ニサルガダッタ・マハラジ 言葉 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

・私が私自身を私だと知っていること以外、私と他者の間にはどんな違いも絶対にない。


・私の実際の体験は(あなたと)何も違わない。違いは私の評価と態度にある。私もあなたと同じ世界を見ている。だが、同じようには見ていない。何も神秘的なことはないのだ。誰もが世界をその人自身の観念を通して見ている。あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考えるようにあるのだ。


・私の世界はあなたの世界と同様だ。私は、私の知覚する世界であなたと同じように、見、聞き、感じ、考え、話し、行動する。だがあなたにとってはそれが全てで、私にとっては、それはほとんど無に等しい。


・私達は複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、常に自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんの僅かな誠実さが大きな違いを生みだすのだ。


・考えなさい。記憶し、観察しなさい。あなたは他の人と変わりはしない。彼らの経験のほとんどは、あなたにとっても有効なものだ。欲望とその枝葉の構造全体に入り、深く明晰に考えなさい。それらはあなたの精神的、感情的構造の最も重要な部分であり、あなたの行動に強力な影響を与える。覚えておきなさい。あなたの知らないことを放棄することはできない。(個我としての)あなた自身を超えてゆくには、あなた自身を知らなければならないのだ。


・苦しむが故にあなたはそれ(喜び、幸福、至福)を欲しがる。だがその追求自体が苦しみの原因なのだ。それは悪循環だ。


・構造を調べること自体が道を示すのだ。つまるところ、あなたの混乱はあなたのマインドの中だけに存在している。そのマインドは決して混乱に抵抗せず、それを理解しようともしてこなかった。マインドが抵抗したのは苦しみに対してだけだ。


・油断なく在りなさい。問いかけ、観察し、調べ、混乱があなたや他人に何をし、どう作用するのか、混乱について何ができるのかを全て学びなさい。混乱について明らかにすることで、あなたはそれを一掃する。


・無知や不注意から生じた感情的反応は決して正当化されない。


・マインドそのものが不動ではないのに、マインドの中にある何が不動でありうるというのだろう?不動ではないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか?勿論できはしない。うろつきまわることがマインドの本性なのだ。あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだけだ。「私は在る」という想念以外の全ての想念を拒絶しなさい。


・私達は私達が知らないものの奴隷だ。知るものに対しては私達が主人だ。何であれ、私達の欠点や弱点を発見し、その原因や働きを理解する、知るということ自体がそれを克服するのだ。


・あなたはいつも世界を改善することに忙しいが、世界があなたによって救われることを待っていると本当に信じているのだろうか?あなたなしで世界が存在するだろうか?あなたは世界について全て知っている。だが、あなた自身に関しては何も知らない。あなた自身があなたの仕事の道具なのだ。仕事について考える前に、道具の面倒を見たらどうかね?


・解脱とは自分に押し付けてきた誤った自己の観念から自由になることだ。それはどんなに輝かしいものでも、ある特定の体験(状態)の中に含まれるようなものではない。


・体験から体験者へと見る向きを変えなさい。


・切望の状態が全てのより深い体験を妨げる。何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何一つ起こらない。マインドが求め描いているようなものに、大した価値のあるものなどないからだ。


・無欲が最大の至福なのだ。


・マインドを信頼せず、それを超えていきなさい。


・それ(自己知識)はあなたが何ではないか、ということの理解を助け、誤った考えや欲望や行為からあなたを自由にするのだ。


・偽りを偽りと見ることが瞑想だ。それは絶えず続いていかなければならない。真実と偽りの識別、そしてその偽りを自ら放棄していく日々の訓練が瞑想だ。


・あなたの唯一の証拠はあなたの記憶だけだ。なんと不確かな証拠だろう!


