ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


 




 




ジャスト日本です。

 

 

 

 

「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

5回目となる今回はプロレス格闘技ライター・堀江ガンツさんとスポーツ報知編集委員・加藤弘士さんの同世代対談をお送りします。

 

 

 

 

 



 (画像は本人提供です)
 

 

堀江ガンツ

1973年、栃木県生まれ。プロレス格闘技ライター。

『紙のプロレス』編集部を経て、2010年よりフリーとして活動。『KAMINOGE』、『Number』、『昭和40年男』、『BUBKA』などでレギュラーとして執筆。近著は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)。玉袋筋太郎、椎名基樹との共著『闘魂伝承座談会』(白夜書房)。藤原喜明の『猪木のためなら死ねる』(宝島社)、鈴木みのるの『俺のダチ。』(ワニブックス)の本文構成を担当。ABEMA「WWE中継」で解説も務める。5月31日には構成を担当した前田日明・藤原喜明著『アントニオ猪木とUWF』(宝島社)が発売される。



[リリース情報]

5月31日に宝島社から『アントニオ猪木とUWF』(前田日明、藤原喜明著/堀江ガンツ構成)が発売。

UWF設立から40年――猪木とUへの鎮魂歌。YouTubeでも話せない二人だけが知る濃厚秘話対談集。

 

 

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

 

 

 

 

 

加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のMCも務める。

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

『砂まみれの名将』(新潮社)

 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在7刷とヒット中。

 

 

 

 

 

今回のお二人の対談のテーマは「俺たちの全日本プロレス論」です。

 

 

全日本との出逢い、語りたい選手と名勝負について二人のプロレス者が熱く語ります!こちらがこの対談のお品書きです!

 

 

 

        

(主な内容)

1.全日本プロレスとの出逢い

2.『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)の魅力

3.二人が語りたい全日本プロレス選手(日本人・外国人問わず)

4.二人が好きな全日本プロレス名勝負

5.あなたにとって全日本プロレスとは?

 

 


 

『闘魂と王道』著者であるガンツさんと『砂まみれの名将』著者である加藤さんの対談は抱腹絶倒で大いに盛り上がりました!

 

この二人の掛け合いがまるで深夜ラジオ番組のようでした。主に1980年代から1990年代の全日本プロレスをテーマにしたディープでクレイジーでファンタスティックな内容になっております!

 

 

 

 

 

二人のプロレス者による狂熱の対談、是非ご覧下さい!


プロレス人間交差点 堀江ガンツ☓加藤弘士 前編「俺たちの全日本プロレス論」


プロレス人間交差点 堀江ガンツ☓加藤弘士 中編「全日本は夢のあるファンタジー」



 

 

 

プロレス人間交差点 

「活字プロ格の万能戦士」堀江ガンツ ☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

後編「世界を教えてくれた俺たちの全日本」

 

 

 

 

 

 

 

 

二人が語る全日本プロレスの名勝負①

今までの人生で一番興奮した試合がファンクスVSブロディ&スヌーカ」(加藤さん)

 「その頃に僕は『太陽戦隊サンバルカン』を見るのをやめて『全日本プロレス中継』に釘付けになってました」(ガンツさん)




 


 

──全日本プロレスをテーマにしたこの対談、大いに盛り上がってきましたが、ここでお二人が語ってみたい全日本の名勝負をあげてください。

 

加藤さん ベタで申し訳ございませんが1981年12月13日・蔵前国技館で行われた『世界最強タッグ決定リーグ戦』公式戦のザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)VSブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカですね。当時新日本の最強外国人レスラーだったスタン・ハンセンの乱入しかり、ファンクスの絶対的ベビーフェース感とか、全日本の魅力がこの一戦に凝縮されたような試合でした。外国人同士のタッグマッチがビッグマッチのメインイベントというのは全日本らしくて、新日本では有り得ないですよね。今までの人生で一番興奮した試合がファンクスVSブロディ&スヌーカだったのかなと思います。

 

──試合中盤にハンセンが場外でテリーにウエスタン・ラリアットを見舞って、ドリーがブロディ&スヌーカの攻撃を10分近く耐えきるという試合展開でしたね。

 

加藤さん いいですよね。あと情報があまり発達していないので試合結果とかを知らなくてテレビで視聴できたのも大きかったです。

 

ガンツさん あらためて映像を見返すと、ドリーのローンバトルがめっちゃ長いんですよね。今のプロレスだとハンセンがテリーに場外でラリアットを放ってから1分くらいで試合は決着してますよ。

 

──全日本はそういう傾向がありますよね。1991年『世界最強タッグ決定リーグ戦』三沢光晴&川田利明VSテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスでも試合中盤に三沢さんがゴディ&ウィリアムスの合体パワーボムを場外で食らって動けなくなってから、川田さんがゴディ&ウィリアムスの猛攻を5分以上耐え忍ぶという展開がありました。

 

ガンツさん そして、あの試合に関してはテリーのカムバックが遂になかったんですよ(笑)。

 

加藤さん ハハハ(笑)。

 

ガンツさん そこにまたリアリティーがあるんです。

 

──試合後にハンセン、ブロディ、スヌーカがドリーをボコボコにする中で馬場さんと鶴田さんが救出して、馬場さんがハンセンと激しくやりあうというシーンがありましたね。

 

加藤さん To Be Continuedですよね。「1982年の全日本は面白いことがたくさんあるよ!」という壮大な予告編だったように感じました。

 

ガンツさん その頃に僕は『太陽戦隊サンバルカン』を見るのをやめて『全日本プロレス中継』に釘付けになってました。

 

加藤さん 『太陽戦隊サンバルカン』よりもハンセン、ブロディ、スヌーカですよね!



