楊貴妃伝説と海北道中 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

山口県には、楊貴妃安禄山の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在し、長門市油谷町の二尊院というお寺には楊貴妃の墓と伝わる五輪塔(山口県指定有形文化財)がある。
 
{18172190-EBF2-483A-A18D-65FA6B4C72AB:01}
二尊院と楊貴妃像

{A3263D20-C57A-4437-A74D-5AF0CDCC8B20:01}
楊貴妃の墓

{2EC404EE-FE15-4707-A0C0-70DE91880B1D:01}
向津具半島の中央


参考



時は、天平勝宝八年(七五六)七月、唐の玄宗皇帝の愛妃楊貴妃が小舟に乗って向津具(むかつく)半島の唐渡口(とうどぐち)という入り江に漂着しました。

話によれば「安禄山の乱により処刑されるところを
玄宗皇帝があまりに嘆き悲しむので、近衛隊長の陳元礼が心を打たれ、仏堂で首を絞め殺したと見せかけ実は、部下に命じて空艫舟(うつろぶね)を作り、これに一緒に侍女を乗せ数日の食料を入れて逃がされた。」との事でした。しかし、まもなく亡くなったので里人たちが寄り合い、当寺院の境内に埋葬したそうです。

一方、
玄宗皇帝楊貴妃への恋慕が断ち切れないでいると、楊貴妃の霊魂が長安まで往来し幾夜も続けて夢に現れ「日本に漂着して死去した。」と告げるので、愛情が溢れ出し追善供養の為として唐朝でも秘蔵の霊仏、阿弥陀・釈迦の二尊仏と十三重の大宝塔を届けるよう命じます。

白馬将軍陳安が日本に渡海したものの、いずれの地に漂着したかも分からないので京都のお寺にしばらく
二尊仏を預けることにしました。すると、日本に二つと無い霊仏なので大衆がひと目拝もうと集まり、霊験あらたかなことから参る人も増えるうちに、楊貴妃の墓が当寺院にある事が明らかになり、朝廷より二尊仏を当寺院に移すよう勅命が出るのですが、京のお寺も霊仏を長門国に送るのがあまりに心残りなので朝廷に嘆願し、名仏師に命じて同じ二尊仏を彫刻し阿弥陀・釈迦の一躰ずつを分け合い安置することになりました。

このときお墓も再建され中央にある大きな五輪塔が
楊貴妃、その両脇にあるのが侍女のお墓と伝えられています。

阿弥陀如来・釈迦如来を通称二尊仏と呼び本尊としたので、朝廷より二尊院という院号を賜り「皇城鎮護・天下泰平・国家安全・五穀豊穣の祈願怠慢なく修行すべし。」と勅命を受けたと伝えられ、いつともなく二尊院にお参りすると安産・子宝・縁結のご利益があり美人になると信仰を集めています。


{2EA303BA-32A5-49AA-8BC1-1DBBC0AD95BA:01}

{40FCCEAA-0CA2-4556-8E20-E9EAC99D456D:01}


{A20E2E85-BB80-446C-AF45-F04C091071C2:01}

近くの土井ヶ浜遺跡には弥生人が渡来して来ていた、彼らは中国の山東省の遺跡の人骨とよく似ている!海流から見ると、山東省から揚子江河口辺りに航海し、海流に乗るとひとっ飛びに土井ヶ浜に到着する。概して、楊貴妃の亡命、遣唐使の帰路も山口県の響灘沿岸(北浦海岸)に到着しておかしく無い!