・あなたが何なのかを知るためには、まず、あなたが何ではないかを調べなければならない。そしてあなたが何ではないかを知るためには「私は在る」という基本的な事実にそぐわないもの全てを拒絶し、あなた自身を注意深く観察しなければならない。


・自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければならない。


・全ての欲望は悪い。だが、あるものは他のものより更に悪い。欲望を追求してみなさい。必ず災難に出会うだろう。


・どうして時間があなたを助けられるだろう?時間とは瞬間の連続だ。それぞれの瞬間は無から現れ、無へと消えていき、再び現れることはない。そんなはかないものの上に、どうして何かを築くことができるだろう?


・「私は誰か?」以外の全ての質問を放棄しなさい。最終的に、あなたが確信できる唯一の事実とは、あなたは在るということだけだ。「私は在る」は確かだ。「私はこれだ」は確かでない。真実のあなたとは何なのか。それを見出すために努めなさい。


・外面は静かに在ることで、欲望と恐れから自由になることを助ける。あなたも気づいたかもしれないが、外面へのアドバイスは常に否定の形を取っている。何々をしてはならない、やめなさい、差し控えなさい、諦めなさい、犠牲にしなさい、明け渡しなさい、偽りを偽りと見なさい。実在の小さな描写さえ否定を通してなされる、「これではない、これではない(ネティ、ネティ)」と。全ての絶対性が実在に対するように、全ての肯定性は内面の自己に属するのだ。


・知覚されるものは一時的ではかなく、それゆえ真実ではないということを忘れ、内面を、何かつかみ取れるものと想像することの中に過ちがある。知覚を可能にするもの、ただそれだけが真実なのだ。生命あるいはブラフマン、何であれあなたの好きな名前で呼ぶがいい。


・知識とは真理への愛にほかならない。


Q、あなたは幸せですか?


A、(あなたから見れば)私は最も惨めだろう。目を覚まし、食べ、話し、また眠る。なんと無駄なことか!生きること、死ぬこと。何と無意味な言葉だろう!


・あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。あなたは決して生まれなかったし、決して死ぬことはない。だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、この特定の身体をあなた自身のものと信じているところに過ちがあるのだ。


・私のグル(師)も、私に全てを疑うよう教えたのだ。彼は言った、「あなたの自己を除いた全ての存在を否定しなさい」と。


・全てを詳細に調べ、不必要なものは無情にも破壊されなければならないのだ。私を信じてほしい。行き過ぎの破壊はありえない。実際には、価値あるものなどないからだ。


・熱烈に冷静でありなさい。それだけだ。


・私達は意識から離れては在りえない。このことはよく把握されなければならない。世界は意識に依存しているのだ。意識なしには世界はない。


・結局のところ世界とは何だろう?記憶の集合だ。一つのことを固守しなさい。それが大切なことだ。「私は在る」をつかみ取りなさい。そしてほかの全てを手放しなさい。これがサーダナ(修練)である。真我実現のなかには、覚えるものもなければ、忘れるものもない。全ては知られたものだ。思い出すことなど何もない。


・実在は証明することも、反証することもできない。マインドの範疇では不可能であり、マインドを超えればその必要もない。


・働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね?真の幸福は自発的で自然なものだ。


・人格とは記憶によって組み立てられ、欲望によって喚起されるただの習慣だということを見抜かないかぎり、あなたは自分自身を、生き、感じ、考え、行動的あるいは受動的で、喜ばされ、苦しめられる個人だと考えるだろう。あなた自身に尋ねなさい。「本当にそれはそうなのか?」「私は誰なのか?」「これら全ての背後とその彼方には何があるのか?」と。そうすれば、すぐに自分の過ちを見出すだろう。見られることによって消え去るのが過ちの本性なのだ。


・葛藤をつくり出さない限り、二元性には何の問題もない。争いのない多様性と多彩性は喜びだ。純粋な意識の中には光がある。暖かさには接触が必要だ。存在の統合の上に愛の統合がある。愛が二元性の意味と目的なのだ。


