真説 浅草弾左衛門(本名・先祖代々の隠し姓「矢野内記」) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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   真説 浅草弾左衛門(本名・先祖代々の隠し姓「矢野内記」)


<慶応四年正月。老中稲葉美濃守より弾左衛門こと改名矢野内記宛>の文書によると、「其方儀(神君)御入国以来、先祖より引き継ぎ、御用品納入や御仕置御用をよく相勤めてきたが、
去る元治元年の伝馬町大牢火災の節は、己が囲内の牢屋へ囚人を引き取って自分の出費で面倒を見た。
 さらに去る慶応二年の長州征伐には五百名の強壮な若者を出征させ、留守家族の手当ても自分で賄った。大阪表へ其方も将軍さまのお伴で出向したいと申出もあったが、重ねて此方からの御用もあるからと止めさせたところ、
手代の中から名代を選んで、これを大阪表へやって指揮を執らせたし、
 今般、時勢に臨み銃隊をもうけ公儀歩兵隊を新設するに当たり、其方は一ケ大隊の人数の供出を申し出、取りあえず百名の二ケ小隊には自弁にて銃器弾薬を揃え訓練をした。まことに尽忠報国の心掛けである。
 
 よって、鎌倉以来の由緒正しき名門ゆえ、出格の訳をもって、平人の身分に仰せ付けられることになった。有難く存ずペし」この通達があって二ヶ月後、矢野内記は鳥羽伏見で敗れてきた新選組に、
自腹を切って横浜関門で五万五千両で買い求めたエンスヒール銃やミニエー銃を持たせた銃隊二百名を、軍費一万両つけて渡している。
 近藤勇が大久保大和と変名して引率していった「甲陽鎮撫隊」がこれである。
 
さて、現代では「弾左衛門」というと、まるで非人頭であり、乞食の親分のように考えている人が多い。だが古い文献を調べてみると、
<落薄集>にあるように、「日本橋あま店という辺りの茨原の中に地高の所在り、弾左衛門の屋敷なり」とある。
 つまり現在の麹町平川町の左岸。常磐橋から室町以西は彼の地面であって、最初に日本橋をかけたのも、彼の祖先の「室町弾左衛門」なのである。浅草鳥越に引越したのは天正十八年に家康が入国したとき、
その土地を譲ったからである。これについては、

<御府内備考>に寺社奉行へ文政年間に書き出した<東光院文書>がある。
 それにも、「右常磐橋御問北之方に有りし処、御用地と相成り、日本橋小伝馬町に替地を下し置かれ、その節、武蔵国豊島郡江戸の内にて十五石の寄進を天正十九年十一月付けにて賜る」という記載が残っている。
  この東光院は家康の臣の内藤清成の書いた<天正日記>にも弾左衛門屋敷内とあり、のち牢の刑場近くの小伝馬町へ移されたが、明暦の振袖火事で焼けた後は、浅草の新寺町へ移って「医王山薬王院東光寺」となって、
今ではお寺である。さて、
 
宝永年間の<岩舟琵琶検校町奉行申上書>というのに、弾左衛門のことを明確に「彼の者の先祖は、頼朝公の御代には三千町歩の領主にて侍所の旗本武者」といい、また三田村鳶魚著<芝と上野浅草>の中にも、
 薩摩人が「汝の先祖は鎌倉右府の遺子ではないか」と弾左衛門に言ったと明記されている。つまり幕末までは、弾家は頼朝直系と認識されていたものらしい。
 
さて、普通の百姓町人が税金を払ったり、労力提供の課役義務が有ったのに対し、彼ら源氏族の末裔は、相変わらず「延喜式」に記録されている昔から、農耕もしないし、助郷にも出ない。
だからこの不公平を身分制で区別して「働く者は平人」と、働かない彼らより上等の扱いをなしたのが、徳川期の施政方針であった。
 【補記】徳川は体制維持の為、四つと呼ばれる騎馬民族系の弾左衛門の下に、八つと呼ばれる海洋渡来系の南方民族(天の朝系)の車善七を、その下に、四谷者、又その下に八津者と交互に組み込んでいた。
これは相互に牽制しあって夷をもって夷を制させる、中国より藤原氏の持ち込んだ戦略であり、これによって治安維持を図ってきた。
幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」今では簡単に弥次馬と呼ぶが、反目しあう日本原住民どうしの、両者の融合を狙ったのが、弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で、貸本屋の大ベストセラーとなり、
明治維新の大衆動員の起爆剤になったのは今ではあまり知られていない。
 
 幕末になっても限定地の居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は超えていた。貞享年間からこれらの部落を抜け出して、町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、
総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末裔だったと考えられる。
  両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子という。つまり庶民とはテレビの「ルーツ」のように、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として売っていたが、
日本では一握りの藤原進駐軍の他は、徹底して全部が奴隷だったのである。
 
騎馬民族系の頭目は・・・・・弾左、弾正と呼び、人頭税で年に二朱の納入。(年一両の説もある)
 
八の海洋渡来系の頭目は・・・博士(ばくし)、小太夫、と称するアー元様。
 
【網元】
 川渡しの船頭から水に関係のある一切は、この八の部族の限定職として明治までは世襲制であった。今では漁網を持っていて、地主の如く小作人に舟や網を貸し与えて漁民を搾取していた者と歴史屋はするが、
大誤りで海に面した浜除地の部落責任者であって、おかしらさまで、太夫、長史と同じに部落の人々から人頭税の代わりに漁獲物で徴集したのである。アー元様が正しい。

【サンカ】
 八や四っより数は少ないが、このサンカ民族は古来から人頭税の制度はなく、自由納入制で身分収入に応じて応分に納めればよく、箕の一つ、笊一つでもよかった。
それを行商で銭に換えたのを困窮者に分配、彼ら独特の相互扶助制度で、アナーキズムの世界を維持していた。