二人が語る全日本プロレスの名勝負②

「鶴田VS天龍は僕の少年時代の真の日本人頂上対決というか、勝敗や試合内容、時流とかも含めてすべてが合致した最高の試合」(ガンツさん)

「ファンは鶴龍対決への期待感が高いのに、その期待を上回るものがリング上で展開されたのが凄かった」(加藤さん)



 

──ありがとうございます。ではガンツさん、お願いいたします。

 

ガンツさん 僕は1989年6月5日・日本武道館で行われたジャンボ鶴田VS天龍源一郎の三冠ヘビー級選手権試合です。僕らの世代はアントニオ猪木VSストロング小林とかリアルタイムで見てないじゃないですか。だから僕の少年時代の真の日本人頂上対決というか、勝敗や試合内容、時流とかも含めてすべてが合致した最高の試合だったと思います。

 

加藤さん ファンは鶴龍対決への期待感が高いのに、その期待を上回るものがリング上で展開されたのが凄かったですよね。

 

ガンツさん 当時はまだピンフォールやギブアップ決着が珍しい時代だったので、1987年に起こった天龍革命以後の鶴龍対決も最初の二戦は天龍さんが勝っているんですけど、リングアウト勝ち(1987年8月31日・日本武道館)と反則勝ち(1987年10月6日・日本武道館)。三戦目(1988年10月28日・横浜文化体育館)は鶴田さんの反則負けで、ものすごいいい試合だったのに不透明決着だったのでお客さんが怒っちゃったんですよ。その時期からお客さんは「いつまでも不透明決着は許さないぞ」という風になって。

 

加藤さん 確かにありましたね!

 

ガンツさん 四戦目(1989年4月20日・大阪府立体育会館)は鶴田さんのパワーボムが垂直落下気味で決まり天龍さんが失神して、アクシデント的にピンフォール負けをしてしまうんです。これまでの鶴龍対決は天龍に人気が集中していました。でもあの失神があって「どうなるんだ⁈」という追い込まれた天龍さんと「鶴田、オー!」ブームに乗って人気が出てきた鶴田さんが武道館で雌雄を決するというシチュエーションがこの三冠戦ですよ。

 

加藤さん 素晴らしいですね。当時の世界情勢も東欧が民主化されていて、プロレスに関しても「俺たちがみたいものはこういう試合なんだ!」というファンの想いと時代背景がリンクしていて、リング上の光景が政権交代のようなダイナミズムのように劇的に変わっていく過程が見れたのは尊い時間ですよね。

 

──しかもこの試合は両者共に評価が上がったんですよね。鶴田さんは「怪物」と呼ばれる圧倒的実力を発揮して、天龍さんは鶴田の猛攻を受け止めてきちんとパワーボムでピンフォール勝ちを収めたんですよ。後に「名人戦」と形容されていましたが、鶴龍対決は馬場さんが描いていた「心・技・体」が揃ったスーパーヘビー級同士の理想の闘いだったと思います。

 

加藤さん 鶴龍対決は長州力VS藤波辰爾とは違った日本人対決なんですよね。

 

ガンツさん 僕の中では長州VS藤波の名勝負数え歌は、あの鶴龍対決を見てしまうと一旦、霞ましたね。体のサイズ含めて迫力が違ったので。

 

加藤さん 鶴龍対決が乱発するようになったのがきっかけで天龍さんが全日本の姿勢に疑問を呈するようになったという説があります。

 

ガンツさん 日本武道館での鶴龍対決は1989年6月5日がラストなんですよ。その後の鶴龍対決は1989年10月9日、1990年4月19日にいずれも横浜文化体育館で行われた三冠戦で鶴田さんが勝利しています。

 

──10月の三冠戦では鶴田さんのウラカン・ラナが決まり手だったんですよ。天龍さんの新型パワーボム(相手の両太ももを下から抱えてからのパワーボム)を切り返して。

 

ガンツさん 新型パワーボムってありましたよね。あと僕の名勝負ナンバーワンが鶴田VS天龍なんですけど、全日本ベスト興行も1989年6月5日・日本武道館大会なんですよ。カンナム・エクスプレスがフットルースを破ってアジアタッグ王者になったり、スタン・ハンセン&テリー・ゴディVSブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)、スティングVSダニー・スパイビーという外国人同士の好カードが組まれたんですよ。

 

加藤さん スティングの存在がちょっとしたスパイス感があって武道館大会に彩りを提供したような気がしますね。

 

ガンツさん ロード・ウォリアーズ以来の「みんなが見たい外国人レスラー」がスティングだったと思います。あと世界ジュニアヘビー級王者になった百田光雄さんが寺西勇さんを相手に防衛戦が行われて、つい2カ月前までは百田ブームだったのに、会場は「寺西」コールに包まれました(笑)。ファンは長年ずっと第1試合を務めていた百田光雄を勝手に後押ししていたけど、いざ本当にジュニア王者になったら、潮が引くように「百田」コールがなくなるって、ファン心理はなかなか残酷ですよ。



今と昔のファンの違い

「今は提供されたものに対して文句を言ってはいけないとか、絶賛か批判の二極化という風潮があるじゃないですか。でもあの頃のファンは『もっといいものが見たい』『もっとプロレス界がよくなってほしい』という想いで言っていたように思います」(ガンツさん)

「ファンと団体とのキャッチボールがうまくリングに反映していて、珠玉のプロレスで熱狂させていたのが『俺たちの全日本』なんですよ」(加藤さん)



 

──百田さんが王者になったことでファンは満足してしまったんでしょうね。

 

ガンツさん しかも百田さんが世界ジュニアヘビー級王座を獲得したのは後楽園ホールで取ればいいのに、大阪府立体育会館だったんですよ。

 

──1989年4月20日・大阪府立体育会館で百田さんは仲野信市さんを破り、第8代世界ジュニアヘビー級王者に輝きました。

 

ガンツさん 渕正信さんが仲野さんに敗れて王座陥落をして、その仲野さんを百田さんが破って王者になったのですが、後楽園ホールのファンからすると、百田の王座奪取というクライマックスを「百田」コール発祥の地である後楽園じゃなく大阪でやられたことで冷めちゃったんだと思います。

 

加藤さん 民意が反映するリングになったからこそ「俺たちの全日本」になったんでしょうね。

 

ガンツさん 当時の熱心なファンって、今でいうディスりではなく建設的に自己主張していたんですよ。なにか今は提供されたものに対して文句を言ってはいけないとか、絶賛か批判の二極化という風潮があるじゃないですか。でもあの頃のファンは「もっといいものが見たい」「もっとプロレス界がよくなってほしい」という想いで言っていたように思います。

 

加藤さん なんか理想の民主主義社会ですね。ファンの声を受けて、いいものをリングで見せて「どうだ!」とファンにお返しをしているんですよ。ファンと団体とのキャッチボールがうまくリングに反映していて、珠玉のプロレスで熱狂させていたのが「俺たちの全日本」なんですよ。

 

ガンツさん そういう関係性が出来ていたからこそ1990年に全日本が大量離脱が発生して、メガネスーパーという巨大企業がバックについたSWSに移籍したとしても「オー!」や「オリャ!」を言って、半ば茶化していたファンたちが「今こそ俺たちが全日本を支えなきゃいけない!」と立ち上がって全日本を支持したんですよね。

