△リング上で記念撮影するSEDの関係者

福島市の中心部から微温湯街道を西に6・5㌔㍍ほど進むと、3階建てのビルが見えてくる。建設機械や建設資材のリース業をメインにするサンビルドの本社だ。フルーツラインとの交差点付近で、吾妻連峰が目の前に見える。周辺は水田地帯で、約400㍍東側に福島西工業団地がある。
サンビルドは地場ゼネコンである佐藤工業の関連会社だ。創業は1974年で、前述したリース業以外に運輸業や警備業も手掛けている。日曜はひっそりしていることが多いが、12月16日は例外だった。敷地の駐車場に車が次々と停まり、車内から出てきた人々はビルの北側にある巨大な倉庫に吸い込まれていった。
倉庫内にはプロレス用のリングが設営してある。ここはアマチュアのプロレス団体「SED」の練習場で、「SEDアリーナ」とも呼ばれている。この日は興行が開催されるため、リングの周辺に100席ほど椅子が並べられた。防寒対策として、ストーブが炊かれた。

△会場の入口に掲示された大会ポスター

SEDは、プロレス好きの佐藤勝也代表が2002年に設立した。アルファベット3文字の団体名は安全に(Safety) 十分配慮して、 楽しく(Enjoy) プロレスをし、それを観るお客さんに喜んでもらう(Delight)という意図がある。
安全面に配慮して、頭部にダメージを与えるバックドロップ、ジャーマンスープレックス、パイルドライバー、雪崩式○○などの技は禁じ手としている。また、興行に当たっては台本をつくり、それに従って演習を行い、試合に臨むという手法をとっている。

2003年3月16日にプレ旗揚げ興行をここSEDアリーナ、同年5月18日に旗揚げ興行を福島市の街なか広場でそれぞれ行い、団体としての活動を正式にスタートした。当時のメンバーは選手15人、スタッフ5人の計20人。アマチュアながら、プロ仕様のリングを所有。年に5~6回のペースで興行を開催し、観衆を楽しませることに全力を挙げてきた。会場は福島県内が多いが、要請があれば山形県や宮城県にも出向いてきた。
SEDが活動をスタートさせて15年9カ月が経過した。12月16日は、通算100回目の興行にあたる。佐藤代表は「本大会をもって興行活動に『区切り』をつける」と公言。2019年以降は興行を予定しておらず、今大会が事実上のフィナーレになる公算が強い。それが今大会の価値を高めたようで、用意された100席は熱心なファンでほぼ埋まった。

△会場前に停車した信州プロレスの車

本大会では次の4試合が組まれた。
【第1試合】団体対抗戦
△見ろ!升辛子VS白神蒼魔
【第2試合】4WAYマッチ1人勝ち残り時間無制限1本勝負
△ビッグジョーVSミスター・アトミックVSザ・とむザップVSスーパーSEDマシーン
【セミ・ファイナル】6人タッグマッチ20分1本勝負
△零・ミステリオ&ビルダー佐藤&キューティ・ザ・マミーVSパワーロード&ゆう×2・くらのすけ&グレート・ムダ
【メイン・イベント】SED認定シングル選手権試合時間無制限1本勝負
△カート・スパイダー(王者)VSエス・サムライ(挑戦者)

△青森人対決を制した見ろ!升辛子

第1試合は、青森在住者同士の対決。升辛子は通信会社勤務。青森から福島に単身赴任したときにSEDと出会い、入団した。青森に帰還した現在も定期的にSEDのリングに上がっている。一方、白神は五所川原の総合格闘技道場「T-Pleasure(ティー・プレジャー=津軽衆の意)」に所属している。今大会ではマスクを着けてレスラーに変身。T-Pleasureが送り込んだ刺客という設定になっている。
試合は白神ペースで進んだ。普段から総合格闘技の練習をしているため、投げ技や絞め技が多彩である。升辛子は体力を消耗し、得意の空中殺法を封じ込められた。白神はマウントをとり、升辛子をタコ殴り。そのとき、レフェリーがリングサイドにあったチューブを升辛子に手渡した。チューブには激辛七味唐辛子が入っており、升辛子はそれをひねり出して白神の顔に塗りつけた。顔を押さえてリング上を転げ回る白神。これを機に升辛子は本来の動きを取り戻し、空中殺法を次々と披露した。最後はダイビング・ボディアタックを白神に見舞い、片エビ固めで3カウントを奪った。

