木の仏さま (7) 天平漆事情と木心乾漆の登場 | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

最初にお断りを。

今回の記事は、ほとんど次の論文の(順序は変えてあるが)要約である。

 

森下和貴子 「木心乾漆像の出現と漆」仏教芸術 (255)  66-80 (2001 毎日新聞社

 

 前の記事 でご紹介したように、律令体制下にあっては調の付属税であった。各戸ごとへの植栽義務づけは、律令中「田令」の「桑漆条」に規定されている。ただ実際の植栽は戸ごとに行われることはなく、国郡司監視のもと、農民の賦役を労働力として行われたらしい。収穫高は国司や郡司の責任とされ、中央政府は植栽と収穫が規定通り実施されているかどうかの監視のため、毎年報告書ともいうべき「桑漆帳」を提出させていた。

 

漆の市場

 しかしその実情はどうだったのだろうか。少し時代は下るが大同二年(807)の太政官符には

「然国郡司不務催殖。既致欠乏」とある。

(法令で決めたはずなのに、国司や郡司はちっとも(桑や漆を)殖やそうとしないものだから、国庫の備蓄は全くなかった)

それに続いて天平二年(730)のこととして、

「諸国所進桑漆等帳。或因循旧案。但改年紀。或虚作増減与実不同」

(諸国から届く桑漆帳をみると、前の記録をコピペして日付だけ変えているものや、データを改竄して実際とは異なる報告のものばかりだ)

とあり、さらに

「与実不同者。国司必加貶責。郡司解却見任」

(データ捏造した国司は懲戒対象。郡司は即クビだ!クビ!)

と記されている。




 あくまでもこの条に書かれていることにすぎないが、栽培は規定通り行われていなかったことが見て取れる。これが全国的に敷衍できるかどうかはわからないが、結果として国家に「税」として納められるは「欠乏」していたことは間違いないだろう。

 

 このように書くと、「乾漆の仏像は、漆を惜しみなく使って造られた」という以前の記事 と矛盾があると思われるのではないだろうか。しかし、実はその答えも前の記事には書いてある。もし、が税として国庫に納められていたのであれば、国家機関である造東大寺司監督下で行われた仏像製作に際しては、材料は現物支給されるはずなのだ。しかし、『正倉院文書』の記述では、「漆の価格が一升で200文」とある。このことから、は購入によって賄われていたことが分かる。言い換えれば、相当量のが市場には出回っていたということである。

 

 造東大寺司の商慣習によれば、平城京の東西市の物資調達に際しては、通常の売り手と買い手の間の交渉によって行われる価格決定が、「官主導」で行われていたらしい。造東大寺司が「一升200文」と言えば200文になったのだ。いずれにしても購入にかかる銭は税として納められたものである。律令通りにが納められていれば、せずに済んだ出費だった。

 

 時代は少し下がって、天平宝字六年(762)の六人部荒角(むとべあらすみ)という造東大寺司役人の記録に注目しよう。



「陸奥殿漆者、價四百五十文、自此者一文不減者」

(陸奥殿の漆は一升450文とバカ高い。しかも強気で一文たりとまけないと言っている)

 陸奥殿とは、藤原仲麻呂の四男藤原朝獦(ふじわらのあさかり)のことらしい。彼は(おそらくコピペ・改竄をするような郡司や国司とつるんで、いや、むしろそのような記録捏造を主導するなどして)私的に漆を集積し、売り惜しみをし、仏像造像のために漆を買わなくてはならない役人の足下を見て、漆相場を高騰させ、蓄財に励んでいたということになる。

 これだけで当時の状況を判断するのは危険なことであるが、前の記事でも書いたように、は高価なものになっていったことは間違いないところと言えそうである。

 論文では、他の史料も読み解き、造東大寺司の役人たちが、勢多(近江)の石山寺などと緊密に連絡を取り合って、安い相場のを探すために苦労していた様子も述べられている。

 

