『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。














学校では教えてくれない、日本史の真実に迫ってみました。従って このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。

だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。




     の意味 

「青春」という言葉は現代ではとても恰好の良い言葉だが、江戸時代においてはこの意味はまるで違うのである。
 江戸時代まで各地にあった寺は、己の私有財産として奴隷の在庫表とも言うべきものを付けていた。これを「寺人別帳」という。そして各寺には、春になって雪解けの季節になると、大勢の人買いが里から奴隷を買いにやってくる。
 そうすると寺の坊主共は「田吾作の娘は十三になるから今年は銭にせん」と売り払うのである。
この現象は日本全国で行われ、現在各地の祭りで少女が着飾って行列する様子が見られるがあれは娘達を少しでも高く売るため一丁裏の着物を着せて検分させた名残なのである。
 人馬の市という一種のオークションで、此処で売られた娘達は山中温泉の湯女、つまり売春婦として売られて行ったのが「青の春」つまり今言う「青春」の語源である。
さて、江上説では太古この日本列島へ渡ってきたのは、西暦663年に鴨緑江を渡って、
朝鮮の釜山から九州へ入ってきた連中を騎馬民族だとしている。そしてその子孫が中国系の藤原王朝の時代から、草だとか青と蔑称され、被差別されるということは、大きな矛盾ではなかろうか。

 朝鮮半島の、新羅、百済、高句麗の三国が日本列島を三分していた時代は馬韓、辰韓、弁韓と称していた頃の三国だったから、日本ではその頃の名残で、越前越中越後、備前備中備後と三つに分けられた名称が残っている。

飼戸の民と蔑んで奴隷にしたのは騎馬民族だというのは間違いないが、それは誰かと言えば朝鮮半島の百済である。
その百済系の日本史では奈良時代というが、その百済の母国が、新興勢力の唐に攻められたので奈良王朝は日本原住民をかり集め、シコの御盾として27000人を本国救済に送り込んだ。

 しかし我がご先祖様の原住民は戦奴として差し向けられたものの、何も百済のために命がけで戦うことは無いから逃亡したり、隠れて戦わないものも多かった。
 
これを日本では白村村の戦いというが、奈良王朝の人間は少なく、指揮官だけだから唐の軍勢に一敗地にまみれ、指揮官達は捕虜となり、原住民は奴隷となった。
そして百済を占領した唐軍は、唐の将軍鎮将劉仁軌は部下の郭将軍に降参した奈良王朝人たちを道先案内にして、日本へ進駐してきたのである。この証拠が次の有名な歌である。


       いにしへの 奈良の都の 八重桜
    けふ九重に にほひぬるかな


この歌を綺麗な桜の情景と誤解しているが、とんでもない間違いでその意味は。
 これを現代語訳では 
「いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、
 ひときわ美しく咲き誇っております」となっていて良く知られている。だが果たしてそうだろうか?
 
 このサクラの語源は古代百済語の「群がり」の意味なのである。
 今は居なくなったが昭和35年頃までのヤクザの香具師たちの言葉で、客寄せの意味に使われていた。
  香具師たちは大道で店を開き、衣服や万年筆など様々な品を売っていた。
 「さあこれは値打ちもんだよ、実は○○工場が倒産して社員の給料が出ない、だから安く売りに出したんだよ。はーい300円でいいよ」
 
 すると何人かが近寄ってきて「ほぉーこれは安いね、俺に3個おくれ」
 「そんじゃ俺も社員を助けるためだ、5個おくれ」
 こうなると通りすがりの一般の客も集まってきて、我も我もと買っていく。
 これを<タンカバイ>というが、この客寄せ用の云わばヤラセ役がサクラという。
 
 現在でも各テレビ局の放映の際、スタジオに集められてデレクターの合図で笑ったり拍手したり、驚いたりする奥さん連中もサクラなのである。また選挙の時、労働組合員が強制的に立会演説会場に駆り集められるのもサクラという。
 
 さて、その昔はサクラとは賤の者の集まりや集団で、つまり差別され虐げられていた 日本原住民達を指す。下総の佐倉といった地名も残る。尚、ヤエとは女のことで、八重桜とは百済の女達をいう。
 これらを頭に入れてこの歌を読み解けばこうなる。
 
 朝鮮半島の百済人が奈良王朝を立てて日本に君臨していたが、本国の百済が大陸の強国唐に負け、
唐の勢力が奈良王朝に取って代わって奈良の御所に入ってきた際御所に居た百済の女達は、
キムチの臭いか放屁の臭いか、とにかく唐の男たちには臭くて堪らなかった。

 という意味。
 桜の花なんか強烈な臭いなどしないし、綺麗な歌なら「かおる」というだろう。
即ち戦勝唐勢力の百済を卑下した歌だと判る。
 閑話休題。本題に戻る。 
 
 
奈良人達は日本に着いてから彼らの御所を明け渡し、そこに居た女達は唐の将兵の現地妻にされた。
しかし日本史の大家といわれる故、和歌森太郎は此処を誤って、新羅と唐の連合軍が進駐したとしている。
 だがこれはとんでもない誤りで、何故なら百済が唐に滅ぼされた後でさえも、新羅と高句麗は未だ唐に降参せずに敵対して戦っていた史実がある。

 このことは「続日本記」にもはっきりと「新羅高麗の者らを蕃族として討伐す」と記されている。
日本では則天文字、つまり現在の漢字というのは音標文字だから、新羅は白木と変えられ白木造りとされる社(現代では神社とされるが)の前に、石造りの犬の置物、高麗狗が置かれているのは、進駐唐軍に帰順帰化した百済の軍に討伐された際、
「新羅と高麗は連帯の輪を作っている」ということを、追われる騎馬民族たちに知らせ、勇気付ける為だと考えれば理解できる。

 何しろ、昭和60年天皇陛下が韓国、全大統領を迎えた際のお言葉が、
 『紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代に・・・・・』と言われた。