△アマチュアとは思えないビッグジョー

第2試合は、バトルロイヤルの4人版である。ビッグジョーは身長190㌢㍍、体重150㌔㌘という巨漢。とむザップとアトミックの2人は本大会がデビュー戦となった。マシーンはSEDで「第1試合の番人」と言われているが、本大会では第2試合に登場した。
ゴングが鳴る前にとむザップ、アトミック、マシーンの3人が青コーナー前で話し合いを始めた。巨漢のジョーをどう扱おうか悩んでいる様子だ。ジョーは赤コーナー前で仁王立ちし、3人の話し合いを冷ややかな表情で眺めた。そのうちイライラし始め、「早く終わってほしいんですけど」と捨てゼリフを吐いた。

△勝ち名乗りを挙げるSEDマシーン

試合開始のゴングが鳴ると、4人の中では最も体が小さいとむザップが集中的に狙われた。ジョーとザップがリング上で1対1になり、マシーンとアトミックがリング外でその戦いを見守る場面もあった。紆余曲折を経て、最初にマシーンが魔神風車固めでザップをフォール。続いてジョーがスクールボーイでアトミックをフォール。リング上にはジョーとマシーンの2人が残った。
1対1になれば、巨漢のジョーが圧倒的に有利。マシーンは防戦一方になった。勝利を確信したジョーは、不敵な笑みを浮かべ、観客に「どうだ!」とアピール。そのとき、ジョーに隙ができた。マシーンはそれを見逃さず、V9クラッチを仕掛けた。ジョーは両肩をマットにつけたまま動けなくなり、3カウントを聞いた。起き上がったジョーは「何が起こったんだ?」と驚きの表情を浮かべ、あたりを見渡した。

△リング上からあいさつする岩城元法相

第2試合と第3試合の間に10分間の休憩があった。この時間を利用して、信州プロレス関係者と岩城光英元法務相がリングに上がり、観客にあいさつした。

第3試合(セミ・ファイル)は6人タッグマッチ。零・ミステリオとビルダー佐藤は、義理の親子である。佐藤の娘とミステリオが夫婦という関係。ミステリオには子どもが3人おり、うち2人は男子小学生だ。祖父、父親と同じようにプロレスが大好き。佐藤が試合をするときは、2人も同じマスクをつけてリングに登場する。3番目の子どもはまだ小さいため、佐藤が抱いてリングに登場した。
ミステリオは試合から何年も遠ざかっていたが、本大会で復帰を果たした。36歳という年齢は、SEDでは若手の部類に入る。

△赤いマスクを着用するビルダー佐藤

マミーは、キューティというリングネームとは裏腹の存在だ。全身が包帯で覆われており、叩くと白い粉が舞い上がる。チェーンを振り回してリングに向かうため、場内には「お気をつけください」というアナウンスが流れる。今大会では、そんなマミーにブーイングを浴びせる観客がいた。マミーはその観客に向かって突進し、首にチェーンを巻きつけてボコボコした。

△ブーイングした観客を暴行するマミー

パワーロード、くらのすけ、グレート・ムダの3人は、SEDの古株だ。パワーロードは、街なか広場大会ではフェアレディZに乗って現れることが多い。今大会は屋内で行われたため、控え室から普通に登場した。軽量のくらのすけは、空中殺法を得意にしている。ムダは、そのリングネームから想像がつくように、グレート・ムタのパロディだ。
ミステリオは久々のリング復帰だったが、軽快な動きを見せた。パワーロードとの攻防は様式美さえ感じさせた。パワーロードは51歳という年齢にも関わらず、ミステリオの動きについていった。長年にわたってSED認定シングル王者に君臨していただけのことはある。