 

加藤さん 天龍さんが全日本を離脱した後の1990年5月14日・東京体育館はテレビで見ていてとてつもない寂しさを感じましたね。しかもあのギュッとした後楽園ホールや日本武道館じゃなくて、ちょっと寒々とした東京体育館だったので余計に…。

 

ガンツさん 東京体育館はアリーナ部分が広すぎるんですよ。どうしても武道館や両国みたいな凝縮した空気になりにくい。

 

加藤さん しかもメインイベントで馬場さんが怪我してしまうし、三沢さんがタイガーマスクの仮面を脱いで新しい時代到来を予感させたのですけど、事前に週刊プロレスの表紙で「新生・東京体育館進出」みたいなものを煽っていて期待したのですが、残念ながら興行がこけてしまったような気がしますね。ファンは「全日本は今後、どうなってしまうのか」という不安を抱いたと思うんですけど、今考えるとその辺の危機感をファンに共有させたというのは面白い現象ですよね。

 

──結果的にそういう面白い戦略になってしまったのかもしれませんね。

 

ガンツさん 本当に全日本は終わってしまうとファンに思わせましたから。

 

加藤さん 毎週、週刊プロレスを読むたびに離脱者のニュースばかりで、みんなSWSに移籍するんですよ。だから当時は「全日本は崩壊するかもしれない」という切実な問題として考えてました。

 

ガンツさん 本当に危機感はありましたよね。

 

──それだけ全日本の中心人物だった天龍さんの離脱はあまりにもインパクトが強かったんですね。

 

ガンツさん あの時の天龍さんは実力も人気も絶頂期でしたよ。

 

加藤さん 辞める直前の1990年4月12日・東京ドームで行われたランディ・サベージ戦なんてベストバウトですよ。若林健治さんの実況にありましたが「イカ天とはイカす天龍のことであります!」なわけですから、その人が団体を辞めてしまうんですよ。 1989年~1990年のプロレス界におけるダイナミズムってものすごいですよね。

 

ガンツさん 特に1990年の正月から春ぐらいまでがもう激動すぎるんですよ。

 

──1990年は新日本の2月10日・東京ドーム大会で新日本VS全日本の驚天動地の対抗戦が組まれましたよね。

 

ガンツさん あの新日本VS全日本が見られた東京ドーム大会は、会場で観戦したながら「人生最良の日だ」と思いましたよ。まだ高校1年でしたけど(笑)。こんな幸せな日がくるのかと。そしてさらに4月12日には全日本、新日本、WWFの三団体で『日米レスリングサミット』が東京ドームで開催されて、「こんなに立て続けに夢が実現していいのだろうか」とさらに幸せな気持ちになっていたら、SWS騒動があって冷や水をぶっかけられたという感じでしたね。

 

加藤さん 週刊プロレスが「ベルリンの壁、崩壊」とか煽るじゃないですか。あとSWS騒動時に編集長のターザン山本さんがSWSのネガティブキャンペーンを展開したことも、最近はその裏側も知れるようになりましたけど、あの頃のプロレス界の動きとかすべてが愛おしいんです。プロレス界に莫大な資金を投じてくれる大企業はもちろん大事にしないといけないんですけど、「いや、俺たちは違うんだ」という姿勢を示し「金権プロレス」というコピーをつけた山本さんも強烈だったし、ファンの「俺たちが全日本を支える」という想いもあって青春感がありましたね。



ジャイアントサービスのTシャツの話!

「鶴田さん、馬場さん、三沢さんのTシャツを買って、体育の授業で誇らしげにペラペラ素材のTシャツを着用してました」(加藤さん)

「僕もブリティッシュ・ブルドッグスのTシャツを制服のYシャツの下に着て、背中にうっすらとユニオンジャックが見えてました」(ガンツさん)


 

──青春感とは言えて妙ですね!

 

加藤さん 思えばあの頃、ジャイアントサービスもTシャツの品数が増えて、鶴田さん、馬場さん、三沢さんのTシャツを買って、体育の授業で誇らしげにペラペラ素材のTシャツを着用してましたね。

 

ガンツさん 僕もブリティッシュ・ブルドッグスのTシャツを制服のYシャツの下に着て、背中にうっすらとユニオンジャックが見えてました(笑)。

 

加藤さん おしゃれですね!あとロード・ウォリアーズのTシャツを着て、その上にYシャツで学生服という服装だったら、中学校の先生に「その中に着ているTシャツは何だ⁈」と言われて「ロード・ウォリアーズです!」と答えたら「何!!暴走族か!」とぶん殴られたことを記憶してます(笑)。

 

──ロード・ウォリアーズは「暴走戦士」なので暴走族ではありますね。

 

ガンツさん 間違ってはいないですね(笑)。

 

加藤さん 僕は「先生、知らないなぁ~。ロード・ウォリアーズは暴走戦士だぜ!」と思ってました(笑)。



あなたにとって全日本プロレスとは!?

「世界です。全日本を通じてアメリカを知り、ミズーリ州を知り、ミズーリ州ヘビー級王座はNWA世界ヘビー級王座の登竜門だと。日本以外に目を向かわせるきっかけになったのが全日本でした」(加藤さん)

「僕のベース。ライターという仕事においても、ファンとしてのベースは全日本にあるんです。後年、僕はリングスが大好きになるんですけど、なぜ好きになったのか。あれは全日本の世界観なんですよ」(ガンツさん)




 

──ありがとうございます。この対談の最後のお題に進みたいと思います。あなたにとって全日本プロレスとは何ですか?

 

加藤さん 全日本プロレスは…世界です。全日本を通じてアメリカを知り、ミズーリ州を知り、ミズーリ州ヘビー級王座はNWA世界ヘビー級王座の登竜門だと。日本以外に目を向かわせるきっかけになったのが全日本でした。鶴田さんがAWA世界王者になってアメリカをサーキットする光景をテレビや週刊プロレスを通じて知ることができました。新しい外国人レスラーが来ると、彼らのプロフィールやルーツ、タイトル歴を調べるのが僕のルーティンでした。こんな地球の裏側から太平洋を往復して水戸市民体育館に行くと世界から集結した外国人レスラーたちに出逢えたわけですよ。

 

──確かにそうですよね。

 

加藤さん 僕にとって全日本で味わったワクワク感やドキドキ感の記憶は永遠に続くものなんですよ。世界タイトルを取ることは至難の業であることも全日本で学べて、三本勝負で一本目をとっても、その後両者リングアウトや反則裁定になって、NWAルールでタイトルが移動しないという理不尽さも「世界は手強い。甘くないぞ」というメッセージが籠っていたように感じました。全日本は世界を教えてくれて、今の自分に繋がる広大で幅広い世界観を抱かせてくれたように思います。

 

──ありがとうございます。ガンツさん、お願いいたします。

 

ガンツさん 僕も加藤さんと同じような感じですね。あんなインターナショナルなジャンルはなかったですから。全日本プロレスは…僕のベースなんですよ。ライターという仕事においても、ファンとしてのベースは全日本にあるんです。後年、僕はリングスが大好きになるんですけど、なぜ好きになったのか。あれは全日本の世界観なんですよ。前田日明さんがジャイアント馬場さんで、他のリングスネットワークの選手たちは馬場ワールドの外国人選手なんですよ。

 

加藤さん 確かに!面白い!

