ラマナ・マハルシ 言葉 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

・なぜ世界のことや、真我が実現した後に起こること(あるいは解脱者がどんな状態なのか)について思い悩むのか?まず、真我を実現しなさい。世界が知覚されようと知覚されまいと、そんなことは問題ではない。眠っている間、世界は知覚されないが、それがあなたの探求の助けになっているだろうか?世界を知覚するかしないかは、ジニャーニ(解脱者)にとってもアジニャーニ(非解脱者)にとっても全く重要なことではない。"彼らはどちらも世界を知覚する"。だが、その視点が異なっているのである。


(これはニサルガダッタ・マハラジも語ったが、世界への知覚自体は解脱者も非解脱者も基本的に変わらない。単にその受け取り方が違うだけだ。勿論、サマーディなどの変性意識状態にある場合はその世界は根底から違う)




Q「ジニャーニ(解脱者)にはデハートマ・ブッディ(「私は身体だ」という観念)がないのでしょうか?もしそうなら、例えばバガヴァーン(ラマナ)が虫に刺されたとき、そこには何の感覚もないのでしょうか?」


ラマナ

「そこには感覚があり、またデハートマ・ブッディもある。「私は身体だ」という観念はジニャーニ(解脱者)にとってもアジニャーニ(非解脱者)にとっても共通のものだ。ただアジニャーニは身体だけを自分自身であると考えている。一方、ジニャーニは全てが真我あるいはブラフマンであることを知っているのだ。そこに痛み(苦しみ)があるならば、そうあらしめるがいい。それもまた真我の一部である。真我はプールナ(完全)だからである」


(「私は身体だ」という感覚はそれがそのまま個我意識である。その現れ自体は解脱者も非解脱者も変わらない。違いはそれ自体に対する執着と自己同一化の有無だ。ラマナ・マハルシ自身、「自我の現れ自体はジニャーニもアジニャーニも同じである」と語っている。それは当然なのである。


解脱者は皆、「私(もしくは、あなた)は個人ではなく、個我は存在しない」という旨を語る。しかしそれはあくまで絶対的な真理の見地においてである。相対的見地であれば解脱者にも個我という現れはある。そうでなければ「私は個人ではない」と当の個人を介して表明することもできないからである。


この場合の「私」とはつまりそれが真我・アートマンなのである。それを個我・個人と混同してはならない。混同した者は「彼は解脱者だが自分は違う」とか「私は解脱の状態にあるがあなたにはまだその状態を実現するには早い」などといった愚かなことを語る。その観念に囚われる限り、無知は解消されない)



・ジニャーニ(解脱者)は誰のこともアジニャーニ(非解脱者)として見ない。


(解脱を自称する人に対しては厳格な精査が必要となる。一つの目安としてこのラマナの言葉が当てはまる。解脱者からすれば真我以外に存在するものは何も無い。それ故に「自分はまだ解脱していない」と信じ込み苦しむ他者も存在しない。その当人が自我ではなく、真我であることを伝える人が正しい人である。聞き手が内へ向かい、彼自身の真我へと向きを変えてゆくように助言することが正道である。


しかし虚偽の者は「自分(解脱を自称する人)の意識状態」というものに対して聞き手の興味関心を引きつけ、「自分の状態」について様々なイメージを抱かせようとする。そしてそれについて質問するようなお膳立てをする(それがサタンの承認欲求を満たすからだ)。


聞き手は自身の真我についてではなく、その人の意識状態についてあれやこれや聞くことになり、その人の焦点は自分の内ではなく、外(他者=解脱を自称する人)に向くことになる。それでは退行だ。退行させられているのだ。そこにどんなに魅力的な希望があろうとも、それは罠なのだ。通常正しい理解にある者は聞き手が語り手の状態に興味関心を持つことを是としない。何故ならそれは聞き手の心の中にあるイメージ、想念、思考されたもの=作られたもの=非真我に過ぎないからである)



・解脱というものはない。それ故、どこにムクタ(解脱者)がいるだろうか?