 これは何を意味するのかというと、"神武建国"を天皇陛下が否定されたのである。
即ち、この日本列島の国家形成を白村江の敗戦からであるといわれたのである。
日本国の象徴である天皇陛下が畏れ多くも仰せられたのだから、早速その通りに謹んで歴史を書き改めなければならないのに、この国の各大学で高給を取る歴史学者共は何の行動も起こさない。
 そして相変わらず藤原氏勧学院派の「日本書紀」と本居宣長の「古事記伝」の二冊を持って金科玉条としている。
 従って「綸言汗の如し」の意味は国の最高位の天皇陛下のお言葉は、絶対の重みと責任があり、それは人間の汗の如く一度出たら元には戻せないのであるから、戦前と違い臣民とは言わないが、国民の一人である学者共は畏れ多くを忝くして従い、日本史を書き直さなければならないのである。
 


終活を愁活に変えて生きる老後
  老生、男の終い支度として、身の回りの不要な物をほとんど捨てた。
月日が流れ、やがてそれは何年もの歳月になり、人並みに様々な喜びとドラマと落胆と希望からなる人生が過ぎていった。そして、今、人生の頽齢期を迎えて、なんの恩寵あってか、数々の愚行を重ねてそれでもなおかなり恵まれたものだったと自嘲しつつ過ごす日々である。

  先日、テレビで毒蝮三太夫氏が良いことを言っていた。それは「終活」では命の終わりを意味し、寂しい言葉だと。
年をとってもいじけない、意固地にならない、素直で色気のあるジジ、ババでいたいという意味で「愁活」を提案すると。
含蓄のある言葉で、老生もこれに加え「人に迷惑を掛けない」を実践している。

   さて、そこで捨てた物は洋服、靴、腕時計、カメラ、猟銃、ライフル銃、車、アクセサリー、蔵書、刀剣、釣り道具、絵画、レコード、ゲーム、モデルガン等々。
こうして見返せば、無くとも実生活には何ら痛痒を感じないものばかりである。
その中に趣味で作ったプラモデルや各種模型が数百点在る。


 多くの作品は「暇つぶし」の要素が強いが、ジャンルは纏まりがなく目につくもの、興味がわいたもの手あたり次第作った。
プラモデラーの世界では有名な俳優の石坂浩二氏は、同じものを二つ作ると述べていたが、老生は数にこだわらず気が向けば何点でも作った。
そして、図面通りや自由気ままに感性のおもむくまま、塗装や大きさの異なる物も多く作った。中でもやはり艦船、航空機、戦車などが多い。それは、武器の歴史的背景と戦史への興味と好奇心を満たす部分も在ったからである。

   飛行機模型の醍醐味は何といっても「エンジン製作」と「コックピット製作」にある。
普段は見えない場所に、複雑精緻な機構をチマチマと作り、悦に入っているのだから、自己満足の最たるものだろう。
さらに、方向舵や昇降舵を可動させると、一層リアル感が出る。
ゼロ戦などのプロペラを回すため、図面に無いエンジンに極小モーターを取り付け、燃料増槽には電池を組み込み配線するなどした。時を忘れエモーショナルな空間で製作に取り組んでいた濃密な時間が今は懐かしい。
  その他、高価なポケールの金属模型やウッディジョーの帆船模型も、一括して業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。
その量はトラック一台分もあり、業者はYAHOOやメルカリに出品し、後日聞いたところではよく売れていると報告が在った。
帆船やポケール製作には、特殊な工具や、数千点の部品仕分け用装置も必要で、値段も張る。
「高価だから」「思い入れがあるから」と迷って残すと、死後に家人や子供に負担がかかる。未練を残さないことが大切。


プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。
 ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。
 これはその中の数点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。
武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺しの道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美しさが一致した究極の造形美は事実であり、なんとも不思議で皮肉な人間の性(さが)である。
なお、作品のほとんどはリアルさを追求するシャビーや「汚れ技法」は使っていない。武器が綺麗だということは、戦争がないということだから。

 

衆院憲法審査会は11日、今国会初となる自由討議を開いた。
その中で自民党の中谷元防衛大臣は会見の原案作成の協議を行う環境を早期に整備することを提案するとし、
協議会を立ち上げるよう求めたが、立憲民主党の逢坂代表代行は自民党派閥の裏金事件について、自浄作用のない自民党が改憲を論ずることに正当性があるのかと批判し、
岸田首相が目指す9月までの総裁任期中の憲法改正は困難な情勢となってしまった。

先ず、日本が憲法を改正するための手続きをおさらいしてみよう。

①、議員提出: 衆議院では100人以上、参議院では50人以上の議員の賛同が必要で、これにより憲法改正原案が国会に提出される。

②、憲法審査会での審査: 提出された原案は、衆参両院において、憲法審査会で審査を経まて、 出席委員の過半数の賛成で可決される。

③、本会議での審議: 憲法審査会での審査を経た後、それぞれの本会議にかけられて、 総議員の3分の2以上の賛成で可決される。

④、国民投票: 両院の本会議で可決されると「憲法改正案」となり、国会が憲法改正の発議を実施する。 国民投票では、満18歳以上の日本国民に投票権が与えられ、憲法改正案ごとに一人一票投票できる。

  改正案に対する賛成が投票総数の過半数の場合には、国民から承認されたことになる。
以上が日本の憲法改正の手続きとなります。具体的な手続きについては「日本国憲法の改正手続に関する法律施行令」(平成22年政令第135号)及び「日本国憲法の改正手続に関する法律施行規則」
(平成22年総務省令第61号)で規定されている。

しかし、憲法改正についての「原案」が自民党も立憲民主党始め野党にも全く無いのが現状なのである。
そもそも改正に反対の野党も多く見通しは暗く九月までの実現など画餅に等しい。

本来は原案作成後に国民が議論し、そして国会の場で与野党が議論するというのが正しい順序なのに、安倍政権以降の十何年はそれが行われてこなかった。

自民党は憲法改正を党是として設立された党のはずが、二つか三つの案しかなく、その内容はまったくいい加減なものである。
そして①の手続きにさえ至っていないていたらくはあきれるしかない。
まずは国民自身が憲法をしっかりと読み、理解することから始めなければならない。
なにしろ、米国が憲法を作成する際に、米軍の駐留中に市井で聞いたうわさ話をもとに、例えば当主は家族をなぐってはいけないなどといった趣旨の記述を含めている。

