観音崎町
観音崎という地名は町内にある永福寺の観音から生れた。八月一七日の幽霊祭で知られている永福寺は百済太子が日本を訪れた時に建てられた。太子の忽念持仏の観音像を安置した観音堂は国宝にも指定されたが、今度の戦争で焼失した。この写真では立派な松がある。
椿谷の全景
硯海の風光をパノラマ的に見下そうと思えば椿谷を第一とす、右手山上に側候所あり、下りて天満宮、専念寺あり。専念寺は推古天皇二五年百済の琳聖太子の開くところ、当地仏教教化の始めにして長楽山福生寺と称す。弘長年中時宗に属してより一心専念寺と改む。〈「関門錦苑」西村百合蔵より〉
西南部町素倉
当時の南部町は東南部、西南部にわかれていた。現在は一つになっている。
江戸時代、いわゆる北廻航路が発展するとここら当りがもっとも中心となった。安政時代ごろからはこの町の海岸には素倉と呼ばれる問屋の倉庫が建ち並び、下関で陸上げされる船荷をいったんここに貯蔵した。
(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)