唯一の本当の解脱者は | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

先の記事の注釈において、私は「その程度でいいなら私でさえ解脱を自称できる」と語った。


しかし私は悟りも解脱も自称はしない。


単純に悟ってもいなければ、解脱してもいないからだ。


何故ならば、結局のところこれを今正に読んでいるあなたの真我以外に解脱者などは一人も存在しないからだ。


あなたの内なる真我をおいて他には神も解脱者も存在しない。


そしてあなたは個人ではなく、その真我である。


それ故に真我としてのあなたをおいて他に解脱者などいない。その他に仏陀はなく、キリストはなく、クリシュナはなく、アッラーもない。


ただあなただけが。あなたの内なる真我だけが、それだけが唯一の悟り、唯一の解脱である。


私はそれを知っているが故に「私は悟っている」とか「私は解脱している」などとは言わない。


真我であるあなたを差し置いて、自分こそが真我(解脱者)である!などとは言わない。私の場合、その必要がない。


その代わりに私はあなたの真我に礼拝する。知識という供物を捧げることにより、あなたの内なる真我を礼拝する。


あなたの意識内に対象として現れたその「ぽっぽ」という個人は個人でしかない。個人とは自我である。自我は真我ではない。


パパジが語った通り、「非真我が真我になることは永遠にない」。


それを知るが故にあなたが対象として認識しているぽっぽという者は解脱も悟りも自称しないのである。


彼にとってそれはどうでもいいことでしかない。重要なのは真我である。アートマン・ブラフマン。


真我はどこに在るのか?これを読むあなたの内である。


それが重要なのである。


熟眠、気絶や失神、あるいは死、もしくはサマーディなど、なんでもいいがあなたが意識を失えば、あなたの目の前の全ては夢のように消え去る。


何故ならそれは夢のようなものでしかないからだ。


その夢の中で「ぽっぽ」という者が無常なる存在として、あなたの夢の登場人物として、現れたのだ。


彼はテレビゲームでいうNPCのようなものでしかない。


彼は自律ではなく、他律である。縁によってあらしめられた様々な要素が彼を操り人形のように操るだけだからだ。


そして彼はある時はこのブログを通じてあなたの目前に現れる。しかしまた別の時には彼はその存在を消している。つまり彼はあなたにとって「現れたり消えたりする存在」である。その存在は恒常ではないということだ。


他の一切もまた同様である。あなたの心身でさえも。


しかしながら、あなたが在るところには常にあなたが在る。それは最低限の基礎事実である。


あなたは意識している存在だ。


つまりあなたは無意識の人形ではないのだ。


あなたは存在であるからだ。


それ以外の全ては現れたり消えたりする。


しかしそれを目撃するあなたは在る。


その存在をおいて他に真我はない。


勿論、真我は心身である個人ではない。


しかしその心身を通じてしか真我へ向かうことはできない。


本当は向かう必要さえない。真我は自ら存在するからだ。真のあなたとして。


あなたは世界を見る。そこには様々な出来事や登場人物がいる。その一切があなたではない。何故ならあなたはその一切を目撃するが、その一切があなたをあなたの見性として目撃することはありえないからだ。


見性を有しているのはあなたであって、あなたが目撃する対象ではない。


あなたは対象を認識するが、その対象があなたの認識としてあなたを認識することはない。


その対象はその対象の認識としてあなたを認識する、とあなたは推測するがそれは実際のあなたの体験ではない。それは推測でしかない。それは確かめようがない。


何故ならあなた以外に認識を持つものは存在していないのがあなたの直接的な体験であるからだ。


それ故、私は「ぽっぽという者はあなたの夢の登場人物にすぎず、あなたの創造物でしかない」と言う。彼は台本に沿ってその都度演じる役をあなたの前で演じているだけだ。マリオネットのようなものとして。