これを書いたのは女性の米軍メンバーだったといわれるが、このような付け焼き刃的なものが多く含まれるのが今の憲法なのである。
そして日本の憲法学者は大学で高給を取り憲法研究の専門家なのに、批判ばかりして「こういう憲法にするべきだ」という青写真を全く提案しない。
たたき台となるべきものがないのに9月までに憲法改正を目指すという岸田首相順番が逆のことをやっている。

故安倍氏は憲法改正に向けて、国民投票法案、選挙権年齢引き下げ案などを表明したが、岸田氏にはどういう憲法がよいかの提案がない。
また9条を巡っては、自衛隊は軍隊であると改めたいようだが、安保3文書によれば実態は立派な軍隊である。
衆議院の憲法審査会は全く仕事をせず、国民は考えることを放棄している。また立憲民主党は裏金問題のほうが先だと騒いでいるがそんな茶番はどうでもよい。
立憲民主党には憲法問題についての考えを早く示せと云いたい。
新憲法は真っ白い紙に「改正」ではなく「創生」でなければいけない。九条の改正などせこい考えは捨て、堂々と軍隊も文民統制も明記し、軍法も作るのである。
そして21世紀の様々な問題を熟考し、国家とは、地方とは、コミュニテイ、家族とは会社とはその他、その他、その他について議論しなければならない。

尼子氏の考察 
尼子十勇士も天の末裔
織田信長と尼子氏は同族
関門海峡の無かったころ


 「旧約聖書・日本史」に古謡曲和布刈(めかり)を、出エジプト記と対比に掲げてあるが、これはまぎれもなく古謡曲であるし、一般には馴染みがあまりないものかも知れない。
松沢正和氏が昭和三十年に全農協出版より刊行された「村の二千年史」は今は絶版になっているが、塩尻とか海人とよばれ、製塩だけでなく魚も捕らされ、コンブ、ワカメの海藻類も課役労働として働かされてきた者は「天(あま)」の朝の末裔たちである。
この天の朝の人々は、当初は表日本の太平洋岸に、食料として生魚を食しつつ漂着してきて、往年のポートピープルのように接岸上陸した。
そして小屋掛けし、そこを生活の場として住み着いた。やがて天の朝は没落し、大陸勢力から奴隷として人間狩りにあった者たちが、漁業をさせるために若狭へも、縄付きで曳かれ奴隷市場から連行された。
ここには「天の日槍」が祀られていたのだから、農業や漁業を絶対にしない遊牧民族の崇神系ではなく、れっきとして「天」の民の末裔である。

 さて織田信長が尾張から近江の野州つまり琵琶湖畔の弁天崖に安土城を建てる前に、やはり「天の朝」の復活のために旗揚げしたのがいるのである。それが、「尼子(アマコ)」と名のる山陰の雄である。
歴史辞典の類には、武士は馬にのるから騎馬系と、「近江源氏佐々木氏の末流。出雲隠岐の守護より、近江犬上郡尼子の荘を領し、尼子姓を名のる」ときめてかかり「十五世紀より出雲守護代となって月山城を築き、富田城を設け山陰道を従え、
山口の大内氏を攻め、後に毛利氏に敗る」と、あっさりかたづけられているけれど、尼子氏がれっきとした「八」の海洋渡来民であった証拠は、日本銀行資料部にも「八福銀」とよばれる「八」の刻印入りの尼子の銀板が、今も何枚も保存されているのをみても、はっきりとよくわかる。


尼子十勇士を見ても(山中鹿之助、五月早苗介、藪中荊之助、秋上宗信、秋宅庵助、荒波碇之介、高橋渡之介、早川鮎之助、穴内狐狸介、藪原茨之助)これらは全てあかさたなはまやらの姓で統一されている。
一方山口の大内氏は中国系である。
中世紀はヨーロッパでも日本でも宗教戦争でなのある。雲州松江となった江戸時代でも名古屋と同じに抹茶が盛んなのも、アマの民の風習なのである。
今の福岡北九州市は豊前の大友領で、その次男八郎が大内へ養子に入って継ぎ、尼子氏に敗戦している。メカリの謡曲はこうして背景をわきまえてみないと、ちょっと納得ゆきかねるかも知れぬ。
 
 福井県敦賀には有名な気比神宮がある。けひ(気比)とはけひ(笥飯)のことで、飯または稲食で食物のことである。このケヒ神宮はアメノ・ヒボコを祭ったものと伝えられている。
なぜここにヒボコが祭られているかは、ケヒの意味するように農業に結びつくからであるが、
それが敦賀にまつられたのは、ここが三韓との交通路であったからである。昭和初期に敦賀からの対外航路はソ連のウラジオストック、北鮮東岸の清津、中部東岸の元山であった。
この元山への航路をすこしそれて朝鮮よりの位置に、ウツリョウ島という玄界灘の壱岐よりも小さな島があるが、ここまで一直線に来て、この島から慶尚南道の迎日湾に入り上陸、そこから僅かな距離でシラギの都、慶州に着く。
また島根県の隠岐の三子島をへて九州へ出て、玄界灘をわたってから陸沿いの航路もあったかもしれない。

関門海峡は何時できたのか
 現代人から見れば瀬戸内海を経由すればいいわけで、このような航路を必要とした理由はわからないかもしれないが、黒潮の赤間が関、今の下関海峡が当時まだなかったということを知ればうなづけると思う。
 謡曲のメカリ(和布刈、即ちワカメ刈り)には福岡県門司市のハヤトモ神社(謡曲では長門国、即ち山口県になっている)の十二月三十日の神事を伝えて、夜中(トラの刻)に至り、龍神があらわれて海岸の斎場近くの波を退けると、
潮は灘風を立てたように双方に引いて海底まで下れるようになり、神主は鎌をもち、海底へ半町も人つてワカメを刈ってくると述べているが、これは地峡を広くひらいて海峡としたことを記憶する神事である。
 
