日記を更新する。
色々、内容が理解されていないのだから、内容を理解してもらうために心を砕く努力とかすればいいのにと思って、その為に一つ記事を書こうかと思ったけれど、頭の中でなんとなく纏まらないので横にちょいとのけてしまって、誰も興味がないし、誰も理解したいとは思わないし、誰が読んでも何も得ることはないようなことを書こうと思う。
日記だからこれで良いんだよこれで。
『プラナス・ガール』の藍川絆ちゃんがクラインフェルター症候群という病気だという話とそれに関連して豊臣秀吉は確実に何らかの遺伝子疾患を持っていただろうし、大村益次郎も恐らくはそうだろうという話をしようと思ったけれど、普通にやめた。
しょうがないね。
で、それをやめた上でする話が原始仏典の記述内容を誰が言ったかという話なのだから、読む人への配慮とか思いやりとかが一切感じられないと思う。
でもまぁあんまり多くない文字数で大体終わりそうだから、そういうスナック感覚で終わらせることが出来る話を書きたかった。
なんつーか、少し前に某日記で某漫画の解説の最終回をやっていて、12000字を書いている。
それは修正込みで3時間かかった上に、リアクションは2件しかなかった。
根本的に色々やる気が出ない。
というよりも、現状体調が悪い。
風邪を引いているのはそれはそうなんだけれど、それ以上の何かがあるのではないかと思ってしまうような辛さがある。
原因が分からないから対策の取りようがない。
まぁ、それでも半年前よりはマシなのだけれど。
さて。
今回は『ダンマパダ』という題名の仏典の話になる。
日本だと『法句経』という題で、いつもの漢字しかないお経という形態で伝わっている。
お経というものは漢字で書かれているのだけれど、基本的に人間は難しいものに権威があると思い込んでいる。
難しければ信用が置けると言い換えても良い。
理由はいくらでも想定できるけれど、普通に、費用対効果を勘違いしているからだと思う。
つまり、苦労が多ければ多いほど、その獲得したものに価値があると思い込んでいる。
よって、理解しがたく書かれた感じのお経が尊ばれる。
実際はそんなことはないのだけれど、やはりその事も人間的な話なのだと思う。
その判断が獲得されたであろう原始社会を考えてみる。
適当にそこらで手に入る食べ物があって、反面ある人が相当な苦労をして手に入れた食料があるとする。
あり得るIFだね。
この時、その二つの食べ物を前にした人間は、苦労して手に入れた食料を尊重しても良いし、そこらので手に入る食べ物と同列に扱ってもいい。
良いのだけれど、そこにいる人間を考えてみる。
もし、そんなに苦労して手に入れた食料を蔑ろにするような仲間が居るとして、食料を獲得した人間は彼を信用することが出来るだろうか。
翌日に何かトラブルが起きた時、自分の苦労を分かってくれる人間と、そこら辺の食料と同レベルとして苦労をねぎらってくれなかった人間、どちらの方を助けたいと思うだろうか。
僕だったら当然、苦労をねぎらってくれた人間の方になる。
というか誰でもそうだと思う。
つまり、このことから分かるように、基本的にその実際の成果が高いか高くないかはさておいて、苦労をしたものについて価値があると判断したり、それを公言したりする方が利益が高い。
これが人間の基本的な構造。
人間は苦労に対してその内実を無視した評価を下す方が基本的に対人関係だと利益が高い。
そして、その評価をするわけだけれど、そのプロセスは上に書いたような複雑なそれよりも、単純に苦労したということがあるだけで評価したほうが素早い。
苦労がある=価値があると判断したほうが遺伝子を後世に伝えやすい。
だから僕らは苦労をそれだけで評価してしまう。
その事の延長線で、難しく内容の理解に苦労が必要な諸事について、価値があると錯覚してしまうのだと思う。
だから仏典は小難しく漢字で書かれている方が価値があると判断された。
実際、漢字の状態から日本語へ翻訳するように努力した人もいたらしいのだけれど、その努力は誰も注目しなかった。
って岩波の『金剛般若経』の解説に書いてあった。
僕はそれが何故だろうということを考えて、恐らく上述の事情があって、そのような判断をした方が利益があったから、誤った場面でその苦労を評価する判断を用いてしまうのだろうと思う。
けれども、実際はそのように難しく書かれている所で内容の良し悪しや正誤は左右されるところにはない。
物事は正しいから正しいのであって、仏典に書かれているから正しいということはない。
それは哲学でもいっしょで、物事は正しいから正しいのであって、昔の哲学者が言ったから正しいのではない。
だから、今回問題にする『ダンマパダ』も決して正しい内容が書かれているわけではないし、以前書いたように恐らくその文章の大半は、そもそも仏陀の弟子が書いた二次創作でしかない。
けれども、いくつかの文章について、これは恐らくかなり古い文章なのだろうなと判断できるそれがある。
新しい仏典だと、なんつーかもう、ただの私小説でしかない。
視点がおかしい。
一人の偉い学者がいて、自分の考えを教え子に伝えるという構造が想定できる唯一の史実の仏陀像であって、そうであるならば必然的にそうでなければならない形の文章の視点がある。
新しい時代の仏典…いや、大半の仏典は視点が小説調であって、物語として語られている。
僕らが学校で先生の話を聞いたとして、それを書き残すとする。
それは果たして小説の形になるのかというのが僕の疑問であって、恐らくそれは小説の形にはならない。
小説の形になった時点で、主人公である仏陀の思惟は想像によって補われていて、それは事実として彼がそんなことを考えたと決して言えるような内容ではなくなってしまう。
だからそのような形式の仏典は僕は事実ではないと判断している。
似たようなこと、近いことはきっと起きたのだろうなとは思うのだけれど、原始仏典とカテゴライズされるような仏典でも、普通に事実ではないと判断できるような記述がある。
