豊臣秀吉の女達 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


近頃はまた、チンピラタレントや漫才屋の片割れが「不倫した」と、連日テレビで姦しい。
うろ覚えだが過去には、石田純一、ベッキー、山本モナ、五体不満足の乙武洋匡らその他大勢がいた。

日本は「武漢病毒肺炎」はさっぱり収束せず大変な状況なのに、こんな下ネタで盛り上がる国民は誠に結構である。
このブログでいつも指摘していることだが、二人が何処でやったとか、何回したとかは全く問題外だが、付き合い中は勿論、別れ際も女に渡す金をケチってはいけない。

昭和の大スター嵐勘十郎は、女と別れるときは、文字通り「裸一貫」で家も金も全てを与えて去った。
また、元やくざで作家の故安部譲二氏も、若い現役やくざの頃は苦み走ったいい男だったから、「渋谷の種馬」の異名をとり、
数多くの女と関係したが、綺麗な別れ方をしている。
安藤組の若い衆だったころ、日本航空のパーサーになって、スチュワーデスを総なめにしたという伝説もある。
氏の著書に書かれていることだが、堅気と比してヤクザの死亡率は多い。
女を「情婦」としておくと、男が抗争などで死んだ時、金や車など男の財産が何も貰えず可哀そうだから全て女を籍に入れたという。
だから氏の戸籍は「別れては除籍、次の女もまた入籍」を繰り返したため、何枚にもなって戸籍係が驚いたという。

だいじなことは、別れた後も女たちに恨まれないということである。
男の価値、器量というやつは、女との切れ際に現れるので、今の若者は恋愛も、結婚も興味ないというが、女に興味が無くなったら男は終りなのである。
若いうちに沢山の女と付き合って「男を磨く」努力をするべき。その方が実社会では何倍も役に立つ。
さて、歴史を紐解けば、女に対する感情や行動で実に斬新な男がいた。それは豊臣秀吉である。以下にその実像の一端に迫ってみよう。

 

    豊臣秀吉の女達

「この世の中に女ごはごまんと居る。しかしわしには、なんしたのだけが女ごで、そうでないのは女ごでも何でもない無縁の衆生だ」
 と、秀吉が口にしていたという話しが、江戸時代に刊行された『雨窓閑話』に出ている。
つまり一度でもセックスしたのは女と認めても、そうでないのは女扱いはしないというのだ。
成程言われてみれば男としては至極当選な話しだが、えてして一般の男はそこまで実存的というかこうも割り切れる者は少ないだろう。
世間では、まま、どうしても、女が川や海で溺れていると聞けば「若い娘か、婆さんか」と尋ねたり、若い娘が死んだと知ると惜しがったりしてしまう。
 つまり道を尋ねられても若い娘なら、親切に教えてしまいたくなる心境をもっている。
つまり男は誰でも何かの係わり合いか、きっかけがありさえすれば、未知の女性とも親しくなりうると、その可能性の限界をはてしなく広げて考えたがるものである。
 なのに秀吉は、はっきりとそこに一線を引いてしまい、「何でもない女等は、自分としては女とは認めぬ」きわめて明快に男として区別しているのである。

だから誠に毅然たる態度で(男の中の男)といった感じ方さえもされる。
 しかし実際はそんな恰好の良さではなく、もっと現実的なことだったらしい。
つまり若い頃の秀吉は、稗が食えるようになると喜んで「ひえよし」と名乗り、織田信長に仕え小者の頃は藤蔓織りの御仕着せが嬉しくて「藤よし」を名乗っていた。
 そして木下家に養子に入り寧々と結婚して士分となると「藤吉郎」を名乗るようにもなるのだが、
貧乏で、全く女にはもてず、いくら他の男が若い女を見てやに下がっていても、
「無駄なことをしてもあかん」と、いつも虚しい結果に自分は終わるのだという苦い目にあい、そこで諦めの境地になっていたのが、その原因でもあろうか。
なにしろその『雨窓閑話』では、秀吉が寧々と一緒になる前に肉体関係の有った阿伊、きく、まんの三人の女の話が出てくる。