以下、参考URLを引用する:

向津具半島と二尊院の文化財
龍伏山二尊院  住職 田立智暁

向津具半島の歴史
向津具半島は長門市に属し、山口県はもとより本州の最西北端に位置し、北長門国定公園に含まれ、北に日本海、南に油谷湾を望み、半島の先端には国指定天然記念物の「俵島」を有し、風光明媚で自然豊かな半島である。その位置関係から、大陸に最も近い地域の一つとして古来より多くの人々が日本の玄関口として行き交ったとされ、古墳や国指定重要文化財の「有柄細形銅剣」なども発見されており、その歴史は古い。

平安時代の『和名類聚抄』によれば北浦地区に九つの郷が置かれ、その一つに「向国(ムカツクニ)」と記されている。語源としては海を隔てた向こうの国へ、あるいは向こうの国から本邦へ往来する場所として、「向国」と名付けられたと伝わる。この向国郷は、平安時代の終わりになると、「向津奥庄」という荘園に形を変え院政を引いた後白河院の時代に、京都東山の新日吉社に下賜され荘園制度が終焉を迎えるまで続いたとされている。おもな貢納品は、今でも採られている、わかめ、かじめ、のし鮑、乾魚などであった。新日吉社が創建された時代、同社の神宮寺として社務を掌っていたのが、後白河院の皇居でもあった妙法院である。この向津奥の地名は後に、向津、向津具と転じていくことになる。

二尊院と楊貴妃伝説
正式名称を龍伏山天請寺二尊院と号し、長門の古刹である。向津具半島の中央付近久津湊の小高い丘に境内を西向きに構えている。創建は寺伝によると、大同二年(八〇七)天台宗の開祖、伝教大師・最澄の開基とされ、向津具半島内に八つの僧坊と十五の末寺を従え、別名向津具城と呼ばれる大寺院であった。江戸時代の『寺社由来』によると十五の末寺とは、白木村 西福寺、久津村 高福寺、久津村 清水寺、安佐村 吉祥寺、本郷村 法寿庵、本郷村 来光寺、上野村 蔵福坊、上野村 万福寺、上野村 多門坊、松崎村 福寿庵、本郷村 正福寺、上野村 松尾寺、久原村 積念寺、御崎村 法興寺、残り一ヶ寺は不明である。天台宗として興隆するも栄枯盛衰を繰り返し、江戸時代初頭には毛利綱廣公の庇護を受け堂宇の寄進を賜り、真言宗に宗旨を替え隆盛するが、幾多の兵火戦乱、天災に遭い次第にその規模を狭め、末寺のすべてが姿を消し現在の寺観となっている。

この「二尊院」という院号の謂れについては、当地に伝わる楊貴妃伝説と密接にかかわってくるので、江戸時代の僧であり二尊院第五十五世の惠學が周辺の古老から聞き取りをして書き残した文書『楊貴妃伝』と『二尊院由来書』をもとに補足を加えながら掻い摘んで紹介することにする。

楊貴妃は唐朝第六代皇帝玄宗の妃として冊立される。しかし、楊貴妃を寵愛するがあまり玄宗は皇帝としての執政を顧みなくなる。その結果、世にいう安史の乱を引き起こす。近衛隊長陳玄礼は災禍の根源は楊貴妃にあり。すみやかに死を下し給えと主張し、渋る玄宗を宦官の高力士が説得をして泣く泣く応じるのである。これにより楊貴妃は馬嵬で縊死させられ生涯を閉じるのだが、伝説にはこの続きがある。

「陳玄礼が、玄宗があまりに悲しむ姿を見て胸を打たれ、縊死させたと見せかけ、楊貴妃を死から救い部下に命じて空艫舟を作り、これに乗せ数日分の食料を入れて流し逃がしたとある。その後、唐の天宝十五年(七五六)七月、楊貴妃が、空艫舟にて向津具半島の唐渡口という地に漂着。まもなく死去したので里人が相寄り、天請寺境内に埋葬。また伝えに云う。玄宗皇帝は楊貴妃への恋慕の心を切れないでいると、楊貴妃の霊魂が彼の地に往来し、幾夜も楊貴妃が日本に漂着し死去したと夢の中で告げるので、追善のために唐朝秘蔵の霊仏阿弥陀・釈迦の二尊像と十三重の大宝塔を仏事作法のことまで細かく指示し、白馬将軍陳安という者を遣わせ本朝へ渡海させたが、いずれの浦、いずれの浜に漂着したのか不明なので、やむなく都の寺に預けると、本朝無二の霊仏であることから、身分に関係なく尊像を拝もうと人々が群集し、信心の面々の祈願に対して霊験あらたかで、足を運ぶ者も日増しとなるうちに、楊貴妃の行方が、天請寺にあることが明らかとなる。

