肯定と否定 | ぽっぽのブログ

ぽっぽのブログ

綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

バクティ(信仰)は真理を肯定性の方向から表現するが、ジニャーナ(知識)は真理を否定性の方向から表現する。


この否定性とは否定的なものではない。非真理を否定することにより真理を肯定するからだ。それは肯定的否定性といえる。


「否定的なものはダメだ」なんて考える人々も少なからずこの世にはいるわけだが、もうその時点で「否定的なものを否定する」という矛盾に陥っている。


エゴとは常にそのようなものだ。無益で無意味な矛盾で自分自身を翻弄し、心と世界を掻き乱す。


エゴの語る肯定も内実は否定的な肯定にすぎない。エゴはどうしてみても、そのエゴ自体が否定的なものにすぎない。真我の否定の結果がエゴであるからだ。このエゴの隠された実態は既に説明してあるから省略する。


何をどうしてみてもエゴは否定性から逃れることができない。それは根元的な苦しみだ。そしてそれはエゴ自身の妄想でしかない。無知を元にした誤解でしかない。正しい知識が芽生えればその否定性は克服される。


肯定、否定。


それらの相反する二つは自然と私達の心に内在している。


それは丁度、昼と夜という相反する二つが一つの空に内在しているようなものだ。あるいは相反するS極とN極が一つの磁石に内在するように。


そこに何か問題があるだろうか?


何も問題はない。


私達の心にある、肯定と否定の力。


何も問題はない。


問題はその力が何を礎にして働くか、だ。


それがエゴの道具となれば、もはや問題しかない。


それが真理の道具となれば、肯定と否定は共に真理の表現に奉仕する。


肯定と否定はそのようなものだ。


その二つは自然と存在している。


どうしてその片方を悪であるとして否定しなければならないのか?


そんな必要はどこにもない。それはエゴの罠だ。


何度か記してきたが、短絡的に肯定だけ肯定していればそれが真のポジティブであるわけではない。


否定されるべきものは、いつであれ、なんであれ、否定されるべきである。


肯定されるべきものは、いつであれ、なんであれ、肯定されるべきである。


その基準となるものはアートマンだ。あるいは真我でも仏法でも何でもいい。真理自体は何と呼ばれようと一つであるから。


通常、人はその肯定と否定の基準がエゴにある。


これは否定されるべきものである。


それが自、他、世界の苦しみとなっているからだ。


それが正されたならば、肯定と否定は自由に自然に働くことができる。とても活発に奔放に迷いなく。


それが肯定と否定について望まれることだ。


そしてそれは人の世の常識や善悪では測れない。それは確かな基準にはならないからだ。


あなたが人を殺せば、あなたは犯罪者となり、悪人となる。刑罰を下され、人々から憎まれる。


しかし戦場であなたが人を沢山殺せば、あなたは英雄になり、伝説になる。勲章を授与され、人々から歓声と共に迎えられる。


エゴが勝手に作った偽りの法や偽りの善性など、その程度のものだ。都合一つでコロコロ変わるものだ。


しかし決して変わらない、確かなる基準が存在する。


それがあなたの内なる真我。あるいは神、理法。


肯定と否定や善と悪、光と闇。


それらに惑わされることなく、一なるものを見るならば、人は正しくそれらを理解する。


私達に必要なのは、その内の片方を憎んで否定することではない。


私達に必要なのは純粋な理解だ。