世界一おかしな国 日本最大の売国奴 | 気になるニュースチェックします。

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今朝のテレビは北朝鮮のミサイルのことで話題がいっぱいでした。

そんなに騒ぐ必要もないと思うけど、テレビで放送するのは政府の指示でしょうか。

そうやって危険をあおって、防衛費を拡大するのが狙い、、、、



★世界一おかしな国 日本最大の売国奴


 日本ておかしな国です。

 なんでなんでもかんでもアメリカの言いなりにならなければならないのか。

 なんで思いやり予算だとかいって、巨額のお金をアメリカに渡さなければならないのか。

 なんでTPPも原発も、オスプレイ配備も日本は拒否できないのか。

 なんでいつまでも米軍基地があり、米軍が日本にいるのか。

 

考えるとこんなにおかしな国は世界中にどこにもありません。

戦後70年も経つのにいまだに、占領下にあるのと同じ、、、、

いつまで日本は占領下にいるの、、、、????????

これじゃ100年経っても日本は変わらないでしょう。


日本はなぜこんなおかしな国になってしまったんでしょう。


日本をこんな国にしたのは、あの米国隷属の吉田茂です。

吉田茂は米国と対等に渡りあった政治家とか言われていますが、とんでもない

対等に渡りあったどころか、米国奴隷そのものです。

世界最大の売国奴、、、、それが吉田茂です。

 

不平等条約である安保条約に、日本の首相として吉田茂はただ一人サインをしました。

不平等条約と言われるだけあって、安保条約はその違法性、その異常性において

これ以上の酷い条約は、世界中をさがしてもどこにもありません。

そんな酷い条約に吉田茂はサインをしたのです。



それでは安保条約が結ばれるまでをみてみましょう。

●安保条約が結ばれるまで、、、

 旧安保条約、日米行政協定、日米地位協定といろいろあって、ごちゃごちゃに

 なってしまうので整理すると、日米地位協定の前身が日米行政協定です。

 そして日米地位協定の 正式名を安保条約といいます。


その安保条約が結ばれたのは1960年1月19日ワシントンにおいて結ばれました。

その前身の日米行政協定が結ばれたのは、1952年2月28日です。

この日米行政協定は、なぜか東京の外務省庁舎の中でひっそりと結ばれました。


半年前の1951年9月8日にはサンフランシスコで講和条約がオペラハウスで

華々しく調印されました。

そして同じ日、旧安保条約が町はずれの米軍施設内で、こっそりと調印されました。



日本とアメリカの開戦前、外務省アメリカ局長であった寺崎太郎氏はこう言っています。


「安保条約の調印は、華麗なオペラハウスではなく、米第六軍司令部の士官クラブだった。
 これはいかにも印象的ではないか。
 下司官クラブで安保条約の調印式をあげたことは、吉田一行と日本国民に敗戦国としての
 身の程を知らせるにはうってつけの会場だと考えたら、思い過ごしだろうか。

 ところで安保条約に対する疑問は、これが平和条約のその日にわずか数時間後
 吉田首相一人で調印されていることである。
 という意味は、半永久的に日本の運命を決すべき条約のお膳立てが、言葉を変えて言えば
 手足の自由を半ば縛られた日本政府を相手に、したがって当然極めて秘密裡に
 すっかり取り決められているのである。
 いいかえれば決して独立国の条件ではない。」


寺崎氏の言葉の米第六軍司令部とは、日本を占領した部隊の一つです。
寺崎太郎氏は、昭和天皇の御用掛、寺崎英成の兄です。

この協定は誰も知らないところで結ばれました。
注目する日本人は誰もいなかったのです。
この寺崎という人は、アメリカ隷属の吉田茂と衝突し、辞任し日本のアメリカ隷属に
早くから警鐘を鳴らしていた人です。

その寺崎氏はこうも語っています。
「周知のように日本がおかれているサンフランシスコ体性は、時間的には平和条約、安保条約
 行政協定の順にできた。
 だがそれの持つ真の意義は、まさにその逆で行政協定のための安保条約、安保条約のための
 平和条約でしかなかったことは、今日までに明瞭であろう。
 つまり本能寺は最後の行政協定にこそあったのだ」

安保条約の生みの親はジョン.フォスター・ダレスという当時の国務省顧問です。

そのダレスが最大の目的としたのが

「我々が望む数の兵力を、望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を確保すること」


そのダレスは、自分たちがこれから日本に要求する巨大な特権が、明白な

主権侵害であることを認めていました。

そしてダレス自身、はっきりとこう述べています。

「ほかの連合国を説得する前に、講和条約と安保条約について、日米の合意を確立しておくことが

 絶対に必要だ。

 日米の意見に相違点があれば、たとえばイギリスがそこに付け込んで、さまざまな

 争点をかきたてるだろうし、ソ連は反米プロパガンダの口実とするだろう。

 だからアメリカは日本から確実に基地の権利を獲得するために、寛大な講和条約を用意したのだ」


そしてアメリカの歴史学者マイケル.シャラーによるとその後、二週間半の日本側との協議で

アメリカ側は基地についての特権を得ることに成功しています。

ダレスのいう「望む数の兵を望む場所に望む期間」駐留させる権利をアメリカの計画通り

獲得したのです。



旧安保条約  前文


日本国は本日、連合国との平和条約に署名した。

日本国は武装を解除されているので、平和条約の効力発生時において、固有の自衛権を

行使する有効な手段を持たない。

無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国は

危険がある。

よって日本国は、平和条約が日本国とアメリカ合衆国との間に効力を生ずるのと同時に

効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。(略)

