明智光秀と細川家記  細川家記は謎だらけ | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 


明智光秀と細川家記

光秀の実体は知られていない。講談では、「明智十兵衛は浪々の生活をしていたから、ある日客を招いたが、そのもてなしに、はたと困った。
ところが手拭いを姐さん冠りした妻女が、いそいそと酒や肴をみつくろって出してくれて、それで客に対し十兵衛は恥をかかずにすんだ。
が、さて、客の帰ったあとで、『今日の食事にも事欠く吾が家の暮らしに、よくも銭の調達ができたものよな』と十兵衛が不審がれば、妻女は、無言のまま畏って、
かぶっていた手拭いをぱらりと取った。それを見た途端、十兵衛は思わず『ウウン』と唸り、『そちゃ、己が黒髪を、女ごの命と知っていて切ったのか。
それを売って銭に換え、この十兵衛のため、客のもてなしをしてくれたのか‥‥』と泪ぐめば、
『いとしきお前さまが為ならば、髪の毛など切り売りするも、いとやすきこと‥‥夫婦の仲じゃありませぬかいな』と妻女は首をふり、にっこり笑ってみせた。
『済まぬ。きっと立身して、そなたを仕合せにしてみよう。なあ、それまで待ちや』と十兵衛は、己の妻の手をとって感謝する」という、仕組みになっている。つまり人
間の感情の中の底辺ともいうべき人情話で、ホロリとするものを意識的にかきたてようとする俗受けを狙った趣向で、そして、「かく貧窮の中にて浪々していました十兵衛をば、
織田信長が召し出され、とりあえず五百貫にて奉公させましたところ、妻女がよくできました方ですから、貧しいながらも、こざっぱりとした身仕度で登城させますし、
朋輩衆が家へきても、これも快く接待する。だから、段々出世して、ついには近江坂本二十万石から、丹波亀山五十万石にまで立身しましたなれど、時に天魔に魅入られましたか。
その大恩ある信長公を討ち奉り、これが世に言う『明智の三日天下』たちまち日ならずして、太閤様に攻め滅ぼされ、自分は、小栗栖村の百姓長兵衛に首をとられてしまう羽目になるという、因果応報。
天は正しきを助け悪は必ず滅びるという物語」となるのである。
この講談が、今日の光秀に対する常識になっている。もちろん、こんなものは虚像である。

実際には、信長と光秀が初めに正式に逢っているのは永禄十一年七月二十七日であるが、<細川家記>によって、すこし詳しく引用すれば、
「明智光秀は、その臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって七月十六日に、朝倉の一乗谷から出てきた足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋を越え仏ヶ原のところでは、
明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺へ二十五日に赴き、二十七日に信長と対面」とある。
 いくら妻女がロングロング・ヘアーであったとしても、又、女の髪の毛は象をも繋ぐといったところでアラジンの魔法のランプであるまいし、
六百名に近い家来が、毛髪の切り売りぐらいで、賄えるものではないと想う。
 一人平均少なく見積もって十万円給与とみても、六百名では現在なら、人件費として六千万円の計上である。年間三億六千万の棒給を出すためには、企業ならば、その収益は年間三十億は必要である。
そうなると、当今なら五百億ぐらいの売上げのある会社でないと、このバランス・シートは保てない。
まぁ話半分とみて、光秀の率いている私兵の半分が、寄せ集めの臨時雇いか、野次馬的な者とみて、これを除外したとしても、江戸期においては十万石に相当する。
(一万石で百人出兵の定法だった豊臣時代でも、これは五万石以上の実力であり、格式である)しかも当時、牢人の光秀には所領というべきものはない。
つまり土地からの「作毛」である収穫物の米麦で、これは賄っていたのではないということになる。
 
