下関は陸軍の巨大な基地だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

下関の市立市民病院、体育館、陸上競技場、旧国立病院跡、旧済生会病院跡地(現在のハローワークと駐車場)は、戦前、陸軍の施設(下関要塞司令部)であった。門司、小倉など関門海峡を挟んで北九州まで管轄していた。

例えば、著者自身の経験では、戦場ヶ原砲台の地下室は昭和43年頃まで入って見ることが出来た。今は埋め立てら公園になっているが、発掘すれば全容を確認出来る。

{DB9A1C02-A330-4BCE-9289-CFE866ABEE76}
平成28年(2016年)現在の東駅から椋野トンネルあたり

{59263BB0-576A-46CE-AF45-77EAED111FE9}
大正8年(1919年)の東駅から椋野トンネルあたり、現在の陸上競技場あたりの空き地は練兵場となっている。


参考

① 第二次世界大戦における下関(参考)

第2次大戦時、旧下関税務署の場所には下関要塞司令部が置かれ、隣接して下関陸軍病院(旧国立病院の場所)があり、金比羅、一里山、丸尾山、火の山、老の山、数珠山、戦場ヶ原、彦島田の首など、関門海峡や響灘を見下ろせる小高いところには、多数の砲台が設置されていた。なかでも戦場ヶ原砲台の地下室は800人収容できる大規模なもので、飲料水としての深い貯水所も備えていたという。

満州事変以後には、潜水艦対策として蓋井島や大島、白島、沖の島、角島、六連島などの島々に砲台が新たにつくられた。

椋野トンネル入口前の社会福祉センターや旧済生会病院、ハローワークの辺りには下関重砲兵連隊が置かれ、一帯は倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。

また現在の梅光女学院・短大や下関体育館、陸上競技場、運動公園などのある広大な場所は大畑練兵場として軍が占拠。小月には第12飛行師団司令部を置く防空戦闘機隊、吉見には第七艦隊の主力である下関海軍防備隊が配置されており、西日本最大の要塞地帯だった。


② 火の山砲台(参考)

{0714E4EE-4DEA-4DE2-9A87-A68B348D7BA1}
明治21年に工事が起工し、24年に竣工


③ 関門海峡周辺の砲台群(参考)

{D129BEA0-7A97-4366-9513-0E101EB1FCB4}


④ 下関軍事施設(カンナ炎える夏より)



⑤ 現在の市営陸上競技場



⑥ 老の山要塞


西山海水浴場が見える。

(西海の渦潮 長州歴史紀行より)(彦島のけしきより)


⑦ 関門海峡周辺は古代から重要な地域であった(参考)