天朝より二尊像を当寺に移す評議決定があったが、都の寺の住持は、あまりにも霊仏を長門国に送るのが心残りので、あらゆる手段を使い嘆願をして、皇城鎮護のためなどと訴え据え置くよう申し立てた。その結果天朝は、当時本朝仏工の名手といわれた者に命じて、霊木を選び同じ二尊像を彫刻し、阿弥陀と釈迦新旧一体ずつを都の寺と当寺で分かち、新たに二尊院と申す院号とともに勅賜がなされ、朝暮において皇城鎮護・天下泰平・国家安全・五穀豊穣の祈願怠慢なく修行すべしと勅命を蒙った」とあり、二尊院の由来となるのである。

境内には、楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔が三基建造されており県の有形文化財に指定されている。

{C866701D-2EE0-4459-99D5-5FB45FA39B6D:01}
二尊院五輪塔(伝 楊貴妃の墓)

下から地・水・火・風・空を表し、この世界を形成する五つの物質の意味を持ち、平安時代に伝来する密教的要素を図形によって表現するものである。ともに花崗岩製で鎌倉時代後期の建造と推定されているが、機械のない時代に山から石を切り出し、丸や三角・四角を鑿だけで成形していくのだからその技術力には驚かされる。この三基の五輪塔は、二尊院に二尊像が安置された後に元々あった粗末な墓から建て替えられたとされ、中央が楊貴妃、両脇に建つのが侍女の墓と伝承されている。周囲には五輪塔をはじめ宝篋印塔や瑜祇塔の一部が無造作に置かれているが、これらは向津具半島内から田畑を開墾するときに出土したものの一部で、粗末にできないので大きな五輪塔がある二尊院に持っていって一緒に供養してもらおうと持ち込まれたものである。

また楊貴妃伝説の中に登場してくる、十三重の大宝塔は江戸時代初頭まで、当時無住であった二尊院境内にあったのだが、毛利家家臣の榎本伊豆守元吉が気に入り、萩の邸宅まで船で運搬して持ち帰ってしまう。しかしその後、元吉の邸宅では、夜な夜な妖など奇怪なことが起こるので気味悪がって手放し、現在は萩市の長寿寺境内の一角にそびえ立っており県の有形文化財指定を受けている。

国宝重要文化財等保存整備補助事業
通称「二尊仏」と呼ばれている本尊の「国指定重要文化財 木造阿弥陀如来立像・木造釈迦如来立像」を安置する収蔵庫を、平成二十五年度に国宝重要文化財等保存整備補助事業として、国・県・市の支援を受けて改修を行った。昭和五十七年に完成した鉄筋コンクリートの建物だが、油谷湾をほど近くに臨む立地のため、鉄扉の塩害による腐食が著しく開閉どころか倒壊の恐れもあり、三十年の歳月も経っていたので適時であったと思う。

総事業費は五六三万二七一四円、期間は設計業務と工事をあわせて九月から翌年二月末までの半年間で、事業内容は鉄扉の改修のほかに、主な項目を上げると建物内部木壁の修繕、建物外部の塗装・修繕、防犯設備工事、そして「二尊仏」の運搬である。

文化庁の調査官に事業前と事業終盤の二回ほど東京からお越しいただいたが、工法等に対する指導は厳しく、例えば、内部木壁では密閉度を向上させるため全面杉板で覆われている壁の隙間を詰めるのだが、シーリングなど一切の石油化学系資材の使用禁止。外部塗装工事では、塗装のにおいが限りなく消えるまで建物への仏像搬入禁止。いずれも、塗料などの気化した石油系ガスによる仏像へのダメージを回避するためである。通常の家屋造りでは無いであろう要求に職人も四苦八苦していたようだ。