           藤吉郎と三人の女達

  どれも藤吉郎と呼ばれた頃の彼の風采の上がらなさや、先行き出世も見込めぬ心細さにか、見切りをつけて、さっさと去っていった女達である。
 だから普通ならば、太閤秀吉となり大出世したのだから、「ざまあみろ」と放って置くのが人情なのに、
昔、何度かセックスをした女だということで、松下加兵衛の弟の源太郎に命じて探させている。
 処がこの内、河野治右衛門の娘のきくは、「今更なんで、お目もじ出来ましょうや」と、女の意地であくまで拒み通した。
まんの場合は、祝言をあげたが、秀吉に抱かれるのが嫌で、そのまま蒸発して行方不明になっている。

しかし百姓娘の阿伊の方は、すっかり喜び勇んで、
「やっとかめだなも」と尾張弁で、又よりを戻しても良いような顔で、当時秀吉が住んでいた聚楽第へきている。
 それに対して秀吉も懐かしそうに、「おみゃあさんも婆様になりやあたな」
やはり尾張弁で労わりの言葉をかけ、彼女を母の大政所の許へ預けておおいに歓待している。
 普通の男には出来ないような真似を、秀吉は平気で気さくにしている。

まんの場合は、祝言をあげたが、秀吉に抱かれるのが嫌で、そのまま蒸発して行方不明になっているから、これはさすがに放りっぱなしにしている。しかし
 その時の仲人の伊藤右近の老夫婦にだけ当時の礼をしている。
この子孫は、大阪落城後は本田美濃守忠政へ二百五十石で仕え、その家系は今も続き、太閤より拝領の品を家宝となすと《雨窓閑話》にある。

さて、なにしろ
「・・・・・・女にもてるヤツは出世しない」というけれど、そのせいか秀吉は、小谷攻めの時はまだ横山砦にいたが、やがて立身して近江長浜へ五万貫の城主として移ると、
「わしは若い頃には女には散々ふられた。だから貸しがあるんだ」と、城内の腰元や領内の娘を、
「・・・・・わが女ごになれ」と相当派手に片っ端から乱行をしたらしい。
 しかし一世の色豪と謂われた故菊地寛が「男が女に報いてやれるのは金だけだ・・・・」と名言を吐いたごとく、それぞれの女には過分な手当てや褒美を出している。
 だから女達は別に恨むどころか、結果的には大喜びをしたらしい。

        藤吉郎の妻寧々の立場

 しかし、後に正妻になった寧々としては立場上これは面白くなく、
「拝啓信長様へ」と至急親展で、秀吉に説教してくれるように手紙を出して訴えている。それに対して信長からは折り返し、
「藤吉郎には、かねて其方ごときよき女はいぬと申し付けてあるのに、あの禿げ鼠めは其方をないがしろにして、他に勝手なことをしくさるとは、けしからんことである。よく当人にも言って聞かせるが
 其方も辛抱せよ」という信長の手紙が今も残っている。

 藤吉郎が出世して、近江長浜五万貫の城主になったら、浮気をしだしたというのである。
だが口頭ではなく、こういう手紙を出すということは明らかに長浜の寧々から、当時はまだ岐阜城に居た信長のもとへ訴えの手紙を出してからの、これは返事なのである。
 しかし今日のようにポストへ投函したら、郵便局で配達してくれるような時代ではない。
寧々の方は文箱に入れたものを侍女に持たせて、恐れながら届け出たのだろう。
 が、信長の返信は、いかめしい御用当番の武者が今の岐阜から滋賀県まで馬を走らせ、「ご上意でごさるぞ」と届けただろう。
さて、現代の解釈では、

