岡山県苫田郡西加茂村「津山三十人殺し」その2(都井睦雄遺書、姉宛てと自殺直前のもの) | 雑感

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津山三十人殺し

(「もはや夜明も近づいた、死にましょう。」・・・都井睦雄は荒坂峠の頂上付近にある10坪ほどの雑草地に腰を下ろし、最後の遺書を認めたのち、東の空を望みつつブローニングの銃口を心臓部にあて、足の指で引き金を引いた。画像は自殺現場とされる付近から、グーグル3Dで東の加茂中心街や事件現場となった貝尾の集落---画像右端やや上---を望んだもの。睦雄が最期に見たのも、こうした風景の夜明けのものだったと思われる。)

 

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引き続き、都井睦雄の遺書を紹介します。

 

 

 2通目(自宅で発見され、「姉上様」と上書きされたもの。遺書の日付は、1通目と同じ「5月18日」)

 

 非常時局下の国民としてあらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望をいだき溌溂と活動している中に僕は一人幻滅の悲哀をいだき淋しく此の世を去って行きます。
 姉上様何事も少しも御話しせず死んで行く睦雄、何卒御許し下さい。自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えては居ましたけれども不治と思われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました。たった一人の姉さんにも生前は世話になるばかりで何一つ恩がえしもせずに死んで行く此の僕をどうか責めないで不幸なるものとして何卒御許し下さい。僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど取るに取れぬ恨みもあり周囲の者のあまりのしうちに遂に殺害を決意しました。病気になってからの僕の心は全く砂漠か敵地にいる様な感じでした。周囲の者は皆鬼の様なやつばかりでつらくあたるばかり病気は悪くなるばかり、僕は世の冷酷に自分の不幸な運命に毎日の様に泣いた。泣き悲しんで絶望の果僕は世の中を呪い病気を呪いそうして近隣の鬼の様な奴も。
 僕は遂にかほどまでにつらくあたる近隣の者に身を捨てて少しではあるが財産をかけて復讎をしてやろうと思う様になった。それが発病後一年半もたっていた頃だろうか。それ以後の僕は全く復讎に生きとると言っても差支えない。そうしていろいろと人知れぬ苦心をして今日までに至ったのだ。目的の日が近づいたのだ、僕は復讎を断行します。けれど後に残る姉さんの事を思うとあれが人殺しのきょうだいと世間のつめたい目のむけられることを思うと、考えがにぶる様ですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない、どうか姉さん御ゆるしの程を。
 僕は自分がこの様な死方をしたら、祖母も長らえては居ますまいから、ふ愍ながら同じ運命につれてゆきます。道徳上からいえば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は倉見の祖父のそばに葬ってあげて下さい。僕も父母のそばにゆきたいけれど、なにしろこんなことを行うのですから姉さんの考えなさる様でよろしい。けれども僕は出来れば父母のそばにゆきたい。そうして冥土とやらへいったら父母のへりでくらします。何しろ二、三歳で両親に死別しましたから、親は恋しいです。それから少しの田や家はしかるべく処分して下さい。尚簡易保険がニつ、五十銭ずつ毎月はるやつがあるのですが、もらえる様でしたらもらって下さい。おねがいします。
 ああ僕も死にたくはないけれど、家のことを思わぬではないけれど、このまま活していたらどうせ結核にやられるべきだろう。そうしたら、近隣の鬼の様な奴等は喜ぼうけれど僕はとてもうかばれぬ。どうしてもかなり丈夫で居る今の間に、恨みをはらすべきです。復讎々々すべきです。では取急ぎ右死するに望み一筆かきおきます。僕がこのような大事を行ったら、姉さんはおどろかれる事でしょう。すみませんがどうかおゆるし下さい。
 こう言うことは日本国家の為、地下に居ます父母には甚だすまぬことではあるが、しかたがありません。兄さんにもよろしく。
 五月十八日 記之
 おなじ死んでもこれが戦死、国家のための戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人と言うことになるでしょう。
(どうか姉さんは病気を一日も早く治して強く強く此の世を生きて下さい、僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます)

 

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 3通目(荒坂峠の頂上付近「仙の城」と呼ばれる自殺現場で発見されたもの)

 

 愈々死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、ニ歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事を行った、楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみませんゆるして下さい、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃した、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情ない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言う者はほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
 もはや夜明も近づいた、死にましょう。