また工事の間、国指定重要文化財の「二尊仏」は、防犯と保全を考慮して山口県立美術館での仮安置となり、美術品を専門に取り扱う運送業者により、細心の注意を払い、専用輸送車を駆使して運搬がなされた。テレビではその光景を視たことはあるが、まさか直接「二尊仏」が運ばれるのを目の当たりにするとは思ってもいなかった。一体の仏像を丁寧に梱包し車に積み込むまでに要した時間は二時間半。もう一体も同じように作業を行い長門から山口まで移動して、さらに積荷を降ろして解くのだから、スタッフはもとより立ち会うのみでありながら私もその緊張から疲労困憊であった。

私が知る限り「二尊仏」が門外に出るのは二度目となる。一度目は昭和二十七年の重要文化財指定に伴う調査と修理の時で、それからおよそ六十年ぶりである。また、「二尊仏」は今回初めて山口県立美術館に於いて、出開帳を行い特に研究者や関係機関から大きな反響があった。県立美術館の方々には、いろいろとご配慮をいただき深謝するところである。

さて、この収蔵庫は二尊院第五十八世である私の祖父の時代に建立したものだが、それ以前は本堂で何百年という間、厨子に納められ安置されていたという。その厨子には、金色の菊の紋章が描かれ、戦時中は兵隊さんたちが本堂の前を横切るのに、いちいち立ち止まって敬礼をしては通過していたそうだ。残念ながらその厨子は現存しない。一度見てみたかったと思う。しかし、この海のすぐ傍という立地の上、仏像を保管するのには決して好条件といえないこの寺院の環境で、これほどまでに綺麗な状態でお姿を留めていらっしゃると思うと、作成した仏師をはじめ、護持してきた歴代の住持達に、本当に頭が下がる思いである。まさしく奇跡といっても良いのではないだろうか。

本尊「二尊仏」
優美さを保ってきた「二尊仏」は、きっとその時々を生きる人々の心を魅了してきたのであろう。楊貴妃伝説とは別に「二尊仏」には次のような昔話が残っている。

「むかしむかし、泥棒が一儲けしようと思い、夜暗くなるのを待って二尊院の仏さまを盗みに入りました。見つかってはたいへんと、泥棒は仏さまを背負って大急ぎでスタスタと歩きました。もう、だいぶん歩いて遠くに来たので、見つかることもないだろうと仏さまを置いてひと休みすることにしました。やがて東の空が明るくなりだした頃、よく見れば不思議なことに泥棒はまだ二尊院の境内に居るのです。霊験あらたかな仏さまを盗もうとした泥棒は、罰が当たるのを恐れて元の場所に仏さまを戻して、こそこそと立ち去ったということです。そう泥棒は仏さまを盗み出しましたが、結局は二尊院の周囲をグルグルと回っていただけだったのです。

このように、何かしても物事がちっともはかどらないことをこの辺りでは「二尊院の仏さまをかるうた(背負った)ような」と言うようになりました。」

昨今、仏像の盗難が相次いでいるが、時代は変われど人は変わらずである。立派なお姿をみて、価値があると思ったのであろう。この時は仏さま自身の霊験によって難を逃れたのだが、現在は収蔵庫に守られているので、油断は禁物であるが安心である。今を生きる人々の心もまた魅了するため間近で拝観できるように収蔵庫を少し改装している。できるだけ多くの人とご縁を結んでいただければと願う。

DSC_0936-8.jpg
阿弥陀如来立像(撮影:大正大学 副島研究室)
木造阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)

