サンシャイン!!2期感想「#10 シャイニーを探して」篇 | 肯定ログ

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好きなものは好きと言います。肯定ペンギンなので。備忘録。

 ラブライブ!サンシャイン!!2期感想ブログ「#10 シャイニーを探して」篇になります。

 

 幼いころの想い出と星座盤を手に、幼い願いを呟く鞠莉の姿がとても印象的で初手から瀕死でした。

 

 僕は小原鞠莉の持つ「飄々としている外見とは裏腹に、実は誰よりも強い想いで仲間を愛している」というところに彼女の魅力を感じているので、鞠莉がいかに仲間のことを大事に思っているのか・愛しているのかを描いてくれた#10 、最高。

 

 僕たち大人がオトナになるにつれて忘れていったことを呼び起こすかのようなあたたかい物語。

 

 

  • 「オトナになる」ということ

 #8や#9ではルビィと理亞の姉離れ、つまるところ精神的な「自立」がテーマでした。

 

 自立してオトナになっていくこと。#10においても延長されたテーマでしょう。

 

 そんな「オトナになる」というテーマの中でひとり対象的な存在がこの人。

今年で高校3年になる私が言うのも何ですが、一応学生の間はいただけるという話が一般的と聞いたこともありますし。

 

 お年玉をせびる千歌。

 自ら「高校3年になる私が言うのも何ですが」と前置きしているように、「我ながらコドモっぽいことをしている」という自覚はあるのでしょう。

 

 #10 にて一貫してコドモな千歌ですが、やはり彼女の役目はとんでもなく大きい。

 これは後述します。

 ひとまず、「千歌はコドモ」というポジションです。

 

 

 話を鞠莉に戻します。

 

 鞠莉は統合先の学校でも理事を務めて欲しいと望まれているようです。

of course.

統合先の学校の理事に就任してほしいって。ほら、浦の星から生徒もたくさんいくことになるし。
私がいたほうが、みんなも安心できるだろうからって。

 

 ちょっと驚きました。

 理亞も驚いているように、学生でありながら理事長を兼任するのはこの世界でも特例なようで。

 

 受け入れ先の学校からの要望という、完全に外的な視点から見ても鞠莉は理事長として相応しく、きちんとしているという評価と証左。

 

 小原鞠莉は誰よりも早く「オトナ」の世界に身を置いている。

 

 伊達や酔狂で理事長をやっているのでは?と疑っていた自分が恥ずかしいです。

 

 この話を聞いて千歌は「まだ鞠莉と同じ学校に行ける、Aqoursも続けられる」とはしゃぎますが…

 

理事にはならないよ。
私ね、この学校卒業したらパパが薦めるイタリアの大学に通うの。
だからあと3ヶ月。ここにいられるのも。

 

 いつだってオトナは正しすぎるほど正しすぎて、コドモから見たら理不尽だとさえ思えてしまうことを平然と突きつけるのです。

 

 千歌の言うことは理想であるとともに、ただのワガママです。

 ルビィがダイヤに「置いていかないで」と言ったものと同じ、ただのワガママ。

 

 鞠莉の将来の話を受け、千歌たちはAqoursの将来についてぼんやりと話し合います。

 

 「本当に何も考えていない、考えちゃいけない気がする」と言う千歌。

 この「何も考えない」という無謀さがまさにコドモのそれで、そんな無謀さを放出しまくるAqoursに惹かれて僕はここまで夢中になっているのです。

 

 

 対する3年生組はというと、ちゃんと自分の進路を決めていました。

 

 ここには誰も残らず、簡単には会えないことになりますわね。

 東京の大学に推薦が決まったというダイヤと、海外でダイビングインストラクターの資格を取りたいという果南。

 

 このトンネルから桟橋にかけてのシーン、小宮有紗さんの話し方の声色がとても素敵なんです。

 セリフというよりもっと「会話」なんです。伝われ。

 

 話を戻しますが、果南が内浦を離れるというのがものすごく意外でした。

 「内浦の海に松浦果南アリ!」くらい切っても切れない関係だと思っていたもので。

 

 

 一方で、ダイヤが東京の大学へ行くということについてはSeaSideDiary3年生編からも予想できていたことです。

 

