(220)天皇親兵反乱す | 江戸老人のブログ

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(220)天皇親兵反乱す

 

 いわゆる【竹橋事件】について触れさせていただきます。
 天皇の親兵である近衛兵は、明治十年(1877)の西南戦争のさい、敵方からも賞賛されるほどの奮戦振りを見せた。しかしながら戦後の褒賞には不公平があり、緊縮財政を理由として給与も削られてしまった。褒賞は将校に厚く、下士、兵卒には薄かった。
 
 これに不満を抱く近衛兵の反乱、いわゆる「竹橋事件(たけばし・じけん)」が起こったのは、明治十一年八月二十三日の夜ふけのことという。その前夜、関係者の一人は、「革命とは政府の不善なるを、他より起ちて改革するものにて、不良のことにあらず」と言い放っていた。
 当時、陸軍は東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本に鎮台を置いたが、近衛兵はそれらとは別に編成され、歩兵二連隊・騎兵一大隊・砲兵一大隊・工兵一小隊・輜重(しちょう:輸送などのこと)一小隊からなっていた。
 
 蜂起したのは近衛砲兵大隊の二百数十名で、兵士たちは隊長の「宇都宮茂敏少佐」と週番の「深沢己吉大尉」を殺害し、山砲二発を打ち、厩(うまや)に放火した。さらに隣営の歩兵連隊に決起を求めたが、応じるものはいなかった。
 そこで蜂起した中から九十余名は営外に出て、麹町区飯田町の参議「大隈重信邸」(千代田区九段)、「現・区役所」のあたりに第一発を打ち込むなどして気炎をあげ、当時、天皇がおられた赤坂離宮(港区元赤坂)にまで迫ったが、ここで鎮圧されてしまった。
 

 現在の千代田区北の丸公園近く、国立近代美術館と国立公文書館の裏あたりが、蜂起した砲兵大隊の営舎跡である。明治四十年代に建てられたレンガ造りの近衛師団司令部が、「国立近代美術館工芸館」として残っているが、竹橋事件当時の面影を伝えるものは何もない。

 

反乱の参加者に対しては、過酷な処分が待っていた。十月十五日、迅速な軍事裁判のすえ深川越中島(えっちゅうじま)の刑場で、まず五十三名が銃殺刑に処せられた。空前絶後の大量処刑である。桶に納めた遺骸を五十三の塚穴に葬ったとか、溝のように長い穴に仮埋めしたのだとか、あるいは大八車の荷台に麻縄で遺骸を縛りつけて運んできたのだとか、さまざまな話が伝わる(澤地久恵『火はわが胸中にあり』昭和53年)。
 

 さらに翌十二年四月十日には下士官二名が死刑となり、これに鎮圧時に自決した一名を加えた計五十六名の遺骸が青山墓地に埋葬された。場所は、現在の赤坂高校正門あたりと考えられている。

 明治二十二年二月に憲法発布の大赦令で兵士たちの罪が許され、「旧近衛砲兵之墓」と刻まれた高さ一メートル余りの墓碑が建てられた。墓碑は後年、青山霊園西端の窪地に移され、現在にいたっているとのこと。

 同じ青山霊園には鎮圧側で戦死した兵士も眠る。高さ一メートルあまりの自然石表面に「鹿児島士族 陸軍少尉 坂本彪墓」、裏に「明治十一年八月二十三日、近衛砲兵隊暴動之際於東京竹橋戦死」と刻まれている。なお竹橋事件は戦後まで、明かされることがない秘密であったという。
 

 近衛都督・陸軍卿の山形有朋は、「あってはならない」はずのこの事件を機に、日本の軍隊を比較的自由な空気を持つフランス式から、ドイツ式の絶対軍制へと改めていく。鎮圧から二ヵ月後には、忠実・勇敢と共に「服従」の精神を基調とした「軍人訓戒」が発せられ、やがて「軍人勅諭」に発展した。


引用図書:『幕末歴史散歩』一坂太郎著 中公新書 2008年