 

──その通りです!

 

ガンツさん リングスは全日本のようなワールドワイドな世界観があって好きだったんです。PRIDEもその延長線上にあって、今はABEMAでWWEのテレビ解説をさせていただいていますが、すんなり入れるのは僕に全日本のベースがあるからだと思っているんです。WWEは最先端のプロレスなんですけど、自分の原点や故郷に戻ってきたんだなという気持ちが強くなるんですよ。

 

加藤さん 巨体を誇る世界の荒くれ者たちが全日本のリングに集まって、馬場さんや鶴田さんが迎え撃つという図式も最高でしたね。そんな人たちが足利市民体育館や水戸市民体育館とか全国各地を巡業で回って、ベビーフェースもヒールも関係なく同じバスに乗って移動してプロレスをするわけで、このダイナミズムはたまらないですよ。

 

ガンツさん アンドレ・ザ・ジャイアントやアブドーラ・ザ・ブッチャーが足利や水戸に来てくれる贅沢さはありましたよね。全日本はすごくファンタジーがあるじゃないですか。世界各国のさまざまなレスラーが一堂に会するのがプロレスだと思っていて、人生を通じてその原体験をずっと追い求めているような気がします。

 

加藤さん ガンツさんはどちらかというと新日本やUWFが好きというイメージがあったので、根っこの部分で全日本をルーツにしているという話が凄く面白かったです。

 

ガンツさん あとUWFに関しては思春期に見れたことが大きかったですね。中学2年で、前田日明vsドン・中矢・ニールセンを見て、新生UWFは高校時代ですから、そりゃハマっちゃいますよ(笑)。

 

加藤さん ものすごくなんでも吸収できる多感で好奇心旺盛な時期に見たものはその後の人生を豊かにしますよね。

 

──これでお二人の対談は以上となります。ガンツさん、加藤さん、本当にありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。


(プロレス人間交差点 堀江ガンツ✕加藤弘士・完/後編終了)



ジャスト日本です。

 

 

 

 

「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

5回目となる今回はプロレス格闘技ライター・堀江ガンツさんとスポーツ報知編集委員・加藤弘士さんの同世代対談をお送りします。

 

 

 

 

 



 (画像は本人提供です)
 

 

堀江ガンツ

1973年、栃木県生まれ。プロレス格闘技ライター。

『紙のプロレス』編集部を経て、2010年よりフリーとして活動。『KAMINOGE』、『Number』、『昭和40年男』、『BUBKA』などでレギュラーとして執筆。近著は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)。玉袋筋太郎、椎名基樹との共著『闘魂伝承座談会』(白夜書房)。藤原喜明の『猪木のためなら死ねる』(宝島社)、鈴木みのるの『俺のダチ。』(ワニブックス)の本文構成を担当。ABEMA「WWE中継」で解説も務める。5月31日には構成を担当した前田日明・藤原喜明著『アントニオ猪木とUWF』(宝島社)が発売される。



[リリース情報]

5月31日に宝島社から『アントニオ猪木とUWF』(前田日明、藤原喜明著/堀江ガンツ構成)が発売。

UWF設立から40年――猪木とUへの鎮魂歌。YouTubeでも話せない二人だけが知る濃厚秘話対談集。

 

 

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

 

 

 

 

 

加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のMCも務める。

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

『砂まみれの名将』(新潮社)

 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在7刷とヒット中。

 

 

 

 

 

今回のお二人の対談のテーマは「俺たちの全日本プロレス論」です。

 

 

全日本との出逢い、語りたい選手と名勝負について二人のプロレス者が熱く語ります!こちらがこの対談のお品書きです!

 

 

 

        

(主な内容)

1.全日本プロレスとの出逢い

2.『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)の魅力

3.二人が語りたい全日本プロレス選手(日本人・外国人問わず)

4.二人が好きな全日本プロレス名勝負

5.あなたにとって全日本プロレスとは?

 

 


 

『闘魂と王道』著者であるガンツさんと『砂まみれの名将』著者である加藤さんの対談は抱腹絶倒で大いに盛り上がりました!

 

この二人の掛け合いがまるで深夜ラジオ番組のようでした。主に1980年代から1990年代の全日本プロレスをテーマにしたディープでクレイジーでファンタスティックな内容になっております!

 

 

 

 

 

二人のプロレス者による狂熱の対談、是非ご覧下さい!


プロレス人間交差点 堀江ガンツ☓加藤弘士 前編「俺たちの全日本プロレス論」



 

 

 

プロレス人間交差点 

「活字プロ格の万能戦士」堀江ガンツ ☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

中編「全日本は夢のあるファンタジー」

 

 

 

 

 

 

 

 

二人が語るニック・ボックウィンクルの魅力!

ニックのわかりにくい強さとうまさが当時小学生だった僕にはたまらなく大人の世界を感じさせてくれたんですよ」(加藤さん)

 「圧倒的な強さは感じないのにタイトルマッチになると負けないという世界王者の政治力みたいなものを子供ながらに感じましたね」(ガンツさん)



──ここからはお二人が思い出に残る全日本のプロレスラーについてこの対談の場で語っていただきたいです。日本人・外国人は問いません。よろしくお願いします!