△場外乱闘に参加する佐藤の孫2人

試合中盤、パワーロードは佐藤に足4字固めをかけた。リング上で痛みに堪える佐藤。そのとき、孫2人がリングに上がり、パワーロードを攻撃した。これを機にリング上とリング下で計8人が入り乱れ、収拾がつかなくなった。マミーがくらのすけを羽交い締めにすると、孫2人はその胸に正拳突き。くらのすけは苦悶の表情を浮かべながら、ダウンした。
試合はアップテンポになり、クライマックスに突入。パワーロードはミステリオをロープに振り、戻ってきたところでアックス・ボンバーを叩き込んだ。ミステリオは空中で一回転して、ダウン。パワーロードはエビ固めで抑え込み、3カウントを奪った。

△試合開始前のサムライとスパイダー

第4試合(メイン・イベント)はSED認定シングル選手権試合。SEDの活動を締めくくる大一番だ。王者はカート・スパイダー。挑戦者はエス・サムライ。どちらも本業は会社の社長である。
スパイダーは派手なコスチュームに身を包んでリングに登場した。肩にはSEDシングル王者のベルトを乗せていた。一方、サムライは上から下まで黒ずくめ。腰には刀をつけていた。リングに上がると、刀を振り回すパフォーマンス。その瞬間、会場は歓声に包まれた。

△赤コーナーのポストに上がるサムライ

試合開始にあたり、コミッショナーが「この試合はSED認定シングル選手権試合である」と宣言。続いて、レフェリーがベルトを両手で掲げ、観客に示した。
ゴングが鳴ると、2人はリング上でにらみ合い、相手の出方を伺った。オーソドックスな攻防を展開したあと、スパイダーは蹴り技を次々と繰り出した。寝技より蹴りの方が有効と判断したようだ。サムライが膝立ちになるたびに、その後頭部に蹴りを入れた。サムライは前のめりに倒れ、そのままダウンした。
劣勢のサムライに対して、観客から「サムライ!サムライ!」というコールがわき起こった。
その声に背中を押されて、サムライは反撃に転じた。スパイダーの蹴りを封じ込めるため、ドラゴンスクリューを連発。足にダメージを受けたスパイダーは、動きが鈍くなった。

△仲間に担ぎ上げられたサムライ

チャンス到来と判断したサムライは、大技を試みた。青コーナーによじ登り、スパイダーの胸にめがけてミサイルキック。続いて、赤コーナーによじ登り、スパイダーの胸にめがけて再びミサイルキックを放った。サムライはエビ固めでスパイダーを抑え込み、3カウントを奪取した。劇的な逆転勝利である。
試合でエネルギーを使い果たした2人は、リング上で大の字になった。しばらくすると起き上がり、お互いの手を握り健闘を称え合った。
サムライは、腰にSEDシングルのベルトを巻いた。パワーロード、ムダ、くらのすけの3人に担ぎ上げられてガッツポーズ。SED代表がフィナーレを飾るというハッピーエンドの展開だった。

△リング上で万歳する選手・スタッフ

試合終了後、サムライはマイクを握り、観客にあいさつした。
「100回という節目と同時に、今大会をもちましてSEDとして興行を開催するのは最後にしたいと考えています。SEDをつくってよかったな、長い間続けてきてよかったなと思います。本当にありがとうございます」
マスクで顔は見えなかったが、そのたどたどしい口調からサムライが泣いているのは明らかだった。その姿を見ていられなくなったのだろう。途中からパワーロードがマイクを握り、観客にあいさつした。
この後、選手全員とスタッフがリングに上がり、観客とともに万歳三唱。これをもって、SEDは15年9カ月の活動にピリオドを打った。

【文と写真】角田保弘





△長渕が死にたいくらいに憧れた東京

シンガー・ソングライター長渕剛の代表曲といえば、『乾杯』『とんぼ』『ろくなもんじゃねえ』『巡恋歌』『順子』を挙げるファンが多いのではないか。
『乾杯』は結婚式の定番、『とんぼ』は清原和博(元プロ野球選手)の登場曲、『ろくなもんじゃねえ』は自らも出演したテレビドラマ『親子ジグザグ』の主題歌、『巡恋歌』は長渕が再デビューするきっかけになった曲、『順子』は有線放送で人気に火がついてオリコンチャートの1位を獲得した(元はアルバムの一曲)。
これらの曲もいいが、コアなファンは『逆流』を挙げるのではないか。1979年にリリースされた長渕の2枚目のオリジナルアルバム『逆流』に収録されている。曲名がそのままアルバムタイトルになったのだ。この曲に対する長渕の思い入れが感じられる。

