第4章 究極 【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ




緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
第4章 究極 


四天王プロレス…

それは三沢、川田、田上、小橋の全日本四天王がプロレスの限界に挑んだ究極のスタイルだった。

肉体の酷使をいとわず、相手を倒すために危険な大技を多用し、

ひたすら完全決着を目指したプロレスはファンを熱狂させるのだった。 





四天王プロレスの誕生のきっかけは1993年7月の三沢VS川田戦だった。

三沢は川田を叩き潰すために投げっぱなしジャーマンを3連発を敢行。

意識を失い半ば失神状態の川田を強引に立たせてタイガースープレックスで勝利したのだった。 






この試合を三沢はこう語った。

「最後は本当に嫌だった。しかしここでやらなきゃいかんって自分に言い聞かせたよ。

でも川田は中途半端にやると中途半端に言い訳をするからやらなきゃいかんと思った。

でもやりすぎだと思う自分もいた。」


この三沢の非情の攻め以降、相手を立ち上がれない状態に追い込むために、脳天から垂直に落下させる技や高角度でリングから場外に落とす技が目立つようになった。

肉体を酷使に、限界を次々と越えていくそのスタイルは純度プロレスの究極形だった。


三冠王者三沢は1994年6月川田との7度目の防衛戦。

互いに投げっぱなしジャーマンを多用する死闘の末に、

三沢は脳天からマットに突き刺すタイガードライバー91で勝利する。

やはり三沢は最後、完膚なき叩き潰しをしていた。






1994年7月の8度目の防衛戦で

スティーブ・ウィリアムスの執念のバックドロップに沈み約2年間の防衛ロードは終焉を迎えた。

後世に語り継がれる偉大な三冠王者だった。

ちなみ御大馬場は四天王プロレスを解説のしようがないと語った…


三沢光晴は三冠王座を失っても全日本のエースとして戦い続けた。

プロレス界にはベルトの有無や勝敗に関わらず団体や業界を牽引するエースが存在する。

1990年代の全日本、いやプロレス界のエースは三沢光晴だった。


プロレス界のエース・三沢を最も理解し、その上で乗り越えていこうとした男がいた。

男の名は小橋健太。

1993年から3年連続最強タッグを優勝した相棒である。

お互いに信頼し尊敬しあっていた。

だからいざ二人が戦うとレッドゾーンに突入するのだ。






中でもプロレス史上に残る伝説の名勝負として語り継がれている

1997年1月20日の三沢小橋戦は極闘と呼ばれるほどの壮絶な試合となる。

王者小橋はこれでもかと三沢の右ひじを徹底的に痛めつけた。そこに情けなどは存在しない。


三沢は小橋の攻撃を受け切った上で得意のひらめきによる縦の攻撃で対抗する。

ダイビングローリングソバットやトルニーニョ、フロッグスプラッシュ、

場外へのコーナーからのダイビングエルボー…三沢はどんな時でも三沢だった。





試合は終盤戦になり、小橋は勝負に出る。

なんと場外への断崖式パワーボムという殺人級の大技を狙う。

なかなか決まらない。

当たり前だ。

防ぐに決まっている。

しかし持ち上がってしまう。その瞬間、我々は奇跡を目撃する!


エプロンから場外への断崖式パワーボムで持ち上げられた瞬間、

なんと三沢はとっさにウラカンラナで切り返したのだ!

腰をマットに打ちつけられて小橋は悶絶!

これこそが三沢のひらめきがなせる本人曰くサムシングだった。


これで形勢が逆転した三沢。

タイガースープレックス85とタイガードライバー91という最終奥義を解禁するが、

小橋は耐える。

王者になっても周囲はエースは三沢だという定義を覆したい。

小橋はどこまでも熱かった…


小橋の思いを受け止め、最大級の敬意をもって返した三沢。

最後は何やら自らに気合を入れるかのように叫びながらランニングエルボーでカウント3を奪う。

42分6秒、感動を呼んだ極闘は幕を下ろした。

両者は試合後、しばらく起き上がれなかった…






のちに判明したことだが、

試合前に小橋はこの三沢戦がプロレスラーとして最後になってしまうかもしれないと覚悟を決めていた。だから母親にこのように言ったという。

「もし今度の試合でもしものことがあっても三沢さんを恨まないでほしい…」


ちなみに三沢はなんとこの試合後スポーツ番組に生出演している。

さすがにしんどそうな表情を浮かべていたという…

小橋も出演予定だったが、病院に搬送されたため出演はできなかった。

あれだけの戦いを終えてもやはり三沢は超人だった。


小橋を破り、実に三度目の三冠王者となった三沢は再び最強の防衛ロードをひた走った。

1997年3月にオブライトを破りV1。

6月にはその年のチャンピオンカーニバル王者川田を破りV2。

7月には田上を破りV3。

9月には当時パートナーの秋山を破りV4。


10月はウィリアムスを破ってV5。

同じく10月の小橋戦はあの御大馬場が解説中に涙を流すという事態になるほどの死闘の末勝利し、V6。1998年1月には秋山の挑戦を退けV7。

3月にはエースを破りV8。

三沢無双と化していた。


1998年5月1日、8年ぶりの東京ドーム開催。

三沢はメインイベントで川田と三冠戦を戦いことになる。

壮絶なライバル対決の末、川田に敗れた。

川田は悲願の三沢越えを果たす。

彼はマイクで語る。


「プロレス人生で今が一番幸せです」



5月の川田戦と一連の防衛戦の代償はあまりにも大きかったのか。

馬場からの勧めもあり三沢は欠場することになる。

これがおそらくプロレス人生で最後の長期欠場となった。

そして、長期欠場から復帰する頃、三沢が濁流に巻き込まれていくのだ…

(第4章 究極 完)