  細川家記は謎だらけ


 そこで、この記述によると、光秀は貨幣で給与を払っていた事になる。だから牢人とはいえ、えらい金満家だったということになる。
しかしである。<細川家記>では、なお、この時代たるや、「明智光秀は大砲の妙術を心得え、朝倉家にて、五百貫の禄を得ていたが、細川藤孝が越前に滞在していたとき、
足利将軍家の衰徴をなげき、深く交り互いに談合した。その後、義昭から直接に、光秀に対して、織田へ頼れるようにと依頼した。ところが、鞍谷某に密告されて、光秀は牢人させられた」という時点が、これに当たる。
つまり、「一貫一石」という換算でゆけば、五百石どりから、光秀は扶持離れした状態である。それでは全然計算が合わない。まったく矛盾しきっている。
それに当時の五百貫取りというのは、鎧冑をつけ馬にのり、左右に護衛の為の脇武者をはべらせて出撃する一人前の将校の最下位のことである。家来が二人と六百人とでは違いが甚しいと思う。
 それに(山内一豊の講談)で、間違って伝えられているが、この時代は、女房が臍くりで金を払ったからといって、馬に乗れたり、勝手に旗指物などつけられるものではない。
身分によって、初めて馬乗りになれたり、許可があって旗指物は背に立てられたのである。これは戦前、九段の軍装店へ行けば、銭さえ出せば将校の肩章でも軍帽でも売っていたが、
それを買ってつけたからといって、自分勝手に兵士が将校に昇進できなかったのと全く同じ事で、これでは光秀の話も辻つまが合わない。
 さらに<細川家記>では、あくまでも、
「永禄十一年十月九日。光秀は岐阜城へ赴き信長に逢う。信長喜んで、これに朝倉家同様に、五百貫の扶持を与えて召抱う」とある。しかし、これに対して、
(それでは光秀の当時の勢力からみて、なんぼなんでも、五百貫では安かろう)というのでもあろうか。悪書とよばれている、<明智軍記>というのは、禄高を修正して、約十倍にして、
「猪子兵助の推挙により、美濃安八郡で、四千二百貫の闕所の地を与えられた」とする。

だが、この本は、当時の講談本以外の何物でもないから、あまり信用できない。
もっとひどいのに、この他、古書では、<校合(こうごう)雑記>というのがある。
これでは、「光秀は、もと細川藤孝の徒歩(かち)武者で、のち細川家より出て信長公に仕え、その当座も徒歩武者の身分であったが、やがて信長の気に入られ、知行を増やされ、
疲れ馬一疋にも乗れる身分と出世し、信長が近江を手に入れると、坂本城を築いて、これを光秀に預けた」となっている。ところが坂本城というのは信長が築いたものではない。
これは森蘭丸の父の三左が篭城して討死した近江宇佐山の志賀城の北東四キロの戸津ヶ浜に、光秀が自力で建築したものである。
 志賀城を信長から貰って一時居住した事は、<元亀二年記>という史料に出ているそうだが、その翌年の正月には、つまり、
<兼見卿記>の元亀三年正月六日の条に、「明十於坂本、而普請也」と出ている。
<年代記抄節>によると、「前年十二月より起工」とも出ている。そして、<兼見卿記>の元亀三年十二月二十四日に、「坂本城の天主作事工事以外は、あらかた落成し、
その結構壮美なるには眼を愕かす」と出ている。もし信長が建ててやるのなら、戦時目的であるから、きっと実用一点ばりの筈である。しかも悠長に一年余もかけるわけはない。
これは志賀城の古い石畳も利用しただろうが、明智光秀が自腹をきって身銭で建てたものである。こんな判り切った事でさえ、現代になると、すっかり間違えられてしまい、「信長から坂本城を貰った」と言われている。


