多くの考え方が道教の教えとイコールになる。

まぁ、中の人がわかんなかくなったのだと思う。

というか、実際的な場面を考えれば、なぜこんなことが起きてしまうのかがわかると思う。

ある高名な仏教徒がいたとする。

彼は尊敬されていて、多くの弟子たちがいる。

そんな彼は老境に至り、老いによりその偉大なる知能にも陰りが見えてくる。

そんな彼が弟子に対して、仏陀の教えを教示するわけだけれど、ボケちゃって道教の教えを誤って仏陀のものと教えてしまったとする。

仏教について詳しい人々は、その偉大なる先生が間違いを言っていることは理解できる。

けれども、僕らがその場にいて、その先生の教えが間違っていると果たして指摘することができるのかというのが問題で、恐らく言えない。

僕は少なくとも言えない。

会社の飲み会で、上司と飲んでて上司が変なことを言い出した時にあからさまにそれを否定できるのかというのと同じ問題で、言えない。

そして、先の高名な先生の間違った教えを若者たちは聞くわけだけれど、彼らにとってはそのことはもう真実だ。

これは老境の人間だけに起きるそれではなくて、誰しもが間違えてしまう。

僕だって、なるたるのセリフだと思って適当に引用してみたら、寄生獣のセリフだったことがあった。

そういうことは人間はしてしまう。

実際どういう経緯があったのかは分からないけれど、とにかく、禅宗という仏教の宗派は、道教の教えと仏教の教えが混ざったそれになってしまった。

そしてどうも、井上先生もその禅宗の何かに触れたらしい。

禅宗の仏教徒と話したのかもしれない。

禅宗の解説がされている本を読んだのかもしれない。

その実際はわからないけれど、そういうものに触れたらしい。

そして、その教えをバガボンドという作品に落とし込んでいる。

で、その落とし込まれている内容について、その元ネタを『荘子』から引っ張ってきましょうというコンセプトです。

どーせ漫画の解説が期待されているんだから、漫画の解説を書きましょうというお話ですことよ?

早速解説を書いていく。


(27巻より)

ここに天という言葉が出てくる。

このシーンは大怪我をして歩くのもままならなくなった武蔵に、仏教徒である沢庵和尚が画像のように伝えるシーンだけれど、この天という言葉が問題になる。

意味はお天道様と同じなのだけれど、仏教の教えに天はない。

天というのは中国特有の概念で、説明すると天はこの世界の創造主になる。

キリスト教の神様と似てはいるのだけれど、若干違う。

この世界の究極理由ではあることは確かなのだけれど、慈悲があるわけでも人間性を持っているわけでもない。

とりあえず、すべてのことの原因は天で、良いことをしたら天は良いことを返すし、悪いことをしたら天は悪いことを返す。

お天道様が見ているというはそういうことになる。

天というのはけれども、あくまで本来的には中国の考え方で、仏教徒は関係がない。

仏教が中国に入ってくる前の本である『大学』や『中庸』、『墨子』で存在を確認できて、もちろん『荘子』や『老子』にも出てくる。

まぁ、報酬とか罰とかを与える存在で、天の意に沿うようにやれば良いこと起こりますよ。だから天に従いましょうね。という話になる。


(35巻より)

一方で、道というのも中国の発想で、『荘子』では天よりも道のことを重要視するのだけれど、天も道も似たようなもので概念的な差はそこまでない。

ただ、道はあり方であって、道に沿うようにすると良いことありますよって話で、その道に沿うようにしましょうという話が『老子』や『荘子』の議論になる。

じゃあ、どうやったら道に沿っていることになるの?って話だけれど、それは自然体でいること。

ひたすら自然体であり続けることこそが、道になる。







(24巻より)

この刀が教えてくれるという話は、実際元ネタは『荘子』になる。

荘子は小難しい考えや言葉による論理、議論、そのようなものでは真理にはたどり着けないと言っている。

「もし、自分に自然にそなわっている心に従い、これを我が師とするならば、だれでも自分の師をもたないものはないことになる。この師は自然にそなわるものであり、あれこれと、これに代わるものを捜したすえに、自分の心が選び取ったものではない。だから、この心の師は、どんな愚かなものでもこれを心に備えているのである。(『世界の名著4 荘子・老子』 第二斉物論編p.173)」

こんな文章が荘子にはある。

引用文、訳が微妙で意味が取りづらいけれど、自然は体に備わっており、それを師にすれば、どうして他に師が必要だろうか。その自然という師は愚か者にも宿っている。という文章になる。

