嗚呼!! 大忠臣・明智光秀 【第二部】 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

※本稿も長文です。興味のある方はプリントアウトして熟読するのもよろしいかと。尚、誤字脱字はご容赦。


   嗚呼!! 大忠臣・明智光秀 【第二部】


        殉   忠

 つまり、「光秀が信長を討った」とか「謀叛を企てた」という確定史料は、残念かも知れないが一つもないのが現状なのである。
 だから、何んとか理由づけようとして、怨恨説や謀叛発心説が、何十となく作られてきている。新井白石でさえも、その、〈白石紳書〉の中で、
 「井戸若狭守良弘という室町奉公衆の者が、山城の横島城主だった頃、つまり本能寺の変の十年前に、光秀が『われに願望あり、もし手をかしてくれて、それが成就した節には、大国はやれぬが、
小さな所なら国主にしてやろう』秘かに言われたことがある。良弘は、そのときは冗談と思って、きき流していたか、後になって『成程そうであったか』と膝を叩いた」という話をのせている。
 だが、山崎合戦で、旧室町幕府の奉公衆は、みな討死しているのに、この良弘は、それに加わらず生き残った、いわば裏切り者である。

保身のために何か言ったとしても、これは信用できない。もし、この線でたぐってゆけば、
足利十五代義昭のために、信長を討ったことになるのだがその証拠は見つからないのである。単なる話にすぎない。
<甲陽軍鑑>にも、「天正十年二月に、光秀から武田勝頼あてに、逆心するから協力してほしい旨を言ってきたか、長坂釣干斎が怪しいと言うので取りあわなかったから、
武田は武田で滅び、光秀も光秀で滅んでしまった。惜しいことをしたものである」とでている。
真偽どころかよい加減な作り話だが、もっと酷いのは、何といっても<細川家記>であろう。
「光秀は、武田勝頼に通謀していた。そこで天正十年五月に、徳川家康に伴われて、勝頼の伯父にあたる穴山梅雪が安土へくると聞き及んで、梅雪の口から信長に告げられるのを気遣い(心配して)謀叛をしたのだ」
と書かれてある。だが、しかし、五月十五日、十六日の両日は、一日中、十七日も、出兵の命令をうけた昼頃までは、光秀は、家康や梅雪の接待を、ちゃんとやりとげているのである。

 一番よく内情を知っている筈の光秀の組下の細川が、ぬけぬけとこうした記載をすると言うのは、それだけの理由なり、また色々な不都合があった証拠でもあろう。
なお、〈老人雑話〉では、今日の花背峠のさきの周山に、光秀が砦をもっていたのは、己れを「周の武王」にみたて、信長を悪逆無道な「殷の紂王」になぞらえ、かねて謀叛心をもっていたというが、
これも江戸後期の本らしい。なにしろ周山の砦というのは、桑田郡で細川のものなのである。
 
〈別本川角太閤記〉では、
 「六月二日付の小早川隆景宛の密書」というのもある。以下にその全文を引用する。

急度(きっと)飛檄をもって、言上せしめ候。今度、羽柴筑前守秀吉こと、備中国において乱防くわだつる条、将軍御旗をいだされ、三家御対陣のよし、まことに御忠烈のいたり、
長く末世につたふべく候。しからば、光秀こと、近年、信長に対し、いきどほりをいだき、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において、信長親子を誅し、素懐を達し候。
かつは、将軍御本位をとげらるるの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。このむね、よろしく御披露にあづかるべきものなり。誠煌誠恐。
        六月二日         惟任日向守

     小早川左衛門佐殿   

 