誰もがあなたに「この世は夢じゃないよ。私もあなたも個人として実際に存在するよ」と言うだろう。そう言いはせずとも、そう確信させる何かを前提として振る舞うだろう。


映画の登場人物がその実在性において全員が非実在であるのと同じく、あなたが今見ている世界の現れ=夢の登場人物もまたやはり全員が等しく非実在である。


その対象となる登場人物の内、ある特別な人だけが実在(真我、解脱者)であるわけではないのだ。実在はあなたの真我だけなのだから。


私、ぽっぽという者に他の登場人物と違う点があるとすれば、彼はあなたに「この世はあなたの夢であり、私自身あなたの創造物にすぎない。個我としてのあなた、つまりあなたの心身もまた夢の映像の一つにすぎない。しかしあなたは映像の中にいるものではなく、その映像を目撃しているものである」と確信を持って言えることだ。


私にできることは、それが夢であることを示唆することだけだ。


正直に言おう。私はあなたを目覚めさせることはできない。それはあなたの内なる真我以外には何者にもできない。


しかし私はそれが夢であることをあなたに伝えて説明することはできる。それがプログラムであり、台本の一環なのだ。


もう既に過去の記事でその概要は語り終わっている。これ以上語っても同じことの繰り返しにしかならないだろう。現時点でかなりの重複があるのだから。


私がシリアスな話をする時、それは現実に纏わる話だ。他の話は、単に娯楽的な話でしかない。


どちらもあなたの夢だ。しかし片方はそれが夢であることを悟らせる働きにある。あなたがそれを一つの可能性として受け入れて、あなた自身が調べてみるならば。


この夢の世界において唯一、真に存在するのはあなたの内なる真我のみ。


そしてそのあなたの真我こそがあなたであり、私であり、彼であり、彼女であり、あれであり、これであり、それであり、、、一切である。聖典に記された通り、ヴァースデーヴァ(真我)は一切である。


その真我こそが全てだ。


しかしそれはあなたが無常なる世の対象に実在性を付与している限り、明らかにはならない。心が内ではなく、外へ外へと向かい続けてしまうからだ。


もし、それを内へ引き戻すならば、この世で唯一の解脱者であるあなた自身の真我がそこにあるだろう。


それは外側の如何なる対象にもない。


ただあなた自身の存在にのみある。


それはあなたの内にある。


あなたは自分が自分の外側に存在しているとは考えないし、感じない。あなたはあなた自身の存在が、あなた自身の内にあることを当然のように理解している。


しかしそれは決して限定された存在ではないのだ。何故なら、いつ、何処へゆこうともあなただけは常に在るからだ。


千キロ先に行こうと、千キロ後ろに行こうとあなたは在る。朝にもあなたは在るし夜にもあなたは在る。寝ている時でさえあなたは在る。


それらは常に今・ここだ。


そこにあなたは在る。


しかしあなたが対象として認識する一切は常にあなたと共にあるわけではない。それ故、その一切はあなたでもなく、あなたのものでもない。全ては変化する。しかしそこに変化があると知り、目撃するあなたは変化しない。


限定は常に表面上の上辺の見せかけでしかない。


その限定を消し去ろうとあがく必要はない。


その限定はあなたではなく、あなたのものでもない。


そうであれば、個人という限定を目の敵にしてその限定的個人を解脱させようとあがく必要もない。


それは自分という個我に対する固執でしかない。自分というその人はあなたではない。


キリストはペテロに「下がれサタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱った。他人であれ、自分であれ、人のあるところ、それは常にエゴだ。


世界とその人のことは忘れるといい。あなたは自分ではなく、他人でもない。人ではなく、真我である。


それ以外に知るべきことは何もない。


それを知るならば、その時、私はあなたの真我になる。他の全ての人もまたあなたの真我になる。一切がそうである。


私達はあなたの真我において、あなたと一つである。


そこにはただあなただけが存在するだけだ。


これが私があなたに対してできる、唯一の奉仕だ。私には何の力もない。それ故、あなたを喜ばせたり、幸せにしたりすることはできない。残念ながら。


しかし、紀元前より脈々と受け継がれてきた一つの言葉を送ることはできる。


あなただけが存在する。


それがスピリチュアルというものだ。


あなたは真我、アートマンである。


それが真実というものだ。