木の仏さま (余談:漆という素材) | == 肖蟲軒雑記 ==

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漆の化学

 というのは化学的性質から特異的な塗料である。一般に塗料というとペンキあるいはニスなどが挙げられる。これらは皆、塗られる対象を保護する(あるいは着色する)物質(目的に応じて有色・無色)が、有機溶剤(最近では環境などを考慮して水の場合も多い)に溶けていて、ハケなどで塗ったあと、時間とともに溶剤(水)が蒸発(揮発)することで、「乾いて」表面に残るものだ。

 

 ところがは違う。漆の主成分はウルシオールという名前がついた図のような化学物質である。樹液として採取され精製したものは、どろりとした液状をしている点では一般的な塗料と変わらない。




しかし決定的に違うのは、表面(多くの場合は木でできた器などの漆器の素材)に塗られた後、自体に微量に含まれるラッカーゼという酵素の働きで、空気中の酸素を使って無数のウルシオール分子同士が強く結合して大きな構造体となり、塗られた表面上で動かなくなる(固化する)ことである(図の下半分)。このように同じ分子同士が結合して大きな構造体を作る反応のことを重合と呼ぶ。懐かしい術語だ。

 余談のさらに余談だが、ウルシオールの化学構造は20世紀初頭(明治末期)、東北帝国大学教授真島利行によって決定された。この業績はその後の日本の天然物有機化学の隆盛(フグ毒テトロドトキシンの構造決定の一翼は名古屋大学理学部の平田義正(※)、今日では海洋生物から新薬の抽出を目指している神奈川大学理学部の上村大輔 )をもたらすものだった。



※2008年、オワンクラゲ緑色蛍光タンパク質の発見でノーベル化学賞を受賞した下村脩は、名古屋大学で平田義正の指導のもと博士号を取得している。

 

 このようなの固化、見た目では他の塗料同様「乾く」ように見える。ペンキなどの場合、塗るのは溶剤が揮発し易い乾燥した日だ。しかしの場合、漆器製作の現場をみると、酵素であるラッカーゼの働きを最適化する条件を整えるため、湿度と温度を一定に保つ「ムロ」とか「フロ」という戸棚に置くのである。いわゆる「乾燥」とは全く違ったことが起きていることが、このことからも見て取ることができる。

 この「漆が乾く」という現象は物質の状態変化という観点に立てば、温度を下げることで水が氷になるようなものだろうか。いや違う。氷の場合には、温度が高くなれば「融けて」水に戻る。むしろ、(化学的・生物学的には全く異なったことが起きているのだが)卵の白身に熱を加えると固まるというのがイメージとしては近いかもしれない。固まった白身は、温度を下げたからといって元の(生卵の)どろりとした状態に戻ることは決してない。こういった後戻りができないことを「不可逆」と呼ぶ。ラッカーゼによって触媒されるの固化も、反対の反応を触媒する酵素が見つかっていない現在、「不可逆」なのである。


 別の言い方をすれば、塗られて「乾いた」をはがす溶剤は、今のところ見つかっていない。は剥がすことが困難な塗料なのである(※)。そういう観点に立つと、よく似ている天然素材があることを思い出さないだろうか。以前の記事 で紹介した木の主成分であるセルロースである。樹木から採取されるということで当然なのだが、強固な素材であるということも含めて、を使った乾漆造の仏像もまた、広い意味で「木の仏さま」と言って良いかもしれない。



※ もっとも漆にも弱点はある。ウルシオールの化学構造にある六角形の部分。ここはベンゼン環とよばれるところなのだが、このような構造は紫外線を吸収しやすい。そして、過剰な紫外線のエネルギーは分子構造を破壊する。漆は光には弱いのである。このような性質は昔から知られていたのであろか、家屋の外側の装飾で残っているものはない。
 漆だけに限らず、彩色に用いられた様々な素材には紫外線に弱いものが多い。秘仏など、めったに拝まれることのない仏像の色が千年の時を越えて鮮やかなのは、このためだ。博物館などでも、照明が薄暗かったのはこういった理由もある。もっとも、最近では紫外線をほとんど発しないLEDのおかげで、かつてよりは明るく見ることが可能になった。