 この文中の(光秀こと近年、信長に対し憤りを抱き遺恨もだしがたく)というのを引例して、当人の名で、こういう書面があるからには、
やはり遺恨によることは間違いないと、主張している歴史学者もいるが、さて、どうであろうか。六月二日に書いたと言う日付が、どうも信じられないのである。
なにしろ、信長の死体が見つからなくて三日四日と生存説があった時点で「誅して」というのは嘘臭い。だが歴史家は「彼の立場で、まさか、いろいろ言えもしなければ、
また初めて手紙を送る相手に本当のことも書けまい。これくらいのところが常識的であろう」という。だが、それをもって証拠よばわりするのも、どうかと想う。
なにしろはっきり言えば、やはり偽物のつくりものである。ただ、この文中の将軍というのは、当時。備後の鞆にいた足利義昭のことで、こうした文面のような受取り方を、
今の時代の人はするのかも知れない。
 しかし六月二日の午後四時に瀬田の大橋に現れた光秀は、午後五時頃に坂本へ向っているから、戻ったのは午後八時ごろであろう。
それから近接の大名へ檄をとばすのなら判るが、遠い中国へまで書く筈があろうか。

「埋火」という言葉があるが、この意味するところは、
足利義昭が天正元年七月一日に、山城の槇島に三千七百で立籠り抗戦したが、時に利あらず、〈二条宴来日記〉にあるように、山城の枇杷荘へ移り二十日には三好義継の河内若江城へ入ったが、
十一月五日に堺へでて、そこから十一月九日に海路紀伊へ向って、由良の興国寺に、ひとまず落着くに先立ち、旧室町奉公衆を一人残らず光秀に託して、
炭火を灰にいけるようにして時機をまたせたという意味である。
 つまり兵力を減らされないように、信長の給与で温存させ、この埋火が六月二日に爆発したという着想のものである。
 しかし実際には、義昭は事前には何の情報も得ていなかったらしいのである。
〈土井覚兼日記〉の天正十二年二月十四目の日記をみると、「昨年末(十一年末)義昭将軍は、その春日局(征夷大将
軍家の側室の官名)をもって上洛させた」とあるし、また、この間の事情を、〈毛利家文書三〉によると、その春日局に対し、

「毛利家の将軍に対する処遇芳しからずと、春日局が各所にて演説し、迷惑この上なし」と、小早川隆景が歎いたともある。
 どうも、これを見ると、もし光秀が義昭の為に蹶起したにしては、其後一年半も、のんびり鞆にいた義昭将軍の態度が腑に落ちないし、春日局を代理に出したのも、
秀吉や其他からカンパを集めるのが目的だったようである。なにしろ、この翌年の八月十一日にも、〈小早川家文書〉によると、
 「かねて話のあった四国の伊予の料所を、即時出してくれ」と義昭は無心ばかりしている。だが三年たった天正十六年正月に、聚楽第行幸に参加するため京都へ帰ってきたら、
宮中では(信長を倒しか功労に酬ゆるべく)坊主頭にかって「昌山」と号していた彼に、「準后」の最高位を贈った。
 これは、太皇太后。皇太后、皇后の三宮につぐ、家臣としては最高位のものである。
 つまり日本始って以来、この位まで貰えたものは、かつては南朝の柱石の北畠親房と後では足利義昭のみである。
 ということは、宮中では、北畠に匹敵する勤王精神を、この義昭に認めたからである。織田信長が五月二十九日に、何を一掃しに上洛したか、これで腥気ながら判るような気も一面ではする。
 そして皇室御用の里村紹巴が、他へ災のかがらぬよう神出鬼没に活躍したのも判る。
 公卿衆が宮中を空っぽにして六月一日、雨の中をデモしてきて、玄関払いされても、強引に上りこんで泣きついた事態も、二れで呑みこめてくる。
 なにしろ秀吉というのは、信長のした通りにした男であるが、天正十四年家康と和平して天下を握り出すと、その七月二十四日付の、
 〈多聞院日記〉に、奈良興福寺の僧の多聞院英俊は、他見を憚りながら、
「二十四日に、本能寺の変のときに二条御所に居られた誠仁親王さまが崩御された。疱疹とか(ハシカと公表されたが、そんなものに罹る御齢ではない三十五歳である。腹を切らされて自殺だそうだ。
もし自害がはっきりしてくれば、これは秀吉が次の天皇と決ったも同然ではないか」と書き、そして、さかのぼった、〈七月七日の条には〉
 「みかど(正親町帝)も切腹されようとなさった。すると今(死なれて)は都合が悪い。そんな面当てをなさいますなら、
此方にも覚悟があります。お前さまの女房衆もみんな並べ張付にかけて殺しまするぞ。と秀吉に脅迫をされた。
みかどは無念に思召され、食をとらず餓死までなさろうと遊ばされ」とも書いてあるのは前に簡単に引用したが。
 〈人物・日本の歴史・読売新聞版〉は、この裏話を紹介してから、秀吉への譲位の噂はしきりと取り沙汰されたが、吉野山や川上地蔵がやけ天変地異が続いたので、
流石に秀吉も思ひ止まり十一月七日、誠仁親王の遺孤の和仁親王を、後陽成帝として御位にっかせ給うた。とある。

