日記を更新する。
今回は宗教や哲学について。
つーてもたいしたこと書かないし、やる気が根本的にないからあんまりなぁ。
僕は浅学であるけれど、とりあえずの材料としていろんな地域の非常に古い本を読んできた。
実際冊数は多くないし、取るに足らないレベルでしかないのだけれど。
その結果、いくつかのことを知ることができた。
僕は本を読むのは好きではないけれど、考える材料を得るためには本を得るしか方法がなかった。
考える材料。
人間はどんな判断をしがちにあるのか、地域によってどんな特殊な発想があるのか、どんなことを彼らは考えていたのか。
そういうことを判断するための材料としてそれらの本を確かめるのだけれど、大体にして結論は、どこまで行っても人間だということになる。
所詮は人間であって、僕らと同じようにある程度頭が良くてある程度馬鹿な人々がただ居ただけ。
そんなこと当たり前じゃないか、そう思うかもしれない。
僕だって当たり前だと思うのだけれど、多くの場合そうとは考えない。
というより、プロセスがマズい。
例えば、戦国武将を考えてみる。
彼らは猛々しく、彼らは智謀に満ちていて、彼らは忠義のうちに死んだ。
そのような先入観が存在する。
でも考えてもらいたいのだけれど、彼らはただの人間でしかはないのではないだろうか。
何人か突出した人々がいたのかもしれないけれど、僕らが知っている武田信玄やら上杉謙信やらは、普通に考えてただのおっさんでしかない。
それも貴族の身分に生まれた領主。
偶然その身分に生まれて、運よく他の領主との競争に有利な何かを持っていただけで、彼らが尊敬に値するかどうか、運以外が本当に良かったのか、そこら辺にいるおっさんと何が違うのか、考えてみたことがないだけで、実際は色々あって名前が残っているだけで、そこらのおっさんと実質的な意味で差がない。
これは例えば戦国武将だけれど、過去の人々は美化されがちになる。
宗教家、哲学者、偉人。
先入観で彼らは正しいことを言っていると勘違いした状態から彼らの議論には多くの人々は触れるけれど、これらの人々は運よく名前が残っただけで、生物学的には僕らと同じ人間でしかない。
なのだけれど、そうは普通考えないし、そのことが問題にされることはない。
「そんなのわかっている」って話なのだろうけれど、それを徹底的に突き詰めていない。
突き詰めていくと、別におっさんがよくわかんない妄想を書き残しているという話でしかないパターンが非常に多い。
個別具体的な話をしてもいいのだけれど、概説的な話をしていく。
先に宗教のことを問題にする。
キリスト教だろうと、仏教だろうと、イスラム教だろうと、普通に考えて、その教えを考えた人は人間でしかない。
「当たり前だろ?」と思うかもしれないけれど、徹底的にここを問題とする。
人間なら間違いもするし、勘違いもするし、過ちもするし、正しくないことも言うかもしれない。
先生だって間違ったことを教えるし、大学教授だって変なことを言う時もある。
なぜなら彼らは人間だから。
それにも関わらず、宗教の問題になると途端に、過去の人々の言葉は疑われない。
僕らと同じ人間ならば、間違ったことを言うかもしれないし、勘違いをするかもしれないというのに。
そして何より、彼らはその正しい知識をどのようにして得たのだろうか。
僕らと同じ人間ならば、その知識はどのようにして獲得されたのか。
普通に考えるなら、本を読んだり人から聞いたりして得た知識になる。
僕らと同じ人間であるとしたならば、それ以外考えられない。
ならばそのことはどうして絶対の真理に成り得るのだろうか。
つまり、お経や聖書に書かれていたところで、書いたのは人間である以上、間違っているかもしれない文章でしかない。
けれども普通、聖書に書いてあるから、ありがたいお経ではこう言っているから、という言われ方しかしない。
昔のことだと神聖なそれだと勘違いされてしまうけれど、実際問題、書いたのは道ですれ違うレベルの同じ人間でしかない。
何故違うのか、願望論をのぞいたら僕は答えられない。
だとしたらなぜ、彼らの文章が絶対的に正しくあり得るのだろうか。
答えはあり得ない。
仏陀が言ったからと言って正しいこともないし、イエス・キリストがパウロが言ったからと言って真理であるということもない。
物事は正しいから正しいのであって、誰かが言ったから正しいのではない。
事実として、人間はほかの生物と同じで、呼吸をして食べ物を食べてクソをして寝る。