 「信長は藤吉郎に目をかけていたから、それを庇うため悋気する寧々に手紙まで送って、これを慰撫したものである」と、藤吉郎の人間評価を信長が早くからしていた。
 だからこそ、秀吉になっても藤吉郎はその恩を忘れず、信長が殺されるや電光石火にとって返して、その仇討ちをしたのだという、報恩美談の資料にさえ、この手紙は利用されている。
 しかし、一家臣の妻である寧々が、今で言えば社長に当たる信長に対して直接に、
「うちの夫は浮気をして困ります」と手紙を出すということは、いくら家族主義を標榜する会社でもまあ無いことだろう。なのに、
「君は素晴らしい女性である、といって結婚させたのに、もう浮気とはまことにけしからん」と、それに返事をする社長がはたしているだろうか。 
もしそういうケースがあるならば、おねね婦人というのは、以前は社長秘書であって親しかったか、もっと信長社長とは密接で、肉体関係まで在ったと考えざるをえない。
 『高台院実録』によると、お寧々が藤吉郎と杯をあげたのは二十三歳である。この時代の女性の結婚適齢期は現代と違って早く、十五、六歳である。

 すると寧々は七、八年も何をしていたかということになるが、この当時の寧々の実家は、父は武者奉行で、兄の勘平は、鉄砲奉行で「青ひいらぎ五枚葉」の旗を許され、
弟の小市は「放れ駒」、下の雅楽助も「天狗面」の旗を背にさせる程の者達であった。
俗説では、「御弓奉行浅野又右の養女として藤吉郎に縁づき、入れ代わりに、寧々の妹のいねが又右の跡目の長吉(後の浅野弾正)の嫁にくる」とはなってはいるものの、

 「上の寧々が養女ならば、代わりに来た妹も、やはり養女であるのが妥当なのに、なんでそれは長吉の嫁なのか」と常識で考えるとおかしい。
これは当時の足入れ婚なのである。長吉の嫁であった寧々が、子供が生まれぬからと離縁されて、妹が下取り交換で来たと見るのが確かなのである。
 寧々は長吉の前には丹羽五郎左とも仲がよかったらしい。他にも多いようである。そうでなければ藤吉郎も、そう早々と浮気はしなかったであろう。
 なにしろ、処女尊重思想などは、元禄時代の儒教が入ってきてからのもので、今日の一夫一婦制度もきわめて最近のものなので、戦国時代の女達などは、一妻多夫も案外平気だったらしく、現代より遥かにのびのびしていたのらしい。

    英雄色を好む
  

 こうして見ると秀吉は、一度でも関係した女に対しては、何でもない女に対するのと違い、親切に思いやりのある態度をとった男のことゆえ、
「そなたは良き身体をしている」とか、
「わしは生涯そもじのような佳き女の事は、忘れぬだろう」等と口にしていたらしい。
 だが天正十年に信長が爆殺され、秀吉が天下を取ると今度は晴れて美女狩りを始めたようだが、実際には自分から目をつけて指名したのは、
 蒲生氏郷の妹のきね十六歳。
 京極高次の妹のまつ十七歳。の二人だけだったといわれる。といって蒲生の妹の方は美女というほどでもなかった。
布施藤九朗という名で、妹には許婚がまさに居て、非常に信長の気に入りで、小者時代の藤吉郎を見下し馬鹿にしていて、藤吉郎に対して不快を与えるような態度をよく取っていたので、
これが癪に障っていた秀吉は仕返しのようにきねを召し上げたのだという。
 初めは蒲生氏郷に対して、藤九郎を始末するように命じていたが、きねが閨中で、秀吉に懇願したので死一等を減じられ追放処分にしたという事が『信長公記』につぐ『当代記』にも詳しく出ている。
 京極の妹のまつはそれに比べ、後には「松丸殿」と呼ばれていた美女だった。