・彼(解脱者など)と私(自分)の間に区別(差別)をつけることが、真理の知識への障害なのだ。


(なので当の解脱者がその差別を肯定するならばその者は解脱者ではない。「解脱者である私は苦しみが全く存在しない幸せだけの世界にあるが、非解脱者はその世界をまだ知らない。その世界はカルマの終了などといった条件が整うと現れる」と言うならそれが無知というものである。条件に依存するものはそれ自体独立した存在を持たない。なのでその実現がいくら素晴らしい状態であろうとも未だ無常である)



・いかに繊細で神秘的なものであっても、別の身体をとる(=別の世界をとる)ということは実在の上にヴェールをかぶせるのと同じことであり、それは束縛となる。


(身体と世界は一体である。何故なら身体が存在する時には必ず世界も存在し、身体が存在しない時(熟眠状態やサマーディの状態)には世界も存在しないからである。ラマナは身体の存在自体が一つの地獄であると語った。身体とマインドは無いが世界はある、なんてことはありえない。解脱を自称する者が「自分の世界は苦しみが全くない幸せの世界」と語るならば、その世界という単語が何を意味しているのかをきちんと質問すべきである。


「それは言葉では描写できない」とか「それはあなた自身が確かめなければならない」という常套句で逃げるならば、その世界は単に想像されたものに過ぎないだろう。そして世界とは常に「形成されしもの」に過ぎず、束縛=苦しみでしかない。世界がブラフマンとして見られた場合においてのみ、それは至福となる。その場合、その世界は何が非真我であるかを識別することによって間接的に描写可能である。なので解脱自称者が本当に解脱者であったならば、当人が語るところの苦しみの無い世界というものを逆説的に全てが苦しみでしかないことを通して伝えることができるだろう。


仏陀がやっていたことはそれだ。仏陀は「世界」という単語を使わなかったが。それは語弊が多すぎるからだ。世界と言われれば誰もが世界=何かしらの現れをイメージしてしまう。この語弊による誤解を予め抑止できるだけの説明がきちんとなければ、それは単に聞き手を迷わしてしまうだけだ。聞き手が何かをイメージし、そのイメージを追求するようになってしまう。それは正道ではない。何故なら探究者はイメージではなく、実在を熱望しているからだ)


・ここに来ながら、ある人達は自分自身のことを尋ねず、「解脱者は世界を見るのだろうか?彼はカルマの影響を受けるのだろうか?身体を離れたあとの解脱とは何だろうか?人は身体を離れたあとにだけ解脱するのだろうか、あるいは身体の中に生きながら解脱することもあるのだろうか?聖者の身体は光のなかに溶け去るのだろうか、あるいは他の方法で消え去るのだろうか?」といった質問をする。こういった質問にはきりがない。なぜそのようなことに頭を悩ませるのだろうか?これらのことを知ることが解脱をもたらすだろうか?それ故、私は彼らに言うのである。「解脱のことは忘れなさい。そこに束縛はあるのだろうか?まずそれを知りなさい。何よりもまず、自分自身を知りなさい」と。


・実在のなかに在りながら、我々は実在を獲得しようと探究している。これ以上の不思議はないだろう。我々は実在を隠している何かがそこに在り、実在が獲得される前にそれが破壊されなければならないと思っている。それはばかげている。あなた自身の過去の努力を笑う日がやってくるだろう。あなたが笑うだろうその日もまた、今、この瞬間なのである。


(パパジも「あなたがこの理解を得たなら、あなたはバカ気ていると感じるだろう」と語った。以前、「自分は人の何倍も努力してきたのだ!」とドヤっていた自称スピリチュアリストがいたが、その時点でもうそれは取るに足らないものだ。私もまた努力はしてきた。しかしその一切は虚妄でしかなかった。その理解があるならば、自分のしてきた努力を大袈裟に語ることはできない。私自身、自分の過去の体験などを記事として記してあるが、それはある人からDMで質問を受けたからである。


聞かれてもいないのに自分から「こんな自分は凄いでしょう?こんな神秘的な状態を知っている私は幸せそうでしょう?あなたも同じように努力すれば私のように幸せになれますよ♪」と語ったわけではない。なので一連の記事では「こういう話には意味がない。しかしそれで誰かの知的好奇心が癒され、その人が真理に関心を持つなら無駄ではない。それ故、書こう」と記した。


その努力というものは、個我が個我の力で為していたものではなかったのだ(勿論、言語表現の便宜上、自分がしたと語るわけであるが、それは方便でしかない)。その記憶自体も自分のものではない。それはカルマとグナによる働きの現れでしかなかった。それを知ったなら、「自分は努力してこの状態を実現した!あなたも努力すれば私と同じ状態になれる!」なんて愚かなことは語れない。


