(219)貧乏徳利はなぜ貧乏?
今回は酒器のお話しです。徳利(とっくり)の意味を辞書で引くと、読み方は辞書的には【とくり】とかで、「陶器・金属・ガラスなどの、細く高く、口のすぼんだ器。酒・醤油・酢などをいれておくもの。特に、酒をいれ杯に注ぐもの。とっくり、銚子【広辞苑電子版】」とあります。
辞書にあるので「銚子と徳利」は同じ意味に使ってOKですが、ホントは違うものだったとか。銚子は結婚式なんかの三々九度で使うような、番茶につかう【急須(きゅうす)】みたいだったのが、混同されて「もはやどっちでもいいや・・・」となったとか聞いております。
さて、陶磁器ですが、これは日本独自のもの。縄文土器、弥生
式土器などからの流れがありまして、わが国には焼き物づくりが発達していました。陶磁器文化は朝鮮半島からとは、ずいぶん後の話です。簡単に言いますと日本の陶磁器には二つの流れがありました。六古窯(ろっこよう)といいますが、古くからの陶磁器産地が六つありました。ただし、①中世以前から製造、かつ、②現在も造り続けている、との条件が入ります。
ちなみに、①備前焼 ②越前 ③常滑(とこなめ)④瀬戸 ⑤信楽(しがらき)⑥丹波 です。そこへ17世紀になって朝鮮技術などが加わり、異なった陶磁器へと発展したんですね。もっと簡単に言うと染料ですな。これで色や紋様が発達する。
高麗とか朝鮮の影響といってもそれほど影響したわけではありません。とうじは中国のほうが圧倒的に優れていました。朝鮮青磁は、最初は「薄緑」のいい色をしていまして「高麗青磁」とかいいましたが、あとで白に変わりまして「李朝白磁」。かの国は国家財政が破綻、中國から染料のコバルトが買えませんで、白になりました。衣服も同じ理由で白、というより生成りですね。
江戸という都市部では、現在と同じような飲酒の習慣がありましたが、それでも庶民は良質の酒は滅多には呑めません。江戸時代の居酒屋などでは皆さんとても薄い酒を飲んでおりました。
関西方面の酒蔵から出るときはチャントしておりましたが、問屋だとか海運とか、酒屋だとか、どこかを通過するたびに薄くなる。ついでに今で言うブレンドですね、イロイロな銘柄の酒を勝手に混ぜちゃう。ちゃんとした商家や武家ではそれがいやで、タルで買う。
庶民といいますと呑みたいけど余分な金がない。だから酒屋にその日の分を買いに行きます。そのときにタルから移して五合とか一升とか買ってくる。ただし、まだ徳利は個人所有の道具でして、酒屋の屋号の文字なんて書いてありません。チョッとゴチャゴチャしますが、この時期だと【単なる徳利】でして、【貧乏徳利】と呼ぶのは徳利をレンタルし始めた明治時代からです。
繰り返しになりますが、江戸時代のドラマなんかで、片手に酒の肴を持ち、一方の手に陶器のビンをぶら下げて熊五郎が訪ねてくる。「おい、おめえと一杯やりたくて買ってきたぜ・・・」なんてシーンをご覧になられたと思いますが、あの徳利(陶器のビン)は単なる【徳利】でして【貧乏徳利】というのは明治も半ばくらい、もっというと大正時代の話です。
実は江戸時代は、酒に関してはちょっと特殊でして、「江戸・大阪などの大都会を除きますと」日本人は「酒を飲む機会がない」といってよかった。江戸の人口を百万人としますと、当時の日本、総人口は三千万人ほどですから、残りの二千九百万人は冠婚葬祭、正月とか「特別な時」しか呑みません。年間に二回ほどでしょうか。酒は米から造りますから、もう大変な贅沢品、特別な御馳走でした。加えて「何の目的もなく酒を呑む」などご先祖様に申し訳が立たない、というほどの悪行でした。
人々の暮らしでも、若者を軍隊へ送り出すたび、大都会も町も村も、酒宴をもよおし酒を酌み交わしました。徴兵制度が定着した明治二十年以降、飲酒の習慣は一般化し、酒の消費量も爆発的に増加します。この【徴兵制度】は、国家に強制されて云々などという方もおりますが、記録を見ますと「一日三回の食事がチャント食える」というのは、もう有難がたくひどく魅力的でした。
おまけに酒まで・・・雇用なんて少ないので皆さん喜んで入隊したそうです。
また鉄道の発達が日本という国を変えました。一般的に庶民は生まれた土地を離れるなんて機会が少なかった。それが何処でも行きたいところに行ける。軍隊へ、仕事のため、あるいは大志を抱いて東京へ・・・多くの方が故郷を離れます。そのときは宴会です。また人が訪ねてくることもありまして、宴席をもうける機会が増えました。
〔知らぬ人に逢う機会、それも晴れがましい心構えを持って、近づきになるべき場合が急に増加し、宴会は便利だと飲み始めたのである(柳田國男『明治大正史 世相編』)。〕
日本という立場で言いますと、酒の需要が激増しましたから、地方の素封家がそれぞれ酒造りを始めます。おおむね全国の地主階級は酒造メーカーとなりました。もともと醤油とか味噌とか醸造には知識と経験があり、詳しい技術は産地まで出かけて習得しました。あるいは専門家(杜氏:とうじ)を季節労働者として雇います。鉄道で人の往来が簡単になっていますから、難しい話ではありませんでした。
風や波、天候に左右される海運とは違い、海難事故などがない鉄道輸送網は、海岸から遠い内陸の町へも、産地から製品を、例えば酒を取り寄せやすくなりました。このようにして酒を呑む、あるいは酒を造り、消費する文化は「明治から大正にかけ」、大輪の花を咲かせたといわれます。
【貧乏徳利】とは酒を小口で売買するための容器です。酒屋や酒問屋、蔵元のタルからマスで量って移し替えたのが【貧乏徳利】でした。酒の量も一斗、二斗の単位ではなく、せいぜい一、二升ほどで、だからこそ貧乏人相手に酒を売る「貧乏徳利」という名前の由来になったんでしょうね。
明治・大正ですと、酒屋が「徳利」をサービスで客に貸すようになります。すると徳利の表面に「三河屋」とか「近江屋」なんて文字を描くようになった。客は「三河屋」の徳利では「近江屋」からは買いにくい。やはり「三河屋」にいく。中には電話番号入りというのも残されています。
それやこれや、江戸から明治、大正の呑ん兵衛と貧乏徳利は結びつきが強かったのであります。骨董市でもあれば出かけまして【貧乏徳利】のひとつでも買ってこようかと考えております。まだまだ安いと本にありましたがどうなんでしょうか。
引用本:『とっくりのがんばり』【貧乏徳利は呑ん兵衛の味方】 酒文ライブラリー
紀伊国屋書店
刊 1998