△長渕が死にたいくらいに憧れた東京

シンガー・ソングライター長渕剛の代表曲といえば、『乾杯』『とんぼ』『ろくなもんじゃねえ』『巡恋歌』『順子』を挙げるファンが多いのではないか。
『乾杯』は結婚式の定番、『とんぼ』は清原和博(元プロ野球選手)の登場曲、『ろくなもんじゃねえ』は自らも出演したテレビドラマ『親子ジグザグ』の主題歌、『巡恋歌』は長渕が再デビューするきっかけになった曲、『順子』は有線放送で人気に火がついてオリコンチャートの1位を獲得した(元はアルバムの一曲)。
これらの曲もいいが、コアなファンは『逆流』を挙げるのではないか。1979年にリリースされた長渕の2枚目のオリジナルアルバム『逆流』に収録されている。曲名がそのままアルバムタイトルになったのだ。この曲に対する長渕の思い入れが感じられる。

アルバムの一曲なので、朝日新聞「うたの旅人」で取り上げられたことはない。ネットで検索しても、この曲の背景を解説する記事は発見できなかった。「歌詞にある『奴がブーツのボタンをはずしていようと』はどういう意味?」という書き込みが出てくる程度だ。となれば、聴き手が長渕の思想・信条などを考慮しながら、歌詞の意味を独自に判断するしかない。
曲名も解釈の余地がある。歌詞に「逆流」という単語はない。それに似た単語もない。だから、歌詞全体を読み込んで、『逆流』という曲名になった理由を推測しなければならない。

長渕は1976年、ヤマハ音楽振興会主催の第12回ポピュラーソング・コンテスト(ポプコン)に出場し、『雨の嵐山』で入賞した。翌1997年にビクター・レコードから同曲でデビューしたが、さっぱり売れなかった。しかも、長渕剛という名前を「ながぶちごう」という読み方にされた。本人はフォークシンガーのつもりだったが、演歌・歌謡曲路線で売り出され、レコード店巡りやデパートの屋上でアイドルの前座などをやらされた。その活動に嫌気が差し、デビュー前に活動の拠点にしていた福岡に戻った。

1978年に15回ポプコンに出場し、『巡恋歌』で入賞した。東芝EMIから同曲で再デビュー。名前の読み方は本来の「ながぶちつよし」に戻された。南こうせつと知り合い、ニッポン放送「南こうせつのオールナイトニッポン」内に「裸一貫ギターで勝負」のコーナーを設けてもらった。これがきっかけとなって知名度が高まり、人気フォークシンガーの道を歩み出した。
翌1979年3月に初のオリジナルアルバム『風は南から』、11月に前述した2枚目のオリジナルアルバム『逆流』を相次いでリリース。同年は4月からニッポン放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティーを単独で務めた。最初は2部(3~5時)だったが、半年後の10月に1部(1~3時)へ格上げされた。

こうした活動の中で発表されたのが『逆流』である。歌詞は「僕がここを出て行くわけは 誰もが僕の居場所を知ってたから」で始まる。「ここ」と「居場所」については、具体的なことが示されていない。
歌詞全体から判断すると、「ここ」は福岡、「居場所」は活動拠点ではないかと思う。だから、歌詞をより具体的にすると、「僕が福岡を出て行くわけは 誰もが僕の活動拠点を知っていたから」となる。長渕は福岡のライブ喫茶「照和」を活動拠点にしていたので、居場所イコール照和と解釈できる。
歌詞は「やさしさを敵にまわしてでも 生きてる証しが欲しかった」と続く。「やさしさ」とは「居心地の良さ」、「生きている証し」とはフォークシンガーとして有名になるという目標だ。

つまり、こういうことである。
長渕は『雨の嵐山』でレコードデビューを果たし、いったんは「死にたいくらいに憧れた『花の都』大東京」に乗り込んだ。しかし、レコードがさっぱり売れず、不本意な活動をさせられたため、福岡に引き返した。
福岡は東京と違って、ギスギスしていない。周りに居るのは顔見知りばかりだし、「照和」という活動拠点もある。このまま福岡に居続ければ、フォークシンガーとして飯が食えるかもしれない。一方で、その居心地の良さにどっぷりとハマり、安住すれば、ローカルな存在で終わってしまう。自分の目標は有名なフォークシンガーになること。それこそが、生きている証しだ。 その目標を実現するために、リスクを承知の上でもう一度、東京で勝負をしよう…。
そういう気持ちが、前述した歌詞につながったのではないか。『逆流』という曲名は、福岡→東京→福岡→東京という変遷を指していると解釈できる。再び東京に乗り込むから、『逆流』なのだ。

歌詞はさらに「奴がブーツのボタンをはずしていようと 奴が他人の生きざま馬鹿にしようとも」と続く。 この「ブーツのボタンをはずしていようと」は、意味が分からないというファンが多い。
この疑問に対しては、「歩くことを止めて、そこにとどまること」という回答が寄せられている。確かにそう解釈すれば、歌詞全体に一本の筋が通る。

それにしても、長渕はなぜ、こういう突拍子もない歌詞を思いついたのか。
「ブーツのボタンをはずす」に近い慣用句がある。「草鞋を脱ぐ」だ。旅の途中で、一時的に身を落ち着けるという意味。長渕はこの慣用句を元にして、「ブーツのボタンをはずす」という歌詞をつくったのではないか。ブーツと草鞋の違いはあるが、同じ履き物だから、イメージは一致する。
「奴が他人を生きざま馬鹿にしようとも」は、周りの雑音だろう。「また上京する気なのか。懲りないな。お前が全国区のフォークシンガーになるのは無理。そんな夢をいつまで見続けているんだ」という声だ。
自分はそういう声を押し退けて、再び上京する。挑戦することを諦めたら、その時点で自分はフヌケになってしまう。挑戦し続けることが自分の生き方だと長渕は言いたいのではないか。

2番の歌詞は「ひび割れた悲しみに 縛られる前に コップ一杯の水を飲みほそう」 で始まる。「ひび割れた悲しみ」は初めて上京したときの苦い経験を指していると解釈できる。それに縛られていると、再挑戦の意欲が低下してしまう。水を飲んで鋭気を養い、体力を回復した上で再び上京しようという意味だろう。
歌詞は「たとえば誰かが さびれたナイフで 僕に軽蔑を突きつけても あ…腰を据えて受けてやる」と続く。これも最初に上京したときの苦い経験を指していると解釈できる。
最初に上京したときは周りの言いなりになり、自分のやりたいことができなかった。だから、再び上京したときは、自分のやりたいことをやろう。それでトラブルが起きたとしても、逃げずにきちんと受けてやろう。それくらいの覚悟をしないと、同じ失敗を繰り返すことになる。

『逆流』は、長渕の代名詞とも言える『とんぼ』と類似性がある。ともに上京をテーマにしており、挫折や葛藤が描かれている。『とんぼ』は東京で苦い経験をした長渕が、福岡に引き返す曲だ。これに対して、『逆流』は福岡で鋭気を養った長渕が、再び上京する曲だ。先に世に出たのは『逆流』だが、物語としては『とんぼ』の方が先になる。この2曲を一体的に捉えると、長渕の人生が見えてくる。

【文と写真】角田保弘