アルバムの一曲なので、朝日新聞「うたの旅人」で取り上げられたことはない。ネットで検索しても、この曲の背景を解説する記事は発見できなかった。「歌詞にある『奴がブーツのボタンをはずしていようと』はどういう意味?」という書き込みが出てくる程度だ。となれば、聴き手が長渕の思想・信条などを考慮しながら、歌詞の意味を独自に判断するしかない。
曲名も解釈の余地がある。歌詞に「逆流」という単語はない。それに似た単語もない。だから、歌詞全体を読み込んで、『逆流』という曲名になった理由を推測しなければならない。

長渕は1976年、ヤマハ音楽振興会主催の第12回ポピュラーソング・コンテスト(ポプコン)に出場し、『雨の嵐山』で入賞した。翌1997年にビクター・レコードから同曲でデビューしたが、さっぱり売れなかった。しかも、長渕剛という名前を「ながぶちごう」という読み方にされた。本人はフォークシンガーのつもりだったが、演歌・歌謡曲路線で売り出され、レコード店巡りやデパートの屋上でアイドルの前座などをやらされた。その活動に嫌気が差し、デビュー前に活動の拠点にしていた福岡に戻った。

1978年に15回ポプコンに出場し、『巡恋歌』で入賞した。東芝EMIから同曲で再デビュー。名前の読み方は本来の「ながぶちつよし」に戻された。南こうせつと知り合い、ニッポン放送「南こうせつのオールナイトニッポン」内に「裸一貫ギターで勝負」のコーナーを設けてもらった。これがきっかけとなって知名度が高まり、人気フォークシンガーの道を歩み出した。
翌1979年3月に初のオリジナルアルバム『風は南から』、11月に前述した2枚目のオリジナルアルバム『逆流』を相次いでリリース。同年は4月からニッポン放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティーを単独で務めた。最初は2部(3~5時)だったが、半年後の10月に1部(1~3時)へ格上げされた。

こうした活動の中で発表されたのが『逆流』である。歌詞は「僕がここを出て行くわけは 誰もが僕の居場所を知ってたから」で始まる。「ここ」と「居場所」については、具体的なことが示されていない。
歌詞全体から判断すると、「ここ」は福岡、「居場所」は活動拠点ではないかと思う。だから、歌詞をより具体的にすると、「僕が福岡を出て行くわけは 誰もが僕の活動拠点を知っていたから」となる。長渕は福岡のライブ喫茶「照和」を活動拠点にしていたので、居場所イコール照和と解釈できる。
歌詞は「やさしさを敵にまわしてでも 生きてる証しが欲しかった」と続く。「やさしさ」とは「居心地の良さ」、「生きている証し」とはフォークシンガーとして有名になるという目標だ。

つまり、こういうことである。
長渕は『雨の嵐山』でレコードデビューを果たし、いったんは「死にたいくらいに憧れた『花の都』大東京」に乗り込んだ。しかし、レコードがさっぱり売れず、不本意な活動をさせられたため、福岡に引き返した。
福岡は東京と違って、ギスギスしていない。周りに居るのは顔見知りばかりだし、「照和」という活動拠点もある。このまま福岡に居続ければ、フォークシンガーとして飯が食えるかもしれない。一方で、その居心地の良さにどっぷりとハマり、安住すれば、ローカルな存在で終わってしまう。自分の目標は有名なフォークシンガーになること。それこそが、生きている証しだ。 その目標を実現するために、リスクを承知の上でもう一度、東京で勝負をしよう…。
そういう気持ちが、前述した歌詞につながったのではないか。『逆流』という曲名は、福岡→東京→福岡→東京という変遷を指していると解釈できる。再び東京に乗り込むから、『逆流』なのだ。

