川棚と小串と言う地名がセットで下関市と長崎県東彼杵郡に見つかった!歴史的経緯は不明であるが、何かの因縁を感じる!
ちなみに、東彼杵郡の南に大村湾を飛び越して、かつて西彼杵郡があった!北南方向を東西方向に回転させており、謎が深まる!
長崎県東彼杵郡川棚町(右側)と小串郷(左側)
山口県下関市豊浦町大字川棚(下側)と大字小串(上側)
参考
西を北と言い張る例---下関市の川棚・小串のある北浦海岸と北部九州の彼杵、松浦あたりの地名が変!東西の方向感覚が90度回転している。ヤマト政権が統一的・強制的に農民を入植させ、改名させた疑いが伺える(参考)。
彼杵の郡名の由来は諸説あるが、「肥前国風土記」では景行天皇が土蜘蛛と称された現地の豪族から得た玉を賞してこの地を「具足玉国(そないたまのくに)」と命名したとの故事を記し、転訛して彼杵と称するようになったとしている(wikiより)。
大村湾岸の郡などの地名ですね。古くから「そのき」と呼ばれました。大昔、承平年間(931-938、第61代・朱雀天皇、関白?・藤原忠平)に源順(したがう)が編纂した百科事典相当の「和名抄」などには、「曾乃岐」と万葉仮名で書かれて居ました。 全20巻もの大冊です。 日本古典全集の一部として、見る事が出来る。ご覧になられよ。旧・参謀本部(陸地測量部)の地図では「早岐(はいき)」とも書かれました。 佐世保湾と大村湾を繋ぐ「早岐」瀬戸がある。 この漢字を「そうのき」と読んだら、そのまま「そのぎ」だね。「それ、其れ」は「かの、彼の」と同じ事だよね。
私の旧友の先祖が、もと大村藩士で、この彼杵郡に住んで居りました。 日本の古典の学者であった。いずれも、故人なので、今は問い合わせ不可能である。
⚫︎この半島の分岐の様子にあやかって、命名したかもね?大村湾の北の方、佐世保に近い附近に「早岐」があり、真ん中辺り、東彼杵側に「彼杵」の町があり、此処から船に載って、長崎を目指したのだ。長い事、キリシタン大名・大村純忠の領地であったから、地名の古代の名残を探すのは、少々、難儀かもね?「隠れキリシタン」の話題なら、大変多いよ!
⚫︎やっと、「肥前風土記」にたどり着いた。彼杵郡の由来譚がある。 景行天皇が、熊襲征伐の後、重臣である豊後の神代直(かみしろのあたい)を、この地に派遣した。 そこには「速来津姫(はやきつひめ)」が居り、美しい玉の話題が二つ発生した。一つは姫の弟・健津三間(たけつみま)が差し出した。木蓮子玉(いたびだま)と白玉(真珠)である。第二は、川のほとりの住人・「廼簗(のやな)」が差し出した鋼玉で、天皇は「具足(そない)」玉と命名した。これらが、地名「早岐」や「そのぎ」の起源であると!(兎に角、この回答の冒頭に紹介した資料「和名類聚抄」にて、ご確認あれ!)(ヤフー知恵袋より)