岡山県苫田郡西加茂村「津山三十人殺し」その4(西川とめと寺井マツ子) | 雑感

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津山三十人殺し

(画像は筑波昭氏の『津山三十人殺し』より。カラーは当方による補足。人物名は筑波昭氏による仮名。このブログにおける人物名も筑波氏の著作に準拠している。赤枠は襲撃を受けた家。)

 

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以下、登場人物数名の紹介を。

 

長くなったので、「その4」「その5」に分けました。

 

長くなったとはいえ、かなり端折った内容になっているので、より細かい部分については、津山事件の関連本で確認いただければと。(おすすめの本は、のちほど紹介させていただきます)

 

 

 西川とめ(43)

 

「僕は遂にこの世に生くべき望み若人の持つすべての希望をすてた。そうして死んでしまおうと決心した時の悲しさは筆舌につくせない。僕は悲しんだ泣いた。幾日も幾日も、そうして悲しみのうちに芽生えて来たのはかやつ[ 西川とめ ]に対する呪いであった。これ程迄にかくまでに、僕を苦しめにくむべき奴にさげすむかの女にどうせ治らぬ此の身なら、いっそ身をすてて思いしらせてやろう。かやつは以前はつらかったのだが、今は何不自由なく活(くら)して居るからおごりたかぶり僕等如き病める弱きものまでにくみさげすむのだろう。にくめべにくめ、よし必ず復讎をしてかやつを此の社会から消してしまおうと思うようになった。」(睦雄の遺書より抜粋)

 

 

西川とめは、睦雄が遺書中で最大の憎悪を向けている相手。

 

西川秀司(50)の妻で、二人の娘あり(良子22と智恵20)。西川家には再婚で来ていた。

 

警察の調べによると、とめは、

 

「性極めて淫奔かつ多弁」

 

にして、とかくの風評のある女だった。

 

警察の記録には、とめ自ら睦雄に対して、

 

「あんたも年頃だから虫がついただろうね」

 

と水を向け、これに刺戟された睦雄がとめに情交を挑むとかえってこれを手酷く撥ねつけ、その後も同様、睦雄の情交の求めを拒絶し続ける一方でその恥ずかしい事実を村内に口喧しく言い触らしたとあり、睦雄の最も深い恨みを買っていたとされている。

 

睦雄と実際に一時期情交関係があったとする噂もあるが、真偽のほどは定かではない。

 

同じく遺書中で名指しで憎悪を向けられた「寺井マツ子」は、睦雄の言動により近く大難のあることを予感し、一家をあげて京都に逃げた。その際、西川とめにも、

 

「睦雄がえらいことをやるそうだから、京都のほうへ逃げよう」

 

と誘いをかけていたことが明らかとなっている。

 

ところが、とめはこの誘いに対して、「自分は睦雄から殺されるほど恨まれているはずがない」と言って断ったという。

 

逆に言えば、とめは睦雄から、少なくとも殺されない程度には恨まれている自覚があった、ということかもしれない。

 

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 寺井マツ子(34)

 

「そうする中に一年たったある日マツ子がやってきた。僕は何時もにらみ合っていずに、少し笑顔で話してもよいがなと言ってやった。するとマツ子の奴は笑顔どころかにらみつけた上鼻笑いをし、さんざん僕の悪口を言った。故に自分もはらをたて、そう言うなら殺してやるぞとおどし気分で言った。ところがかやつは殺せるものなら殺して見ろ、お前等如き肺病患者に殺される者がおらんと言ってかえっていった。此の時の僕の怒り心中にえくりかえるとは此のことだろう。おのれと思って庭先に飛出したが、いかんせん弱っている僕は後が追えない。彼奴は逃げかえってしまった。僕は悲憤の涙にくれてしばし顔があがらなかった。そうして泣いたあげく、それ程迄に人をばかにするなら、ようし必ず殺してやろうと深く決心した。」(睦雄の遺書より抜粋)

 

 

睦雄は事件後、村の多くの女性と肉体関係があったと噂されたが、貝尾の人妻である寺井マツ子(34)は、噂レベルではなく確かにその関係にあったといえる数少ない女性の一人だった。

 

マツ子本人も、曖昧で要領を得ない供述ながら、睦雄と一時期肉体関係にあったことを認めている。

 

マツ子は1904年(明治37年)地元の貝尾生まれ、夫との間には15歳の長男を筆頭に4人の子供がいた。

 

村内での暮らしぶりは中流だったが、警察の調べによると、マツ子は小心ながら強欲で盗癖があり、また常に夫以外の男と交際関係するなどしており、村内での地位信用はなかった。

 