ただの生物でしかない。
ただの生物でしかないのだから、ただの生物である前提で考えたほうが良い。
じゃあ、カエルはなぜ鳴くのだろう。
セミはなぜ鳴くのだろう。
セミの場合は、純粋に交配の相手を求めての行動だとされていて、多くの人が知っているところだと思う。
カエルの場合は求愛にプラスして、縄張り争いなどの目的のために鳴き声が使われる。
だとしたならば、人間の鳴き声である言葉はなぜその延長線上として考えないのだろう。
求愛や、縄張り争いに使われた音出しの一種で、社会性を持つ生物である以上、その社会性に使われた機能だとなぜ考えないのだろう。
こういう順番で考えていくと、当たり前のことを言っているように思えるけれど、宗教や哲学ではそのことが当たり前になっていない。
その当たり前のことを、当たり前として考えていったほうが妥当だろうと思うし、なぜ妥当ではないのか、僕には答えられない。
インドの古い宗教やキリスト教、中国の古い文献について、僕は多くはないけれどいくつか目を通してきた。
その中で、傾向性として一つの在り方が見いだせた。
それは何かというと、言葉の万能性への誤認識にある。
言葉では表現できることをイコールで正しいことと勘違いする傾向性が世界中のどこでも存在した。
別に言葉で表現できたところで、それが正しいとは限らない。
当たり前だろうと思うかもしれないけれど、その当たり前が徹底的に吟味された瞬間を僕は見たことがない。
ここで、個別具体的なそういった言葉で表現できるけれど、あり得ない事柄を挙げようとしたけれど、古代インドとかを例に取ると分かりづらくなってしまう。
まぁいいや。
とにかく、原始仏典でも、プラトンでも、アリストテレスでも、アウグスティヌスでも、トマス・アクィナスでも、デカルトでも、カントでも、ヘーゲルでも、フロイトでも、とにかくそうと言えるけれど事実ではないことをひたすらに本に書き綴っている。
全ては全て、言葉遊びでしかない。
確かにそうといえるけれど、その根拠は何だろうということを探っていくと、果たしてすべてに根拠がない。
それは当たり前なことであって、人間は生物でしかないというのに、遺伝子を後世に伝えるための当座のたんぱく質の塊でしかないというのに、それ以上のことを言葉で無理くりに繕っているから、根拠なんてあるはずがない。
僕らは、生物学の成果としてそのことを知ることができる。
けれども、数百数千年前を生きた彼らはそれを知るすべを持っていなかった。
間違った前提からは間違った帰結にしか至れない。
彼らが持っていた前提は間違った前提だった。
キリスト教徒と多くの哲学者の前提は、神が絶対的に正しいという勘違い。
神が正しいことの根拠を彼らは持っていない。
持っていたとしても、言葉遊びで繕われた、一見正しそうに見えるけれど何を言っているのかさっぱりわからない意味のない文字列でしかない。
仏教徒の前提は、仏陀という人間が正しいことを言ったという誤情報。
ただの人間でしかない男に、どうして仏典に書かれている内容を知る方法があったのだろうか。
信仰心はこれらのことを問題としない。
けれども、僕はそこを徹底的に問題とする。
コンビニでレジ打ちしている男性、工事現場で交通整理をしている男性、トラックで配送をしている男性、パソコンにかじりついてプログラムを書いている男性、学校で生徒に数学を教えている男性、選挙に受かって議員をしている男性、六本木ヒルズで優雅な生活を送っている男性。
そうした人々と、生物上の違いはキリストにも仏陀にもムハンマドにもありはしない。
普通に考えると、それ以外はあり得ない。
哲学者だってそう。
全てが全て、自己の遺伝子を存続するために行動している生物でしかない。
彼らは間違いも言うし、その名前や肩書を持っていたところで正しいことを言うとも限らない。
そして、宗教家も哲学者も、生物学の基本的な知識を持っていない。
生物が遺伝子を後世に残すという動機で存在していること、そして人間がその生物の一つだという当たり前の発想すら持っていない。
それなのに、彼らは正しいことを果たして言っていると言えるのだろうか。
言えない。
じゃあ、生物学的なことが良く知られた後の時代の哲学者はどうなのかといえば、あんまり変わっていない。
未だに、数百年前の人がああ言った、こう言った、だからこうだということばかり言っている。
