晩節を汚した?ロータス以降走り続けたグラハム・ヒルと“エンパシー・ヒル”の軌跡と終焉 | 日日不穏日記・アメブロ版

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 75年のスペインGPは、グラハム・ヒルのプライベートチーム「エンバシー・ヒル」が参戦3年間にして待望の自社製シャシーGH1のデヴュー戦だった。それが、あの大惨事。

 ドライブしていたロルフ・シュトメレンも重傷を負い、離脱。続く第5戦モナコGPで、“ミスター・モナコ”の名を欲しいままにしてきたヒル自身が屈辱の予選落ち。

 遂にヒルはこのレースを以って、レーシングドライバーとしてのキャリアに終止符を打つ。

 68年に2度目のチャンピオンとなったヒルは、翌69年の第3戦モナコGPの優勝が最後となり、速さでチームメイトのヨッヘン・リントに完全に後れを取ってしまう(リントが5回のPPなのに対し、ヒルは3位2回が最高)。

 このシーズン終了後、ヒルはロータスを去り、ロブ・ウォーカー・レーシング・チームのプライベート・ロータスで走り続けたが、4位が最高。入賞がやっとという状況になってしまう。

 過去の栄光を考えれば、40歳を超えた時点で引退の道を選んでもよかった筈だ。が、ヒルは自らのチームを立ち上げるという選択をする。

<Graham Hill , principe di Monaco (Gp Monaco 1969) - Perle di sport>



 73年に自らのチームを設立。73年はシャドウ、74年はローラのシャシーを購入して参戦するも、ヒル自身の6位入賞が1度だけ(74年、スウェーデンGP)。

 そしてようやく自社製シャシーを投入しての大事故に、最も得意とするサーキットでの予選落ち。現役に執着してきたヒルも、チームの舵取りに専念すべきと考えたのも当然だろう。

 モナコ以降は、ドライバーの入れ替わりはあったものの、主にトニー・ブライズと、アラン・ジョーンズがドライブ(ブライズがスウェーデンGPで6位、ジョーンズがドイツGPで5位入賞)。

 この結果に満足出来なかったヒルは、シーズン終了後、翌シーズン用マシンGH2のテストをフランスのポール・リカール・サーキットで行い、あくまで自チームでのF1参戦に執念を見せていたのだが・・・

 その帰途での飛行機事故。ヒルだけでなく、同乗していたブライズも死亡し、無保険だったため、遺族は莫大な補償金を背負うことになってしまった。

 F1ドライバーのキャリア18年のうち、最後の6年は余録だった。そしてチームが存続していても厳しい状況は変わらなかったろう。それでも戦い続けたヒルを駆り立てたものは何だったのだろうか?