それでは、下関海峡は何時ごろできたかというと、伝えからみると仲哀天皇の御代で、いわゆる神功皇后の朝鮮遠征の直前で四世紀の初頭である。神功皇后の朝鮮遠征というのは事実でなくて物語であるとの説もあるが、これは征伐ということに囚われたからで、九州と南鮮との住民の間に大きな移動があったと解すればすむので、そのような大きな事業をするために海峡を拓くという大土木工事が必要であった。下関海峡の出現は、その後の日本の、直接には交通であるが、
間接には経済や文化の発展にとって貢献したことはいちじるしい。

 ただこの事実は、推測されるような記事がないでもないが、文字には確かなものとして記憶されず、千年以上も下った十四世紀に書かれた「太平記」に見えるだけである。
しかし宮中の内侍所の御神楽には(九世紀ごろから)「阿知女」として伝わっている。
 
(注)仲哀天皇が長門困豊浦宮(山口県豊浦郡)に都を定めて(古事記、日本書紀には、「仲哀天皇二年七月、皇后、豊浦津に泊ります。是の日、皇后―潮の干満をば左右するI如意の珠を海の中に得たまう」と記している)
数年も滞在したのもこのためであったであろう。
竣工せられてから筑紫のカシヒの宮(福岡県糟屋郡)に都を遷されたものであろう。
 だから、謡曲のメカリは豊玉姫と龍宮との交通の話になっているが、これは不自然である。


 浜名寛祐が沖野岩三郎の著書であったか忘れたが、帝国海軍水路部の係官から聞いた話として、下関海峡には掘った形跡があるということである。貞治五年(一三六六)十二月、歌人一条良基、宮中に「年中行事歌合せ」を行う。
足利幕府(義詮)の今川貞世も参加、内侍所の冲楽や「源氏物語」も詠じているが「メカリ」も演じさせている。
さて、尼子経久は近江犬神郡の尼子の庄の出身というから、近江八田より出て尾張へ行き、織田家に仕え、八田姓から織田姓を貰って勝幡の城番を勤めていた信秀の三男坊、織田信長と同じで、
淡海(琵琶湖)国の血を引く飛鳥人の末裔ということになる。
まだ信秀がうだつの上がらなかった小城の番人だったころ、経久はもう立身して出雲守護代という、現地に出張って一切を支配する立場になっていた。

 本当の守護は都にいて任地へはおもむかず、介(すけ)とよばれる次官が代理で出かけるのを、守護代というのだが、経久が行ってみると住民の殆んどが、出雲で圧迫されているのはアマの民たちだった。
「安来千軒」とうたわれるように、先住民族のタウンがあったから、センゲンと呼ばれたので、千は先であり賤とされていたが、富士王朝のアマの残党も、浅と当て字され浅間(せんげん)ともする。
歴史屋はここを間違って「千軒も家屋が在ったにぎやかな場所」としているが勉強不足も甚だしい。後の江戸にもセンの民族は多く住み浅草の浅草寺(せんそう)は彼らの拠り所として賑わった。

 さて経久は守護代として出雲入りをすると、それまで奴隷として苛められていたアマの民に目をかけ彼らを己が親衛隊のごとくした。なにしろ「日本の特殊部落」にも「出雲鉢屋文書」として掲載されているように、出雲の鉢屋とよばれるアマの民は逞しく、応仁の乱に狩り出されていった者らは、都中を震え上がらせるぐらいに勇敢な者たちであつたのである。それを経久は集めて、「同堂の者ではないか」と、お拝み堂を隠れて詣っている者らを、
己が館へ伴ってきては食事を与えて「家の子」つまり「ヤノコ」にし、郎党の数を増やしていき実力をつけていったのである。

  今も神主が、出雲大社の神官と同じで「千」の姓をつける隠岐の島を己が所領にした。
 「世直しをせねば、吾らは生きてゆけぬ」と因幡、石見、伯耆の民の子孫どもは、次々と経久の許にはせ参じたから、出雲もいつの間にか守護代ではなく、実質的な領主となり、五ヶ国を領有する戦国大名となって、
富田城を築き、アマの民の天下を、尼子氏は山陰に作りあげたのである。
 

元来は裏日本の山陰地方はベーリング寒流によって渡ってきた騎馬民族の子孫が多い土地柄である。
 しかし経久が、あれよあれよという間に、下積みの奴にされていた鉢屋衆を一つに纏め、強大な軍団にしてしまっては仕方なく、騎馬系の毛利元就も尼子氏に臣従するしかなかった時期もあった。
 孫の晴久の代になると、騎馬民族系を結集した毛利元就が、安芸吉田の郡山にて叛旗をひるがえし、攻めてもかなわず伜義久の代には永禄九年十一月に、逆に富田城を落とされてしまう羽目となる。

  山中鹿之介ら尼子十勇士は四国の同堂の海衆の許へ逃れ、元亀二年に同族の信長に頼ってゆくまでは、同じアマの民として舟をこぎ漁をして姿を隠していたのも同族だからこそ出来たことである。
「平」の姓が付く信長が味方して、播磨の上月城を与えて尼子再興を許し、同じく「平」の秀吉に協力を命令したのも、決して利用したのではなくて、同じ宗旨のあまの血を引くどうしのせいなのである。
しかし戦い利あらずに落城してしまい、山中鹿之助などは殺されてしまったが、他の連中は山を下りて海へ出た。
そして海賊衆と呼ばれる水軍に舟夫として入り込み、彼らが中国や南方から大きな法螺貝を持ち込んできて、おおいに戦国時代に敵を威嚇する音響効果から流行させて、膨大なもうけをあげ「尼子船」まで持ったという。
明治になってから各船舶会社の創立者は、殆んど彼らの子孫で、アマの末裔として海運日本の基礎を彼らがひらいたのは、騎馬民族系の末孫が土木建築業者として、東京始め各地でそれぞれ成功したのと相対的な現象とされているのである。

