ダヴィッドの『ソクラテスの死』 | さむたいむ2

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ダヴィッドはこんな絵も描いています。『ソクラテスの死』です。制作は1787年。
 
古代ギリシアの有名な哲学者です。ソクラテスは多くの弟子をもっていました。さらに彼の教えが多くの人々からも支持されていました。為政者は快く思いません。何よりも「無知の知」を唱え、「自分は何も知らない」と自覚していることは無自覚の人よりも優れているといって、知者(賢者)を誇っている人たちと論争し、論破したことによって敵を多くつくってしまいました。そのためアテナイの国家としての神を疎んじ、異教徒の神を若者に信じさせたという罪で裁判にかけられ、死刑の宣告を受けます。
 
どこかイエス・キリストに似て、為政者や実力者たちにとって恐怖の存在であったのです。逃げることも出来たとあります。しかし「知への愛」(フィロソフィア)を守るために弟子たちの助けを拒否して毒杯を仰ぎます。彼もまた殉教者でありました。
 
ダヴィッドは友人マラに対しては浴槽での死を描き、ソクラテスには牢屋でのベッドでの死を与えています。これは英雄を美化するためのもので、実際はどうであったか分かりませんが、芸術家は真実を暴くだけでなく時には偶像崇拝も恐れません。
 
ただしボードレールは『ソクラテスの死』に対しては「誰もが知っているすばらしい作品である。しかし、その絵を見ると、何か月並みなものがあってデュヴァル・ルカミュ(父)氏を思わせる。ダヴィットの霊よ、われわれをゆるしたまえ」とそっけないのです。それはソクラテスの死に自殺を見るからではないでしょうか。
 
知者としての誇りです。「知への愛」に殉じたとはいえ、マラの死とは異質です。
これはあくまで私の想像です。マラには情死に近いものを感じるのです。いくら入浴中とはいえシャルロットの気配に気づかないわけはありません。これは画家が劇的に描いたものであり、だからこそボードレールも納得したのです。「偶像崇拝」とはこのことで、『ソクラテスの死』にはナルシシズムを認めることがでても、その殉教には詩的なものを感じることができなかったのではないでしょうか。
だから「月並み」という言葉で評したのでしょう。