というのは、たいていの女は一度だけで後は召しだされていないのに、彼女だけは相当長期間にわたって寵愛を受けている。美しいだけでなく何かがあったのだろう。
 さて、だからといって秀吉が、稀代の色好みというのでもなかったろう。
よく、「英雄色を好む」といった例に彼は直ぐ引き合いに出されるが、これは常人の一般的解釈ととは、全く実際は違うのではなかろうか。
 ナポレオンは一日に睡眠三時間で鞍の上で仮眠したというが、何しろ英雄なるものは秀吉もそうだが、きわめて多忙なのである。
 しかし凡人も偉人も一日二十四時間しかないのである。
八時間働いて八時間寝て八時間は自由に、といったことが彼らに出来よう筈がない。
 だから女と何する時間も、そんなに余裕があったとは考えられない。
おそらく睡眠でさえ普通の者に比べれば僅かだったろう人間が、その限られた貴重な横になれる時間を割愛してまで、夢中になって色事に没頭できよう訳はなかろうと想う。

      秀吉に献上された女達

 さて初めは一本の煙草で目まいがする。が馴れて来ると日に十数本もふかすようになる。
これを効用逓減の法則というのだが、男女のこととて、やはりそうだろう。
 といって初めは一人の女で満足できたのが、次第に何十人も欲しくなるというのではない。
女と違い男の性は反対で、詰まらなくとも短時間であればある程きわめて爽快なのである。
だが同じ相手と繰り返していては刺激がなくなるのか、所要時間がどうしても長くなる。
 そこで多忙な男は、それにうつつを抜かして居る時間が惜しく、ただ済ませればそれでよいのだから、ついことを早く処理する為に刺激のある違う相手をと、急がしいゆえに求めたのだろう。
 これゆえ、英雄色を好むとまるで逆な見方をされるのだが、これは凡人の嫉みでしかなかろう。


 故信長の忘れ形見のおまる殿、信長の弟信包の娘の伊勢殿。前田犬千代と呼ばれた頃から知り合いの利家の娘のまつ殿から始まって、何十人もの若い娘が秀吉の許へ集まった。
 といって、秀吉がなにも命令して、「娘を献上せよ」と収集したのではない。
それぞれ己が身可愛さの為、権力者に取り入って己の身を安泰に保つ為、即ち自己保身の為に娘へ因果を含め、「親の為である」とか「家の為」といって送りつけてきたにすぎない。

 以前作家の故吉行淳之介が、何かのエッセイで、バンコックの娼家の話を、
「会話の通ぜぬ間の行為は、排泄でしかない」と書いていたが、五十余歳の秀吉と十四や十五歳の娘との間では、通じ合う会話などあろうはずはなく、唯そこに介在したのは、忙しい秀吉の排泄のみだったろう。
しかし、本当のことを言ってしまえば、「身も蓋もない」という格言もある。
 それに、十四や十五の小娘だけでは、秀吉の好色話にはならない。
そこで実際は、まだ夫の万代屋宗達が健在だったと、『蓬源斎書上げ書』にも明記されている吟女をば後家にしてしまい、これに秀吉が懸想して振られたから、その怨恨で吟の父の千の宗易を殺してしまったのだと作話する歴史屋も居る。
 だが親達の免罪符として、若い娘達が次々と届けられてきているのに、いくら話し相手になりそうだんらとて、三人もの子持ちの三十四歳のお吟などを追いかける暇が、多忙だった秀吉にあるはずはなかったろう。
 さて次に淀君だが、これまでの通説を記す。
          
     淀君の場合 

 「大阪落城の際、元和元年、三十九歳で死す」
とされ、それに合わせるため、十四歳で側室になり、翌十五歳にて秀頼を産んだとするが、その前に三歳で亡くなった鶴松を生んでいる故、これでは、
「淀君は八歳でまず第一子を受胎した」ことになるのである。