 まあ時日の隔りが遠いから、これはやむを得ないが、その当時の<校合雑記>が誤記しているのは、あきらかに作為である。
(明智を細川家の下風にあったもの)として世に宣伝したい為の、これは意識的にばらまかれた(ある種の目的)を明確に、露骨に提示した、当時の、今いうところの「怪文書」に他ならないと考えられもする。
 さて、このすでに二年前の時点において、<言継卿記>によると、元亀元年二月三十日(太陰暦)の条に、
「信長、岐阜城より上洛し、明智光秀邸を宿所となして泊り、三月一日に禁裏へ伺候」とある。
姉川合戦の後でも、七月四日に上洛し、七日まで、信長は近臣数百名と共に、当時はホテルはなかったから、ゆっくりと明智邸に滞在している。
五百貫どりや四千九百貫取りの身分で、まさか、何百人も収容できる大邸宅を、いくら当時はギルト制で大工の手間代が安かったにしろ建てられるものではない。
それに、泊めるのに、貸し布団屋は当時なかったろうと想像される。つまり光秀は豪勢だったのである。そして、「信用とは、金である」と今でも言うが、当時とて、それは同じだったのだろう。
  
    光秀は秀吉より出世が早かった

光秀が初めから金持ちで、京では大邸宅を構え、私兵も相当に抱えていて、信用ができたからこそ、信長は彼と交際し、やがて自分の幕下へ引き込んだのではあるまいか。
それが立証できるのは、<原本信長記>によれば、秀吉が、五万貫の江州長浜城主に登用されるより、既に一年有半前に、
「(滋賀郡の内にて扶持を与う地侍の進藤らは、光秀の寄騎たるべきこと)と、佐久間信盛への信長さまの朱印状の中に記載これあり」と、それらの資料にはある。
つまり滋賀郡一帯は既に光秀領となっている。明智光秀は、秀吉よりも先に、もう一国一城の主だったのである。
つまり講談本や俗説では、貧窮しきっていたか。又は、せいぜい五百貫ぐらいの乗馬将校の最低、旧陸軍なら、せいぜい中尉どまりであったといわれ、それゆえ出世したいばかりに努力をしたはよいが、
ついに慾を出しすぎ信長殺しをしたのだと、その謀叛説を説明する。
 しかし事実は、全く違うようである。

 彼は信長に逢う前から、極めて裕福だったからこそ、永禄十三年つまり元亀元年正月二十三日に、織田信長と十五代将軍の足利義昭の間に取換された文書が現存して、この内容は、きわめて重要なもので、
「一、諸国へ将軍家として内書を出す時は、信長に仰せ聞かされ相談してくれたら、信長も、それに添状をつけて出すから、むやみに勝手に内書の乱発はしないでほしい。
一、公儀である足利義昭に対し忠義を尽くした輩に、褒美や恩賞を与えるのに、しかるべき土地がなければ、言ってさえ下さったら信長の領分から、差上げも致しまする。
一、天下の政治を信長に一任されたからには、誰彼の区別はせず、また一々将軍家の意向を聞かなくとも、信長が、これを成敗する。つまり思い通りにやらせて頂たいものである。
一、天下を安穏にするためには、禁中の諸公卿の動きに対して油断され、これに乗じられたり煽動されるような事があってはならないと、御留意下されたい」
というものであるが、その書面に光秀の地位は明白にされている。

この五ヶ条の通達にあたって、足利義昭の墨印が頭書にあって、末文に「天下布武」の信長の朱印があるが、双方の代理人として、
織田信長方は、日乗となっていて、足利義昭側代理人は光秀となっている。
しかも実物は、<成簣堂文庫>にあるが、信長の朱印の上部において、「明智十兵衛光秀尉、殿」と、敬語がついている。
つまり形式的であったとしても、この時点においては、光秀は信長から公文書においては、敬称をつけて扱われる上位、または対等の地位にあったことの例証である。
なにしろ(地位)とは、力であり、そして金である。
しかし美濃の明智城を出てから流浪した光秀が、一時にせよ朝倉義景に仕えていた事は、日本歴史学会会長だった<故高柳光寿著・明智光秀>の十四頁にも、
「光秀が朝倉に仕えたと思える良質の史料は、五十嵐氏所蔵の『古案』のいう古文書集の中にある」と出ている。だが名の通った家来としては、他の史料には、現れていないという。
そんな、名もなく貧しき一武者にすぎなかった明智光秀が、なぜ一躍、そんな大金持になってしまったのか、この不可思議さえ解明できない侭に、他の史家は見ぬふりをして逃げてしまい、
高柳氏のみが摘出して引例しているが、その謎は解けていない。
しかし、これが後の「信長殺し」の決め手にもされる理由で問題である。一つの鍵なのである。
 さて牢人した途端に何百と召し抱えた家来の中の溝尾庄兵衛や三宅藤兵衛は、小栗栖村で光秀が倒れるまで、陰日向なくつき従っている。
彼らは世にも得がたき人材で、これは決して虚妄の幻の軍隊などではなかったという証拠でもある。
現在確定史料として信頼されている「細川家記」だが、これが如何に欺瞞に満ちているかは、
「謎の細川忠興」としてUPしてあるので、本能寺の変にも関連しているので参照されたい。