 そして#8でルビィの言った「置いていかないで」 というワガママは、ダイヤの進学を知っていたから出てしまった言葉ではないと考えています。

 SeaSideDiaryにおいて、ルビィはダイヤが胸に隠していた「県外の大学に行きたい」という夢を、ダイヤに言われるまでもなく察しています。

 本能というのか直感というのか、妹だからこそ感じるものがあったのでしょう。

 

 #8の記事内でも書きましたが、「生まれてからずっと先を歩いていた姉とついに肩を並べられたのにまたどこかへ行ってしまう」という漠然とした不安からくるものだったんだなぁと思います。

 

 

 そう簡単に会えなくなってしまうというのに、未来を語る3年生の表情は明るいんですよね。

 お互いの未来を尊重しあって、お互い納得できる形で道を分かつことには寂しさこそあれど一切の不満も後ろめたさも無いという絆を感じられてすごく良いです。

 

 

 

 かつてすることのできなかった「お祈り」をするため、3年生達はAqoursみんなを巻き込んで星を探しに行きます。

 

 ここでまた驚かされたのが、鞠莉が車の運転をしていること。

 

 果南だって船の運転をするし、年齢的にも何もおかしいことはないのですが、完全に不意打ちです。

 それに、なんと言っても車の免許があるというのはやっぱり「オトナ」なんだなぁと思わされました。

 

 一見無茶苦茶に思えた「理事長兼生徒」もしっかり職務を全うしていたし、「まさか」の方向から当然のように車に乗ってくるあたり、「無理が通れば道理が引っ込む」という言葉がありますが「ムリもドーリも関係ない、私はマリー!」とでも言いたげな生き様が格好いいです。

 

 

 

なんかワクワクするね。
うん。考えてみたらこんなふうに何も決めないで9人で遊びにいくなんて初めてかも。

 Aqoursというグループはもともと、「自分だけの輝き」を探して集まった、言ってしまえば烏合の衆です。

 

 自分の目的のために集まった「個」なので、目的以外の時間で全員一緒にいる意味は薄い。

 なによりも#2 であれだけメンバー同士がチグハグだったことが取り上げられていたし。

 

 ところが、3年生はそれを良しとしなかった。

だからみんなで来たかった。
ほんとうは3人だけの予定だったんだけど。
9人がいいって。

 仲間のことをずっと想っていて、この宝物みたいな瞬間は今しかないことを知っていて、離れ離れになってしまうことの辛さを知っている3年生だからこその提案。

 

 「ただの思い出づくりじゃないはず」というのは聖良からも言われていたことですが、その実、思い出づくりでも良いはずなんです。

 

 「私たちが、Aqoursという存在が確かにここにいた」というのはラブライブの舞台だけに限った話ではなくて、Aqoursのみんなそれぞれの心に刻まれてなきゃあダメなんです。

 

 

 

 そしてなにより、「夜中にこっそり仲間たちだけで何処かへ行く」というのがものすごくワクワクしますね。

 

 一種の背徳感みたいなものでしょうか。

 いわゆる青春と淡い背徳感は共通しているところがあると思います。

 18歳を迎えた鞠莉とダイヤも居るので、条例的にもセーフです。多分。

 

 奇しくも同じ#10 にあたる「1期#10 シャイ煮はじめました」でも、夜中にこっそり抜け出して学校に忍び込んでいましたね。

 ちょっとアブナイことをしているというソワソワフワフワした感覚をこのとき感じたものですが、こういうのってオトナになるにつれていつの間にか忘れてしまっているんだなぁ、と。

 

 

 

 星を探して車を走らせていると、千歌が星を見つけます。

 本当に見つけたのか、「もっと一緒にいたいから」という嘘だったのか。

 コドモって平気で嘘をつくものです。

 

 西伊豆スカイラインを走り、土肥駐車場へ到着します。

 

 相変わらず星は見えず、「お祈り」はまたしても不可能。

 

 「やっぱり無理なのかな」と落ち込む鞠莉に、

 

なれるよ!ぜったい一緒になれるって信じてる。

鞠莉ちゃん、それいい?

 

 「後述する」と言った千歌のお出ましです。

 千歌の、コドモのワガママです。

 

 でも、これはラブライブ!サンシャイン!!

