今年のアンマ来日プログラムの日程が発表されましたね。
5月29日(火)、30日(水)、31日(木)
会場は、また東京流通センターのようです。
私は開催初日に、たまたまマニラ行きフライトの前泊で成田に滞在予定ですので
ダルシャンに与りたいと思っています。
人生において、聖者にまみえる機会というのは貴重です。
しかも日本にいながら、むぎゅっと抱擁までしていただけるのですから。
私のカナダのヨガ友はアンマの帰依者がとても多くて
アンマの北米ツアーになると皆一斉にアンマについて移動します(ボランティアスタッフとして)。
以前読んだアンマの帰依者の体験談を思い出したので
もう一度読み返してみました。
それは、このような話です(英語の元記事からざっと翻訳)。
ジョンは、アンマとその慈善活動に熱心に奉仕する、非常に献身的な帰依者です。
「ジョン、キミはいろいろなツアーでマザー(アンマ)と共に旅をしてきただろう。
彼女との個人的な体験を話してくれないか」と私は彼に頼みました。
「それは難しいなあ、たくさんあるから」というのが彼の答えでした。
「もちろんそうだろうけど、いくつか教えてくれよ」
そのときジョンが話してくれた最初の話が以下のものです。
「1996年のアメリカツアーで、私は少数のグループのなかにいました。
マザーはそばを通り過ぎながら私達と気さくにお話になって、
私のそばを通り過ぎるときに、ヨーロッパツアーのためにヨーロッパへ行くつもりかと私にお尋ねになりました。
私は、パリヘ飛んでそこでのプログラムに参加するつもりですとお答えしました。
ところが驚いたことに、パリではなく真っ直ぐロンドンに飛ぶようにと、彼女はすぐさま私にお伝えになったのです。
彼女はそう言うと向きをかえ、ダルシャン・ホールの列を歩きながら、続けて他の人々の予定や安寧についてご質問を続けられました。
これは、私にとってはちょっとした落胆以上のものでした。
私はすでにパリへのチケットを購入済みで、そのチケットの条件にとても満足していたのですから。
もしチケットを変えなければならないとすると、大変高額なキャンセル料を払わねばならず、間際に購入する新しいチケットのために、より高い手数料を払わされることになります。
しかもロンドンには滞在させてもらえる友達もおらず、パリまで飛行機か列車、フェリーに乗る必要があって、移動時間が延びる、さらに疲れる旅になる。。。等々です。
そのアドバイスはとても非論理的なように思えましたし、これといった理由もないのに高くつくものだったので、私はグルの仰ることを正確に聞き取らなかったのだと思いたかった。
この提案を放置できればと思っていましたが、2日後にまたアンマが私のそばを通りかかったとき、チケットをパリからロンドンに変えたかと、すかさずお聞きになったのです。
私はおどおどしながら、まだですと答えましたが、それは私の本当の思いをはぐらかす丁寧な言い方でした。
マザーは変えるようにとはっきりお伝えになり、重要なことでなければ提案しないということを私に理解させると、何の説明もなく先に進まれました。
翌日私はロンドン行きのチケットに変更し、パリ行きのチケットを返却するための高いペナルティー料と、新たなロンドン行きチケットのべらぼうに高い金額にうんざりしました。
これはあらゆるレベルにおいて全くの不都合でしたが、マザーから私への忍耐強いアドバイスを無視するよりマシだということはわかっていました。
数週間後、アメリカのツアーが終わり、私はケネディー空港で、まったく行きたくもない遠回りの都市に向かう飛行機を待っていました。
偶然にも、私のロンドン行きのフライトの乗客は、私が乗りたかったパリ行きのフライトのゲート付近にあふれており、私は彼らに混じって座っていました。
そのパリ行きのフライトに乗り込む乗客の目をのぞきこむのは奇妙な感じでした。
それに、何人かは私の方を見て、あたかも「おまえは乗らないのか」と言っているかのようでした。
まるで何らかのシナジーがあるかのように、私はこの乗客グループとの間により心地よさを感じていたのを覚えています。
それに、何時間後かには親友とパリの通りのカフェで近況報告しながら座っていられるのにと思うと、いまだにどうしてもその飛行機に乗りたいと思っていたのです。
しかしその代わりに、何の理由もなくとてつもなく延長されたこの旅を続けねばなりませんでした。
パリ行きのフライトに乗客が搭乗した約30分後、ロンドン行きフライト搭乗の呼び出しがかかりました。
ロンドンのガトウィック空港の荷物コンベヤーに向かって歩いているとき、たまたま頭上のテレビが、あのパリ行きのフライトが墜落し、乗客全員が死亡したというニュースを流していました。
それは私が初めに予約していた、1ヶ月前にアンマが変更するようにと仰った、あのフライトだったのです。
もちろん、私は驚きと感謝の念で圧倒されました。
アンマにお会いして、感謝の気持ちを示すのが待ちきれませんでした。
一週間ほど後、私は再びツアーに加わりました。
私はマザーの目を見つめましたが、マザーはその事件について言及すらなさいませんでした。
あれは彼女が私を守るためにしなければならなかっただけのことで、マザーは私がこの件に関して何か珍しいことだと考えるのを望んでおらないことは明らかでした。
命を救う話やアドバイスをいくつも耳にするほど、彼女は心からボランティア全員の面倒を見ておられるので、私が特別な扱いを受けていたわけではありません。
占星術的には明らかに私が死ぬ時期だったのですが、彼女の守護により私の宿命的な死を、黙って回避してくださったのです。
アンマの助言によってジョンが回避した飛行機事故は、トランスワールド航空800便墜落事故です。
以下、ウィキより
1996年7月17日午後8時19分(アメリカ東部時間)、アメリカのニューヨーク、ジョン・F・ケネディ国際空港からフランスのパリ、シャルル・ド・ゴール国際空港を経由して、イタリアのローマ、フィウミチーノ空港行きのトランスワールド航空800便が、離陸して12分後にニューヨーク州ロングアイランドのイースト・ハンプトン沖で15000フィートを上昇中に空中爆発し大西洋に墜落した。近くを飛行中のイーストウインド航空(Eastwind Airlines)507便[3]の目前で起こったため、すぐに管制に連絡が入った。
爆発の直後、機体底部に巨大な穴が空き、そこから亀裂が機体を一周して、2階を含む機体前方(セクション41とセクション42)が切り離されて乗客を乗せたまま落下、機体後部は操縦席を失い10数秒急上昇し続け、エンジンが停止してから降下し始めた。その後落下中に左翼が分離、海に墜落した。この事故で乗員18名、乗客212名、計230名全員が死亡した。