なんか、仏陀は険しい岩棚みたいなところで修行していたのだけれど『大パリニッバーナ経』という原始仏典ではそこの大きな集会場で演説めいたことを行ったことになっている。
けれども、実際にあるその場所は険しい岩が多くあるだけで、そんな集会場を作れるスペースがない。
だからその事は後世の創作になる。
日本にある仏典は、基本的にこの創作と分かり切っている仏典より後の時代につくられたと分かっているタイプのそれになる。
僕はそれを重要視する意味がイマイチ分からない。
まぁ、彼らが幸せならそれでいいと思うけれど。
というよりも、そのような信仰を持っている人があんまり考えてないのだと思う。
考えたら矛盾がたくさん出てきてしまうけれど、なんとなく祈って、なんとなく祈る仲間がいて、それっぽい議論をして、思いを共有できれば幸せなのだと思う。
そのような心地よさ、仲間が居て救われるという気持ち良さは結局、遺伝子を後世に残すことについて、そのようなことを心地よいと判断したほうが利益があったという話に過ぎないのだけれど、そこまで考えが至らない。
僕は一度もそういう考えに至った人に出会ったことがないのだけれど、僕以外にもそう考える人は居るのだろうか。
少なくとも哲学科には一人もいなかったな。
居たらあんな根拠なしに付き合えないもの。
で、『ダンマパダ』にはそのような絶対にありえない視点ではなく、恐らくは実際にそのような言葉があって、それが残っているのだろうなと判断できるようなそれがあった。
そもそも、『ダンマパダ』というのは、短い言葉がずらずらと並んでいて物語調ではなくて、おそらく、仏教徒の中で教えとして伝わるものを忘れないように歌にしたものが文章として残っているのだと思う。
それが『ダンマパダ』。
ひたすらに短い教えが続いている。
歌というのは人間が記憶を定着させるのに役に立つという側面がある。
アボリジニは歌を歌って狩りに行く道筋を覚えたし、儒教の聖典である『詩経』は詩集なのだけれど、元々は曲があった。
聖書にも恐らく歌われたのだろうと推測できる「雅歌」があるから、歌というものはそういう風に覚えるために機能する場面があるわけであって、おそらく『ダンマパダ』も覚えるために歌われた。
いくつか仏教の教団の中で重要な事柄があって、それを忘れないように歌にして覚える。
その言葉の中には仏陀本人の言葉や、仏陀の生きた時代に非常に近い言葉が残っているだろうと推測されているものがある。
実際、中村元という仏教学の人もそう言っていて、僕も読んでいてそのような判断をした。
そんな中で、僕はある言葉が恐らく、仏陀本人の言葉なのではないかと思っていた。
後日考え直して、恐らくは仏陀の直弟子の言葉だろうと結論していて、結論したその話がしたかった。
前置き長いっすね。
『ダンマパダ』の内容はそのままウェブで見れる。
見れるのだけれど、まんま中村元の訳だから、なんつーか著作権的にアウツだと思うけれど、僕はわざわざタイピングするのがめんどくさいからコピペして引用するだけなのであまり気にしない。
以下の文章のアトゥラって人名からの記述が事実として起きた出来事だと僕は判断している。
第十七章 怒 り
221、 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
222、走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)
223、 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
224、 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。
225、 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんで聖者は、不死の境地(くに)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。
226、 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
227、アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
228、 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
229 、もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、
230 、その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
231 、 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
232 、 ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(ことば)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。
233 、 心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
234 、 落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれれれらは実によく己れをまもっている。
仏陀がこのセリフを言うことはあり得ない。
仏教に於いて仏陀が日に日に考察して称賛するような人が想定できないから。
梵天とかのインドの神様なら仏陀より上のパターンもあるからあり得るのだけれど、その梵天や神々は後の文章で考察対象を称賛すると記述されている以上、そうではない立場の対象になる。
仏陀がこのセリフを残したという先入観を捨てて考えてみる。
誰のセリフだったら辻褄が合うのだろう。
仏弟子が仏陀を日々考察しているというのなら話は分かりやすい。