歌詞はさらに「奴がブーツのボタンをはずしていようと 奴が他人の生きざま馬鹿にしようとも」と続く。 この「ブーツのボタンをはずしていようと」は、意味が分からないというファンが多い。
この疑問に対しては、「歩くことを止めて、そこにとどまること」という回答が寄せられている。確かにそう解釈すれば、歌詞全体に一本の筋が通る。

それにしても、長渕はなぜ、こういう突拍子もない歌詞を思いついたのか。
「ブーツのボタンをはずす」に近い慣用句がある。「草鞋を脱ぐ」だ。旅の途中で、一時的に身を落ち着けるという意味。長渕はこの慣用句を元にして、「ブーツのボタンをはずす」という歌詞をつくったのではないか。ブーツと草鞋の違いはあるが、同じ履き物だから、イメージは一致する。
「奴が他人を生きざま馬鹿にしようとも」は、周りの雑音だろう。「また上京する気なのか。懲りないな。お前が全国区のフォークシンガーになるのは無理。そんな夢をいつまで見続けているんだ」という声だ。
自分はそういう声を押し退けて、再び上京する。挑戦することを諦めたら、その時点で自分はフヌケになってしまう。挑戦し続けることが自分の生き方だと長渕は言いたいのではないか。

2番の歌詞は「ひび割れた悲しみに 縛られる前に コップ一杯の水を飲みほそう」 で始まる。「ひび割れた悲しみ」は初めて上京したときの苦い経験を指していると解釈できる。それに縛られていると、再挑戦の意欲が低下してしまう。水を飲んで鋭気を養い、体力を回復した上で再び上京しようという意味だろう。
歌詞は「たとえば誰かが さびれたナイフで 僕に軽蔑を突きつけても あ…腰を据えて受けてやる」と続く。これも最初に上京したときの苦い経験を指していると解釈できる。
最初に上京したときは周りの言いなりになり、自分のやりたいことができなかった。だから、再び上京したときは、自分のやりたいことをやろう。それでトラブルが起きたとしても、逃げずにきちんと受けてやろう。それくらいの覚悟をしないと、同じ失敗を繰り返すことになる。

『逆流』は、長渕の代名詞とも言える『とんぼ』と類似性がある。ともに上京をテーマにしており、挫折や葛藤が描かれている。『とんぼ』は東京で苦い経験をした長渕が、福岡に引き返す曲だ。これに対して、『逆流』は福岡で鋭気を養った長渕が、再び上京する曲だ。先に世に出たのは『逆流』だが、物語としては『とんぼ』の方が先になる。この2曲を一体的に捉えると、長渕の人生が見えてくる。

【文と写真】角田保弘


△勝利のインタビューを受ける森山HC

福島県のプロスポーツチームは、経営難から逃れられない運命なのだろうか-。倒産状態に陥った福島ホープス(BCリーグ)に続いて、福島ファイヤーボンズ(Bリーグ2部)も窮地に立たされた。チーム力はそこそこのレベルにあるが、観客動員が低迷している。県民がチケットを積極的に購入し、チームの経営を後押ししないと、来シーズン(2019~20年)はBリーグ3部への降格もありうる。
チームを運営する福島スポーツエンターテイメントは2016~17年に1726万円、2017~18年に2779万円の経常損失を計上し、2期連続の赤字となった。Bリーグには「3期連続赤字決算のチームは成績にかかわらず、次のシーズンのライセンスが交付されない」という規定がある。このため、ボンズがB2に残留するためには、今期(2018~19年)の決算を黒字化しなければならない。赤字決算になると、仮にB2で優勝しても、来シーズンはB3で戦うことを余儀なくされる。

△3期連続赤字の阻止に動く宮田社長

同社の宮田英治社長は12月6日、県庁で記者会見し、「新しい企画でファン層を拡大し、チケット収入の増加を図る」という方針を明らかにした。
今期は1試合平均観客数1500人を目標にしている。昨期は同1441人だった。今期は開幕直後の段階で同1104人にとどまっており、昨期比337人減となっている。これは招待チケットを減らしたことも要因の1つだ。
今期のチケット収入は、4250万円を目標にしている。30試合中12試合を終えた時点で1537万円なので、順調なペースとは言いがたい。企画チケットを導入したり、アウェーゲームの際に県内でパブリックビューイングを開催して、新規ファンの獲得を図る。また、12月から2月にかけて、選手が学校を訪問し、子供たちと交流する。
スポンサー収入は9550万円を目標にしている。11月末の時点で8496万円なので、目標まであと一歩だ。
今期は人件費や運営費などを圧縮し、支出を昨期比で約2800万円削減する。興行演出は簡素化し、商品開発は手を広げない。