 

 いつだってコドモで無謀なワガママが物語を動かし続けてきたんです。

 

 率直に言えば、これは「バカをやっている」状態なんです。

 何も考えずにやりたいことだけやって、声を上げて笑っている。

 

 

 

 そんな楽しいこと、「バカをやった」のって、最後にやったのいつ以来だっけ。

 

 

 

 僕たちオトナにとっても、二度と戻ることがないそういった日々。

 

 コドモたちの全力の「バカをやる」を見せられて、羨ましいと思ったり、ノスタルジーを感じたり。

 

 まさかアニメを見て人生について振り返らされる時が来るなんて思いませんでしたが、このシーンにはそれだけのものが詰まっていました。

 

 こうして時って進んでいくんですね。

 

 

 

  • 果南の「1年前」とは何だったのか

 感想を書いていくだけのものにしようと思ったのですが、どうしても感じた疑問と、それについて考えた自分なりの答えをいくつか一問一答形式で書いていきたいと思います。

 

 まずはじめはこれ。

 

 

もしかして、イタリア行くな、とか言い出すんじゃないよね


1年前だったら言ってたかもだけどね

 「1年前だったら言っていたかも」という果南の言葉が気になります。

 

 1年前?鞠莉が留学したのは2年前では?という疑問です。

 

 果南にとっての「1年前」とは、高校2年生。高校2年時点での鞠莉は既に外国にいて、「外国に行くな」と言っていたかもしれないと言うのはおかしな話です。

 言葉だけじゃ足りない、言葉すら足りないのが松浦果南という女。そういうとこだぞ!

 

 

 ここで異なってくるのがまず、鞠莉の「留学」と「進学」ではないか。

 

 一般的に留学というのは「帰ってくること」が前提なはずなので、果南は留学に行かせることを躊躇わなかった。

 

 

離れ離れになってもさ、私は鞠莉のこと、忘れないから。(#9 未熟DREAMER)

 

 果南のこの言葉は、一種の「願掛け」だったのではないだろうか。

 また会える時が来る。

 来て欲しいからこそ、「忘れない」。

 

 こう言っておけば、鞠莉は帰ってこられるんです。帰ってくる場所を用意してもらえているんです。

 

 帰ってくる場所を用意していたのは果南だけではありません。

 

 #9 未熟DREAMER放送当初から僕はずっと、ダイヤのこの行動を「願掛け」だと思っています。

 書いておいた名前を2年生が見るかどうか、見たとしても選ぶかどうかわからない、賭けと呼ぶには勝率の低すぎる、叶うかどうかすら分からない願いです。

 

 「Aqours」という場所を復活させ、果南と鞠莉が帰ってこられる場所を用意していたダイヤ。

 

 

 対してイタリアの大学に「進学」するということは、パパの薦めということもありホテル経営などの勉強でもして、そのまま世界中を飛び回って生活を続ける、というルートでしょうか。基本的に「帰ってこないこと」が前提なはず。

 

 高校2年当時の果南が仮に「海外の大学に行くな」と言っていたら、鞠莉は大喜びで内浦に帰ってきて生活の地盤を固めていたでしょう。

 

 

 次に、果南の身辺の変化。

 

 高校2年の終わり際から6月くらいにかけて、父親のケガが原因で果南は休学していました。

 メインで仕事をしていた父が動けなくなり、趣味でダイビングをやっていた果南には手に余る仕事も多かったのではないでしょうか。

 ダイビングのライセンスなどではなく、「インストラクターの免許を”ちゃんと”取りたい」と言ったのは、家業を手伝わざるを得なくなり、高校2年の時点で果南も自分の将来について考え始なくてはいけないタイミングだったからなのではないだろうか。

 

 将来について考える、社会におかれた自分のことを考える。つまり、「オトナ」になること。

 

 果南が自分の身をもって社会に触れること、世界を見ることで外の世界を知ることの大切さに気づいたし、自分自身が内浦を離れる決意にも繋がって、自分が離れる以上鞠莉を引き止める理由はひとつもない。

 

 それぞれがオトナになって、それぞれが信じる道へと信じて送り出す。めちゃくちゃ格好いいですよね。

 

 そもそも果南は鞠莉がどこへ行っても活躍することを望んでいたし、「1年前だったら言ってたかも」なんて言葉は単なる言葉遊びだったのかもしれないですけど。

 

 

 

  • 車はなぜ飛んだのか

 

 

 飛んじゃったよ…

 

 

 大変申し訳無いですが、初見ではさすがの僕も笑ってしまいました。だって意味が分からなかったんです。

 

 意味わかんないですよね、だから分かるまで見ました。

 