バガボンドでは剣が教えてくれると言っているけれど、早い話がこういうことになる。

「酒に酔ったものが車から落ちると、たとえ傷つくことはあっても死ぬことはない。酒に酔っているものの骨節は、ふつうの人間と同じであるのに、被害の程度が軽くて済むのは、その心が完全に自然な状態であるからである。車に乗る時も無意識であるし、車から落ちる時も無意識である。したがって生死の驚きや恐れも、その胸中にはいることはできない。だからこそ、どのようなことに遭遇しても、恐れることがないのである。(『世界の名著4 荘子・老子』p.414 第十八達生編」)

荘子のテキスト…数百ページある上に、同じようなことを違う言葉で延々と言い換えているから、そういう思想が繰り返し繰り返し述べられている。

つまり自然体で居ろということ。

どうでもいいけれど、中国拳法の酔拳って直上の引用が元ネタらしいですね…。

知らなかった。

自然とは道(=世界)と一体であることで、それを目指すのが荘子の思想になる。

その状態は心を捨てると手に入る。

心とか意識とかがしっかりある状態がみんなの普通な状態だけれども、荘子ではそれを捨ててあるがままにあれと言っている。

無心で体や自然が欲するままに動くと、それは素晴らしいことになる。







(21巻p.21)

バガボンドの世界ではそのことはイコールで強さになっている。

何か作り上げられた世界があって、読者はそれを断片的に知ると、なんだか凄いことを言ってそうに見えてくるけれど、大体のことには元ネタがある。

ただ、井上先生は多分荘子から着想を得たというわけではなくて、禅宗とかそういう仏教の話から着想を得たと思う。

なぜかというと、多くのそういった思想を仏教徒である沢庵が語るから。










(21巻より)

天とか言ってるけど、仏陀はそんなこと言ってない。

荘子の教えなのだけれど、それを仏教徒の沢庵が語る。

仕方ないね。

ただ、禅宗では仏陀の教えも荘子の教えも同じように扱って仏陀の教えとしていて、恐らく、井上先生はその禅宗の教えを元ネタにしたのだろうと判断できる材料がある。











(37巻より)

この関係性にこそ本質があるという発想は、仏教のものになる。

この発想は現存する最古の仏典である『スッタニパータ』にもしっかり載っていて、一般的にこのことは仏陀本人の教えだとされている。

ただまぁ、僕個人的には仏陀はそんな具体的なことは言ってないんじゃないかなと思う。

もっと曖昧模糊で体系化されておらず、個別具体的なケースバイケースの話で、こういう場面ではこうしたほうがいいということの積み重ねが史実の仏陀が弟子に教えたことだろうなと思う。

孔子って儒教の創始者の『論語』を読む限り、のちの儒教的伝統で教義とされている小うるさい体系は、孔子の発言集である『論語』からは、はっきり言って見いだせなかった。

天とかそういった中国特有の発想は確実にあるのだけれど、後世の儒教の教えにある内容は読み取れなかった。

だから仏陀もきっとそうだったのだと思う。

ケース毎の道徳的な行動への示唆しかしていないのだけれど、教団としてそれを後続に教えるに至って、体系化してないと上手く教えられない。

だから体系化されたのであって、仏陀自身おそらく体系化していない。

まぁいい。

基本的に『荘子』的である沢庵和尚の発言の中に、しっかり仏教のエッセンスはあるわけであって、だとしたならばきっと、荘子と仏教をないまぜにした禅宗とか井上先生の知識はあるのだろうと思う。

他にも『荘子』が大本である事柄がある。



(29巻より)

道を究めたら刀はいらないという話がある。

この道を究めたら道具が必要なくなるという発想も荘子になる。

まぁ、道って言葉自体が荘子の言葉だしな。

荘子の是は道を極めることになる。

「道に完全と毀損の区別ができるのは(引用者注:道に完全な道と損なわれた道の違いが生じる場面は)、たとえば琴の名手である昭氏(引用者注:そういう名前の人)が、琴を奏でる場合である。琴を奏でる以前の状態は、まだ道が完全な状態にある時である。ところが昭氏が演奏をはじめるやいなや、道はそこなわれる。昭氏がいくら多くの音を奏でたとしても、それは琴に秘められた無数の音の一部分でしかない。かれは琴を奏でるという人為によって、無限であるべき自然の道に限定を加え、これをそこなっているのである。(同上p.183 第二 斉物編)」

