岡山県苫田郡西加茂村「津山三十人殺し」その3(地名や用語について) | 雑感

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津山三十人殺し

「あれほど深くしていた女でさえ、病気になったと言ったらすぐ心がわりがする。僕は人の心のつめたさをつくづく味わった。けれど之も病気なるが故にこの様なのだろう。病気さえ治ったら、あの女くらい見かえすぐらいになってやると思っていたが、病気は治るどころか悪くなるばかりに思えた。医師の診断も悪い。」・・・・・睦雄は高等小学校卒業直後から胸を患い、地元の医師から「肋膜炎」「肺尖カタル」等と診断されていた。本人は肺結核を疑っていたが、1937年5月の徴兵検査で軍医から本当に肺結核を言い渡され、徴兵検査は「丙種合格(事実上の不合格)」となった。)

 

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この事件は時代背景が大正~昭和初期と古く、出てくる地名もその後の市町村合併で変更~消滅しているものもあります。

 

また病名や学校名などで聞き慣れないものもあるので、ざっくりとですが調べてみました。ウィキからのコピペが多いですが・・・。

 

津山三十人殺し

 

 

 「倉見(くらみ)」

 

都井睦雄とその姉・みな子の出生地。

 

事件当時は「岡山県苫田郡加茂村大字倉見」、現在の「岡山県津山市加茂町倉見」にあたる。

 

加茂の山奥の黒木ダム横の県道336号をさらに北にさかのぼった大山奥にある。睦雄の生家はこの倉見で多くの田畑山林を所有する大地主だった。

 

事件後も睦雄の生家が長らく存在していたが、2015年の春に取り壊された。睦雄の墓もあるが、このところは世話をされず荒れているという情報も。

 

倉見の現在の人口は40人ほど。しかし睦雄が事件を起こす8年前の1930年(昭和5年)の統計では、360人ほどが暮らしていたとのこと。

 

倉見における睦雄生家の大まかな位置

津山三十人殺し

 

睦雄の生家(2015年春に取り壊し済み)

津山三十人殺し

 

 

倉見の風景

津山三十人殺し

 

 

 「貝尾(かいお)」

 

主たる事件現場。当時は「苫田郡西加茂村大字行重字貝尾」、現在の「津山市加茂町行重の貝尾地区」にあたる。

 

睦雄は5歳頃以降、この集落で暮らしていた。

 

山際の急斜面に作られている小集落で、事件当時は22世帯、111人が暮らしていた。

 

過疎化が進んでおり、2010年(平成22年)の統計によると、人口は37人(13世帯)となっている。

 

 

 「荒坂峠(あらさかとうげ)」

 

貝尾の北西(直線距離で)約2kmのところにある峠。

 

その頂(いただき)に地蔵が置かれており、地蔵の傍らから山頂へと続く細道がついている。

 

睦雄は貝尾とその隣の坂本集落で計30人を殺害後、荒坂峠への細道を辿り、その頂上の「仙の城」と呼ばれる一帯の、眼下に貝尾その他の集落を望める10坪ほどの雑草地で最後の遺書を認め、猟銃自殺を遂げた。

 

 

 「物見(ものみ)」

 

当時の「苫田郡上加茂村大字物見」、現在の「津山市加茂町物見」にあたる。

 

睦雄は集落内の何人かの女性と情交関係にあったと噂されたが、同級生の寺井ゆり子という女性には特に執心していたとされる。物見はその寺井ゆり子が嫁いだ地区。

 

犯行当日(5月21日)、ゆり子は弟の結婚祝いで貝尾に里帰り中だった。

 

睦雄が最後の遺書で語ったところによれば、ゆり子の里帰りがあの日の決行の理由の一つだったという。

 

 

 「肋膜炎(ろくまくえん)」

 

睦雄は1931年(昭和6年)の春、西加茂尋常高等小学校を卒業してすぐに胸を患った。

 

医者にかかったところ、

 

「肋膜炎(ろくまくえん)」

 

と診断された。

 

現在ではこの呼び名は使わず(あまり使わず)、「胸膜炎」と呼ぶらしい。

 

胸膜炎(肋膜炎)とは、肺を覆う胸膜に炎症が起きて水(胸水)がたまる病気で、

 

「肺の表面は胸膜(かつては肋膜)と呼ばれる2枚の薄い膜におおわれている。外側の胸膜を『壁側胸膜』といい、内側のそれを『臓側胸膜』という。この2枚の胸膜の間のスペースを『胸腔』と呼ぶ。通常は2枚の胸膜がほぼ接触しているので、実際の胸腔のスペースはほとんどない。健康な人では胸腔にごく少量の水があり、肺が伸びたり縮んだりするとき潤滑油の働きをしている。ところが、肺炎や肺結核、肺がんなどによる刺激(炎症)が胸膜に及ぶと、胸腔に水(胸水)がたまる。これが胸膜炎である