 

考察 明智光秀 「若かりし頃の明智光秀」

明智光秀は、東美濃可児郡明智城、享禄戌年生まれ。明智光継の三女で小見の方が母親である。しかし父親は不明。
母親の小見御前というのは、上の姉二人は十五歳でそれぞれ縁づいたが、二十一になるまで嫁に行っていなかった。時の美濃国主、土岐頼芸が無理矢理四十男の斉藤道三へ嫁がせた。
(当時の平均結婚年齢が十五~十六歳なのに、六年も嫁入りが遅れたのは何故なのか、謎である)そして後に道三と小見の方の間に奇蝶が生まれ、この奇蝶が織田信長の妻となる。
従って奇蝶とは異父兄妹であり、信長とは義理の兄妹にも当たる。

天文二十年三月、道三に嫁いだ小見の方が亡くなると同年四月、二十三歳になった光秀は明智城を出て諸国を流浪する。
越前の朝倉義景の家臣の端くれに納まっていたとき、足利義昭が朝倉を頼って越前にやってきた。 (三年前の永禄八年五月、三好松永勢に将軍足利義輝が襲われた時、
弟に当たる義昭は当時奈良一乗院の門跡で「覚慶」を名乗っていたが、近江甲賀へ逃げ、やがて矢島の六角承視を頼り、翌年は若狭の武田義統へ行ったが協力が得られずやむなく朝倉を頼って来たのである。
世が世なら将軍になる筈が、この時は諸国流浪の身であった)この足利義昭に申次衆として仕えていた長岡藤孝(後の細川幽斎)がなかなかの策士で、
光秀が今は無名だが、信長の正室奇蝶と異父兄妹と判るや、「利用価値有り」と判断して義昭にこの事を進言した。というのはこれには訳がある。
当時貴人に会うには”色代”といってそれ相当の銭が必要だった。室町御所での表向きの色代は銭三十疋が相場だった。
当時雪深い越前当たりをどさ廻りの義昭にとっては、銭十疋でも御の字あっただろう。それを実直にも馬鹿正直な光秀は、相当に無理をしてかっきり三十疋持って行ったから、金蔓だと思われたのだろう。
「身分や地位などどうでも良い、金蔓と思うたら逃がすでないぞ。なんせ、この義昭が晴れて将軍になれるもいなやも、一に懸かって金次第じゃ。
今の明智とか申す奴にも其方の口より、もし精出して忠義を尽くすにおいては、将来直臣に取り立て目を掛けてやらぬでもない、等とおいしいことを申し伝えておけよ」と長岡に言いつけた。
この時代には忠義などと言う儒教の訓育は輸入されていない。だから(金を貢いで持ち込んできたら)といった意味でもあろう。
何しろ義昭にしてみれば、ここ朝倉は思いの外にケチで軍資金を出さぬから、越後の上杉や地方の主立った武将に対して片っ端から、
(兵をだしてくれるか金をだしてくれるか)側衆を派遣して催促していた矢先なのである。