・実在は体験の本質の中にではなく、体験の事実の中にある。体験は、つまりマインドの状態なのだ。一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。


・至福とは知られるものではない。人は常に至福なのだ。しかし、決して至福に満ちているのではない。至福とは一つの属性ではないのだ。


・真我の実現におけるかぎり、真我が見出される前に、偽りの自己は捨て去らなければならない。


・(夢からの)出口の必要はないのだ!出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか?あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。なぜどこかへ行かなければならないのか?あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。そして出口を探すのはやめなさい。夢があなたの問題なのではない。問題は、あなたが夢の中のある部分が好きで、別の部分が嫌いだということだ。全てを愛すがいい。あるいは何も愛さないことだ。そして不平を言うのはやめなさい。あなたが夢を夢として見たとき、為すべきことは全て為し終えたのだ。


・あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできない。


Q、ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


A、あなたはあなたの存在に気づくことができる。


Q、それだけですか?


A、それだけだ。それ以上なにもありはしない。


・あなたは考えることや、感じること、することには気づいていた。だが、あなたの存在に気づいていないのだ。


・あなたのマインドが作り出した混乱以外に、世界の混乱というものはない。


・何であれあなたが見るものは汚れであらざるをえない。それに背を向け、棄て去りなさい。


Q、知覚可能なもの全てが汚れなのですか?


A、そのとおりだ。


・あなたはそうしない(真我を実現しようとしない)。あなたの全人生がそれ(真我への否認)にかかっているからだ。あなたの過去と未来、欲望と恐れ、全てがその根を世界(という発想、観念)に下ろしている。世界なしにあなたはどこにいるだろう?あなたは誰だろう?


・あなたに必要なことは、内側でしか見つからないものを外側に探そうとするのをやめることだけだ。行動する前にあなたの視点を正しなさい。


Q、「私は身体だ」という感覚はいつ起こるのでしょう?誕生時に起こるのでしょうか?あるいは今朝起こったのでしょうか?


A、今だ。


Q、しかし、昨日もそれ(自分の心身)があったのを私は覚えていますよ!


A、昨日の記憶も今にしかない。


Q、しかし、確かに私は時間の中に存在しています。私には過去と未来があります。


A、あなたが想像するだけだ、今。


Q、はじまりがあったはずです。


A、今がある。


Q、では、終わりは?


A、はじまりのないところに終わりはない。


Q、しかし、私は自分の質問を意識しています。


A、偽りの質問には答えられない。それはただ偽りとして見られるだけだ。


Q、私にとってそれは実在です。


A、あなたにとって、いつそれが実在として現れたのか。今だ。


Q、ええ、それは私にとって、まったく実在です。今。


A、あなたの質問のどこが実在なのだろうか?それはマインドの状態だ。どんなマインドの状態も、マインド同様実在ではありえない。マインドは実在だろうか?それはそれぞれが一時的な状態の集まりにすぎない。一時的状態の連続をどうして実在として考えられるだろうか?


Q、糸に通した数珠玉のように、出来事は出来事の後に続いていきます。永遠に。


A、それらはみな「私は身体だ」という基本的観念の糸に連なっているのだ。しかし、これもまた精神的状態で永続せず、他の全ての状態のように来ては去っていく。「身体ー精神」の存在という幻想がそこにあるのは、ただ、よく調査しなかったからだ。未調査という糸に全てのマインドの状態は連なっている。それは暗室の暗闇のようなものだ。一見、それはそこにあるように見える。だが、ひとたび扉が開かれたら、暗闇はどこへ行くだろうか?どこへも行きはしない。何故なら、それはそこにはなかったのだ。全てのマインドの状態、全ての名前と形ある存在は、未探究と未調査、想像と軽信の中にその根を下ろしている。「私は在る」ということは正しいが、「私はこれだ、あれだ」と言うことは、探究せず、確かめずにいたこと、精神的弱さ、無関心の現れだ。