 車が空を飛ぶ演出は、かつて星を探しに乗ったロープウェイと同じものを意味していると考えました。

 

 よく見ると運転席と助手席に鞠莉と果南、後部座席にダイヤしか乗っていないです。

 

 あの時できなかった「お祈り」を10年越しにやってやろうなんて、アツいんですよ。

 

 ロープウェイは基本的に「乗り手の意志に関係ない」乗り物です。

 限られたポイントから限られたルートを通り限られたポイントへ送り届ける。

 

 幼少期の鞠莉たちはこの「限られた」範囲の中でしか行動できなかったから、「お祈り」ができなかった。

 

 

 対して、車という乗り物は交通ルールや道路などで限られてはいるものの「乗り手の意志に依存する」乗り物です。

 

 進んだり戻ったり曲がったり、陸上であればほぼ無限に移動ができる車という乗り物。

  

 そんな車が空まで飛んでしまうんです。

 

 幼少期のときとは違い、オトナとしてハンドルを握った鞠莉には限りなく無限に近い「自由」が与えられているということではないかなぁと思ってみたり。

 

 

 

  • シャイニーとは何だったのか

 最後になります。

 

 鞠莉の言う「シャイニー」とは一体何なのか、ずっとよく分かってなかったんです。話中1回も言ってないですし。

 

 鞠莉はとても好奇心旺盛でおてんばな子です。

 小さいころ大事に育てられていた反動か、友達と遊べなくなるのが嫌で親に勘当を言い渡すレベルです。

 

 果南とダイヤは鞠莉の全てでした。

 だからこそふたりと過ごした日々を「宝物」と言っていたのでしょう。

私は諦めない
必ず取り戻すの、あの時を!
果南とダイヤと失ったあの時を…
私にとって宝物だったあの時を…

(#8 くやしくないの?)

 

 そんなふたりとずっと一緒にいたいという願いから「お祈り」するために星を探しに行くわけですが、そもそも星にお祈りする意味とは。

 

 星に願う、という言葉で思い浮かぶものといえば、「星に願いを」が有名でしょう。

 

 ピノキオのやつです、ディズニーの。

 歌詞をそのまま引用してしまいますが、

輝く星に心の夢を 祈ればいつか叶うでしょう
きらきら星は不思議な力
あなたの夢を満たすでしょう

人は誰もひとり
哀しい夜を過ごしてる
星に祈れば淋しい日々を
光り照らしてくれるでしょう

 #10のアバンを飾った、ひとりで寂しそうにテラスに佇む鞠莉を思い出させます。

 

 あの世界にディズニーというものが存在するのか分かりませんが、小さい頃に見せられる映像作品がディズニーというのは「あるある」です。

 

 小さい頃の、コドモだった鞠莉はこれを信じていて、星にさえ祈れば何でも叶うと思っていたのではないだろうか。

 

 果南やダイヤだけではなく、自分の淋しい日々を照らしてくれる存在そのものが「シャイニー」だったのではないだろうか。

 

 初めて浦の星へ理事長として就任し、カーテンを開け放ち言った「シャイニー」。

 これには「これからは新生Aqoursが私の日々を照らしてくれる」という意味が込められていたのではないか。

 

 

 最終的に西伊豆スカイラインで無事「お祈り」を済ませることができた鞠莉。

 

 前項でも書きましたが、果南とダイヤの「願掛け」はそれぞれ「帰ってこられるように」という再会の祈りです。

 

 そして今回は9人全員でその「お祈り」をします。また会えますように、と。

 

 この「お祈り」は「コドモ」のやることです。

 

 でも多分きっと、鞠莉の「コドモとして許された最後のワガママ」だとも思うのです。 

 

 オトナになってしまうとバカをやることも、ワガママを言うことも、ましてや自分の意見すら満足に言えないなんてこともザラです。

 

 

 

 #10では「3年生の将来」について明確に言及され、否が応でも3年生の将来について考えさせられてしまいました。

 

 それがなんだかすごくリアルで、でもファンタジーで。

 限りなくリアルではあるけれど、フィクションだからできること。

 「アニメ」としてこんなにおもしろいものがあるだろうかと思いました。

 

 

 

 星にはなれなくても、たとえ届かない星だとしても、祈ること、信じることくらいは許されてもいいんじゃないでしょうか。

 

 

 

 次回、「#11 浦の星女学院」