 なお、織田信長も尾張近郊の虐げられてきた八の民を開放し「よくも今まで同族を苛めやがって」と八の者にのみ商売を独占させた。そして大陸系や朝鮮系の者達に落とし前として「ヤ銭」を割り当て強制的に徴収した。歴史屋はここを間違ってヤ銭を屋として「棟割り税」としているが八の民の歴史を勉強しろと言いたい。
信長が「天下布武」と君臨できたのもこの八の民が武力で協力し、商人は商売の利益で協力したからこその結果である。
信長の後年の武将には、蜂須賀、蜂屋、長谷川、早川、速水など「ハ」の付く武将が多いし、秀吉も若い頃は旗印に〇に八の字を描いて戦場を駆け回っていた。
だから名古屋市は「郷土の産んだ英雄にちなみ」市章は〇に八の字にしている。

 しかし、信長が本能寺で爆殺されると、後ろ盾を失った彼ら「や衆」の商人たちは哀れだった。落ちぶれた者も多く「近江こじき」だとか「尾張ホイト」と蔑まれた時期もあったが、
江戸時代になると貨幣経済の定着とともに江戸へ出て商売に励み成功者も多かった。
江戸の名物「三河や、いなりに犬のクソ」と言われるほど「三河屋」の屋号は多く、その他「越後屋」「尾張屋」「近江屋」と呉服屋、酒屋、八百屋、魚屋と全てが「や号」を付けるようになった。
現在でも高島屋、松坂屋、と有名な屋号は残っているのをみても彼らのバイタリティーが窺われる。
山中鹿之助の死後、その遺族が鴻池を作ったのは有名だがこれは後の話。


織田信雄はなぜ安土城を焼いたのか
信長正室の間違い
奇蝶に頭の上がらなかった信長


 織田信長が本能寺で爆殺された時。日野の城主の蒲生賢秀が、安土城の二の丸にいた婦女子は一人残らず自分の城へ引取った事になっているが、もし、城へ残留していた者があれば、それは、賢秀やその倅が知悉している筈である。
 だからこそ六月十五日に、その蒲生の倅に案内されて織田信雄が兵を進め、誰一人として城から逃れられないように、完全包囲してから放火している。
この時代、仏徒の方は、土葬だったから、寺には墓地というものがあって、そこへ亡骸を埋めたが、神信心の方は、火屋(ほや)という小さな家のようなものを作り、その中に入れて火葬にしてしまう習慣があった。

 つまり城を枕に討死といって、火をつけて自滅するのは、なにも死んで行くのに城を残していくのは勿体ないからとか、屍体を他人に見せたくないからと放火するのではない。城自体を「火屋」として、自分らの死を完遂する宗教上の慣しでもあった。
 だから信雄が火をつけて、安土城もろともに焼いた女人は、それが安土文化の殿堂であったとしても、それを火屋として、あの世へ持って行けるだけの値打ちのあった、身分の尊い高貴な女性という事になる。
 そして、その女性を焚殺してくれた事を、当時の秀吉や家康が有難がったという事は、その女性には、彼らとて頭の上がらなかった権力者という事になる。
 当時、そんなに豪い女性は一人しかいない。
 美濃の斎藤道三入道の娘と生まれ、信長をして、尾張の当主にし、やがては美濃をとらせた、奇蝶御前しかいない。
 ----安土城跡の總見寺にも、妙心寺の塔頭にも、信長や信忠の墓は後年、刻まれて建っているものの、この奇蝶の墓だけは、美濃にさえもない。嘘だと思われるが全国、何処にもない。
 彼女の死に関係した資料は全部、破却焼失処分をされ、<美濃旧記>にさえ入っていない。
 
だから歴史家は、彼女の扱いに難渋し、身代わりに、「織田信長正室は生駒将監女」と、信長二十歳、奇蝶十九歳の年に、第一子を孕ませた女をもって正室として、彼女に換えてしまっている
 しかし現代とは、あの時代は違うのである。子を産んだ女が正妻になるというには、それは今の感覚でしかない。
 ペニシリンや消毒薬がなくて、出産は女の大役とされ、産褥熱で死亡率の高かった昔は、「腹は借りもの」といって身分の低い女に産ませ、出産と同時に縁を切らせて、次は、正妻が「乳人」に抱かせて、己が子として育てさせた時代なのである。
 生駒将藍というのは尾張の名もない地侍である。そこの女を信長が、どうして正室に迎えるわけがあるだろう。当時の婚姻は、個人の感情、つまり現代のように恋愛ではない。家格と家格の取組みである。
 もし歴史家が説くように、のちの中将信忠が、生駒将監の女の腹中に入った信長二十歳の時に、奇蝶を離縁し、生駒氏を正妻にしているものなら、その三年後の弘治二年に、岡崎から駿河勢が攻めこんできたとき、

<村木の取出し攻められ候>の原文、
「信長の御舅にて候の斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞いに遣はされ候。道三かたより正月十八日、那古屋留守居として、安東伊賀守(安藤守就)大将にて、人数千ばかり、田宮、平山、安斎、熊沢、物取新五らを相加へ、
見及ぶ様体(ようてい)、日々注進候へ(と道三入道が心配して)申しつけ、正月廿日、尾州へ着し越し候へき、陣取り御見舞として信長御出て、安東伊賀に一礼仰せられる。
一長(いちおとな=主席家老)林新五郎(林佐渡)其弟美作守ら不足を申したて、あくご(荒子)の前田与十郎城(犬千代の父)へ罷り退き候」
 
 この林佐渡らの美濃への反感が、翌弘治三年の、信長の弟の武蔵守信行の謀叛騒ぎになるのだが、いくら道三入道がお人良しでも、娘の奇蝶の代りに、他の女を正室にされていて、信長から舅よばわりをされ応援を求められ、
すぐ派兵して「見及ぶていを日々注進しろ、兵力が不足なら、追加もしよう」と、その家来にいいつけて尾張へよこすのは、つじつまが合わなさすぎると考えられる。
 また生駒が正室なら、その一族で、名の残るような立身の者もいるべきなのに、そんな者は一人もいない。
 信孝を産んだ板御前の方は、その前夫との子(小島民部)を信長は、荒神山で名高い伊勢神戸城主にしてやっているが、生駒姓など<總見記>にも残っていない。
 生駒氏が続けて信長の子を産んでいるのは、奇蝶が、あまり違った女に信長の種つけをさせるのを好まず、専用にさせていたのではあるまいか。つまり女として、奇蝶よりも容色が劣り、詰まらなかった女だったせいらしい。
だから信長は、奇蝶の厳重な女管理の為、ホモになってしまったのである。もし、後年伝えられるように、手当たり次第に、よき女人と交われるものなら、どうして中年から、
<当代記><總見記><信長記>に、びっしり出てくるように、万見仙千代に血の途をあげて、あんなに徹底したホモになる筈はない。厳然として、奇蝶が正室として頑張っていて、「勝手気侭な女色は許さじ」と睨みをきかせていたからである。
 