例え無名の者でも、三十疋の現なまをポンと持ってくるような者は何としてでも自家薬籠中のものとしておきたいところだった。
処が義昭は美濃尾張の兵力を使うために、信長と義兄弟の光秀を何とか信長との間の橋渡し役に使おうと画策し、色々汚い手を使って朝倉家からの追い出し策を弄する。
この時、流浪の旅に疲れ果てた光秀の妻、しら、が奇蝶を頼った。というのは、信長が美濃を占領したので奇蝶も岐阜城の二の丸へ来ていた。
そして、新しく美濃で領地を貰った尾張衆と、それまでの美濃者との争いが多く、公事の裁きを奇蝶はしていたので、夥しいお目見得料が集まっていたのである。
しらから今までの経緯をすっかり打ち明けられた奇蝶は、
「長岡藤孝が十兵衛殿に目を付け、義昭公の直臣にと言うは、おそらく斉藤龍興が失脚した今日、この織田家を利用せんとの企みとも覚ゆる。
が、こないな内幕を教えたとて、あの一本気で石頭の十兵衛どのには、とても判っては貰えまいのう」と思案にくれていたが、
「これまでは十兵衛どのは意地になって、わが夫の織田信長には近づくまいと避けていられたが、義昭どのの御家来ともなれば、向こうさまはその為にお傭いになるのゆえ、
もう否応なしにわが夫と逢わねばならぬだろう。

その時十兵衛どのにみすぼらしくされていては、うちの信長どのは、直ぐ他人を小馬鹿になさるお人ゆえ始末がつかぬ。幸いこの岐阜城二の丸へ戻ってからは銀も銭もどしどし入ってくる。
これを悉皆そちらへ送り届けるによって、先ずは京で大きな屋敷を求めて引き移り、名のある牢人にて素性の良き者など集めなされ」と、助言した。
そこで、しらは奇蝶の腹心の者に案内され京へ行くと、二条小路に一町四方もの大邸宅を見つける。次の日から三々五々武者達が、
「この度、手前お取立を頂きました何某でござる」次々と挨拶に来た。館の裏手には長屋が並んでいて、そこが武者長屋になっていて、新規に召し抱えられた者たちは皆そこへ納まってから、
「明智の殿は何時御上洛にて」と、しらの許へ毎朝ご機嫌伺いに来た。そこでしらが使いを立てて夫光秀に来て貰った。

到着した光秀は呆気にとられて驚いたが、それより面食らったのは出迎えた新しい家臣の面々である。(これ程の大きな館をもうけ、どんどん自分たちを採用してくれるからには、
さぞかし立派な武将で、きっと馬に乗り雄姿堂々とあまたの共武者を従えてくるもの)とばかり思っていたところ、尻端折りして古槍を担いだのが共も連れずに、
「おう」と館へ入ってきたのだから、すっかり皆が予期に反し、ビックリ仰天してしまった。また光秀の方も居並ぶ連中が、新しい家来だとしらに言われても「えッまことか」と、
自分が主人なのに「みな、よろしゅう頼むぞ」と此方から声をかけ頭を下げてしまった。(奇蝶の方から光秀に接触したと書かれた物もある)
だが、人間の心理というのは妙なもので、頭ごなしに横柄に扱われるものとばかり覚悟していた新参の連中は、こうなると光秀の人柄に傾倒してしまって、
口々に「実るほど頭の下がる稲穂かな、と言うけれど、この殿はよくよく出来た御方らしい。この殿のために吾らは粉骨砕身の奉公をせずばなるまい」とみな感動して光秀を慕った。

