金玉均の墓 真浄寺 | 墓守たちが夢のあと

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左の高い方が金玉均の墓。右が墓を建立した甲斐軍治の墓

 
 青山霊園にある李氏朝鮮末期の政治家・金玉均の墓については以前、紹介しましたが、文京区向丘の真浄寺にも金玉均の墓があります。
 明治15年に日本を訪れた金は、日本の明治維新とその後の発展に刺激を受け、朝鮮の近代化のためには清国の属国からの独立を目指す必要があると考え、帰国後の明治17年(1884)にクーデター(甲申事変)をおこします。しかし、清軍の侵攻により新政権は敗退し、金は日本へ亡命します。
亡命中は福澤諭吉や右翼の巨頭・頭山満らの支援を受けますが、清との関係を憂慮した政府により明治19年、小笠原諸島へ配流されます。その後、北海道に移った後、自由の身になって東京に帰ってきたのは明治23年になってからでした。
金玉均は日本の囲碁界とも大きな関わりがあり、支援者を通じて方円社の村瀬秀甫(本因坊秀甫)に囲碁を教わっています。やがて、本因坊秀栄とも知り合い、年齢も近かった二人は意気投合し無二の親友となりました。金が小笠原諸島に流布された時は、秀栄が度々訪れています。北海道へ引っ越した時も秀栄は同行し長期間北海道に滞在したそうです。
 
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 亡命から10年たった明治27年に金は周りの止めるのも聞かず上海に渡り、そこで暗殺されました。金を誘い出す罠だったとも言われています。遺体は朝鮮に運ばれ、バラバラにされて晒されています。
 日本の支援者は金の遺髪や衣服の一部を日本へ持ち帰り葬儀を行います。青山霊園の墓は、犬養毅頭山満らの支援で建てられたのですが、真浄寺の墓は甲斐軍治という人物により遺髪等が持ち込まれ建立された墓だそうです。甲斐はソウルで写真家をしていたと言われ、人に頼まれて金玉均の遺髪等を手に入れ日本の送りましたが、金がどうゆう人物であったか知ると自ら墓を建立したそうです。墓の隣りに甲斐軍治の墓もあります。
                    
真浄寺 : 文京区向丘2-26-9  地図
 
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