 だが、仙千代は天正六年に死んだ。そこで一、二年は生存説もあって待っていたが、その代りとなると美少年も現われてこない。こうなると信長も、子供を産ませるために、後家ばかり用いるのは飽きがきていたらしい。
やはり彼も普通の男である。だから、「荒木摂津守逆心を企て」という<信長記>の一節に、こういう原文がある。
「御人質として、御袋様を差し上げられ、別義なく候はば、出仕候へと御諚にて候と雖も、謀叛をかまへ候の間、荒木不参候(まゐらせず)」
 つまり、仙千代のとりあいになった時に、信長が、人質として家来の荒木に、御袋をやろうというのである。歴史家の中には、信長の母と誤読している者もいるが、この御袋様というのは、
子を産ませた、その子達の御袋様なのである。いかに信長が仙千代にまいっていたかという例証になり、また、子を産ませていた女達が、どんなに詰まらん女達であったかという証拠にもなる。
 相当に、奇蝶はうるさくて、眉目よき女など、信長の側へはよせつけなかった模様が、これでもありありとわかる。
 その豪い女性の奇蝶こと「おのうの方」の墓が、日本中どこにもない。何故かというと、その真相は、昔から、「‥‥夫殺し」と思われていたからである。つまり《悪徳の権化》の女性として、どこの寺でも拒んで、寺内へ建てさせなかったのだ。

怯える信長の反対勢力

<浅野文書>に収録されている天正十年十月十八日附の秀吉の書状で、その名宛人となっている岡本次郎左衛門というのは、良勝ともいって伊勢神戸時代からの織田信孝の家老である。
 もう一人の斎藤玄蕃允というのは、この時は、やはり信孝の家老だが天正十年六月一日までは織田信忠の家老だった。
 そして妙な話だが、<戦国戦記・山崎の戦い>によれば、
「本能寺の変があった六月二日から、二十二日までは、岐阜城主となって、たとえ二十日間とはいえ、美濃に君臨していた」という事実がある。
 もちろん、二十二日になって秀吉が、織田信孝と共に不破の長松まで押し寄せてくると、彼はあっさり降参をしてしまった。
 ところが、この玄蕃允は、幼名新五郎といって、斎藤道三が長良川で討死する前日は、その姉の奇蝶の許へ落としてやった男である。叛乱軍側について、美濃一国を横領していた斎藤玄蕃允だから、秀吉も普通なら首を切るところである。それなのに気兼ねして、「ご縁辺の者にて、美濃の血脈の者ゆえ、何かと御領置の差配にご利便ならん」
 と、新領主の織田信孝の家老に、また推挙している。本人も昨日まで同じ城で殿様をしていた身が、けろりとして家老になって奉公している。
なにしろ、<当代記>六月二日の条の二条御所にて信忠を守って勇戦奮闘した顔ぶれの中に、小姓頭として出陣していた、この男の跡目の「斎藤新五郎」の名も入っている。
 だから忠義者の倅をもった余栄というのか、当時も疑われていないし、今も疑われていない。

さはさりながら、いくら岐阜は京都に近いといっても、天正十年六月二日に、本能寺の変が勃発した日から、奇蝶の末の弟が、亡父斎藤道三入道の遺領である美濃を回復して、そこに君臨してしまうというのは、これは全く穏やかではない。
 誰がどう考えても「里方の美濃を取り戻して、亡くなった父母の供養をしたい」と願った奇蝶の差し金であることは、これ一目瞭然である。そして、そうなると、六月二日に、あの事件が起きる事は、奇蝶は前もって知っていたということになる。なにしろ六月二日以降は安土城へ入ってしまって、そこから一歩も出ていないのだから、まだ京都の斎藤屋敷に滞在していた六月一日以前において、美濃の弟へは、あらかじめ司令は出されていたことになる。
 
 そして六月二日の午後、安土への通行口。
 そこは<フロイス日本史>によれば、「信長は都から安土への道が楽になるよう琵琶湖の狭くなった激流の瀬田に立派な木橋をかけ、横幅は畳四枚、全長は百八十畳、橋の中央には休憩所まで設けてあった」という瀬田の大橋を、
山岡景隆が焼き払ってしまったのも、京から引きあげ安土へ向かった奇蝶の命令によるもと判ってくる。なにしろ彼女は、山岡一族の本家である三井寺に、亡父斎藤道三をまつって大檀那だったからである。(家康の指示もあったろう)

<ゼズス会日本年報>の記載によれば、
「諸君が、その声でなく、その名を聞いただけでも、縮みあがって戦慄する人」と、ポルトガル人のバードレたちの間でも恐れられた信長。つまり、自分から「神」であると認め、
「天上天下における唯一人の全智全能を誇っていた織田信長」にとって、怖ろしい存在などは、この世にはないように、誰もが想う。ところが彼も、実体は人間であり、やはりアキレスの腱はあったらしい。つまり、その泣きどころを一掃するために上洛してきたのが、五月二十九日ではあるまいか。
 
 なにしろ信長は、その者に三十三年にわたって悩まされ、苦しめられていた。なんとか処置は、とりたかったろうが、信長のように別所出身の神徒系には、古来女尊系の「おかど」思想がこりかたまっている。
なんとも束縛から身動きができなかったのであろう。
「おかど」というのは、今でも野沢スキー場や上州の田舎に残っているが、旧正月に、「おっか」という女の顔と「ど」とよぶ男の顔を入口に立て、この入口を「おかどぐち」つまり「門口」といい、
当時は、現在「笑い絵」と夫婦交合の絵のことをいうように、おっかに、「ど」のつく姓行為を「わらう」という古い大和言葉でよんでいたから、元日だけは骨休めをさせてもらえるが、二日からは「姫初め」ともいって「笑う」行事をする掟があった。
 今日は単純に「いろはかるた」に入れられて、「笑う門には福きたる」となっているが、昔の、結婚後二十年、三十年の夫にとって、それは大変な辛苦なことだったらしい。
(この「おかど」が江戸初期に転化した「お雛様」をみても判るが、女体は「内裏さま」つまり至上を意味し、男体は「親王様」と、身分が遥かに下位になっている)そしてなにしろ当時は、今の「夫婦」が、まだ「女夫(めおと)」と呼ばれていた時代なのである。