ここで「細川家記」永禄十一年七月十日の条を引用すると、「明智光秀の家来溝尾庄兵衛と三宅籐兵衛が二十余人の共武者をもって阿波口にて待ち、
七月十六日に一乗谷を出た足利義昭の一行の供をなして穴間の谷から若子橋へ出ると、京より明智光秀が仏が原の所で五百余の家来を率いてこれを迎え、
それより織田信長の家臣不破河内守、村井民部、島田所之助らの待つ近江犬上郡多摩へおもむき、二十五日には美濃の立政寺へ道中無事に義昭の一行は光秀主従に護衛されて到着した」とある。
これまでの通説のように、光秀は朝倉家へ奉公中も五百貫どり、信長に仕えた後も初任給五百貫というのは、どうも誤りのようである。一貫一石と換算しても五百余の家臣といえば、
これはたいしたもので、後の三万五千石の浅野内匠頭等は士分の他に足軽小者を入れても三百とは家来がいなかった。少なくとも光秀は最初から六、七万石の格式である。
この当時の公卿の日記である「言継卿記」や「兼見卿記」「中山家記」「宣教卿記」などによると、「元亀元年二月三十日、信長の一行は岐阜より上洛し、
光秀邸に泊まり翌三月一日光秀に案内されて禁裏へ伺候」「同年七月四日、姉川合戦に勝利をえて、織田信長はその旗本共と二条の光秀屋敷に逗留し、七日に岐阜へ帰る」などとある。

勿論この時代は、光秀はまだ足利義昭の方の直臣であって、信長の家来に等なっていない。
そしてこの当時の階級制度からゆくと、武門の棟梁は室町御所を二条城に移した足利義昭だから、その直臣の光秀は格からいくと信長と同列となる。
だから信長から足利義昭へ出した諫言の書簡でも、はっきり信長はそれに、「明智十兵衛尉殿」と殿という敬称を書いている。
だから上洛の時信長が光秀の館を宿舎に当てたというのは、当時の京都にはホテル等なく、何百という人数を宿泊させる所は何処にも無かったせいだろう。
だから信長は、まさかその豪壮な邸宅が、妻奇蝶のスポンサーによるものとは知らず、(かかる大邸宅を持ち、五百余の家来を持つとは、光秀はなかなかの者である)と、
今も昔も信用というのはやはり金だから、すっかり買いかぶってしまい、これは人材であると見込まれたらしい。
そこで、「足利義昭より、この信長の客分になりなされ」とスカウトされていて、織田家からも知行地を近江の志賀に貰っていた。
だから秀吉が近江長浜で初めて城持ちになった頃は、光秀はとっくに近江坂本に自分で城を築き、すでに一国一城の主にまでなっていた。

小者として奉公し努力を重ねて立身した秀吉には、初から客分として入り込んできた光秀は、煙たい存在であったらしい。
また光秀は、恰好をよくつけるために、奇蝶から夥しい銀や銭を貰っていた義理から、天正十年六月二日の本能寺の変が起きると、光秀に付いていた軍監の斉藤内蔵介の仕業で自分は無関係だったにもかかわらず、
その黒幕が奇蝶だと聞かされると、仕方なく名目人になったりして、まんまと長岡藤孝のもうけた罠に落ちてしまい、現在では本能寺の犯人にされてしまっている。
何しろ秀吉にすれば、かねて面白くない競争相手だったから、これを山崎円明寺川で破るや、さも光秀が信長殺しで、自分は仇討ちをしたように宣伝した。また徳川三百年の間は、
この信長殺しというのは、これは徳川家のタブーであったから、御三家水戸の御用学者頼山陽は、「神君家康公のおんため」を慮って、「敵は本能寺にあり」といった光秀謀反説を強調するものを作り、
これを流行させてしまった。
が、徳川政権はその後つぶれてしまったから、もう家康に気兼ねする事もないのだが、今でも江戸時代と同様に、光秀が信長殺しと誤っているような不勉強な読み物も多い。
さて「人生は禍福をあざなえる縄のごとし」というが、光秀の妻のしらが、
岐阜城へ奇蝶を訪れなければ、よし貧乏であったにしろ流れ者の暮らしであったにしろ、この夫婦はもっと穏やかに人生を送り、天寿を全うできたかもしれない。
また光秀が四十過ぎるまで、縁続きの奇蝶を厭がって近づかず、その夫の信長の許へも行かなかった理由は、(接近すると将来ろくな目に遭わない)といった予感が有ったのか、
又奇蝶の烈しい性格をよく知っていて(剣呑である)と用心して、側へ行かぬ算段をしていたのかこれは明らかではない。