 

加藤さん 僕はニック・ボックウィンクルが好きだったんですよ。スタン・ハンセンはウエスタン・ラリアット、ブルーザー・ブロディはキングコング・ニードロップといったように代名詞となった必殺技を持っているのに、彼はこれといった必殺技がないじゃないですか。足4の字固めがギリギリ必殺技なのかなという感じですよね。風格はあるけど強いのかといえばよくわからないんですよ。

 

ガンツさん  確かにそうですよね。

 

加藤さん ただAWA世界ヘビー級王座を4度戴冠した実力者で気品の高さを感じてニックがすごく好きだったんですよ。1984年2月23日の蔵前国技館でジャンボ鶴田さんとインターナショナルヘビー級王座とAWA世界王座の二冠戦があって、鶴田さんがバックドロップ・ホールドで勝利して、日本人初のAWA世界王者になりました。あの試合が放送された『土曜トップスペシャル』放映後の夜も興奮して寝れなかったんです。ニックのわかりにくい強さとうまさが当時小学生だった僕にはたまらなく大人の世界を感じさせてくれたんですよ。

 

ガンツさん  ニック・ボックウィンクルやハーリー・レイスは、ブロディやハンセンのような圧倒的な強さは感じないのにタイトルマッチになると負けないという世界王者の政治力みたいなものを子供ながらに感じましたね(笑)。

 

加藤さん ハハハ(笑)。

 

ガンツさん 両者リングアウト、反則裁定を駆使する彼らに世の中の不条理さを教えられた気がしますよ(笑)。

 

加藤さん どう考えてもハンセンやブロディの方がニックとレイスより強いはずなんですよ。でもメジャー団体の世界王者はニック、レイス、リック・フレアーがずっと保持しているんですよ。

 

ガンツさん なんか思い通りにはならないということを教わりましたね。



AWA世界王者時代のジャンボ鶴田

「鶴田さんがAWAのテリトリーであるミネアポリス、シカゴ、ラスベガスで防衛戦を行うんですけど、我々が忌み嫌う反則負けとかで王座を防衛していくんです」(加藤さん)

「いま考えると、AWA世界王者としてアメリカで防衛ツアーをやっているのは相当すごいことですよ」(ガンツさん)




 

加藤さん 鶴田さんがニックに勝ってAWA世界王者になってからアメリカの防衛ロードの旅に出るんですよ。その時、僕は小4で週刊プロレスを死ぬほど読んでましたけど「世界王者はつらいよ」というコピーが躍った記事があって、鶴田さんがAWAのテリトリーであるミネアポリス、シカゴ、ラスベガスで防衛戦を行うんですけど、我々が忌み嫌う反則負けとかで王座を防衛していくんですね。

 

──ハハハ(笑)。

 

加藤さん 当時小学生だった僕は「お前、そんなズルをして防衛して恥ずかしくないのか」と思ってましたけど、結果的にはリック・マーテルに敗れて王座転落するんです。でもやっぱり「鶴田、頑張れ!」と応援してました。

 

ガンツさん いま考えると、AWA世界王者としてアメリカで防衛ツアーをやっているのは相当すごいことですよね。

 

加藤さん 鶴田さんはアメリカで田吾作タイツを履いたり、柔道、相撲、空手、忍者、侍といった日本人特有のギミックもなく、いつもの黒いウインドブレーカーとショートタイツで現れたんですよ。それで悪い王者をやってベビーフェースの挑戦を受け続けて、反則負けを重ねながらも防衛を重ねる姿を週刊プロレスで読んで「世界王者ってなかなか大変だな」と思いましたね。

 

──私は以前、WWEが制作した『レガシー・オブ・AWA』というDVDでAWA世界王者時代の鶴田さんの試合映像が流れたのですが、「AWAは善玉にも悪玉にもなれない中途半端な選手を王者に選んで迷走している」というニュアンスで紹介されていました。ハルク・ホーガンがAWA世界王者になる直前に、WWE(当時はWWF)に移籍したことによって団体がパワーダウンしていく中でなぜか日本人の鶴田さんがAWA世界王者になってしまったと。

 

加藤さん 日本プロ野球で例えるとWWEやNWAが「セリーグ」なら、AWAは「パリーグ」のような感じでしたね。

 

ガンツさん でも80年代初頭、本当は一番いい選手が揃っていたのがAWAなんですよ。だからWWEが全米制圧をしていく中で一番選手を取られたのがAWAでした。

 


 

──AWAには「バーン・ガニア・キャンプ」というプロレスラー養成所が団体内にあって選手育成がしっかりしていたのもいい選手が多い秘訣ですよね。

 

加藤さん あと今思うと『土曜トップスペシャル』で鶴田VSニックが放送されて、当時引退していたテリー・ファンクがレフェリーをやるんですけど、全くレフェリーとしての体をなさないんですよ(笑)。でもそれも当時『全日本プロレス中継』は17時30分から18時30分で放送されていて、特番では『8時だョ!全員集合』(TBS系)や『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の真裏で流して世間と勝負するにはテリーがレフェリーを務めるというプラスアルファが必要だったんだなと感じるようになりましたよ。

 

ガンツさん ドレスシャツを着ていたテリーが、場外でニックやジャンボにぶつかっただけで失神寸前になったりして。当時、友だちが「テリー、レフェリーになったら急に弱くなったね」って言ってたのを思い出します(笑)。

 

加藤さん そこからプロレスラーとしてテリーの第二章が華々しく狂い咲くとは夢にも思いませんでした。



令和の世でマジック・ドラゴン(ハル薗田)を語ろう!

「僕の妄想の中では、蹴り技が得意で、ドラゴン・スープレックスを使う、のちのグレート・ムタみたいに活躍してました」(ガンツさん)

「職人レスラーとしての仕事を全うした薗田さんからプロの矜持を感じますね」(加藤さん)







──ありがとうございます。ではガンツさん、お願いいたします。

 

ガンツさん 当時、妙に気になる存在だったのが、マジック・ドラゴンなんですよ。

 

加藤さん おおお!!

 

ガンツさん 彼はザ・グレート・カブキブーム真っ只中に、カブキさんのパートナーとしてアメリカから凱旋帰国するんですけど、当時って日本に忍者スタイルのレスラーっていなかったんですよね。メキシコには「ロス・ファンタスティコス」(カト・クン・リーとブラックマンとクン・フーによるトリオユニット)がいましたけど、トリオでの来日は90年のユニバーサル旗揚げまでなかったし。そこに「龍の忍者」マジック・ドラゴンが現れて、カッコよく感じたんですよね。ただ、マスクマンのヒーローとしては、ちょっとお腹が出ていて、なんだか弱いな、と(笑)。

 

──確かにタッグマッチやシングルマッチではやられることが多かったですよね。

 

ガンツさん でも僕はマジック・ドラゴンが好きなのでそこからちょっと妄想が入って。子どもの頃って、大学ノートにプロレス団体の勝手にシリーズ日程やマッチメイクを組んだりしたじゃないですか。

 

加藤さん 僕もやってました。

 

──私もです(笑)。

 

ガンツさん 僕が妄想で組んだシリーズではマジック・ドラゴンが大活躍するんですよ(笑)。フィニッシュホールドもドラゴンスープレックスだってことにして。実際のマジック・ドラゴンは一度も使ったことがないんですけどね(笑)。僕の妄想の中では、蹴り技が得意で、ドラゴン・スープレックスを使う、のちのグレート・ムタみたいに活躍してました。妄想ですけど(笑)。

 

──ガンツさんがエディットしたマジック・ドラゴンなんですね!まるで『ファイプロ』じゃないですか!

