天智天皇は何故、山陰に山城を作らなかった? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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7世紀末の白村江の戦いの敗戦後、北九州から瀬戸内海に山城を築造したとか!しかし、夷狄防衛の為なら山陰側にも山城は必要になる!どこか釈然としない!山城の分布と2世紀ころの倭国大乱の分布が一致する。

さらに北九州の防衛に東国から防人を連れてきたとか!何故、地元民を使わない!本土側の防衛には地元民に土地(神田)を与え、今日(21世紀)まで防衛に当たらせた!この辺りには山城は無い!

九州から瀬戸内海の民の力を削ぐ為に、強制労働的に彼らを働かせる為に山城を築いた様に思われる!また、東国の防人は地元民の監視の役割も果たしたのであろう!


参考

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古代山城の分布(小田富士雄)


九州系・瀬戸内系山城の築城は、百済滅亡直後の、唐・新羅連合軍のわが国への侵攻を予想しての防備で、敏達天皇十二年に築城が開始され斉明天皇七年には終了していたと考えられる。
九州系や瀬戸内系山城などは斉明天皇七年(六六一)の時点ですでに築城されていた城の再利用の補修・改修のため官撰史書に記載する必要はなかったのである。

水城系の山城は、天智期に築城が始まったものである。しかし、その構造的特質の共通性と年代観から考えて、その前段階に相当する斉明朝の瀬戸内系山城に継起して築城されたものであったと考えられ、両者の築城契機が百済の滅亡にあり、また、百済の山城に石垣等その技術的系譜が求められるので、いってみれば両者ともに「百済式山城」と呼べる。

九州系と瀬戸内系山城が水城系山城と同様に、畿内中央政権が唐・新羅から攻めてくるのを防御するためのものだとすると、所在地や配置図から見てそぐわない点がある。

大陸からストレートに山陰や若狭湾ルートから大和を急襲されることも考えられたわけで、そうであるならば山陰や丹後半島あたりに山城を一つ二つ造ってもよいはずである。しかしながら、唐・新羅は西方、瀬戸内海方面から来るといわんばかりに、これらの場所に山城がまったくないことは疑問である。今後、この地域を調査する予定である(参考)。




水城(福岡県、みずき)
福岡県筑紫(ちくし)郡につくられた大宰府(だざいふ)防衛のための古代の土塁。百済(くだら)救援の役(白村江(はくそんこう)の戦い)敗戦後の664年(天智天皇3)、博多から大宰府に入るもっとも狭隘(きょうあい)な平地に、全長約1キロメートル、基底部幅40メートル、高さ13メートルの規模で築かれた。その後ふたたび新羅(しらぎ)との緊張が高まった765年(天平神護1)に、采女浄庭(うねめのきよにわ)を修理水城専知官に任じ、大宰府管内の防衛力強化のため修理をしている。水城は『日本書紀』に「水を貯(たくは)へしむ」とあることから、その機能について諸説あったが、1975年(昭和50)からの発掘調査により、水城の北側(博多(はかた)側)に接して、最深部4メートルの水濠(すいごう)が発見され、水城の外側に水を貯えたとする外堀説に帰結した。また水城・外堀の底に奈良時代前期の瓦(かわら)でつくった暗渠(あんきょ)排水路の存在も確認されていることから、天平神護(てんぴょうじんご)年間(765~767)に補修されたことが裏づけられた。[酒寄雅志]『藤井功・亀井明徳著『西都大宰府』(1977・日本放送出版協会)』

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この水城の外堀は御笠川の水位より高く、満水に蓄えることが出来なかったとか(参考)。


防人(さきもり)
古代,九州の辺要の地の守備にあてられた兵士。防人の初見は大化2 (646) 年。令制では防人司に属した。防人は諸国から徴発され,3年交代で九州の防備にあてられた。手続は,国司が名簿を作成し,兵士を都へ送ると,都で兵部省の役人が検閲したのち,九州へ下し,防人司の役人が壱岐,対馬などに配置した(コトバンクより)。長門国にも防人軍団である豊浦団があった。




地方豪族が前方後円墳を築造した理由に、大和政権におだてられたと言うか、地方豪族の経済力を削ぐ手段の一つと考えられる。下関市北部から山陰側は前方後円墳は無い(参考)!