他にもいくつか同じような説話があって、とりあえず一番初めのやつにした。

道というのは自然体のことであって、そうである以上、道具を用いて道を究めるということはすなわち、道を損ねるということになる。

自然である状態が至高なのだけれど、それを人間が扱った時点で自然ではなくなってしまう。

つまり、楽器を究めるということは逆説的に楽器に触れないということになる。

剣術を究めれば刀がいらないというのはこれが元ネタになる。

中島敦という作家がいて、彼の作品は『山月記』とかが有名だろうけれど、あ、山月記ってプライドが高すぎて虎になる話ね。彼の作品の中に『名人伝』というものがある。

『名人伝』は弓の名手の話で、主人公は弓を究めたのだけれど、最後に客人のところに行って、その客人に弓を指さしてそれは何かと問う。

彼は究めすぎてしまったがために、弓そのものを失ってしまったという話らしい…のだけれど、僕が勝手に言っているだけで、そうと解説している文章を読んだことがないから、あまり信用しないように。

まぁ少なくともバガボンドの刀が要らないというのは荘子の発想になる。

僕はなぜそれが違うのかを説明できない。

最後に、体などのものは天から貸し与えられているだけということについて、バガボンドの中でそういう話をしているシーンがあったと思うのだけれど、見つけられなかったから省略する。

普通に僕の勘違いだと思う。

僕の場合適当を言うのがあまりにも恐ろしいから、しっかり確認をするのだけれど、普通そんなに確認しないし、今だからこそ簡単に確認できるわけであって、昔は紙も貴重だし、巻物持って説法なんていつでもどこでも出来ることじゃないわけであって、適当を言って修正ができなかったり、普通に多くの勘違いを教えてしまうということがあったと思う。

だから、仏教だと思って中国人も日本人もいろいろやっているのだけれど、実際そんなこと書いてないというのがよくある。

『コモン・センス』っていうアメリカ独立戦争のときの本に、神の元に人間は自由であるという話が延々と書かれていて、それなのにイギリスに自由を剝奪されているから独立しようという話なのだけれど、そもそも聖書にはそんなことを書いてはいない。

近いようなことは書いてあるのだけれど、実際ストレートには書いてない。

じゃあこの発想は何なんだといえば、哲学の一つの流派であるスコラ学という学問の発想になる。

そもそも哲学というものが宗教と密接な関係があるから、どっちが哲学でどっちが宗教かがわからなくなってしまったのだと思う。

『コモン・センス』の著者のトマス・ペインは本当にただの一般人なのだけれど、スコラ哲学の教えをキリスト教の教えと混同している。

そうしたような混同が仏教でも起きていたのだと思う。

だから、この解説で書いた内容は仏教の教えとは言っても、そもそも仏陀さんはそんなことを言っていない。

でも安心してほしい。

どんなに古い仏典を読んでも、しょせん仏陀さんの教えなんて掬い上げきれないから、仏教を信じる時点でどの宗派でも同じクソです。

それが悪いとか悪くないとかではなくて、少なくとも仏陀はそんなことを恐らく言っていないだろうというのが事実だから仕方ないね。

まぁそもそも、仏陀が言ったから正しいとかはあり得ないのだから、仏典に書いてあることを信じている時点であれだけれど。

その知識から生まれたのが『バガボンド』。

けれども、どんな着想があったところで、漫画の価値判断は読んでいて面白いか面白くないかだけなので、面白いバガボンドは誹りを受ける謂れの一切を持っていない。

バガボンドは普通に面白いのですよ?