これらの権利の行使として、日本国はその防衛のための暫定措置として

日本国に対する武力攻撃を阻止するため、日本国内およびその付近にアメリカ合衆国が

その軍隊を維持することを希望する。



旧安保条約  第一条

 平和条約(サンフランシスコ講和条約)およびこの条約(旧安保条約)の効力発生と同時に

 アメリカ合衆国の陸軍、空軍、および海軍を日本国内およびその付近に配備する権利を

 日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する。


建前を簡単に言うと、戦後日本は連合国によって占領されていたけれど

平和条約が結ばれたので、占領状態は終わることになった。

だが日本は自分で国を守る能力がないので、平和条約が有効になるのと同時に

米軍を日本に配備し、日本はそれを許可しアメリカはそれを受ける。

そういうことを旧安保条約の前分と第一条で言ってるわけです。


それでは安保条約の調印までをみてみます。

サンフランシスコ講和条約は、1951年9月4日から豪華なオペラハウスで、48カ国の代表との間で

始まりました。

各国代表がそれぞれ演説と議論を繰り広げました。


9月7日、日本の吉田茂首相が条約の受諾演説を行い、その翌日調印が行われる予定でした。

サンフランシスコ講和条約と旧安保条約は同じ日に行われることになっていましたが

華やかなサンフランシスコ講和条約とは違い、旧安保条約はいつ、どこで結ばれるのかさえ

日本側は教えられていなかったのです。


それはあまりにも異常な特権をアメリカに与えるため、調印直前まで各国代表たちに

隠しておく必要があったためです。

旧安保条約の調印がサンフランシスコ講和条約と同じ9月8日であることを教えられたのは

その前日の9月7日の深夜11時ころでした。


その前日吉田が講和条約の受諾演説を終わったのが、これもまた深夜11時ころです。

その11時ころ、シーボルト駐日政治顧問がやってきて、こう告げました。

「安保条約の調印は、明日8日の午後、講和条約の調印式の後、済ませたい」


日本側はあわててホテルに戻り、安保の日本語文を作成し始めます。

このとき安保条約の英文はできていたが、機密保持のため和文はまだできていなかったのです。

調印のための原本も用意されていませんでした。(吉田茂とサンフランシスコ講和条約)


和文がないので、日本人は吉田茂とごくわずかの側近、官僚以外誰も条約の内容を知らなかった。

こんな重要な条約の内容を吉田以外は誰も知らなかったのです。

こんな不自然なこんな異常なことがあるでしょうか。

吉田以外の代表メンバーは、旧安保条約の内容をほとんど誰も知らなかった。

日本代表団がほとんど知らない旧安保条約の内容、、、

前日まで和文が存在しなかったというのも、いかにもわざとらしい。

日本代表団に知られては困る内容だったからでしょう。


また、条約というものはいくら首相だからといって吉田が一人で決めていいものではありません。

条約は国会で審議することが義務づけられています。

吉田茂という人物は、だれに聞かれても「安保条約は交渉中」として

国会でまともに議論もさせなかったのです。


中部大学教授の三浦陽一郎はこう述べています。


「国会や世論のチェック機能に頼ることを、自分から拒否した吉田内閣はアメリカ依存の

 秘密外交の坂道を転がって行った」


吉田外交は今の安倍政権とそっくりです。

国会軽視、世論無視、、、、

そしてアメリカ隷属の道をひた走ることになるのです。


1951年9月7日条約の調印の前日その夜の11時になって、やっと日米安保条約について

明日調印すると告げられた日本代表団。

けれどその時になってもまだその場所と時間は教えられませんでした。

アメリカ側がいかに慎重だったかがわかります。

なぜなら今から結ぼうとしている条約の違法性、異常性をアメリカ側はよくわかっていたからです。


そして調印式の日、9月8日の土曜日、サンフランシスコは快晴でした。

会議は午前10時に始まり、その30分後、講和条約の調印に移った。

アルゼンチン代表から始まり、最後に日本側全権6人がサインし11時30分

すべての調印が終わりました。

アチソン議長米国国務長官が会議の終了を宣言し、各国代表が吉田におめでとうと

握手を求めます。

そのとき、正午になっていました。


旧安保条約が調印される正確な場所と時間が日本側に伝えられたのは、そのときでした。

「安保の署名はサンフランシスコ市、はずれの米第六兵団プレシディオ陸軍施設で

 午後5時に行いたい」

とアメリカ側から通知があったのです。

そして調印式の2時間前、安保条約の全文が発表された。


こうして旧安保条約は調印の直前まで内容も誰も知らない事実上の密約として結ばれたのです。

その違法性、その異常性を現しているのがサンフランシスコ講和条約がアメリカ側代表4人

日本側代表6人によってサインされたのに対し、安保条約はアメリカ側4人なのに日本側は

吉田ただ一人でサインしていることです。


安保条約の調印式に参加しなかった日本側の代表の一人,苫米地儀三氏はこう述べています。

「安保条約は講和条約が発効したあとの軍事的危機に備えることが目的である。

 しかし講和条約の発効までまだ半年もある。

 したがって今あわてて、安保を調印しなければならない理由はない。

 そもそも吉田首相は、東京出発前まで安保条約はまだできていないと答えていた。

 我々は内容もわからずめくら判を押すわけにはいかない。」


しかし吉田は押切ります。

講和条約を調印した日に米軍に巨大な特権を与えた旧安保条約。

それを完全に国民の目から隠したまま吉田は調印しました。

そしてそれから半年後本能寺である日米行政協定が結ばれました。


前泊博盛著 日米地位協定入門