そうでなかったとしても、ほこりがかぶってカビが生えたような、古い言説を前提として話している場合が非常に多い。
とはいっても、あんまり現代の哲学者の本を読んでいないのだけれど。
まぁ2002年の日本で一番有名な哲学者である中島義道の『時間論』を読んで、「頭悪いんだな」とは思ったりはしたけれどね。
僕らの偏見は、お釈迦様なら、哲学者なら正しいことを言っていると思い込むところにある。
けれども彼らはただの人間でしかない。
彼らはただの人間でしかないし、人間が遺伝子を存続させるために存在しているということを知らなかった。
だから間違ったことを言っている。
ほぼすべての哲学者と宗教家は間違ったことを言っている。
全ての生物は遺伝子を存続させるという単純な動機のもとに成り立っている。
当然、人間もそうなる。
善も悪も、道徳も倫理も、正義も不正も、快も不快も、愛も憎しみも、全てが全て、自己の遺伝子を存続させるという単純なそれに根っこが存在する。
生物なんだから当たり前になる。
けれども願望論はそのことを退ける。
何人の神学者が進化論を否定したのか。
仏教徒は何故、遺伝子を後世に伝えるための有機物でしかない人間に輪廻転生を想定するのか。
彼らはただ間違っている。
ふつう生きる上では、彼らのことを尊重するのが当たり前だけれど、それは非純意見だ。
彼らはただ間違っている。
僕は間違っていると言っているだけで、彼らの人間性までは否定していない。
彼らの人間性が優れているか優れていないかはさておいて、彼らの主張に根拠がないし、実際は進化論的にすべてが成り立っていると言っているに過ぎない。
なぜそれが間違いなのか、僕には説明できない。
そして、普段僕がやっている事柄は、哲学や宗教が言っていることは間違っていると分かったのだから、では実際はどうなのだろうかということの検証になる。
つまり、哲学では道徳的な行動についてあれこれ説明しているけれど、その彼らの説明は間違っているのだから、実際はどうなのだろうかという話をしている。
逆に言えばそれくらいしかしていない。
僕は多くの事柄について、そのことが間違っていると説明できなければ、そのことは間違っていないと判断して、そうである以上、そのことは正しいとしている。
だからまず、哲学や宗教がしている主張のどこが間違っているかを指摘する。
そしてその後に、じゃあ実際は何故なんだろうかを考えていく。
当然、その基盤は進化論になる。
全ての動機は自己の遺伝子の存続にしか存在していないという前提。
少し語弊があるけれど、基本的にそれを考えていく。
語弊というのは、遺伝子は何も考えていないし、存続しようという意思を持っているわけではないということ。
正確には、存続に不利な行動や形質を選んだ生物は、今現在に至るまでに滅んでしまっているから、結果として今、地球上のすべての生物は、遺伝子の存続を是として行動しているという話に過ぎない。
全てが全てそうなる。
だから多くの事柄は、それをしたら比較的、遺伝子が存続できるという話に過ぎない。
よって、ガンにもなるし、遺伝疾患を持って生まれてくることもあるし、自殺することもある。
僕の乾いた地平、僕の目に映る世界はそれだけになる。
感傷も、感慨もなく、ただそうであるという事実だけがある。
僕はそれを考えることに楽しみを見いだせているから、当座それをやっている。
誰かがほめてくれるということもなければ、誰かが評価してくれるということもない。
僕がしたいからしているだけ。
このことでお金がもらえるわけでもなければ、このことで僕が遺伝子の存続を有利とする何かを獲得するわけじゃない。
ただ考えたいから考えて、ただ書きたいから書いているだけ。
しょうがないね、日記だもの。
という日記。
どうだろうか。
どうなんだろうか。
どうせコメントなんてないんだから、どうしようもないのだけれど。
僕は自己評価が低すぎて、自分の発言や文章の一切に自信を持っていない。
今日なんて、その自己評価の低さという自分の自分に対する判断にすら自信が持てなくなって、自分は優れているのではないかと一瞬思って、ないないそれはない、で考えを改めた。
正しいとは思って書いているけれど、自信はない。
自己評価が自分でも分かるくらいに低すぎるから、しょうがないね…。
コメントはないし、僕は自分より信頼できないものを知らないから、間違ったことを書いているのではないかと常におびえています。
そんな感じです。
では。