 

ガンツさん その後、唐突に組まれた小林邦昭とのマスカラ・コントラ・カベジェラ(敗者マスク剥ぎor髪切りマッチ)に敗れて、マジック・ドラゴンはマスクを脱いでしまうんですよね。次のシリーズからは素顔のハル薗田に戻って、何事もなかったかのように前座レスラーとしての日々が始まるんですけど。週刊プロレスの熱戦譜を見るとハル薗田の戦歴は、シリーズほぼ全敗です。中堅で全敗はなかなかないですよ。

 

加藤さん 職人レスラーとしての仕事を全うした薗田さんからプロの矜持を感じますね。

 

──和製S・D・ジョーンズ(1970年代後半から1990年代初頭のWWEで名ジョバーとして活躍した伝説のやられ役レスラー)みたいですね。

 

ガンツさん 大物にあっさり負けるならともかく、中堅クラスで負け続けるという。さっきの『土曜トップスペシャル』の話でいうと、19時30分放送開始の最初の試合が阿修羅・原vsハル薗田だったことがあって。“ヒットマン”として一匹狼になったばかりの阿修羅・原のヒットマンラリアットで秒殺負けという、いい仕事もしていました。

 

加藤さん 薗田さんは組織内でどうすれば一番貢献できるのかをよく理解していたと思います。恐らくジャイアント馬場さんにとってはものすごく大切な存在だったんでしょうね。

 

ガンツさん 小橋健太(現・建太)さん世代のコーチが薗田さんですから。でも、飛行機事故で亡くなってしまうんですね。

 

──薗田さんは1987年11月28日南アフリカ航空295便墜落事故に遭い、帰らぬ人になりました。享年31。あまりにも早すぎる死でした。

 

加藤さん 僕はNHKニュースで薗田さんの訃報を知りました。当時NHKの電波にプロレスラーの名前が乗るなんてあり得なかったことなので、そこで薗田さんが飛行機事故に遭ったというニュースを見た時はどうしようもない悲しみに襲われました。

 

──薗田さんが南アフリカに行く理由はタイガー・ジェット・シンが責任者を務めるプロレス興行に出るためでした。シンからのオファーをカブキさんが断って、阿修羅・原さん、石川孝志さんが断って、最終的に薗田さんが行くことになりました。

 

ガンツさん タイガー・ジェット・シンがニュースで神妙な顔をして薗田さんの訃報にコメントを出していたんですよ。その姿は僕らが知っているシンじゃないので驚きました。

 

加藤さん それだけの深刻さを物語っていますよね。

 

ガンツさん 1989年に百田光雄ブームが起こったあの時代にハル薗田が生きていれば、絶対にファンは彼を盛り上げて応援していたと思うんです。「ハイヤーーッ!!」という声を上げながらのスライディング・キックとかめちゃくちゃ盛り上がってただろうなと。ハル薗田さんの時代が来ていたはずなんですよ、たぶん!

 

加藤さん すごく敏感なファンは薗田さんに感情移入して「俺たちで薗田を大舞台に送り出してやろう」みたいな気持ちにさせたかもしれませんね。いやぁ、マジック・ドラゴンの話をガンツさんとできるなんて幸せですよ!

 

──マジック・ドラゴンはカブキさんとのタッグでアジアタッグ挑戦とか色々と売り出し方はあったように思いますね。

 

ガンツさん そうなんですよ!もっとマジック・ドラゴンの売り出し方を考えてほしかったな~。ポニーテールをマスクの後ろから出していて、髪の毛が出ているマスクは獣神サンダー・ライガーさんより全然早いですから。

 

──ちなみにカブキさんは薗田さんの一件もあってシンが嫌いだと言ってましたね。

 

ガンツさん それはシンが悪いわけじゃないと思いますけど(笑)。

 

加藤さん こればっかりはね…。

 

──シンは1988年と1989年の『世界最強タッグ決定リーグ戦』に犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーとの世界最恐極悪コンビでエントリーしているんですけど、これは薗田さんの一件があって、シンが全日本からの依頼を受け入れたという説がありますね。

 

ガンツさん それは知らなかったです。

 

加藤さん ジャストさん、なんでも知ってるねぇ(笑)。


 

二人が語る佐藤昭雄

「ずっと『佐藤昭雄とは何か?』と頭の中で醸成させていって僕は大人になったような気がするんです」(加藤さん)

「大人になった今、昔の映像を見ても『佐藤昭雄がいいな』とはあまり思わないんですけどね(笑)」(ガンツさん)



──ありがとうございます。では他にこの場で語りたい全日本のプロレスラーはいますか?

 

加藤さん 僕はアジアタッグ戦線が好きで、やっぱり佐藤昭雄さんが謎の存在だったんですよ。1970代から1980年代のアジアタッグ王座は極道コンビ(グレート小鹿&大熊元司)の代名詞で、そこに石川孝志&佐藤昭雄が台頭しますよね。佐藤さんは名前もまるで学校の先生みたいで、しかも試合もあまり特徴がないんです。一方の石川さんは日本大学時代に相撲でアマチュア横綱となり、元大相撲では前頭を務めたトップアスリートで、身体能力を全面的に押し出したファイトをするんですよ。ずっと「佐藤昭雄とは何か?」と頭の中で醸成させていって僕は大人になったような気がするんです。佐藤さんがプロレス脳があってリングのすべてが見えている人だということはさすがに小学校低学年の自分には分かりませんでした。

 

──佐藤昭雄さんの凄さは大人にならないと分からないですよね。

 

加藤さん 全然分からなかったですね。

 

ガンツさん ただ、大人になった今、昔の映像を見ても「佐藤昭雄がいいな」とはあまり思わないんですけどね(笑)。

 