もしその人が過去に努力してきたと本気で思っているならば、つまりはそこにその努力の記憶を所有するエゴと、エゴに所有される努力の記憶があることを暗示している。そして当人が未だその個人と自己同一化していることを示唆している。


言葉で「自分は解脱している。自分はもうカルマを終了して、何も無い」と語るだけなら誰でもできる。その程度でいいなら私でさえ解脱を自称できる。しかしその表明が事実に基づくならば、その過去の努力というものは自分のものではなくなる。


何故なら初めから行為者は非実在であるから。そうであれば一体どうして努力を誇大して語り奨励することができようか。聖典と聖者はその"自我による自我のための努力"を捨て去れと説いているのだが)



・不幸は対象物を知覚することによって起こる。もし知覚されるものがなければ、それによって引き起こされる想念もなく、不幸も一掃される。「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題である。聖典や聖者は「対象物は単なる心の創造物にすぎない」と言っている。それらは実質的な存在を持っていない。物質を調査してみなさい。そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。すると客観的な世界は主観的意識の中にあるという結論に達するだろう。それ故、真我こそが世界に浸透し、それを包みこむ唯一の実在なのである。


(物質を手に取り、ジッと調査することは有益だ。じきにそれは物質ではなく知覚であることが判明するだろう。ではその知覚とは?認識とは?意識とは?観点によってそれは様々な姿に変化する。しかしそこには常に変化しない「私」が在る。それは何か?これが探究である)



・偽りの""を消滅させる必要はない。いったいどうやって偽りの""がそれ自身を消滅させるというのだろう?あなたがすべきことは""の源を見出だし、そこにとどまることだけである。そうすることによってのみ、あなたの努力は実る。そのあとは彼方なるものに身を任せるだけでいい。そこではあなたは無力である。"努力によってそこに到達することはできない"のだ。


・疑問が起こり、それは解決される。別の疑問が湧き、それも解決され、そしてまた新たな疑問が続いてゆく。全ての疑問を解決することは不可能である。誰にその疑問が起こるのか見てみなさい。その源へ行き、そのなかにとどまりなさい。そうすれば疑問は起こらない。これが疑問を解消する方法である。


・「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとする欲望は全て自我の作用である。あなたは自我の罠に陥っている。これらのことはあなたではなく、全て自我が言っているのである。あるがままのあなたで在りなさい。それ以上は何も必要ない!


・ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。そしてそれを達成したなら、再び戻ってくるのだ。それ故、そのような"無駄なこと"は全てやめるがいい。あるがままに在りなさい。あなたが誰なのかを知りなさい。生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。そして真我にとどまりなさい。


・活動は創造である。活動とは、人が生まれながらにもっている幸福を破壊することである。もし活動が勧められるなら、その助言者は師ではなく殺し屋である。そのような状況は、師の姿をした死の神(ヤマ)、あるいは創造の神(ブラフマー)が現れたのだと言えるだろう。そのような人に探究者を解放することはできない。彼は束縛を強めるだけである。


・解脱とは、どこかあなたの外側にあるのではない。それは内側にだけある。


(これが正しい助言である。「解脱は私の状態の中にあって、あなたの中にはない。だから努力してあなたも私と同じ状態になりなさい」、これは助言ではない。これでは解脱が聞き手の内に在るものではなく、対象である解脱者の中にあるものになる。


当然、聞き手はそれを焦がれるだろう。そうなればもう聞き手の焦点は内へ向かわずに外へ(その解脱を自称する人及びその人の状態に)向かうことになる。これはサタンの罠である。しかし当然、バクティ(信仰)の道においてはその限りではない。その場合、明白に神や主といった対象がある。間違ってもそれは解脱を自称する特定の個人ではない)



・たとえそのような(解脱への希望が欲しいというような)欲望でさえも障害となる。真我はつねに存在し、真我なしには何も存在しない。真我として在りなさい。そうすれば欲望や疑いは消え去るだろう。


・完全な"-"は無限の大海である。自我、""という想念は、その上にとどまるはかない泡にすぎない。そしてそれがジーヴァと呼ばれる個我である。泡もまた、はじけたときに海と溶け合う水でしかない。それが泡としてとどまっている間も海の一部なのである。この単純な真理に無知なために、ヨーガ、バクティ、カルマなどといったたいそうな技術や複雑難解な無数の方法が、さまざまな宗派のもとに教えられてきた。それもみな、"ただ探究者の注意を誘って彼らの心を混乱させるためだけに"


