伴善男から肝付氏初代兼俊までの系譜を考えてみる | うぃんどふぇざぁ

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現在一般的に言われている系譜は
伴善男─中庸─仲兼─兼遠─兼行─行貞─兼貞─兼俊
となっています。
そして伴兼行が安和元(968)年に薩摩掾を補任されて、翌年の安和二(969)年に薩摩神食(上伊敷)に下向したということです。

ここでこちらのページを参考にさせて頂きます↓
平田煌二さんが発表された内容の一部が書かれた2015年の記事です。

安和二(969)年に薩摩に下向したのは兼行より四代前の仲用というのが驚きですね(๑°ㅁ°๑)‼
私も以前伴行貞、兼貞親子と島津荘開発者・平季基の事跡を見比べてみたんですけど、どうも年代がズレてておかしいとは思ってたんです。
なので平田さんの指摘にはかなり納得しました。

そこで今度は私なりに伴善男から系譜を考えて見たいと思います( ´▽`)ノ


善男は弘仁二(811)年に生まれ、貞観八(866)年に応天門の変で失脚、同年に伊豆に配流、貞観十(868)年に同地で没しています。
善男の子・中庸は生没年不詳ですが貞観八(866)年に隠岐に配流され、中庸の子の元孫と叔孫はまだ幼いことを理由に途中で京に召還されています。元孫・叔孫の弟・禅師麻呂はもとから京に留めおかれたようです。
『日本三代実録』には元孫・叔孫・禅師麻呂の年齢が書かれていて、配流された貞観八(866)年のときは元孫八歳、叔孫五歳だったようです。禅師麻呂は京に留めおかれています。
その後、貞観十八(876)年に再度配所に居たと思われる元孫(18歳)・叔孫(15歳)は京に召還され、入れ替わりにこのとき十二歳の禅師麻呂が父・中庸の配流地・隠岐に移されています。

中庸の子には他に仲兼・春雄の名も挙がりますが、仲兼は恐らく肝付氏の系図から出て来たものと思われ、春雄はそもそも誰の子かはっきりしません。
先の平田さんが掲示した系譜では仲用─仲兼になっている上に、仲用が969年に下向ということは仲兼にとって兄に当たる禅師麻呂と比べても100年くらい間が空いてることになります。

ここで善男─中庸─元孫兄弟の世代間を考えると、親子間はだいたい25年くらいになります。
元孫ら以降生没年不明なため、これを仮に25年ずつ仲用まで繋げると
元孫859年・叔孫862年・禅師麻呂865年生まれ、三兄弟の子885年生まれ、三兄弟の孫910年生まれ、三兄弟の曾孫・仲用935年生まれで969年に下向。
とすると系譜は
善男─中庸─元孫兄弟─何某─何某─仲用─仲兼─兼遠─兼行─行貞─兼貞─兼俊
が自然かと思われます。


定説の肝付氏系譜より世代数が多いですね…
まだまだ謎が残ってます!
私も隈本家の文書見てみたいです(((o(*゚▽゚*)o)))