睦雄の凶行4~5日前のこと、マツ子は村役場で戸籍謄本と身分証明書を取得し、その翌日に荷物をまとめ、一家をあげて京都の愛宕郡花脊村大字別所---現在の「京都市左京区花脊別所町」---に引っ越した。睦雄の殺意を本気に受け取り逃げたのだといわれている。(京都への引っ越しは4月25日ごろという情報もある)

 

津山三十人殺し

 

睦雄は凶行前の3月ごろから何かというと、

 

「ぶっ殺す」

「生かしてはおかぬ」

 

と口走るなど、その殺意は露骨になってきていた。マツ子の夫の寺井弘は睦雄から、

 

「もし自分が大事件を起こしたら地元の者が警鐘を打って集まるかも知れぬから警鐘を下しておく必要がある。警官、消防組員等が出てきても、逃げるのに、第一陣地、第二陣地というように計画をしておいて、来る者は撃ち殺してしまうから、自分が自決するまでは捕まえられるようなことはない」

 

という話を聞かされていた。

 

この、第一陣地、第二陣地~といった犯行計画については、睦雄はこれを事件前の3月に一度家宅捜索を受けたことをきっかけに懇意となった地元の駐在にも打ち明けていた。(「打ち明けたから、もうこの計画は実行できない」と睦雄は言っていたという)

 

巡査に語った内容はマツ子の夫に語ったそれよりもさらに壮大で、

 

「まずは巡査とその一家を皆殺しにして外部との連絡を遮断し、次に目指す村人たちを殺す。次に、遅れた通報に慌てて駆け付けた津山署員全員を皆殺しにする。彼らは複数のトラックに分乗して駆け付けるので、現場に通じる急坂のカーブにあらかじめ障害物を置いておき彼らのトラックを停車させ、その前に築いた複数の銃座から狙い撃てば全滅させることができる。次に、全滅した警官に代わって消防組1000人が動員されるので、保存食料を持って山に立て籠もり、彼らを相手に徹底抗戦する」

 

というのだった。

 

3月の家宅捜索では、その時点で完成していた実包だけでも約400発が押収されているので、家宅捜索がなければ最終的に何発の実包を用意するつもりだったのか、それを考えれば、睦雄の明かしたこの計画は、口だけの絵空事と一笑に付すことはできないものだった。

(結果的には、一度警察の手入れを食らって目をつけられたことや、経済的にもひっ迫してきていたことで---犯行後の捜査で睦雄の家には現金66銭しかなかったことが明らかとなっている---決行を急ぐ必要が生じ、また再武装の規模も縮小せざるを得ず、さらには、寺井ゆり子の思わぬ里帰りなどで「今しかない」というタイミングが早々にやってきたこと等から、当日は、その時点で用意できていた実包約100発での決行になったのではないか、と思われる。)

 

いずれにしても、睦雄の殺意と犯行への決意を、一時期肉体関係にあったマツ子とその夫は本気で受け取り、一家をあげて京都に逃亡した。

 

「睦雄を恐れて逃げたのではないか?」

 

警察のこの問いに対してマツ子はそれを否定し、

 

「京都に引っ越したのはあくまで夫の仕事の都合であり、また、自分の胸の神経痛の持病を診てもらうにも津山よりは京都のほうが良い医師が期待できたからだ」

 

という意味の供述をしている。

 

しかしマツ子が移り住んだ愛宕郡花脊村別所は、のどかで良さそうな土地ながら、京都市街地からはかなり山奥に隔たった貝尾に負けず劣らずの僻地ではあり、「津山より良い医者が期待できることもあり移住した」というマツ子の供述には首をかしげるものがある。

 

また実際マツ子は睦雄の自殺後、貝尾に戻ってきたという。(そこで数年を暮らした後、近畿方面に引っ越したとのこと。)

 

津山三十人殺し

(ストリートビューより、現在の京都市左京区花脊)

 

睦雄は遺書中、マツ子から、

 

「お前らごとき肺病患者に殺される者がいるものか。殺せるものなら殺してみよ」

 

と罵られ、「心中煮えくり返る」思いがしたと書いている。

 

この点を警察がマツ子に尋ねたところ、マツ子は、

 

「それは睦雄が『関係させなければ殺す』と言ったことに対して、私が『罪科のない者を殺せるかい。殺せるものなら殺してみよ』と言い返したことをいっているのではないですか。私がそういうことを言ったのはその一度きりだし、『肺病患者』という言葉も使ってはいません」

 

と述べている。

 

しかし一方でマツ子は、供述の中で、女とみれば関係させてくれと言い寄ってくる睦雄の偏執性をあげつらいながら、

 

「村中で睦雄は色気狂である。肺病の癖に側へ寄ると変なことをするから避けて居れと皆が云い合って居りました」(調書原文ママ)

 

と、睦雄の性的な偏執性のみならず、その肺の病のことまで絡めて嫌悪し、忌避していたことを図らずも証言している。