・この他者についての話はいったい何だねそこには一者しかいないのだ。そこには私も、あなたも、彼も存在せず、ただ全てである一者の真我が在るだけである。他者の問題が存在するとあなたが信じているならば、真我の他に何かが在ると信じていることになる。外的な活動によって他者を助けるよりも、全てが一つであるということを悟る方が最上の助けである。


・それ(ローカ=天国。言い換えれば当人が期待するところの理想の至福界)がどうしたというのかね?もし人がチャンドラローカを見れば、インドラローカを求めるだろう。インドラローカを見たあとは、ヴァイクンタを求める。そしてその後はカイラーサを。それは続いていき、心はさ迷い続けるだろう。いったいシャンティ(平和、平安)はどこにあるのだろうか?本当にシャンティを求めるなら、唯一それを確保する正しい方法は真我探究である。真我探究によって真我の実現は可能となる。真我を実現すれば、世界や天国はみな自分のなかに存在することを悟るのである。全ての源は自分自身の真我のなかに在る。そしてそれを実現すれば、何一つ真我でないものはないことを見出だすだろう。


・それら(期待された至福界)は存在するかもしないかもしれない。だが、あなたがここにいることは事実である。そうではないかね?どうしてあなたはここにいるのだろうか?あなたはどこにいるのだろうか?これらのことを知ってから"他の世界"のことについて考えればいい。


(この当人自身の真我を無視して、「他の世界」に関心を引こうとする者はサタンである。サタンは語る。「あなたの知らない世界がある。苦しみが全くない幸せだけの世界がある。でもそれは今のあなたのいるところにはない。あなたの中にはそれがない。でもそれは私の中にはある。だからあなたは私と同じ状態を目指しなさい」と。それでは単なる偶像崇拝でしかない)



・疑う人と、その人の源が見出されれば、全ての疑いはやむだろう。疑いを一つずつ取り除いていっても無駄なことである。一つの疑いを解決しても、別の疑いが起こり、際限がないだろう。だが、もし疑う人の源を探っていけば、疑う人は、本当は存在していないことが知られる。そのとき全ての疑いはやむのである。


・至福とはつねにそこに在るものであり、来たり去ったりするものではない。去来するものは心の産物にすぎず、気にかけるべきではない。


・あなたが何を体験しようと、決してその内容に満足してはならない。あなたが喜びを体験しようと恐怖を体験しようと、誰がそれらを体験しているのかと尋ねなさい。


・(解脱の障害となる)第四はアーナンダ、至福である。至福もまた障害であると見なされる。何故なら、至福を楽しむ人に"私は至福を楽しんでいる(私は幸せである)"と言わせるその"状態"のなかには、至福の源から分離した感覚が在るからだ。これさえも乗り越えられなければならない。


(このアーナンダがサマーディなどのような意識状態であるものならば、まだいい。何故ならそれは実際に到達手順の方法がヨーガの技術体系の中にあるからだ。だからこそオウムは信者を実際にそのような至福の境地に誘えた。世にいる劣化版麻原達にはそれさえ不可能だ。その点では単に感情や聞き手の希望的観測の期待を煽りつけ込んでくるだけの自称解脱者は麻原以上にたちが悪い。彼らは「あなたの知らない素晴らしい世界がありますよ」と期待だけ煽って、依然として聞き手の注意を外へと向けさせ続けるだけだからだ。確かに相対的見地からならば素晴らしい世界は沢山ある。しかし現れたものは消え去る。それ故にそれは苦しみでしかない)



・心が外側に向くたびに内側へと取って返し、真我に固定させる以外、成功する方法はない。


(ニサルガダッタ・マハラジ は「私は在る」に心を留めなさい、とアドバイスした。ラマナも同様のことを言っている。基本的にそれは禅と同じである)



・もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるならば、世界を非実在として受け入れる以外に方法はない。世界が実在だという考えをあなたが棄て去らないかぎり、あなたの心はいつも(何かしらの)世界を追い求めるからである。存在するものは実在だけであるにもかかわらず、現れを実在と見なせば、実在そのものを知ることは決してできないだろう。