二尊併立する向かって左側の尊像。いわゆる来迎印を結ぶ直立の像である。金泥などの彩色はわずかに残すのみである。昭和二十七年に京都で解体修理が行われた際に、胎内および台座に墨書銘が見出された。ことに右耳の箇所には「文永五年八月日」(一二六八)、左耳の箇所には「法橋院□」、胎内前面の箇所には「文永三年月日」とあるので、鎌倉中期京都で院派仏師により作られたことが判明する。院派仏師とは、平安後期以後の仏師の一派で定朝の子、覚助の弟子院助を祖師とする。名の字にちなみ「院派」と称する。京都に仏所を構えて主として院や貴族のための造仏に従事し、一二世紀後半の院尊以来鎌倉中期までは、京都で最も力を持った。各派の仏師が参加した蓮華王院(三十三間堂)の再興造仏でも、この派が最多数を占める。室町時代に「七条大宮仏所」「六条万里小路仏所」と呼ばれる系統である。

DSC_0930-1.jpg釈迦如来立像(撮影:大正大学 副島研究室)
木造釈迦如来立像(国指定重要文化財

二尊併立する向かって右側の尊像。清凉寺式釈迦像といわれる特異な形姿で、全身朱色の彩色をほどこされていたとするが、阿弥陀像同様わずかに残すのみである。この尊像も胎内から墨書が見つかっており、造像時の銘とみとめられる。明記は不明文字を含めていずれも梵字であるが年紀、作者名を記す銘はない。上から「バク」釈迦如来の種字、「タラク」宝生如来あるいは虚空蔵菩薩の種字、以下二文字は不明である。この清凉寺様式は永延元年(九八七)奝然が宋より請来して嵯峨の清凉寺に安置した釈迦像の形姿で、中国ではすでに六世紀頃から盛んに模刻像が造られ、特殊な釈迦像信仰を形成しており、尊像の形式はインド・グプタ期の作風を反映し、縄目状の頭髪や流水状の通肩の大衣の衣文など特異な相をそなえ生身の栴檀釈迦瑞像として信仰を集めた。

釈迦如来像、阿弥陀如来像の二尊を発遣・来迎の両如来として安置することは京都府二尊院像、同遣迎院像などの例がある。しかし、このうちの釈迦如来像を清凉寺式釈迦如来像とする例は少なく、本二像以外の例としては、高知県土佐清水市覚夢寺木造釈迦如来・阿弥陀如来像などが知られている。

おわりに
海上交通がまだ盛んだった時代、この向津具半島は航路の要衝として賑わった。あの吉田松陰も江戸末期にこの地を訪れ新たな時代に想いを馳せ、後に油谷湾は大日本帝国海軍の寄港地となっていた時代もあった。その時、不幸にも病で亡くなった軍人の墓が二尊院の境内脇にある無縁墓地にひっそりと佇む。世の中が急激に変化し、流通を始めとする移動手段が海路から陸路に変わったことにより向津具半島は幹線道路から外れた陸の孤島となり、以前のような活気は失われていった。しかしながら近年、鉄道の高速化や航空機の増便により、首都圏からの距離感も随分と縮まり、それまで遠隔地を理由に調査が見送られていた向津具半島の歴史や文化財などにも再び注目が注がれるようになってきた。二尊院で例を挙げるならば、市指定文化財の四天王像は、「二尊仏」調査の折に副産物的に研究者の目に留まり評価が高まっている。

山口県北西部は大陸と向き合い、歴史ある地域ではあるものの調査・研究については十分尽くされているとはいえないであろう。これから更なる進展を期待するのだが、愚案ながら歴史や文化財が地域おこしの一端を担い、各方面からの視線が注がれ引いては、発展の糸口となる光明が差すことを切に祈るばかりである。

参考文献
油谷町史編纂委員会『油谷町史』山口県油谷町、平成二年八月
村田菊雄『二尊院由来書・楊貴妃伝』油谷町観光協会、平成三年三月
萩原新生『大津郡志』マツノ書店、昭和六十一年四月
水野敬三郎ほか『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇第一〇巻〈解説〉』 中央公論美術出版、平成二十六年二月