△熱気ムンムンの福島市国体記念体育館

B2は、18クラブで構成されている。このうち、2期連続赤字となったのは福島、群馬クレインサンダース、金沢武士団、西宮ストークス、奈良バンビシャス、島根スサノオマジックの6クラブだ。福島、群馬、金沢、奈良の4クラブは債務超過の状態でもある。債務超過の場合は、2020~21年までに解消できなければライセンスを交付されない恐れがある。

福島は2014~15年にbjリーグに参戦した。15~16年も継続。16~17年は新設のB2に参戦し、今シーズンは3年目となった。運営会社の福島スポーツエンターテイメントは郡山市に事務所がある。ホームアリーナは郡山総合体育館で、福島市国体記念体育館、あいづ総合体育館、いわき市立総合体育館などでも試合をしている。
チームが設立されたのは、2011年3月の東京電力福島第一原発の事故がきっかけだった。この事故で県内に放射性物質が拡散されたため、子供たちがあまり外出しなくなった。外遊びの機会も減少。その影響は大きく、子供たちの体力低下や肥満傾向がデータで明らかになった。

△ホームアリーナの郡山総合体育館

郡山市で専門学校などを運営する新潟総合学院(現・国際総合学園)のFSGカレッジリーグは、この事態を深刻に受け止めた。在校生は主に20歳前後の若者だが、子供についても人材育成の面で関与できないかと考えていたからだ。
児童、特に小学5年生は運動能力の向上を図る上でポイントになる年代だ。この年代に活発に動かないと、中学高校時代に運動能力が伸び悩むとされる。
「外遊びができないのであれば、屋内競技に目を向ければよい」
FSGはそんな発想のもとにbjリーグに協力を要請した。

bjリーグは2005~06年に発足したバスケットボールのプロリーグだ。リーグ戦の進行だけでなく、競技人口の拡大を図るため、関東地方でバスケットボールスクールを運営している。FSGはそのカリキュラムを導入し、バスケットボールを通じて子供たちの運動能力を向上させようと考えた。bjリーグは協力を確約した。

△チアリーダーのイラストが入った痛車

FSGは、2013年6月にbjリーグ公認のバスケットボールスクールを郡山市に開校した。その動きが県内各地に広がり、福島、会津若松、いわき、白河、二本松、須賀川の6市にも開校した。
一方、bjリーグはFSGにこんな話を持ちかけた。
「スクールの運営だけでなく、プロチームを立ち上げてbjリーグに参戦しませんか。プロの試合が身近な場所で開催されれば、子供たちが観戦し、刺激を受けるでしょう。笑顔が増えて、元気も出るはずです」
屋内競技のバスケットボールは、積雪の多い東北地方に適している。当時はbjリーグに仙台89ers、秋田ノーザンハピネッツ、岩手ビッグブルズが参戦し、青森ワッツの参戦が決定していた。東北6県でチームがないのは福島、山形の2県だけ。東北各県にチームが設立され、地域対抗戦のような形になればリーグが盛り上がるので、設立を要請したのだ。

△ボンズの経営を支援するスポンサー

FSGは対応を協議し、チーム設立の可能性を探った。本家にあたる新潟総合学院はもともとアルビレックス新潟の有力スポンサーなので、スポーツとの関係が深い。県内の主要企業に相談すると、「スポンサーになってもいい」という反応を得た。年間の運営費1億円を集められるという感触を得たので、チームを設立し、bjリーグに参戦することを決めた。
2013年5月に福島スポーツエンターテイメントを設立した。宮田社長は三重県出身で、中学生のときに小野町に引っ越した。田村高からFSG系列の郡山情報ビジネス専門学校に進学。卒業後は郡山市の自動車関連会社でシステムエンジニアとして働いた。母校の専門学校に戻って教員に。原発事故後は、前述したバスケットボールスクールの運営を担当した。その手腕を評価されて、社長に選任された。

