今に在る、という誤解 3 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

以前に記したように心は自転車と似ている。自転車はバランスの乗り物だ。そして誰もが初めからすんなり自転車に乗れたわけではない。学習を通して私達はそのバランス感覚を学んだ。それは経験則だ。経験とは記憶だ。記憶とは記録だ。それを絶え間なく取り消し続けたなら私達は自然に生きてゆくことはできない。


過去は今には存在しない。しかし記憶は今に存在する。それが自然なことなのだ。問題はない。"記憶や記録が問題となるのは執着という点において"だ。


ウパニシャッドには「汝の行動を記憶せよ」と説かれている。過去の自分を省みることは良いことだ。そうではないだろうか?仏陀でさえ過去を省みている。聖者達は必要であれば、過去どころか過去生さえも省みたりする。過去を省みると「今、ここ」から逸れてしまうわけでもない。何故なら今とここは常に在るからだ。


記事(過去)と自己(今)を混同しなければ、その記事を消す必要はない。勿論、あまりに酷い憎悪にまみれた記事などは削除した方がいいとは思う。もしくはブログをスッキリとまとめておくためなどの理由で、一時的な報告の記事はその都度消していったりすることも自然なことだろう。


過去(というか時間)と今を混同するならば混乱(矛盾)が生まれる。その矛盾を生んだのはエゴの誤解である。このエゴの誤解を正さない限り、過去の記事を何度削除したところでその当人が今に至ることは永遠にない。


消す意味や必要があるならば記事を削除することもまたブログを運営する上で自然なことだ。しかし記事を削除することによって自分とそのブログを今にあらしめようと画策することは不自然だ。そのような目的自体がおかしなものであるが(何故なら一切は自ずと常に今であるから)、百歩譲ってその目的を実現したいのならばむしろ一旦投稿された記事は削除しない方がいい。大きな心機一転でそれまでの記事を削除するならまだしも、基本的にブログとはウェブにログを残すためのものだからだ。


あるいはどうしても毎回律儀に削除したいならば、記事ではなくアカウントそのものを毎回削除すべきだろう。その方が徹底的だ。何故ならアカウントを作った個人自体が現在にはもう存在していないのだから。しかしそのような作業は単に愚かしさを表現するだけだ。突き詰めれば突き詰めるほど矛盾に翻弄されるだけのことで無意味だ。そしてアートマンは常に在るが故に、一貫してそこには継続性があるのだ。この継続性を否認することが無常性への理解ではないのだ。そしてそれが今に在るということでもない。この継続性をあるがままに見ない限り今は無常なものに過ぎなくなると同時にその無常性を見落とすことにもなる。


もし本当に今と今ならざるものの識別がついているならば、過去を取り消し続ける必要はない。先に記した通り、スピリチュアルな意味においては逆にそのような考えや行動が当人をして「今に在る」という現実を曇らせてしまう。


過去の記事を削除し続けることが単なるポリシーであるならそれはいい。しかし「今にはないものを残したくない」という理由で記事の削除を欲すことは不自然である。何故ならその記事は「現に今にある」からだ。なによりその当人が望むもの(今)を他でもないその当人の誤解が不可能なものにしてしまうからだ。


その記事が「今にはないもの」であったならそもそも削除すること自体できないのだ。何故、削除することが可能なのか?その記事が「今にある」からだ。ならば「今にはないものを残したくない」という発想自体が今という存在への誤解に基づいていて、それ自体道理が破綻しているのだ。


過去の記事が"今にある"ならば、それは過去にではなく、今にあるのだ。ならば、それでいいだろう。何故、既にあるものを「それは今にはない。だから存在しているのはおかしい。今に反している。だから消そう」と欲して現実をエゴの意図で変える必要があるのか。エゴ自身の特定のアイデンティティを維持、存続させるためにはなるだろうが、それは自然なアイデンティティとは異なる。


その人が本当に「今に在るもの」を理解し、それと共に心があり、それから離れては心は存在しえないという現実に気づくなら、そのようなキリのない現実の改変作業から解き放たれるだろう。恐らくその作業はブログだけではなく、あらゆる全てのことに大なり小なりおよんでいると思われる。当人の自覚の有無に関わらず。


その作業をやめるならば、それが今在るそのままだ。起こることはそれ自体、起こり続ける。初めから行為者はいない。それ故、過去の記事というものも厳密には自分のものではないし、そこに記された想いや気持ちや考え自体が初めから自分のものではない。なので正当な理由・必要性がない限り勝手に消すことも本当はできない。何故ならそれは自分ではなく、自分のものではないのだから。


今に在るならば、過去の記事というもの自体が厳密には誤った解釈である。本当に今に在るならば。


記事のページを開くまでその記事は存在しない。しかし記事のページが開かれるならその記事は今に現れる。それは今、現れる。そこには初めから過去も未来もない。過去に書かれたとされている記事が今に現れる。今にその過去の記事が現れる。よくその現象を考えてみるといい。そうすればそれは過去に現れたものではないことがわかる。