畏きあたりから信長へ降嫁 

 信長は天正十年五月一日に自分から「神」になると、この際「ど」のほうもやめてしまおうと、うるさい古女房を一掃するために、二十九日に出洛したのであろう。
と書くと経験のない人には判るまいが、なにしろ女性自身でさえ、結婚の条件に「ババァ抜き」というぐらい、女の古手の口やかましいのは、同性でさえ怖れをなすものである。
まして男。しかも信長のように押さえつけられてきた人間にとって、彼女を一掃する事は(当時奇蝶は四十八歳であるが、現在の六十八ぐらいに、よい化粧品もない時代だから、ふけていたであろう)これは、多年の懸案でもあったろう。
 そこで、つい心浮々として「京へ、一掃にゆく、そして、中国へ向かおう」と、しきりに洩らして吹聴してしまったのであろう。だからこそ、これが広まってしまって、
<当代記>にも、「一左右次第中国へ可罷立之旨曰(まかりたつべくのいわく)」とあるし、<信長公記>にも「御一左右次第、罷り立つべきの旨、おふれにて」と、みんな書いてある。
 ところが、
 世の中には幸せな男もいて、「女の恐ろしさ」など知らずにいる者も、割りといるものである。だから、この連中は、まさか、その名を聞くだに身の毛もよだつ恐ろしい織田信長が、京にいる古女房の奇蝶を掴まえハムレットみたいに、「尼寺へ行きやれ」と一掃しに来たとは知らないから、
互いに脛に傷ある連中は、それぞれ、「‥‥一掃しに来た、われらであろう」と脅えきってしまった。

 まず御所では、女嫌いの信長ゆえ(奇蝶に虐められてきたしっぺ返しか、非常に彼は女にはきつくあたっていた)女御が、二十九日に、お里へ緊急避難をされた<言経卿記>
 翌六月一日になると、「一掃されるのは、我々宮廷勢力ではないか」というので、関白太政大臣以下、右府、左府、内相、一人残らず、御所を空っぽにして、本能寺へ雨中のデモをかけてきた。
玄関払いをしたのに上り込まれて、五時間も六時間も自分の事を各自に喋舌り込まれ、信長はうんざりしただろう。
 それまで自分の結婚に懲りて、倅の信忠や信雄には、決まった嫁を持たせなかった信長も、皇女のご降嫁には将来を考えて心が動いたのか、夜になって、信忠の考えを聞こうと、跡目の当人を呼ばせた。

 奇蝶は、五月には京にいたから「信長が一掃にくるのは、御所の事ではあるまいか」と公卿どもが心配して、誠仁親王の妹姫を織田家へ降嫁させる話も耳にしたであろう。
それが、義理の子とはいえ信忠と判っていたら、別に暴挙はしなかったろうが、てっきり夫の信長の許へ降嫁と、女だから客観的に考えず、自分本位に判断して周章てたのだろう。
 側室の上臈(じょうろう)なら、何人つくられたところで、子作りのためだし差支えはないが、畏きあたりからの御降嫁とあっては、自分が妻の座を放逐されるのは目にみえている。とても、いくら美濃の今は亡き斎藤道三入道の娘であっても、これには太刀打ちできたものではない。そこで、美濃衆の稲葉一鉄の娘である斎藤内蔵介の妻を呼んだ。そして、「美濃人の手で、美濃を取り戻すため」とでも言ったであろう。

 家康は「一掃されるのは自分らではあるまいか」と噂に狼狽し、信長が五月二十九日、京へ近づくと知るや、直ちに、その日、京から脱出。船便のある堺へ、まず避難した。
 斎藤内蔵介は、かねてより実力をもってしても、なんとか四国討伐をくい止め、義弟にあたる長曽我部元親の危機を救おうとしていた矢先だから、「三河から援兵をもって、すぐ駆けつけてくる」という家康の申出を、すぐさまのんだ。
 奇蝶からの話も、まさか(ものはついででござる)とは言わなかったろうが、すぐさま承知して、光秀が愛宕山へ上っているのを幸いに、丹波亀山へ急行したのであろう。

信長爆殺の実行者
本能寺事件を知っていた秀吉


 京都教区長のオルガンチノは、かつて、その<オルガンチノ書簡>に、「日本の重要な祭日に、信長の船の大いなる七隻が海に並んだ。私は、すぐ堺へ行って、それらの艦隊と備砲を調べた」と、マカオへは報告してやっていたが、その後、
また倍加された織田艦隊が、大坂の住吉浦に勢揃いしているのを調査し、信長が軽装のまま上洛しているのは、これは乗船するためとにらんだ。そして、「六月四日に四国征伐に出帆」というのを、オルガチーノは、てっきりカモフラージュと思った。

 そこで、東インド管区巡察師ヴァリニヤーノが、この二月に少年を引率して日本を去る前に言い残した言葉を想い出し、ヴァリニヤーノに同行してきた者が、書き残していった、
<ロレンソーメシア書簡>を再びひろげた。
「‥‥このゼンチョ(異教徒)信長は、すこぶる尊大で、さながら神の如く扱われ、尊貴の念をうけ、まるで世界に彼に肩を並べる者は、よし天上にあっても何もないと信ぜられている。なにしろ長子の信忠も彼にならって尊厳であり、何者でも直接に話などは許されない。
しこうして彼らは殺掠を好み残酷である」と、それには信長の残忍さが、いろいろと例をあげて綴られていた。
(あの織田艦隊が南支那海へ向かったら、神の名による都市マカオが危ない。吾々は、今こそ、神のおんために、身を捧げるべきである)と、オルガチーノはすぐさま準備にとりかかった。なにしろ信長がいつも京へ来て泊るのは、いつも最近は、本能寺であるし、そのため、わざと数十メートルと離れていない此処へ三階建の教会をもっている彼らである。
 ----オルガチーノは「神の栄光」のために、自分を犠牲にすると誓った。だが、いざとなると部下に後をまかせ、遥か九州の沖の島へ逃げてしまった。事前に秀吉の密使との打合わせがあった模様だが、その詳細は伝わっていない。

 だが、激怒されたフェリッペ二世陛下のために、マカオへも戻れなくなった彼を、秀吉は生涯保護し、他の宣教師は追放しても、彼だけは静かに日本で死なせてやった。
「殺られるのは、きっと自分であろう」とばかり、共同謀議はしていないが、結果的にはそうなって、実行兵力は、斎藤内蔵介の指揮する丹波亀山衆。内訳は、丹波船津桑田の細川隊(指揮者は加賀山隼人正)福知山の杉原隊(指揮者は小野木縫殿助)亀山内藤党(指揮者は、木村弥一右衛門)と認定される。
 本能寺を包囲したまま三時間も三時間半も待っていたのは、奇蝶の使いが明智光秀を探しに行って「彼を名義人」当時の言葉でいうところの、「名代」にしないことには、斎藤内蔵介としては「家老の私では身分からいっても今後の運営に差支えがござる」と言い出したので、当てもなく、それで待機していたのであろう。
 ところが目と鼻の一町もない「ドチリナベルダデイラ(天主教真聖教会)」から秘かに持ち出されて轟然と一発。
 最新舶来のチリー硝石による新黒色火薬の爆裂弾が、ドカンと本能寺へ投げ込まれ、すべての計画が齟齬してしまった。光秀が上洛する前に、一切合財が終ってしまったのである。
かねてから秀吉は保身のため、信長側近の長谷川秀をスパイとして信長の動静情報を逐一把握していたからこそ、この知らせが入ると、途端に、備中高松で、
「これで、すべて秀吉の殿の思い通りになられましたな」などと黒田官兵衛に言われてしまうのである。
秀吉の、有名な備中大返しというのも、この事あるを以前から把握していたため、毛利との和睦も早くからできていたのである。

夫殺しの汚名を着た奇蝶

 そして天正十年六月十三日。つまり事件後十一日目に、光秀を山崎円明寺川で破ってしまったものの、これは単なる勢力争いのようなものに見られがちで、当時としては、信長の仇討ちという事にはなりそうもなかった。
 といって「誰が信長殺し」かを突っつきだしたら、自分も脛に傷があるから、「女天下」である当時の社会情勢において、秀吉は、「信長殺しは、奇蝶である」という結論をうちたてた。そして、その真犯人とされた奇蝶を泪をのんで葬った。つまり、

「親の仇討ち」をするため安土城を焼いた織田信雄をもってして、山崎合戦から十二日目の清洲会議では、これを殊勲甲として二ヵ国の太守にしたのである。そして秀吉は、「だが‥‥どうも不審である」などと当日、怪しむ口吻を洩らした柴田勝家、丹羽長秀、池田勝入斎、織田信孝を一人残らず次々と、みな消していったが、奇蝶を下手人にしておくために、安土城を焼いた信雄だけは、自分の弁護人として、生涯、殺せなかったのである。
 家康は「これ一重に斎藤内蔵介の志であった」と、その娘の阿福を、春日局にしたり、「細川の働きも、あだには想えぬ」と五十四万石の褒美をやってもよいと遺言したりした。
(三代将軍家光の時、諸大名の取り潰しが激しさを増す頃、細川だけは「大御所様の遺言だ」と肥後熊本を与えられている)
 国家主権者の暗殺などというものは、白昼公然とパレード中の大統領を狙撃しても、背後関係が政治的にややこしく、二十世紀の今日でも判らぬものなのである。まして十六世紀の信長殺しとなると、調べに調べても謎は深い。

 つまり、「信長殺しは誰か」というのは、元禄時代までの女権の天下では「奇蝶こと、お濃の仕業である」として一般には通用されていたのが、その後の男尊女卑の時代がきて、「男は強く、女は優しいものだ」という封建制が固まってくると、
「織田信長を殺したのが女ではおかしい」と、明智光秀にすり換えられて、その侭で俗説が罷り通ってしまったのです。そして、この事件の鍵を握る徳川政権が、徹底的に、この史料を握りつぶしてしまったので、謎のまま四百年も経過してしまったのである。そして生前、とても偉大であったように、より良き誤解を与えてしまった為に、天正十年六月二日に、各方面から、その「一掃の目的」が自分ではないかと、より悪く誤解され、その連中が、期せずして共同作業の形で「信長殺し」を国際的なスケールで敢行したようです。
勿論、徳川家康には、信長を殺したい必然性は確固としてあったのですが、これはまた後日にしましょう。
 
さて最後に申し上げたいのは、いずれ機会を改めて書きますが、奇蝶こと「おのうの方」を、どうか、気の毒ですから、悪く想わないで下さい。
 女にとって、愛というのは血の流れだけに限定されるものです。生涯、子供を産まなかった(現在の経口避妊薬ですか中絶薬ですか‥‥江戸期までは「月ざらえ御くすり」の名で馬琴の本にも広告があるくらい流布していました)彼女にとって、
愛する者は、父の斎藤道三だけでした。
その父の死が、信長の謀略だったとしたら、彼女が復仇したのも無理からぬ事でしょう。だが、結果的にはプランを立てたくらいで、秀吉とか家康といった、役者が上の男どもに利用されて焚死となれば、
これこそ歴史家の諸先生がお書きになる御本のように、
「戦国時代の女人は哀れであった」と、いうことになるのでしょうか。偉大なるが故に不幸な女性でした。
「竜は、女を怒りて、その裔(すえ)の残れるもの、即ち、神の戒しめを守り、イエスの証しを有(も)てる者に、戦いを挑まんとて出でゆきぬ」<ヨハネ黙示録第十二章第十七節>
----というような結末になったのです。