■#044 豊臣秀次 色好みは秀吉以上?■ | みの吉の学校で教わらない戦国時代

みの吉の学校で教わらない戦国時代

群雄割拠の戦国時代。
戦国武将たちは自らの信念を持って必死に生きています。
そんな戦国武将から学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。

日本の戦国時代を中心に学校の授業では教わらない、
エピソードや戦国武将の名言・家訓などのご紹介をしていきます。

豊臣秀吉から関白職を受け継いだ豊臣秀次
豊臣秀次
















前回のおはなしでも少し触れましたが、

秀次は秀吉の姉ともの子。

秀吉からしたら、甥にあたるわけですが、

子ができなかった秀吉はこの秀次を養子として迎え入れたわけです。



この秀次、色好みに関して言えば、秀吉に引けを取らない人物でした。



秀吉の側室は16人(『伊達世臣家譜』より)。
(宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では300人とも言われていますが、
かなりオーバーに書いてるようです)


その上を行く秀次は30人以上もいたそうです。



秀次はもうだれかれ構わず手をつけていたようで、

母娘で側室になっている人もいたそうです。

はじめは母親である公家の娘を側室として迎えたのですが、

後にその娘の連れ子である12歳の娘も側室に迎えたそうです。



こんな秀次ですから女性に関して秀吉から怒りを買う事もありました。

公家の菊亭春季は秀吉に取り入ろうと、

娘の一の台を秀吉の側室として嫁がせました。

しかし、病にかかり親元へ帰ることとなったのです。



その後病は治ったものの、秀吉からのお声がかからなかったため、

春季は一の台を秀次のもとへ出仕させる事となったのですが、

秀次が一の台を大層気に入り、なんと正室として迎えたのです。

これに秀吉も怒りをあらわにするのは当然でしょう。



秀頼が生まれた事が大きな要因でしょうが、

実はこれも要因の一つで、秀次は切腹、

そしてその正室側室子供と身内の多くも、

虐殺される事となってしまったのです。



現代でも男女の色恋沙汰は何が起こるかわかりません。

手当たり次第に手を出すのは如何なものかと思われる次第です。



ちなみに余談ですが、江戸時代にはこの秀次を超える、

側室は40人以上、子供は55人という11代将軍徳川家斉がいます。

いやはやここまで行くともうなにがなんだか・・・(笑)














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