それは今、現れたのだ。それは過去に現れたものではない。今、現れたのだ。その瞬間に過去という概念を伴って今に現れ、今に在るものとしてそこにあるのだ。


その意味がわかれば、「今にないものを残したくない」という欲求自体が今を否定することでしかないことがわかるだろう。今にないものは初めから今にはないからだ。


勿論、それが自分なりの意味無きポリシーに過ぎなければ私とて何も思いはしない。あるいは何か訂正すべき意味や動機があるならば、記事の削除は自然なことだ。


しかしその動機が「今にないものを残したくない」というものであるならば、その発想自体が既に今在ることを拒絶する働きの一環でしかない。その発想は前述の通り道理が破綻しているからだ。しかし宇宙はそれ自体、理に準じてあらしめられている。そこにエゴの個人的な都合で道理の破綻した拘りを押し付けるならば、それはスピリチュアルではない。それに固執する限り、今は見落とされ続けるだろう。


「今に在ろう、今に在ろう」と画策するならば、今は常に単なる時間の直線上における流動的な一点に過ぎなくなる。それは見ての通り流動的であり、それ故に無常であるから当然「あの時の自分と今の自分は違う」となるだろう。それが何だというのか?それは永遠に正体不明なままだ。変化し続けるが故に一つの定まった姿形としては定義できず、それ故に掌握もできないから。


過去の自分が自分ではないなら、今の自分もまた自分ではないのだ。何故なら過去の自分は今の自分の原因であり、今の自分は過去の自分の結果であるという点において不可分であるからだ(これは別の視点では逆にもなる。つまり道元禅師が語ったように、時間は未来から過去へと流れているというように)。そして今の自分でさえも、一瞬先には既に今の自分とは全く別のものになっていることだろう。ならば今の自分を基準にして物事を考える限り、その自分が今を体得することもない。体得したとしてもそれもまた変化してしまうことが経験則から容易に推測できるから。その無常性故に。


聖典は「その自分とやらはあなたではない。あなたはアートマンである」と伝えている。重要なのはその真我であって、自我の方ではない。心は変化し続ける。大したことではない。それは自ずと矛盾したものだ。この矛盾を許せないのは真我ではなく、自我である。矛盾がその本質であるにも関わらず自我は矛盾を否定することによって更に矛盾する。


一方、以前説明した通り万象の一切は自然と矛盾する。しかし「今にはないものを残したくない」というのは自然な矛盾ではない。エゴの理想を押し付ける働きでしかない。そんなことをする必要はどこにもない。あるとしたらそれはエゴ自身の妄想の中だ。妄想の中に今は無い。


それ故、「今にはないものを削除する」ことがその今を顕にすることも表現することもない。それ自体が今に対する無知でしかなく、その無知を増強する働きでしかないからだ。


今にはないものを残したくない、、、過去に囚われず今に在るならば、そんなことはどうでもいい話でしかないのである。今にはないものはないのだから残すことはできず、ないが故に消すこともできないからである。


「今にはないものは残したくない」、それはあまりに複雑すぎる面倒な話だと私は思う。当人は「それだけ」と語るがその内実は全くそれだけではない。それは複雑にからまった働きだ。この働きを存続させる限り、確実に今は隠される。何故なら今は自ずとあるきりなのだが、当人がそれに「条件」をつけるからだ。「今はもうない過去の心情がブログに残っている」ことはその条件に反しているのだろう。それ故に訂正する。しかし今自体は何の条件に依存することもなく自ずと在るのが現実なのだ。


そのような条件づけの働きにより、当人のマインドはその今を脚色することに集中している。だからこそその人自身、「今に在る」という発想に固執するのだろう。マインドにそのような重荷を背負わせ続ける(残し続ける)ことはマインドの自然な働きを阻害するだけだ。


事はもっと簡潔である。


それ即ち


「存在しないものが存在を現すことはなく、存在するものが存在を消すことはない」


〜クリシュナ〜


その人は記事で「思考を捨てる」とも記していた。しかしそれから間もなく次の記事を投稿し、そこで自分の思考を早速展開していた。捨てるべきは思考というより厳密にはむしろ思考者の感覚だ。あるいはどのみち思考するならば、その思考をマインドの誤解の解消に繋がる方向に向ければいい。実際どのみちマインドは思考し続けるのだから。それはカルマとグナによって強制的にそうなるのだ。


思考でいうなら聖者達でさえ表面上は思考していた。ニサルガダッタやシャンカラなどの思考量は私達一般人からすれば無限の大洋とも言えるような広大さを示している。もしくは無限の原子構造とも言える微細さを示している。だからといってシャンカラやニサルガダッタが「想念に囚われていた」とでも言うのだろうか?否、聖者達は思考していないのだ。


何故なら聖者達は今に在るからだ。思考するのはマインドであってアートマン(真の自分)ではないからだ。