造像に必要な漆の量

 さて脱活乾漆像の場合、心となる塑土の上に漆を接着剤として布が少なくとも5層貼り重ねられる(図)。




 これで大まかな形を作り、その上に髪、装飾などの細かい造形が木屎漆を盛り上げて造られる。この木屎漆は、漆そのものの含有量は少なく、使用量としては無視しても構わないらしい。漆を大量につかうのは、全身を覆い尽くす布を貼り付ける工程なのである。



 文献史料にダイレクトに書かれているものとしては、天平宝字四年(760)の「奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳」が挙げられる。これは、脱活乾漆の丈六像を制作する際の材料と分量の記録であるが、ここには漆一斛八斗(斛は石と同義)とある。現在の重さに換算すると96kgだそうだ。

 ほかにはないだろうか。以前に紹介した『正倉院文書』の「造仏所作物帳」には、「興福寺西金堂の造営に二十斛九斗一升の漆が使われた」と記されていた(※)。このとき造られた西金堂の像は、等身大の像が26体、小像2体、丈六の本尊1体であったという(うち、阿修羅像を始めとした八部衆像、十大弟子像のうち6体の等身大像が現存)。漆は堂内の荘厳(飾り付け)にも使われたとのことなので、その分を差し引き(それでも0.96トン)、小像は1/2の大きさと仮定して計算すると、等身大像1体あたり約32kgになる。

 現代の仏師が制作した等身大の脱活乾漆の四天王像に要した漆が1体あたり30kgだそうだ。計算値の妥当性は高いと言える。



※ 前の記事で約200リットルと書いたのは計算間違いで実際は約1500リットル。どこかで 係数を間違えていたのを検算もせずにアップしてしまった、単純かつ恥ずかしいミスだ。お詫びとともに訂正したい。



 『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、天平十四年(742)に金堂には脱活乾漆等身大像が計20体安置されたとある(残念ながら現存していない)。上の計算によれば、32kg×200.64トンの漆が使われたことになる。

 

 ここまでは論文の内容。以下、私の数字のお遊びである。メンドーな話は嫌いという向きは読み飛ばして頂きたい。


問題意識:

 丈六像制作に必要な96kgと等身大像制作に必要な32kg、つまり3倍という比に根拠はないか?


 上の図に示すように、乾漆像制作に必要な漆は、張りボテのように像の表面を覆う布の接着剤もしくは固めるために使われている。このことから考えられるのは、漆の量は像の表面積に比例して(像が大きくなるほど)増加するということである。表面積は長さ(像の高さ=身長で代表される)の2乗に比例する。



 ここで、等身大像の像高を現存する像の平均値として求めると151.4cmとなる。簡単のため、これを 1.5mと考えると、2乗は1.5×1.52.25。丈六像に必要な漆量の比例係数は2.253倍になるので6.75。この6.75に相当する像高は平方根をとって、√6.752.60mとなる。この値は坐像の丈六像の像高である八尺(≒2.4m)に極めて近い値だ。もちろん、上記の丈六像が坐像でなく立像だったらこの計算は成り立たないが、少なくとも現存する像から考えて、丈六像は坐像が一般的だったのではないだろうか。

 このように考え、乾漆像を制作するために必要な漆の量は像高の2乗に比例するのが96kg32kg3倍となって表れたと仮定できそうである。この荒っぽい推測に基づき、上記以外に奈良時代の脱活乾漆像に漆はどのくらい必要だったか、現存する像や文献史料に基づいて計算してみた。

 

東大寺法華堂(三月堂):天平十九年(747)ころの制作、現存。

本尊不空羂索観音菩薩立像 3.6m、梵天立像 4.0m、帝釈天立像 3.8m、金剛力士像2体 3.13.2m、このほか約3mの四天王像4体。

途中の計算式は省くが、これら9体の像のためには約1.4トンの漆となる。

 