加藤さん そうですよね(笑)。全日本のタイトルには番付みたいなものがあって、シングルはPWF王座、インター王座、UN王座があって、タッグはインタータッグ王座、PWFタッグ王座の下にアジアタッグ王座があったんですよ。

 

ガンツさん アジアタッグ王者チームは『世界最強タッグ決定リーグ戦』にエントリーするとほぼ全敗なんですよね(笑)。アジアタッグ王者とメインイベンタークラスの格差が大きすぎだろ、と思うんですけど。

 

加藤さん だから1980年代アジアタッグ戦線を見ていると「なんでこんなもっさりとした選手たちが王者なんだろう」と思っていると、昭和から平成になっていく1980年代後期になるとすごく活性化するんですよ。

 

ガンツさん フットルース(サムソン冬木&川田利明)が登場してから変わり出しましたよね。

 

加藤さん あの辺も週刊プロレスの市瀬英俊さんの意向なのかなと感じてました。

 

ガンツさん そうじゃなかったらアジアタッグ王座は何のためにあるベルトなのかとなりますから(笑)。

 

加藤さん ハハハ(笑)。僕は小学校の時に本屋に行ってベースボールマガジン社から発売された『栄光の輝き』という日本とアメリカの主要団体のチャンピオンベルトの写真集を買って、暇な時によく読んでいて、アジアタッグの歴代王者を紹介するページには錚々たる王者チームが名を連ねる中で、途中からトップどころではない中堅レスラーがずらりと並ぶんですよ。その象徴が個人的には佐藤昭雄さんなんです。佐藤さんに対する違和感やクエスチョンを抱え込んで僕は大人になりました。



言われてみれば確かに…。

「昭和の全日本ってかなり謎が多かったんですよ。若手や中堅クラスが海外遠征に出たと思ったら、行きっぱなしでそのまま帰ってこなかったり(笑)」(ガンツさん)



 

──佐藤昭雄さんは後年になってさまざまなレスラーや関係者の証言、本人のインタビューによって、実は凄い人だったと認識されたプロレスラーですよね。

 

加藤さん 『Gスピリッツ』での佐藤さんのインタビューを読んで、彼の言葉に耳を傾けているじゃないですか。

 

ガンツさん 昭和の全日本ってかなり謎が多かったんですよ。若手や中堅クラスが海外遠征に出たと思ったら、行きっぱなしでそのまま帰ってこなかったり(笑)。

 

加藤さん ハハハ(笑)。

 

ガンツさん 新日本の若手は海外に出したあと華々しく凱旋帰国させて売り出しますけど、全日本はそのまま行方不明ですからね。

 

加藤さん 本来ならロングダリングされて帰ってくるはずなのに。

 

ガンツさん 僕は全日本の会場に行くたびに、当時300円だったプログラム(パンフレット)を買ってたんですけど、「この後ろのほうに『海外遠征中』として載ってる伊藤正男って人、いつまで経っても帰ってこないな」とか思ってましたから。


加藤さん 伊藤正男さんは気になってました!あとロッキー羽田さんにもっとチャンスを与えてほしかったんです。192cm 115kgという体格とフィジカルを備えていていたわけですから。それこそ自分の妄想で組んだシリーズでは羽田さんは鶴田さんと組ませて、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカと対戦させてましたよ。

 

ガンツさん  1977年の『世界オープンタッグ戦』に出場したロッキー羽田&天龍源一郎では、羽田さんの方が格上だったんですよね。

 

加藤さん そうですよ。あと羽田さんの「和製アメリカンドリーム」という異名が本当に意味が分からなかったですね(笑)。どこの国の ドリームなんだろうと。

 

ガンツさん 「田舎のプレスリー」的な(笑)。




二人の全日本マニアックトークは止まらない! 

「新日本で初代タイガーマスクとかザ・コブラなどジュニアヘビー級のスターが次々と現れるのに、なぜ全日本ではマイティ井上がジュニアヘビー級王者なのだろうと」(ガンツさん) 

「大仁田厚さんがジュニアヘビー級の頂点を取ると、試合後にリングを降りた瞬間にヒザを怪我するという全く意味がわからないことをやっていて。ただNWAインタージュニア王者時代の大仁田さんを見ると『こいつは只者じゃない』と思いました」(加藤さん)



 

──ハハハ(笑)。ちなみにガンツさんは他に語りたい全日本のプロレスラーはいらっしゃいますか?

 

ガンツさん 新日本で初代タイガーマスクとかザ・コブラなどジュニアヘビー級のスターが次々と現れるのに、なぜ全日本ではマイティ井上がジュニアヘビー級王者なのだろうと、不思議に思ってましたね(笑)。

 

加藤さん 本当にそうなんですよ!

 

ガンツさん そもそもジュニアヘビー級とは思えないほど豆タンクみたいな体型じゃないですか。

 

加藤さん 髪型が七三分けで、すごくおじさんに見えるわけですよ。初代タイガーマスクと同世代である大仁田厚さんがジュニアヘビー級の頂点を取ると、試合後にリングを降りた瞬間にヒザを怪我するという全く意味がわからないことをやっていて。ただNWAインタージュニア王者時代の大仁田さんを見ると「こいつは只者じゃない」と思いました。チャボ・ゲレロとの血だらけの抗争が鮮烈な印象があって、人を魅了する能力は当時から長けていて、彼のファイトにすごく惹かれました。

 

ガンツさん 泣け叫ぶ王者なんていなかったですよね。1982年11月4日・後楽園ホールで行われたチャボ・ゲレロ戦ではチャボに血だるまにされて、試合後にものすごいデカくてトロフィーで乱打されるんですよ。

 

加藤さん あのトロフィーがギザギザ感があって痛そうでした!

 

ガンツさん 2016年8月26日にディファ有明で行われた『ファイヤープロレス』旗揚げ戦でチャボを呼んでいるんです。大仁田厚&チャボ・ゲレロ&保坂秀樹&NOSAWA論外VSケンドー・カシン&鈴木秀樹&将軍岡本&黒覆面F(はぐれIGF軍団)のノーロープ有刺鉄線バリケードマットストリートファイトデスマッチというとんでもないカードが組まれて、大仁田&チャボの友情タッグが見れたんですけど、試合後にやはりチャボが裏切るんですよ(笑)。

 

加藤さん チャボは分かってますね!

 

ガンツさん 大仁田にトロフィーで殴りにかかるんですけど、そのトロフィーが34年前に比べると日本テレビの資金が入っていないので、めちゃくちゃ小さいんですよ(笑)。オマージュをやったんですけど、「トロフィーが小さいよ!」と野次が飛んで(笑)。



1990年6月6日、水戸大会で謎の「シン」コール!

