幕末の砲術家 高島秋帆 | 墓守たちが夢のあと

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 文京区向丘にある大円寺は曹洞宗の寺院で、山号は金龍山。「ほうろく地蔵」の寺として知られています。「ほうろく地蔵」とは「八百屋お七」を供養するために建立されたお地蔵様です。
 大円寺の墓所には江戸時代末期の砲術家。高島流砲術の創始者である高島秋帆の墓があります。 長崎町年寄の家に生まれた秋帆は、長崎の出島でオランダ人から洋式砲術を学び高島流砲術を完成させます。門下には洋式砲術の普及に努め、佐久間象山大鳥圭介橋本左内桂小五郎などを門人に抱えた幕臣・江川太郎左衛門(英龍)がいます

 

 
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 アヘン戦争で清国が敗れたことを知ると、幕府へ洋式砲術採用による近代化を建議。天保12年(1841)に武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なっています。これを機に幕府から重用されますが、それを快くおもわない目付・鳥居耀蔵の「密貿易をしている」といういわれなき訴えにより失脚。幽閉されます。鳥居耀蔵は蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら洋学者もでっち上げの事件で弾圧しています。しかし、嘉永6年(1853)のペリー来航により社会情勢が一変。秋帆は赦免され、幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。
 
東京都文京区向丘1丁目11-3  地図