実は当時の読み方と違う名前の戦国大名たち | うぃんどふぇざぁ

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伊達政宗公
読みは「だてまさむねこう」。
ローマ法王に宛てた書簡にローマ字で「Idate」と書かれています。実際に明治まで仙台藩では一貫して「いだて」と発音されていました。しかし上方では秀吉から「だてと呼ばれています。
名前ではない一般名詞の「伊達男」などの「伊達」の語源は政宗公と言われることもありますが、「だて」という言葉はもっと昔からあります。ただし「伊達」と漢字を当てるようになったのは政宗公の振る舞いからのようで、そのせいで上方を始めとした各地では名字の「伊達」も「だて」として流布したようです。


織田信長
読みは「うぉのぶなが」。
織田氏は越前国織田庄(おたのしょう)が発祥地で、織田大明神(おただいみょうじん)こと劔神社の神官の家系です。
現在でも当地では「おた」と発音されています。江戸初期の寛永諸家系図伝でも「をた」と振り仮名されているので、少なくともその頃までは「おた」だったようです。
ちなみに当時の「お」「を」の発音はどちらも「うぉ」です。

豊臣秀吉
読みは「とよとみふぃんでよし」。
まず、「豊臣」は名字ではなく氏(うじ)です。「みなもとよりとも」、「たいらきよもり」などと同じです。秀吉の名字は死ぬまで「羽柴」のままです。
でよし」が「ふぃんでよし」になっているのは、当時ハ行はファ行で発音されていたからです。おもしろいのが「羽柴筑前守秀吉」を当時の発音にすると「ふぁちくじぇんのかみふぃんでよし」なんて風に読むことです。
ちなみに当時の「せ」「ぜ」の発音は「しぇ」「じぇ」です。

浅井久政、浅井長政
読みは「あふぃさまさ」と「あいながまさ」。
南部文書に浅井氏の菩提寺・徳勝寺の住持が述べた部分があり、そこには亮政・久政・長政の名前が仮名で書かれているのです。
「あいびぜんのか□、なのりハすけまさ」
「あいしもつけのかミひさまさ」
「あいびぜんのかミながまさ」
当時は発音は濁音でも表記は清音で書かれたりしますが、「びぜん」に両方とも濁点を付けて、「なまさ」も濁点付きです。そうなると他に濁点が付くはずの所は「あい」の2ヵ所だけになり、ここだけ浮いています。こうなると濁点を付け忘れたというより、書き分けていると考えるのが素直な見方でしょう。

毛利元就
読みは「もりもとなり」。
毛利氏は相模国毛利庄(もりのしょう)、別字で森庄が発祥地で、現在でも当地では「もり」と発音されています。
豊臣政権時代に豊前に配された毛利勝永(勝永と名乗った一次資料はない)こと森吉政は、西国への影響力を考えた秀吉の命令で、同じ読みである西国の雄「毛利」姓に改名しています。


長宗我部元親
読みは「ちょすがめもとちか」。
『多聞院日記』には「チヤウスカメ」、『御湯殿上日記』には「ちやうすかめ」と書かれています。また宣教師の記録では「Chosugami」となっています。
現在は「ちょうそべ」と一般に読まれますが、現当主の長宗我部朝親さんは「ちょうそべ」と名乗っています。
「ちょすがめ」と長音になっているのは、「ちょすがめ」と発音法が違うからです。たとえば「今日」なども「きょ」ではなく「きょ」と伸ばして発音されていました。

大友宗麟
読みは「うぉーどもそりん」。
大友氏は相模国大友庄(おおどものしょう)が発祥地で、現在でも当地では「おおども」と発音されています。
宣教師の記録でも「Vodomo(Voに長音記号付き。発音はウォードモ)」と書かれていて、現在でも「おおも」姓の人たちがいます。



この他にも、
滝川一益は「たきがわいちます」、山内一豊は「やまうちかつとよ」、石田三成も一説には「いしだかずしげ」なんてのもΣ(°д°ノ)ノ(これはあまり信憑性がない)
政宗公の正室・愛姫の「めごひめ」は方言から付いた愛称で、実名は漢字はそのままに「よしひめ」。政宗公の母・義姫と同じ読み!
信長秀吉の武家伝奏をした信長の野望でもお馴染み勧修寺晴豊は「かじゅうじはれとよ」。


なんかヘンな方向に話が流れてきてる…
まぁ今回はこのへんにしておきましょう(*˙︶˙*)ノ゙