そんな感じです。

では。

・おまけ
青空文庫の中島敦の『名人伝』。

・追記
一つ思い出したことがあったので、追記することにした。

僕は以前、ブックオフに置いてあった、『日本の弓術』という岩波文庫のうっすい本を100円で買って読んだということがあった。

その内容が刹那的に脳裏に閃いて、ある一つの事柄を理解するに至ったのでここに書くことにした。

『日本の弓術』は戦前の日本に居たドイツ人であるオイゲン・ヘリゲルって人が書いた本だけれど、彼は日本で高名な弓の先生に師事していた。

その彼が弓というものの極意を師匠から見出した時の話なのだけれど、その話を鑑みるに、酷くこの記事で書いた内容と重なる部分があった。

精神的で、超現実的で、非科学的な言説があって、見えないところの的を暗闇の中で射抜いたということがエピソードとして語られている。

弓で的を当てるには、無心が必要なのだと説く。

無心になるためには無心を意識してはいけない。等々。

僕はその内容を思い出して、そもそもに、日本の武道というものが禅宗の思想の延長線上にあるということを理解した。

きっと、弓でも一つこうであるように、剣術でも柔術でも、きっと茶道ですらそういう禅宗の思想が教義に入っている。

まぁ、剣道も柔道も茶道も、「道」という字が入っていて、道は道教の道の字なのだから、そうした精神性の話が武道の中にあるのだと思う。

禅というか道教の教えだと、正しいことは言葉では伝わらない、修行を以て体得するしかないという話で、説明するのがめんどくさい体育と非常に相性がいい。

例えば、バットにボールを当てるという事柄について、説明するのは大変だけれど、自分はとにかく知っていて、指導者はそれを教えるに際してどうすればいいのだろうか。

禅の教えはとにかくわかりやすい。

頭を使って説明する必要はなくて、とにかくやらせて駄目だったら「お前はわかっていない」といえばいい。

その延長線上に、日本の体育会系があるのだと思う。

精神論が跋扈して、科学的であることや論理的であることを放棄した指導方法。

体育教育者のさらにその教育者はそうした武道の出身なわけであって、そういう伝統が続いているのだと思う。

『バガボンド』の井上先生については、恐らく剣術についての資料をたくさん集めた結果、そのような思想が剣道には存在するから、それを正しいものだと思って作品にしたのだと思う。

つまり、荘子→道教→禅宗→剣道→井上先生→『バガボンド』という情報の流れ。

そういう形で『バガボンド』の作品は恐らく作り上げられた。

ちなみに、僕がそのような禅宗的な教えについてどう思っているかといえば、正しくないと思っている。

そのようなことをして上手くいくこともあれば、いかないこともある。

それだけ。

まぁ考えて体動かすよりも、考えないで体動かしたほうが素早いから、そういう意味では正しいとは思うのだけれど、だから言って禅宗の思想体系が正しいという話にはならないし、そんなことをしても真理に至れるという根拠がない。

また、指導者としては武道的な精神論で教えれば楽なのかもしれないけれど、懇切丁寧に分からないところを気づいてあげて、それを子供にわかりやすく指摘してあげたほうが改善が早い。

なぜ早くないのか、説明ができない。

だから、普通にもっとわかりやすい指導をしたほうが良いと思うけれど、指導者の側がそうと思わない人も多いだろうから、これは仕方ないね。

スポーツなんて、やって楽しければやればいいし、楽しくなければやらなければいいのだけれど。

実際、勉強もやって楽しければやればいいし、楽しくないのなら他のことに時間を回したほうが良い。

楽しいということより、上達を助けることはない。

無理やりやらせても、得るものは苦痛に比べてあまりに少ない。

孔子の言葉にも、「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。」という言葉がある。

ここで引用したのは孔子が正しいと思っているからとかではなくて、こういう風に昔の偉い人の言葉を引用したほうが説得力があるからになる。

「智者も千慮に必ず一失有り。愚者も千慮に一得有り」という言葉もある。

まぁ孔子もそう言っているし、実際楽しくなきゃやらないし、覚えない。

だから、教育者の求める最善は、如何に楽しいものだと勘違いさせるかにあると思う。

勉強を無理やりさせるのではなくて、勉強を楽しいものだと思い込ませる努力が必要で、スポーツもきっとそうだと思う。

関係ないことを書きすぎたので追記はこれくらいで。

まぁ多少はね?

 

・追記2

久方ぶりに『老子』を読んでみたら、『老子』からの借用というかなんというか、『老子』が元ネタのシーンを見つけた。

 

いや、正確には『老子』を読んでたら『バガボンド』の元ネタを見つけたのだけれど。

 

『老子』と『荘子』は道教の聖典で、合わせて老荘思想と呼ぶから、まぁ『老子』の方が古いだけで似たようなもんです。

 

(35巻pp.33-35)

 

この水に対する優れているという判断は、『老子』の6章が着想元でしょうね。

 

「上善、つまり、より良い善とは、水のようなものである。 水はよく万物を利して、他と争うという事がない。 そして、多くの人々が嫌悪するような場所にも流れていく。(http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/tao/tao_8.htmより)」

 

という文章から始まる。

 

とりあえず水は素晴らしいという発想が『老子』にあるから、ここら辺が与えていそうという感じです。

 

ただ、『老子』では水は争わないと言っていて、一方で佐々木小次郎は戦うので、井上先生がこの文章を読んだかと言えば読んでないと思う。

 

けれども、水に関する言及がある文章を読んだのではないかなと。

 

禅宗って非常にテキストが残っていて、僕は全然まだやっていないのだけれど、そのどこかに『老子』に由来する水に関する話があるのかもしれない。

 

まぁ、『老子』にもそのように水を優れたものであると判断する説話がありますよ、程度です。

 

ちなみに、仏教ではいまだにそういう言説に出会ったことがないので、恐らくは『老子』が初出ですね…。