        征夷大将軍になった光秀

 だから宮中では、明智光秀を使嗾したのは足利義昭とばかり思っていたから、「準后」の高位は、その恩にむくいたのである。という解釈もなりたってくる。
 だが、この間の真相を知っている秀吉は、義昭を買い被ることはなく、たった捨て扶持の「一万石」しか、前将軍にはやらなかったと言うのである。
 「信長殺しの真犯人は」直接に手を下した殺し屋は別とすれば、秀吉に問い詰められるか、証拠をつきつけられて、万策つきて自害された誠仁親王が、まこと恐れ多いか濃厚な容疑者になって居られる。
 光秀と親王が睦じくなられたのは、天正七年に、御所御料山国荘を回復した時かららしい。ここの料米を宇都左近太夫に押領され、禁裏御蔵の立入宗継が、
畏れ多いが至上の飯米にもことかくと訴えでて、光秀が討伐し、内侍所から誠仁親王、下は女中にまで、その占領米を配分し、狂喜させたことが、〈御湯殿上日記〉に詳しく出ている。
 光秀は、足利義昭が出奔したあと空城になっている二条城を修理し、ここを二条御所つまり下の御所として誠仁親王に住まって頂いたぐらいで、この時代には、「当代まれにみる勤王の士」として光秀はかわれていた。
 優渥なる女房奉書の勅語も頂いていたし、正親町帝より、馬、鎧、香袋まで賜っている。史上、こういう前例は他にはない。
 後醍醐帝の楠木正成に対するより、正親町帝の光秀への信任のほうが遙かに篤かったようである。だから六月二日上洛してきた光秀が惨事に愕いて、善後策をいかに立てようかと腐心していたとき、
てっきり昔の足利尊氏にも当る信長を倒したものは、光秀であるだろうと、宮中では取り沙汰されたのではなかろうか。
 そこで内示ではあろうか、当時空位であった征夷大将軍の話が出たのではあるまいか。

 この餌に誘惑されてしまって、信長殺しを光秀がかぶってしまった形跡は充分にある。
 十月七日に安土城で、光秀は勅使の吉田兼見を迎えている。「何の沙汰」があったのかは、みな廃棄されたり破かれて何も伝わってはいない。
だが、光秀にとって、それが望外な喜ばしいものだった証拠には、翌日、すぐ御礼に禁中へ参内している。そして、銀五百枚を、すぐさま御礼にと献納している。
 この事実からおしてゆくと、勅使吉田兼見によって伝達されたものは、「征夷大将軍の宣下」に他ならなくなる。
 こう言うことがあったからこそ、その兼見は、天正十年の日記を、六月下旬に、すっかり書き改めて、二重帳簿にしなければならなかったのである。
 さて光秀に正式に「征夷大将軍」の命が下って、その六日目に、あっけなく死んでしまったから、この宣下は出されなかった事になっているが、こう言う例は前にもある。
 木曾義仲か平家を破って上洛したとき、後白河法皇によって、寿永三年正月、征夷大将軍の宣下はあったが、二十日に源の範頼、義経の軍勢が、勢多と宇治から突入してきて、
義仲が粟津で敗死してしまったから、その儘うやむやになってしまった前例である。
 おそらく六月二目の午前九時すぎに上洛してきた光秀は、事の重大さに仰天し、取りあえず天機奉伺に上の御所へ参内したと思われる。すると、そこで、信長の生死は、はっきりしていなかったが、
官位につけ御所の味方にしようと思召され、「換って、すぐ武門の棟梁たるべし」といった、お言葉を賜ってしまったのだろう。そうでなければ、高飛車に、「一掃」に脅えていた御所から、
 「信長をうち宸襟を休め奉りたるは奇特の事なり」といった女房奉書でも頂いてしまったのだろう。
 これは六月二日か、さもなくば三日に上洛した日あたりに、仰せを蒙ったものと推定される。こうなると明智光秀は当惑したであろうが、御所には長年にわたって出入りしているし、もはや、
 「綸言汗のごとし」である。 一日本人として光秀は、「おおみことのり」を畏み承るしかなかったであろう。
 「嗚呼忠臣明智光秀」は、身に覚えのない信長殺しを、おみことのりとして、甘受して受けて立つしか、この場合、「臣光秀」としての立場はなかったと推察される。