 


古代の漆

 さて、は世界で最も古い歴史の塗料でもある。最古のものは縄文前期、紀元前7000年ごろと推定される北海道垣ノ島 B 遺跡 (函館の少し北)の土坑墓から発掘された副葬品で見いだされている。それ以外の遺跡からの出土品の研究と併せて、遅くとも縄文時代後期(紀元前2000年ごろ)には、漆工技術のほとんどは確立していたと考えられているようだ。

 はウルシの木(学名:Toxicodendron vernicifluum)の表面に線状に傷をつけ(線刻という)、そこからしみ出た樹液が原材料だ。林野庁の HP によれば、1本の木あたり1年(採取時期は6月~10月)に採ることができるのはせいぜい200gだそうである。



 乾漆の仏像が造られていた時代の埼玉県の西吉見条里遺跡7世紀後半~8世紀)などから発掘されたウルシの木を見ると、今日よりも線刻の数も少なければ幅も小さいらしい。時代は少し下って永延二年(988)の『尾張国郡司百姓等解』には、「一樹出汁僅勺撮」という記述(というか農民の訴え)がある。このころ、1本のウルシの木からは勺(一合の1/10、撮はその1/10)程度の量しか採ることができなかったのである。ちなみに、この時代の1升は現在の4合程度と考えられているので、一合はせいぜい70ミリリットル、勺撮をどのように解釈するかにもよるが、多くても20ミリリットルと言ったところだろうか。現在の1/10ぐらいの効率と考えて差し支えないだろう。

 

 は主に漆器に使われる。古代にあっても同様だ。天平六年(734)の『出雲国計会帳』(『正倉院文書』のひとつ)によれば、律令制の下、各戸には米以外の主要農産物として桑(養蚕のため)との栽培が義務づけられていたらしい(全国というわけではなく、栽培に適した国のみだったようだが)。例えば、上戸(正丁:2160歳男子、が67人いる戸)では百根以上の植栽を五年以内に終わらせ、調の付属税として納めるように規定されている。



 現在国産のは年間約1トン(国内需要約33トンの97%は輸入に頼っている)だが(林野庁HP)、最盛期の江戸時代には全国で2,000トンはあったらしい。商業価値が高く、各藩で増産奨励政策が施行されていた時代だったからこその生産量である。

 この数値、漆アートの世界というホームページ に書かれているもので、何が根拠なのか、江戸時代でもいつのころのことなのか全く分からないが、仮に産業振興が盛んになった人口約3,000万人の江戸中期以降と仮定する。またこのころには、木1本あたり200g(≒200ミリリットル)採取できる現在の方法が確立されていたと考える。




 鬼頭宏によれば、奈良時代の人口は約450万人と推測されている。江戸時代の15%だ。また、上述の樹木1本あたり20ミリリットルという採取量を考えて単純に計算すると、2,000トン×0.15×0.130トンとなる。

 さらに、栽培植物としてウルシの木を考えると、肥沃で水はけの良い土壌、陽当たりのよい場所で枝を良く伸ばし葉つきもよく、結果たくさんの樹液を産出する。つまり、適地選択と適切な管理を要する樹木であり、手間ひまをかけて栽培しなければ作物とならない。開墾も不十分だった奈良時代では、いくら植栽が奨励されていたとはいっても、年間生産量はせいぜい1020トンだったのではないだろうか。

 

 このような生産状況のもと、乾漆の仏像が多数造られていたのである。

 

(木の仏さま(7) 天平漆事情と木心乾漆の系譜 に続く)

 

【参考文献】



① 永瀬喜助、神谷幸男、木村 徹、穂積賢吾、宮腰哲雄 「酵素重合による漆液の経時変化と低湿度環境における自然乾燥性発現の関係」 日本化学会誌 200110号 587593p (2001


② 小林四郎 「酵素を触媒とした重合反応で人工漆をつくる」 高分子 532月号 9091p (2004


③ 四柳嘉章 「漆の文化史」 岩波新書(2009

 

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④ 鬼頭 宏 「人口から読む日本の歴史」 講談社学術文庫(2000


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注)昨晩、書きかけでアップしてしまいましたので、(※)として注釈を書き加えました。