東大寺大仏殿の盧舎那仏脇侍 像高三丈(≒9m)の菩薩立像2体:もちろん現存せず。『大仏殿碑文』にあるらしい。

32kg×(9×9)÷(1.5×1.5)×2≒2.6トン

 

東大寺講堂の千手観音菩薩像(聖武天皇御願) 像高二丈五尺(≒7.5m)、虚空蔵菩薩像(光明皇后御願) 像高一丈(≒3m):現存せず。『東大寺要録』にあるらしい。

32kg×(7.5×7.5)÷(1.5×1.5)+ 32kg×(3×3)÷(1.5×1.5≒0.93トン

(数字の遊び、終わり)

 
論文紹介再開


 東大寺は国家の威信をかけた寺院なので特別に巨大な像が造られたとも考えられるが、他の寺院でも大安寺造像のように数百キログラム単位の漆消費は少なからずあったであろう。このようなことを考えると、(前の記事で概算した、漆年間産量≦30トン、は過小評価の可能性もあるが)漆器制作で恒常的に消費されてきた量に上乗せした需要は膨大なものであったに違いない。藤原朝獦ならずとも、投機したくなっても無理からぬものである。

 

木心乾漆の利点

 さて木心乾漆である。脱活乾漆造とは異なり心材となる木の上に漆+麻布の布貼りは1回だけであることが分かっている(図)。




つまり、の必要量は1/5以下で済む。材料を減らすことで制作費の削減につながるのだ。

 さらに、の「乾燥」を考える。工業試験場の実験なので、かなり薄い塗布(多分38μm)が対象であるが、最適条件でおよそ2~3時間らしい(※)は酸素を使って固まるので塗った表面から「乾く」。結果、塗りが厚ければ固まった表面は酸素の侵入を妨げることになり、下まで「乾く」のには時間がかかる。通常の塗りの場合、例えばこのサイト では早くて半日通常は二日程度が目安と紹介されている。

 「乾燥」に際してこのような性質があるため、脱活乾漆造では、麻布を1枚貼るごとに「乾燥」させては、貼り重ねるという作業工程だったのだろう。この待ち時間は当然制作日数に繰り込まれることになる。これに対して布1枚貼りの木心乾漆造では工程も短縮が可能になり、結果人件費も削減が可能になった。

 

※江頭俊郎、鍋田貴之、小川俊夫 「漆の乾燥時間に及ぼす温度および湿度の影響」 マテリアルライフ学会誌 23巻 72~75p (2011)


 本来は、国家の根幹に関わる税であるの投機こそ取り締まらなくてはならないだろう。しかし、藤原朝獦は権力者藤原仲麻呂の子である。記録に残ったためやり玉に挙がった朝獦以外にも投機はあっただろう。おそらくどれも権力者ぐるみのことだったに違いない。その一方、造仏の需要はこれまた高い。これだけで、奈良朝の国家予算が逼迫したとは思わないが、少なくとも造仏に関わる予算削減、というよりはポスト大仏造営の造仏予算健全化の切り札(?)として編み出された造像方法だったと考えられるのである。


 もちろん、その下地としては鑑真によってもたらされた写実的な木彫技術があればこそ、木で心となる仏の姿をある程度造ることも抵抗なくできるようになったのではないだろうか。

 以下は、以前の記事 で紹介した顕微鏡観察の結果明らかになったことであるが、この時代、木をそのまま仏像とするのは、あくまでも檀像の代用なので、素材はカヤ。木心乾漆は、脱活乾漆の簡便法なので、中は構造材に過ぎず、建築材として多用されているヒノキ。という厳密な使い分けが行われていたと考えられる。いずれにしても、この木心乾漆は奈良時代後半から平安時代初期の仏像の中で大きなウエイトを占める。

 日本史では、遷都もあったため二つの時代は断絶しているような印象を持つが(あるいは意図的に持たされている?)、仏像彫刻をみると、案外地続きのようにも思えるのである。

(続く)

 

次回は、いくつかの秀作をご紹介したい。