△ファンとハイタッチする藤田前HC

チーム名は福島ファイヤーボンズと決定した。ファイヤーは「燃え上がる闘志」、ボンズは「絆」「結束」を意味している。チームカラーはフクシャパープルで、「福島の幸せ」を表現している。
初代ヘッドコーチは、群馬クレインサンダース前ヘッドコーチ代行の藤田弘輝が就いた。母方の祖父母が会津若松市出身だったので、自ら売り込み、その座をゲット。現在はB1三遠ネオフェニックスのヘッドコーチを務めている。藤田の後任は、bj福岡ライジング前ヘッドコーチの森山知広が就いた。

△チームマスコットの「ボンズくん」

福島に2015~16年、ルブライアン・ナッシュという選手がいた。アメリカ生まれで、オクラホマ州立大を経てbjリーグ時代の福島に入団した。10月に月間MVPを獲得し、1月のbjリーグオールスターゲームに出場。25得点9リバウンドを挙げMVPに選ばれた。2月28日の信州ブレイブウォリアーズ戦(伊那市民体育館)で54得点を挙げ、1試合最多得点のリーグ新記録を更新。同シーズンは1試合平均26.6得点をマークし、リーグ最多得点のタイトルを獲得した。
紆余曲折を経て、今シーズンはB2の東京八王子ビートレインズでプレーしている。

△選手たちに向かって旗を振る子供たち

2016~17年は、福島のブースターの間で「遠征用バスをボンズカラーに塗ろう」という活動が盛り上がった。
プロチームの遠征用バスは、一目でそれと分かるカラーリングになっていることが多い。側面にチームロゴやマスコットのイラストが入っており、ファンがその前で写真を撮ったりする。しかし、福島の遠征用バスは何のカラーリングも施されておらず、他チームの遠征用バスに比べると、地味という印象が拭えなかった。
そこで立ち上がったのがブースターだ。「選手をラッピングバスに乗せてあげたい!」として、募金集めを始めたのだ。その主体になったのが子どもたちだ。募金箱を持って会場内を回り、「ラッピングバスの制作にご協力くださ~い!」と声を出した。募金に協力してくれた人には紙を差し出し、名前を書いてもらった。その名前を後にフェイスブックで公開し、感謝の意を示した。募金した人は、紙に名前を書かなかった人も含めて約600人だった。

△サンタの衣裳で踊るチアリーダー

募金総額は27万4484円だった。ラッピングバスの制作費はその約10倍なので、これでは頭金にもならない。かとって、この先10年間も募金活動をやるわけにはいかないので、バス運行を請け負う福島観光自動車や福島スポーツエンターテイメントと話し合い、その金額で対応できるマグネットバスを制作することになった。
ラッピングバスは見た目は派手だが、代わりが効かないので、車両が固定されるという欠点がある。マグネットは張り替えが容易なので、そのつど車両を更新できるという利点がある。
バス用のマグネットと余剰金で制作されたビッグフラッグの贈呈式は2017年12月23~24日、秋田戦(郡山総合体育館)の際に行われた。クリスマスの時期だったので、子どもたちはサンタクロースやトナカイの格好で登場し、宮田社長と森山ヘッドコーチに贈呈品を手渡した。

△大きな声で募金を呼び掛ける子供たち

バスケットボールは屋内競技なので、試合環境が一定している。野球のように雨天中止になることはないし、サッカーのように雨の中で試合をすることもない。これは観客にとってもいい環境だ。熱中症になることはないし、寒さでブルブルと震えることもない。野球やサッカーのシーズンと被らないのもいい。
屋内競技なので、選手と観客の距離が近い。しかも、長身の選手が多いので、迫力がある。外国人選手は、同じ人類とは思えないほど大きい。試合のテンポがいいので、途中で眠くなることはない。1度も観戦したことがない人は、試しに会場に足を運んでみてはどうか。きっとハマるはずだ。

【写真と文】角田保弘