 さて、彼女より四歳年下で、徳川秀忠に嫁いだ末妹の嵩源院が「寛永三年九月、五十四歳」で死亡したのは、
『徳川台記』や『僧上寺記』に明白である。だからそれから逆算していけば、最初の出産は、「二十一歳で、秀頼を産んだのは二十五歳」といった勘定が正しい。
 他の姫たちが十四や十五で御床御用を申しつかったのに、二十歳の時まで淀どのが放って置かれ、秀吉に相手にされなかったのは、これまた俗説と違って彼女が美人ではなかったからだろう。
 母の於市が美女だったのは有名な史実だから淀もそう見たがるが、遺伝学的に長女は父に似るといわれていて、大男だった父浅井長政に似て、彼女は骨太の大女だったらしい。
大阪御陣の際、緋縅の大鎧を着け、五十人の武装した女達を引き連れ、馬上から兵達を督戦していた事は、『当代記』や『大阪御陣記』にも出ている。
 細っそりした美人という感じではなく鎧姿の似合う女丈夫なのである。
また、「幼女や少女を相手にしたがるのは性器短小な男の特徴である」と今の医学書にはどれにもある。
 すると秀吉はどうもその傾向だったらしいようにも想える。
なのに何処からも嫁の貰い手が無く、大阪城二の丸に居候していた大女の淀を、己の好みの型でもないのに呼んで、秀吉が忙しいのに無理をして抱いたのは誰かの策謀としか思えない。
 これを当時の時代背景から推理すると、秀吉は己が日本国の原住民系の天皇になろうとして、
京の中心に、「古臭くむさ苦しい御所は好かん」と新御所として絢爛豪華な聚楽第を造った。

 この動きに危機感を持って、打倒秀吉を叫んだが、御所の穏健派に京を追われた、権中納言山科言経の仕業だと想われる。
彼は大阪の中ノ島に住み、薬草栽培や薬を作り、医者の真似事や観相や易までしていた。
のち、楠流軍学をひろめた楠長音は、言経の義弟の子供にあたり、その著の、『豊家滅亡由来之次第』には、秀頼は秀吉の種ではないということを高台院(寧々)へ訴え出たという事が出ている。

 これは非常に興味深い重大な話だが、未だ歴史屋共はこれを解明していない。
それでは本当の父親は誰かとなるが、大野治長らしい。
日本歴史学会会長だった故高柳光寿博士の「戦国人名事典」によれば、

 この大野修理太夫(治長)とは、秀吉の馬廻だった。天正十九年十一月秀吉の三河吉良へ狩猟の際警護として従う。文禄三年春伏見城の工事を分担する。当時一万石。
 慶長四年正月秀頼に伺候。同年十月徳川家康を殺そうとした容疑で、下野結城に追放されたが、
翌年関が原の役が起きる前に釈放され、家康の会津征伐に従軍している。
 のち秀頼に仕え、大阪の諸事を奉行した。元和元年五月八日大阪城に自殺して秀頼に殉じた。(関原覚書、関原軍記大成、続本朝通鑑、駿府記)

 これでも解る様に、大阪落城の猛火の中で淀と秀頼、治長の三人はまるで親子心中のように焼け死んでいったのも、血のつながりと見れば理解できる。

だから寧々は、淀君への嫉妬というより、「由なき血脈に夫の後を騙られんよりは」と、関が原合戦からは家康に加担し、豊臣の血を絶やしている。
『梵瞬日記』や『東武実録』には、
 「寧々が故秀吉の未亡人でありながら裏切って、家康から改めて河内一万六千石を貰ったのは奇怪」と出ている謎もこれなら解ける。
 しかしケチな家康は約束を守らずほおって置いたので「早く約束を果たせ」と催促がうるさかったため、
「うるさきばばあめっ」と持て余したという逸話が残っている。
 つまり英雄秀吉も伝説とは違い女運は良くなかった。
しかし男として性器短小なのが秀吉のような英雄になれる条件だというのは判る気がする。