・全ての人が同じように幸福、あるいは賢明、あるいは健康であったことは一度もなかったし、これからも決してないだろう。それらはその対極がないかぎり何の意味ももたないのだ。


(自己啓発あるいは虚偽のスピリチュアリストや虚偽の自称解脱者も、このような悪魔の理想論を語る。こうすればあなたも私と同じになれる、と。それはありえない。前提に不動の差別があるが故に)



・たとえ一つのカルマが修正されたとしても、あなたに数限りない誕生を与えるサンチタ・カルマ全体が残っている。それ故、それ(解脱を目的としてカルマに働きかけること)は正しい方法ではない。草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。それ故、カルマの根元(個我)を見出だし、それを断ち切りなさい。


(カルマがなんでどうで、解脱者の生きる世界がなんでどうで、悟りが〜解脱が〜そんなのは何でも無い話だ。禅師の弟子がそんなことをゴチャゴチャやりだしたなら、師は「喝!」と叱るだろう。あるいはニッコリ笑ってお茶を差し出すだろう。「少し落ち着きなさい」と。そんな話は何でも無い(実在ではない)からこそ、心が静まればそれらの観念は消え去る。それらは想像・想念・観念に過ぎないから。


ある人が当人の自論を元に「禅に到達できるのはここまで」という旨を語り禅を侮っていたが(恐らくその人は達磨や道元やラジニーシやヨーギ・バジャンを超える覚者なのだろう)、しかしそもそも禅は初めから「今ここ以外のどこかに到達しようとなどしていない」。また何かを実現して特別で偉い解脱者になろうともしていない。初めから真我としての今ここ以外に存在するものは何もないのだから。


妄想を追うことは禅と何にも関係がない。何故なら禅は「時を要するものを追求しない」からである。時を要するものは常に想像されたものだ。一方、あきらかに「今」は時間に依存していない。時間の中に今があるのではなく、今の中に知覚の変化がありその変化自体が時間として解釈されているが故。映像が現れるにはスクリーンに依存するが、スクリーンの存在は映像に依存しないのと同じように。


クリシュナは「汝の智剣はどこにあるのか。剣を抜いて妄想を寸断せよ」と説いた。これが正しい助言である。これが慈悲であり、愛である。そして禅でもあり、真我探究でもある。


探究者にとってのこの智剣とは初歩の状態ではマインド内に反映された真我の影像である。それは「私は在る」だ。それは疑いようもなく「自分の外にではなく、自分の内に自分の存在が在る」というシンプル極まりない現実的事実を示唆している。何故、疑いようがないのか?疑うためにも前提としてそこに当人の存在が在らねばならないから。


しかし通常、人はこの存在を誤解し、誤解の方を自分であると信じている。「私はあれだ、これだ」「私はこうでああだ」「私はこれこれこんな個人であり、それに対して世界は他者はああでこうで」、そういった想念が存在に付託され、想念と存在が心の中で混同されている。シャンカラはそれを無知による心の錯乱と言った。このブログに以前転載した聖典アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカには「付託の働きとそのメカニズム」として描写されている。


これらの錯乱、誤解、無知というマインドの自己定義が落ちるに従って(あるいはその虚偽性が理解されるに従って)、それ(私)はじきに観照意識であったことが理解される。そしてじきにそれが「初めから気づきであった」ことが自覚される。


「私は在る」もしくは「気づき」は当人が在るところに常に自ずと在る。しかし想念は去来する。粗雑であれ微細であれ、意識内の現れは全て去来する。「常に自ら在るもの」と「現れたり消えたりして、なおかつ認識されなければ存在が認識されないもの」、前者と後者のどちらが実在を示唆しているか?


去来するものは全てそれ自体に独立した存在性を有していない。去来する映像がスクリーンから離れて存在しないように。それ故に前者、気づきこそが実在を示唆して在る。探究者は想像されたものではなく実在(真我)を求めている。ならば真我を望みながら真我でないものを得ようと努力することは無駄である)


「解脱を求める者は既に三界に対する関心を失っているのだから、一体なぜ努力することがあろうか?例え空腹に苦しんでいようとも、毒を食べたいとは思わない。いわんや美味しい食べ物によって欲望がなくなってしまった人は、馬鹿でないかぎりそれを知りながら食べたいとは思わない」


〜シャンカラ〜