 

とのこと。

 

結核性のものは微熱や高熱を伴う。

 

結核が治りにくかった時代には、患者に対して「結核」と直接的に病名を告げるのを避け、

 

「肋膜炎」

「肺尖カタル」

「肺浸潤」

 

などとぼかして言っていたとする情報もある。

 

津山三十人殺し

津山三十人殺し

 

 

 「肺尖カタル(はいせんかたる)」

 

睦雄によると、1935年(昭和10年)の春に胸の病気が悪化し、当時本人は肺結核だと思い込んでいたことが遺書からはうかがえる。

 

しかし、同年12月に地元の医師にかかったところ、

 

「肺尖カタル」

 

と診断された。

 

「肺尖部」とは上図の通り、肺の上部先端あたりを指し、「肺尖カタル」とは、感染症の結果、肺尖部の粘膜に粘液と白血球とが混ざり合った濃い浸出液を伴う炎症を生じる病態のことらしい。

 

「カタル」のウィキ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AB

 

「カタル(英: catarrh)とは、感染症の結果生じる粘膜腫脹と、粘液と白血球からなる濃い滲出液を伴う病態のこと。カタルは通常、風邪、胸部疾患による咳に関連して認められるが、アデノイド、中耳、副鼻腔、扁桃、気管支、胃、大腸に出現することもある。カタル性滲出液は排出されることもあるが、狭窄とともに管腔を閉塞させたり、慢性化したりすることもある。」

 

「肋膜炎」「肺尖カタル」といった病名をあてがわれ、「大したことはない、安静にして薬を飲んでいれば治る」と告げられていても、本人の「結核だろう」という思い込みは変わらなかったようで、睦雄はその約1年半後(1937年5月)に受けた徴兵検査の際にも、検査に先立つ役場への届出の際に、「自分は結核です」とわざわざ自己申告している。

 

この時の役場の担当者は睦雄と同じ貝尾集落の人だったが(この人は事件の際には襲撃を免れた)、

 

「結核などは隠すのが普通であるのに、自分から結核だと名乗りを上げるとは、よほどの変人であると思われた」

 

と述懐している。

 

徴兵検査の結果、睦雄は軍医から結核であると診断され、「丙種合格(事実上の不合格)」となった。

 

結果だけを見れば---そして軍医の診断が正しかったと仮定すれば---「肺尖カタル」とした医師の診断より睦雄の悪い予感のほうが当たっていた形で、こうしたことも、遺書中の「医師の診断も悪い」という言葉に繋がったものと思われる。

 

 

 「尋常小学校」

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8B%E5%B8%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)は、明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関の名称。

 

授業内容は、1・2年生が、修身、国語、算術、唱歌、体操、3年以上は、図画、理科、裁縫(女子のみ)、国史、地理が順次加わった。2年生では国語が全時間の過半を占めた。

 

尋常小学校卒業後は、旧制中学校・高等女学校・実業学校といった旧制中等教育学校、高等小学校、青年学校普通科などに進学するか就職した。

 

1936年の統計では、旧制中等教育学校に進学する者は21%、まったく進学しない者は13%、高等小学校に進学する者は66%だった。

 

津山三十人殺し

(年齢的には、当時の高等小学校2年が、現在の中2にあたる。しかし睦雄は小学校入学が1年遅れたので、卒業時は15歳になっていた。)

 

 

 「高等小学校」

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

高等小学校の授業内容は、尋常小学校の科目に、手工・実業・家事(女子のみ)が加わる。

 

高等小学校はあくまでも初等教育であった。そのため、同年齢の旧制中等教育学校の生徒が英語や漢文を学んでいるとき、高等小学校にそれらはなく、数学ではない算術(算数)を学んでいた。ただ英語などは、学校によっては教えていた。

 

1936年(昭和11年)の統計では、尋常小学校卒業者の66%が高等小学校に進学した。

 

高等小学校の卒業者の半分以上は就職や家業を継ぐなどしたが、旧制中等教育学校や師範学校への進学もあった。

 

特に師範学校については、学費が無料であり、多くが全寮制であったため、成績優秀であるが経済的な事情から旧制中学校への進学を断念した生徒が多く進学した。

 

 

