墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

中田家墓所

 

中田直慈の墓

 

 大正天皇が皇太子時代に東宮主事を務めた官僚の中田直慈は、弘化4年(1847)、羽後亀田藩士の子として亀田城下(秋田県由利本荘市)に生まれる。幼少より学問を好み、長じて藩校長善館の教授となり、後に学監を務めている。また、戊辰戦争にも参加し、槍の名手として名を馳せた。
 明治3年(1870)に上京し、平田篤胤に国学を学んだほか、大学南校(東京大学)へ遊学。
 その後、山梨県で官職として務め、大蔵収税属を経て、明治17年(1884)より、鹿児島、岐阜、熊本の収税長を歴任、明治29年(1896)には宇都宮税務管理局長を務めている。
 明治30年(1897)、宮内省で内蔵助兼調度局主事を務め、後に東宮主事を務め、最後は内大臣秘書官と宮内書記官を兼務している。
 直慈は、情に厚く、どんな仕事もいい加減にすることはなく、よく思慮して後、発言し、行動していたという。官職での30年間は、一度の失敗もなく評判が高かった。平素より質素倹約に努め、慈愛をもって人に接していたといい、人は皆、君子と称していた。
 明治35年(1902)に東京市青山の自宅で倒れ死去(満54歳。正五位勲四等に叙せられ瑞宝章を追贈された。

青山霊園2種イ18-14

 

伊東家墓所

 

 明治期の海軍軍人である伊東義五郎は、安政5年(1858)に松代藩(長野県)藩士の子として松代城下に生まれる。
 明治5年(1872)海軍兵学寮(5期)に入学。明治10年(1877)に起きた西南戦争にも従軍。
 明治17年(1884)より4年間、フランス・ドイツへ派遣され砲術、水雷を研究している。
 なお、この時知り合ったフランス海軍軍人の娘、マリー・ルイーズ・フラパース(日本名:伊東満里子)と結婚。これが日本軍人初の国際結婚となる。
 帰国後、佐世保水雷隊司令などを歴任し、明治27年(1894)に始まった日清戦争には西海艦隊参謀長として出征。
 その後常備艦隊司令官、横須賀鎮守府艦政部長などを経て、日露戦争(1904~05)の時には横須賀工廠長であった。
 明治38年(1905)海軍中将となり竹敷要港部司令官、将官会議議員を務め、明治40年(1907)には男爵を叙爵。
 明治42年(1909)に予備役へ編入され、大正7年(1918)に後備役となっている。
 明治44年(1911)から亡くなるまで貴族院男爵議員を務めたほか、退役後は実業界に転じ、大日本石油鉱業社長にも就任している。
 大正8年(1919)死去。60歳。

青山霊園1種イ8-1

 

 

 阿部正功(あべ まさこと)は、陸奥国棚倉藩(福島県)の第2代(最後)の藩主。妻は幕末期の公卿・徳大寺公純の娘、照子。
 阿部正功は安政7年(1860)陸奥国白河藩第6代藩主・阿部正耆の子として生まれる。
 阿部氏の宗家は福山藩であり、白河藩は分家忠秋流、正功は17代目当主であるが、父の正耆は宗家福山藩から養子となっている。正耆の叔父は老中首座として幕末の国政を担った阿部正弘である。
 正功が棚倉藩主となった経緯はやや複雑だが、父が亡くなった際に正功はまだ幼かったため、幕命により白河藩は分家の阿部正外が相続。幕閣となった正外は諸外国からの兵庫開港要求交渉にあたり朝廷の許可なく開港に応じたとして強制的に隠居となる。そして息子の正静は白河藩主となったその日に棚倉藩への転封を命じられ、白河藩は天領となっている。その正静は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加したため強制的に隠居となり、当時7歳の正功が新藩主に就任することとなる。
 明治2年(1869)版籍奉還により藩知事となった正功は、棚倉に戻り藩校・修道館で学んでいたが、明治4年(1871)に廃藩置県により免官される。
 明治17年(1884)に子爵を叙爵。その後、学問中心の生活を送り、地学協会、人類学会などに入会。特に芝丸山古墳の発掘などに参加するなど考古学の研究に熱心であったという。また、地学に興味をもっていた梨本宮守正王の学友に就任し宮家にも出仕している。
 大正14年(1925)に死去。享年66。

青山霊園1種イ19-4