ずっと以前、天武天皇が忍者だったという説があることを、
書きました。日本書紀に、「天文遁甲を能くしたまえり」とい
う記述があります。この「遁甲」とは、忍術のことです。また、
壬申の乱では「多胡弥」という忍者を実際に重用していま
す。
忍術を自ら使えたという記述が日本書紀にある上に、優秀
な忍者を部下として使い、壬申の乱を乗り切った。となると、
かなり信憑性のある話です。
そしてこの「壬申の乱」では、ほぼ裸一貫で都を脱出した天
武(当時はまだ大海人皇子)が東国から「親蘇我氏」の軍団
を数多く引き連れて挙兵。形勢を逆転したことにも、注目した
いところです。
実はこれよりだいぶ前の時代、推古天皇とその摂政の厩戸
皇子が、大伴細人という忍者を重用していました。この人物
は、甲賀忍者の祖とも言われています。
そして推古天皇と厩戸皇子といえば、共に動いていたのは
蘇我馬子でした。大伴細人と推古天皇らを結び付けたのは、
蘇我馬子と考えられるのです。
そうなってくると、蘇我氏を慕う連中が大海人皇子の援軍と
なったのも、敵である大友皇子を推すその父・天智天皇が蘇
我入鹿を討った、いわば蘇我氏の天敵だったこともあります
が、大海人皇子がもっと深い仲だったことが、考えられます。
前半生が謎だったとされる、天武天皇。しかし彼が一時、大伴
細人をルーツとする甲賀忍者の集団と親しくし、忍術もある程
度修得した。その後、壬申の乱の際にはその忍者集団が味方
した。そういう構図は、見えてきますね。
壬申の乱で大海人皇子を援護した「親蘇我派」というのは、多く
が忍者集団だった。そのため戦術に長けていて、壬申の乱を制
することができた。そう考えて良いのでは。と思われます。