 恐れ多くも一天万乗の君からの至上命令とあれば、それが何であったとしても、これは受けて立たねばならなかったろう。
私だって、その揚になれば、ハアッと、おうけしてしまう筈である。もちろん当時は、上御所へ移っていられた誠仁親王も、
余が、つつがなく次の帝の位につけるのも、これからの光秀の働きによる。よしなに励むがよいと仰せ出されたであろう。
 (おそらく親王が激励にかかれた書簡の二、三が、この後で証拠として秀吉に握られてしまったことも想像がっく)
だが、その時点に於ては、宮中の百官、女官こぞって、これからは米の心配もなくなろうと、みな光秀に期待と信頼の瞳をむけたことであろう。
 人間は五十になっても六十になっても、好い児になろう、賞められたいと言う願望はあるものである。光秀だって同じだったろう。
 
至上より優渥なお言葉を賜り、宮中の衆望をになえば「信長殺し」の悪名もなんのその、この時点から、臣光秀は、大義に殉じて、謀叛人になってしまったのであろう。
つまり「信長殺し」に名前を貸し、自分がその名義人になってしまったのである。もちろん禁中に於ても、光秀に対し、「征夷大将軍」の宣下をとは、そのときすぐにも話もあったろう。
 だが、かって光秀の仕えた足利義昭が、備後の鞆に、十五代将軍として現存しているから、それは望めない事と光秀は想っていた。
 だから七日に、吉田兼見が勅使として下向し、その伝達式があると、光秀は喜んで、兼見にまで、銀五十枚を謝礼に贈っている。
 もちろん禁中としては、備後の義昭に対して、事前か、又は事後は承諾はとったものであろう。それだからこそ、義昭はむくれて、一年有余たって、その愛妾を上洛させ、
弁口の立つ、その春日局に色々と当時の事を批難させたのだろう。それを慰撫するために、義昭に「準后」の位を破格にも贈ったのが、本当の真相なのであろう。

 だが、何もせずに備後にいた足利義昭が、準后になれるくらいなら、せっかく宣下された征夷大将軍さえも、今となっては貰わなかったことにされ、
一謀叛人としてしか扱われていない光秀に、せめて位階でも贈られてもよいような気がする。しかし考えてみれば、戦前までの日本人は、至上の御為とあれば、身を鴻毛の軽きに比し、
喜んで死地にっくのは当然の事であったから、臣光秀にしろ、大君のおん為に醜の御楯として散華したのであろう。
 ただ光秀が大忠臣であったこと。並びに征夷大将軍に、たとえ一週間でも就任していたことが判っていないから、すべての解釈が食い違ってくる。
たとえば山崎合戦で、伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の重だった面々が、一人残らず光秀の側にたって敢闘し討死していることが、
〈蓮成院記録〉〈言経卿記〉〈多聞院日記〉に出ているが、これとても、光秀が、征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死をとげたのである。だから、
この際、岸信介氏や橋本竜太郎氏なみに、明智光秀氏にも正一位を贈って頂きたいものである。彼は、なにしろ勤皇家として史上最高の価値のある男である。
 もう、好ましからぬ誤解がとけて、その尽忠精神は改めて認められるべきであろう。