 「尋常高等小学校」

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8B%E5%B8%B8%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)とは、尋常小学校の教科と高等小学校の教科とを一校に併置した小学校のこと。

 

実質的には、尋常小学校と高等小学校が一校となっているもの。

 

ただし、尋常小学校は義務教育の実施校であったが、高等小学校は義務教育の実施校でなかったので授業料を徴収していた。

 

睦雄が通ったのは「西加茂尋常高等小学校」だった。

 

入学が1年遅れだったというので、尋常高等小学校卒業時には15歳になっていた(今の中3と同じ年で卒業)。

 

 

 「実業補習学校」

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E6%A5%AD%E8%A3%9C%E7%BF%92%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

実業補習学校(じつぎょうほしゅうがっこう)とは、1935年3月までの日本の旧学制下で、高等小学校、中学校、高等女学校などの中等教育に進学しない義務教育修了者で、勤労に従事する青少年を対象に実業教育を実施していた学校。

 

初等教育機関(小学校)の補習機関であると同時に、簡易な方法で生徒の従事する実業に関する知識・技能を授けることを目的とした。

 

入学資格を「尋常小学校卒業程度」、修業年限を3年以内とし、夜間の教授も認められた。

 

実業補習学校には、「工業補習学校」「農業補習学校」「水産補習学校」「商業補習学校」「商船補習学校」などがあり、科目は、修身・読書・習字・美術・実業などであった。

 

実業補習学校は、尋常小学校または高等小学校に附設することができた。

 

睦雄は1931年(昭和6年)3月に15歳で尋常高等小学校を卒業し、その後3~4年ほどの間に、この「実業補習学校」と、次の「青年訓練所」といった教育機関に通ったが、病気で体がきついということで、あまり熱心には通わなかった。

 

尋常高等小学校時代には成績優秀で、3年以降は級長をぶっ通し、担任の教師からも、

 

「このまま百姓をするよりは、上の学校へでも行ってみんか?」

 

とまで言われたのに、家庭の事情で進学が叶わず、加えて卒業直後に胸を患い、「肺結核に感染したのでは?」という疑いのもと鬱々とした気分で、やる気も出ず、休みがちで両校とも中途半端に終わってしまった。

 

また、「実業補習学校」と次の「青年訓練所」は、卒業してもなんら資格が得られるでもなかったため、本来は中学か師範学校への進学を希望していたと思われる睦雄にとっては、モチベーション的にもきつい場所だったのかもしれない。

 

 

 「青年訓練所」

 

 

先の「実業補習学校」と同じく、睦雄があまり熱心に通わず、中途半端に終わってしまった学校。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B9%B4%E8%A8%93%E7%B7%B4%E6%89%80

 

青年訓練所(せいねんくんれんじょ)は、1926年から1935年のあいだ日本に存在した教育機関である。

 

男子青年に軍事教練その他を施すことを目的とした。

 

1926年(大正15年)、勅令青年訓練所令によって設置された。

 

中等以上の学校に入学しない青少年の心身を訓練し、国体観念を習得させ、臣民としての資質を向上させるというのが事実上の目的であった。

 

期間は4箇年で、16歳から20歳までの男子を入所させた。

 

訓練は4箇年間に、修身および公民科100時間、教練400時間、普通科200時間、職業科100時間、つまり全期間を通じて800時間で修了である。

 

 

 「旧制中学校」

 

 

これと、次の「師範学校」が、睦雄の本来の希望だったのではないか、と思われる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

旧制中学校(きゅうせいちゅうがっこう)とは、1947年に学校教育法が施行される前の日本で、男子に対して中等教育(普通教育)を行っていた学校の1つである。

 

旧制中学校を経ると、(中等学校令制定前は4年修了後に)旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。

 

また、旧制中学校2年生を修了すると、師範学校への進学が可能であった。

 

5年制でも、4年修了(四修)で、旧制高等学校、大学予科の受験資格が得られた。

 

1931年までは、1-3年は、国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の過半を占め、他に、歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)、修身、図画、唱歌、体操があり、4・5年で、物理、化学、法制、経済が加わり、図画・唱歌の代わりに数学の比重が高かった。

 

明治時代、中学や高等教育機関に進学する者は華族、身分が高めの上位士族、地主、豪商やそして、新しく生まれてきたブルジョアとプチブル階層の出身者にほとんど限定されていた。

 

大正デモクラシーの時代になると中学進学が一般市民の間にも広がってきた。

 

第一次世界大戦後、都市住民の子弟の、中学校・高等女学校・実業学校といった旧制中等教育学校への進学熱は急速に高まってきたが、それでも一般大衆にはまだまだ「高嶺の花」だった。