この弾左衛門に属する源氏の残党は、古来よりあまり勤勉ではないが極めて勇壮な民族である。
  「こういうのを放っておく手はない」と、薩摩の益満休之助が、弾左衛門を訪れたとき、フランスで調整しナポレオン三世へ贈呈した時の余り物の薩摩琉球十字勲章を携えて進物したと伝わっている。
      
 こうなると公儀の方も放って置けない。弾左衛門の父の担当医である、富士三哲の手をへて、麹町の御典医松本順(後の初代軍医総監)が、診察というふれ込みで政治的な打診に訪問した。
何しろこの時点における源氏の勢力は弾左衛門だけの例をあげても、現在の隅田川の向こうは全部彼の地所である。
 そしてこの中に、棟割長屋二百三十棟。猿曳き十五戸。この他品川、代々木ら四カ所に半里四方の寄場があって、各五十から六十の棟割長屋。
築地の魚河岸が当時は日本橋の岸にあって、ここにアマ店と呼ぶ魚の卸店が六十軒という規模であった。
 この魚河岸から奥州方面への塩魚の輸出も一切やっていて、関八州から奥州までの十二カ国にこの弾家の差配地は聚落にして、六千五百六十二カ所。猿飼部族が四十六カ所。
 直属の戸主は明治六年で五十万余。この他に定住せず、「道の者」という諸国を流して歩く旅商人の墨屋、筆屋、石工、佐官、竹細工、いかけや、といった渡り職人。
旅芸人の獅子舞、鳥追い女、ちょぼくれ祭文等で、弾家の鑑札で各地の関所を通っている者が当時で七十万人。
 
 この百二十万に家族を入れると四百万という大所帯である。そしてこれは江戸以北であって、日本各地に源氏正統として構えていた連中の掌握していた人口を合計すると、
明治六年一月十日に徴兵令を発布した時、旧幕時代の人別帳による頭数より、最期まで抵抗していた連中が増え、概ね四割増になっていたという当時の記録もある。
 では何故、維新まで源氏系が各地でこんなに集団化していたかというと、これは今日伝承されるような(印度思想による被占領民=賤民)という仕組みもあるが、これは各地の源氏の頭領共の経済上の都合である。
  彼らは表向きの課役や納税義務は一切無かったが、その統領からは徹底的な搾取を受けていた。つまり弾左衛門といういうようなボスは、同族から集める人頭税で、
表向き三千石(八朔に千代田城へ出仕する時の格式)内実は十万石の実力があり、「お屋形様」として彼らに君臨していた為である。このため統領共は自分らの部族から、搾取できる頭数が減るのを極端に嫌い、
わざと差別待遇の枠を故意に固守していた形跡がある。
 寛永四年二月に、能の金剛太夫が、大名衆の前で勧進能を催した時、当時の弾左衛門が槍長刀の部下を率いて乱入し、老中酒井讃岐守より、「金剛能は弾左衛門配下たるべし」との裁きを受け退去している。
 
 そこで老中立花出雲守と松本順が考え出した弾家源氏を見方に引き入れる案は、「平人になると、これまでのような租税課役全免の恩典と、燈芯、茶などの一手販売の既得権益がなくなってしまうから、
その埋め合わせに、横浜関門を通じてアメリカ兵の性病が全国的に流行し出したのを防ぐためにも、
  全国の宿場女郎を統括させ、梅毒検査法を公布し、その費用と弾家の収入源確保のため、女郎税を新設しよう」と言う趣旨であった。
しかし付帯案に、「十六歳以上六十歳迄の成人に一人年額一両の人頭税を大公儀へ納入する」という交換条件がつけられた。
 
 女郎の上前を弾左衛門にはねさせ、その上前を幕府がとろうという狙いである。これは当時、江戸の岡っ引や下っ引といった弾家の息のかかった連中の手当が吉原や品川、千住の遊郭から出ていたのを統合するためのものでもあった。
 さて、この当時の弾家の手代(家老)の六人の内、三河松助(詩人として井上石香の別名あり)という千葉道場で免許皆伝の者が、この折衝役をやっていたが、あまり良い話しではないから、愚図ついている内に明治政府になってしまった。
 かって薩摩は弾家が協力しなかったばっかりに、三田屋敷を庄内藩歩兵に焼討ちにされ、益満休之助を捕虜にされた怨みがある。
 だから懐柔策として明治四年八月に身分制の廃止をしたが、明治六年になるとこれまで無税無課役の彼らにいきなり、重税をかけ兵士にまで引張りだして弾圧した。
 このためそれまで身分や呼称はどうあれ、優雅な生活を千年近くやっていた連中が、いきなり生活難に襲われ塗炭の苦しみを受け、いきなりまるで乞食のように皆零落してしまったのである。
 
 【補記】だから源氏の没落は承久元年ではなく、実際は明治元年である。矢野内記の妻八重が「薩摩ホイトは勘弁ならん」と、報復のため西下して、明治七年の佐賀の乱の江藤新平に資金を出し、
次々の反乱事件にシンパをつとめたから、二十有余もあった金銀の倉が空になり、明治二十年前にさしもの弾家も没落したと伝わる。
 勿論一般には革問屋としての事業の失敗とされているが、江戸の金本位制を支え当時の日銀の役割を果たしていたのが、そんな事でもろく崩壊する筈はない。
これははっきり明治政府の取り潰しである。
だが散らばったとはいえ、大正、昭和と生き抜き、戦後は高度経済成長の波に乗り都会へ出てきて企業戦士となり、必死に働き、日本経済を支えた、サラリーマンとなった源氏の末裔は多い。