「公共」という価値観 | 「アジアの放浪者」のブログ

「アジアの放浪者」のブログ

東南アジア、南アジアを中心に、体験・見聞したことをレポートします。

フランスで、新型コロナウイルス感染防止規則に基づき、マスクを着用していなかった客の乗車を拒否したバス運転手がこの客から暴行を受けるという事件が発生しました。運転手は脳死状態に陥り、その後亡くなってしまいました。心からお悔やみ申し上げます。

 

詳しくは AFP=時事の記事をご参照ください。こちら

犯人2人は警察によってすでに逮捕されていますが、この記事を読んで私が驚いたのは、暴行を受けている運転手を助けなかった「罪」で、他に2人が訴追されたということです。

 

私はここに、「公共」という価値観を見ます。

犯行を目撃したら、それを止める努力をすることが、「公共」を構成している一般市民の義務だ、というわけです。

ひょっとしたら、これは今の日本人が失ってきている価値観なのではないでしょうか。

 

最近、東京ではいわゆる「夜の街」でコロナが再ブレークしていますが、「自分が生きていくために」あるいは「自分が遊びたいために」、感染防止を気にすることなく自由奔放な振る舞いをしている人がいるわけです。営業するな、遊ぶなとは言いません。しかし、「若者は重症化しない」「感染しても、治療費は政府持ち」といったことから感染防止に無頓着で、また感染が判明しても、勤務先やこれまでの行動を保健所に説明しない…。こうした行動が実際にあるのだとしたら、そこには「公共」への配慮がまったく感じられません。

 

一方で、いわゆる「自粛警察」も、公憤を覚える気持ちはよくわかりますし、正義感の強さに敬意を表したいとも思いますが、パチンコ屋にしても、ホストクラブにしても、ニーズがあるからそこにあり、法に反していないから営業が認められているわけです。そこはやはり「共存」という公共性を尊重し、感染防止策を一緒に考える、といった姿勢があった方が、それこそ理想でありましょう。

 

フランスは、自由の国の象徴という印象があります。

そのフランスで、犯罪を傍観する自由はなく、むしろそれは犯罪と認定される。

これは私たちに、「公共」について考える材料だと思います。

 

おそらくかつては日本にも公共的価値観が強く存在していたのでしょう。サッカー場での試合後のごみ拾いは、その名残かと。

でも一方で、「村八分」といった残念な事態も生んで、それで苦しんだ人たちもおおぜいいたに違いありません。その反動で、「日本独自の、公共性を鑑みない自由主義」が徐々に広がっているのだとしたら。

 

「公共」と「個人」。

コロナを機に、深く考えさせられるテーマです。