 

当時のインテリ層の代表である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円ほどなのに、東京の市立中学の入学年次における学費は直接経費だけでも146円19銭もあった。このため、せっかく入学できても中途退学を余儀なくされる者は入学者の1/3にも達した。

 

 

 「師範学校」

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

師範学校(しはんがっこう)とは、教員を養成する学校であり、戦前の日本および日本の統治地域に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関とされ、教員養成機関のひとつ。

 

修了までの年限は、高等小学校卒業後4年(後に5年)、中等教育課程(旧制中学校等)修了者は1年(後に2年)。

 

師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず、生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割も果たしていた。

 

師範学校→高等師範学校→文理科大学というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→帝国大学というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。

 

しかし一方で、師範学校の寮生活において、学校によっては上級生による下級生へのいじめ、しごきが問題となった。そのため、全寮制を廃止した学校もあった(広島県師範学校など)。

 

また、卒業生の中には「師範タイプ」と称された融通がきかない教師もおり、この存在は戦前においても問題視されていた。

 

師範学校には、高等小学校(小学校高等科)卒業を入学資格とする本科第一部(1925年から5年制)と、中学校もしくは高等女学校卒業を入学資格とする本科第二部(1907年に制度化、1931年から2年制)が置かれた。

 

本科第一部の学科目は修身、公民科、教育、国語漢文、歴史地理、英語、数学、理科、実業(男生徒)、家事裁縫(女生徒)、図画、手工、音楽、体操が必修で、さらに第4学年以上では国語漢文、歴史、地理、英語、数学、理科、実業、家事裁縫(女生徒)、図画、手工、音楽の中につきその数科目を増課選修させた。

 

師範学校においては一般に授業料を徴収しないこととなっていた。

 

また、各府県において、それぞれ或る数の生徒を限って「公費生」として若干の学費が支給された。

 

師範学校本科卒業者には、各府県から「本科正教員」としての教員免許状が付与され、かつ、その府県内の小学校教員に任命された。

 

 

 「専門学校入学者検定試験・略称“専検(せんけん)”」

 

戦前には、旧制専門学校進学のための「専門学校入学者検定試験(略称 専検)」(合格者は旧制中学校卒業同等資格とされた)といった試験があり、これらの資格試験を前身として、戦後の1951年に「大学入学資格検定」が始まった。

 

「専検」の合格は「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と評判で、検定合格の為には、いかなる難関校でも合格ができるほどの実力を必要とした。

 

1935年(昭和10年)ごろのこと、睦雄は小学校教員の検定試験を受けたいとして、自宅に引きこもり勉強を開始した。それがこの「専検」であったと思われる。

 

ところが同年の春ごろ、勉強を続けるうちに、「肋膜炎」と診断されていた胸の病気が、再び悪化した。

 

当時を知る村人の一人(津山事件の遺族の一人)によると、睦雄は当時半年ほど病床にあり、病状回復後も相変わらず家に引きこもって仕事はせず、夜間に家を空け他人の家を覗き回るなど、俄然素行不良となったという。

 

 

 「徴兵検査」

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB

 

太平洋戦争終結までの日本では、20歳に達した成人男子は全員、徴兵検査を受けることが義務付けられた。

 

4月〜5月頃に通知が届き、地元の集会所や小学校などで検査が行われた。

 

検査に合格した者は、翌年の1月10日に各連隊に入営することとなる。

 

徴兵検査は20歳以上の義務となるものの、志願によって17歳から入営することができた。

 

身長、体重、病気の有無が検査され、合格し即入営となる可能性の高い者の判定区分を「甲種」というが、甲種合格の目安は、「身長152センチ以上、身体頑健」だった。

 

睦雄は、事件を起こすほぼちょうど1年前の1937年(昭和12年)5月22日に受けた徴兵検査で、「丙種合格(事実上の不合格)」となった。

 

津山三十人殺し

 

作家の三島由紀夫は、

 

「田舎の隊で検査を受けた方がひ弱さが目立って採られないですむかもしれない」

 

という父の入れ知恵により、1944年5月、本籍地の加古川で徴兵検査を受けたが、結局は「第二乙種」で合格した。

 

しかし、翌年2月に招集通知に応じて兵庫県富合村に出立するも、入隊検査の際に、招集の数日前に母親からうつされていた風邪を新米の軍医が「肺浸潤(肺病)」と誤診し、即日帰郷となった経緯がある。

 

三島が入隊するはずだったその部隊の兵士たちは、フィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅したという。