会津藩初代藩主 保科正之 | 墓守たちが夢のあと

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土津神社入口
 
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土津神社 奥の院。中を覗くと保科正之の墓所が見えます。
 
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保科正之の墓所
 
 会津藩初代藩主の保科正之は、福島県耶麻郡猪苗代町の土津神社に眠っています。
 正之は二代将軍徳川秀忠の四男で三代将軍家光の異母弟です。しかし、庶子であったため秀忠は正室・お江の方に知られるのを恐れ、武田信玄の次女である見性院に預けます。その後、正之は元武田家家臣であった信濃高遠藩主・保科正光の養子となり跡を継ぎますが、秀忠は死ぬまで正之と親子としての対面をすることはありませんでした。
 家光が正之の存在を知ったのは父秀忠が亡くなった後で、その実直な人柄と有能さを気に入り、会津23万石の大大名に引き立て自らの側近としました。家光は死に際して正之に息子・家綱の事を頼んで亡くなっています。正之は家光の遺言どおり家綱を補佐し幕閣の重鎮として政務を取り仕切りました。
 幕末に会津藩主・松平容保は将軍家を補佐し、最後まで討幕派と戦いますが、正之が遺した「会津藩は将軍家を守護すべき存在である」という家訓に従ったためだそうです。
 
 保科正之の墓が会津から離れた場所に建立された理由ですが、正之が磐梯山麓の磐梯神社を参拝した際にこの地を気に入り、死後、神社の末社として祀るように遺言したためだそうです。
 寛文12年(1673)に正之が亡くなると遺言どおり神社が造営され延宝3年(1675)に土津神社が創建されました。
 社殿は江戸時代には日光東照宮と並び称されるほど豪華絢爛な建物でしたが戊辰戦争で焼失し明治時代に再建されます。
 保科正之の墓所は神社拝殿からさらに山道を上がったところにある奥の院です。歩くと結構距離がありますが、下の拝殿前の道から車で直接上がることもできます。
 奥の院の中を除くと墓碑の後ろが塚となっていて正之公はそこに葬られています。
 
福島県耶麻郡猪苗代町字見祢山1  地図
撮影日:2012.11.26