「シンが入場した時にみんなで猛烈な『シン」コールをやったんですよ。両手を突き上げながら『シン!シン!シン!』と(笑)。これがとんでもないエクスタシーの境地に達したんですよ!!」(加藤さん)

 




 

──全日本時代から大仁田さんがやっていることは完全にテリー・ファンクなんですね!

 

ガンツさん テリー・ファンク、大仁田厚、長与千種は言わばスタイルが一緒ですからね。3人とも大好きです。

 

加藤さん 話が前後して恐縮なんですけど、ガンツさんが1989年3月の後楽園ホール大会でファンがムーブメントを作ってリングの風景を彩っていったということを語ってくださいましたけど、そのファン主導の流れに近いことが1990年6月6日『スーパーパワーシリーズ』水戸市民体育館大会であったんです。

 

──どんな流れがあったんですか⁈

 

加藤さん 水戸大会の第5試合でタイガー・ジェット・シンが入場してきて、寺西勇さんとシングルマッチでコブラクローで勝利したんですけど、『吹けよ風、呼べよ嵐』(ピンク・フロイド)の旋律に乗ってシンが入場した時にみんなで猛烈な「シン」コールをやったんですよ。両手を突き上げながら「シン!シン!シン!」と(笑)。これがとんでもないエクスタシーの境地に達したんですよ!!

 

ガンツさん ハハハ(笑)。

 

加藤さん 会場はレイヴ(ダンス音楽を一晩中流す大規模な音楽イベントやパーティー)のような熱狂に包まれて、シンもその空気に呼応するように乗っているんですよ!ガンツさん、一時期に妙なシンのブームがありましたよね。

 

ガンツさん 実は「シン!シン!シン!」は1990年の『スーパーパワーシリーズ』で発生していて、最終戦の日本武道館(6月8日)ではブッチャーと一騎打ちだったんです。

 

加藤さん そうだったんですね。鶴田VS三沢の前にそんな素敵なカードが組まれていたことは全然語り継がれていないですよ(笑)。

 

ガンツさん 試合があまり面白くなくて、つまらないから観客は「シン!シン!シン!」というしかなくて(笑)。ブッチャー戦が最後にシンのブームも静かに終わってしまうんです。

 

加藤さん プチブームのような感じで期間も短かったんですけど、火花というか花火のような熱い血潮を感じましたね。とにかく水戸市民体育館は「シン!シン!シン!」で炎上してました。 



全日本プロレスという唯一無二の世界観

「新日本は村松友視さんが論じている文脈があって、その文学的世界観とは違ったところで怪物たちがバスに乗って全国巡業していたというのはものすごくて夢のあるファンタジーですよね」(加藤さん)

「僕が初観戦した足利大会で、会場入りして売店とか一通り見た後に食堂に行くとウルトラセブン(高杉正彦)がいて、マスクを鼻の上まで上げて、煙草を吹かしていたんですよ(笑)」(ガンツさん)

    

 

──シンはその三か月後の1990年9月に新日本に戻るんですよね。

 

ガンツさん 僕は子供の頃に会場で見たプロレスラーというのはすごく印象に残っていて、あれは1983年『ジャイアントシリーズ』で会場観戦して、初めて生で見たプロレスラーが巡業バスから降りてきた渕正信さんだったんです。当時の渕さんの印象はかなり細いという感じでした。子供の頃に見た渕さんがものすごく大きくて、胸板がめちゃ分厚かったんです。身長が高い人は僕が育った街にもいましたけど、尋常じゃなく発達した胸板を持つ人はいないので、「これがプロレスラーなのか」と実感しましたよ。

 

加藤さん ちゃんと1980年代から1990年代の全日本を試合会場で見てよかったなと思いますね。ジャイアントサービスのTシャツが売店で売られていて、馬場さんがサインしているという光景なんて今考えると宝物じゃないですか。

 

ガンツさん あの光景にもう一度出逢いたいですよ。

 

加藤さん 初観戦で見れた馬場VS鶴田が今、もう一度見れるなら100万円を払いますよ!新日本は村松友視さんが論じている文脈があって、その文学的世界観とは違ったところで怪物たちがバスに乗って全国巡業していたというのはものすごくて夢のあるファンタジーですよね。

 

ガンツさん それでこそプロレスなんですよ。僕が初観戦したのは足利市民体育館大会だったんですけど、食堂が併設されていたんです。会場入りして売店とか一通り見た後に食堂に行くとウルトラセブン(高杉正彦)がいて、マスクを鼻の上まで上げて、煙草を吹かしていたんですよ(笑)。

 

──ハハハ(笑)。最高ですね!

 

ガンツさん 口が開いているマスクもあるはずなのに、なんで口が開いていない試合用のマスクを被って煙草を吸おうとするのか(笑)。ウルトラセブンのこの姿は地方興行ならではかもしれませんね。

 

加藤さん これまた時代がワープしてしまうんですけど、1987年11月23日『世界最強タッグ決定リーグ戦』水戸市民体育館大会のメインイベントがジャイアント馬場&輪島大士VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&TNTだったんです。これが「This is 地方興行」で馬場さんが出てきて、輪島さんが出てきて、ブッチャーがいて最後はしっちゃかめっちゃかになって両者リングアウトで終わるんですよ。それでも僕らは大満足で。

 

──確かに「This is 地方興行」なタッグマッチですね!

 

加藤さん この試合の場外乱闘であまりにも凶器がないので、ブッチャーが会場で売れ残っていたウィンナーで輪島さんを攻撃して痛がっているんですよ。でも「ちょっと待てよ。ウィンナーで殴られて痛いのかよ」と(笑)。僕は受験して入った私立の男子中学校で落ちこぼれてしまい学校の成績が伸びず「どうやって勉強をすればいいのか」と悩み、人生で何も夢中になるものがなかった時にウィンナーで攻撃された「うわぁ!」と叫ぶ輪島さんを見て、僕も頑張って生きようと元気をもらいましたよ。






(中編終了)







 

ジャスト日本です。

 

 

 

 

「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

5回目となる今回はプロレス格闘技ライター・堀江ガンツさんとスポーツ報知編集委員・加藤弘士さんの同世代対談をお送りします。

 

 

 

 

 



 (画像は本人提供です)
 

 

堀江ガンツ

1973年、栃木県生まれ。プロレス格闘技ライター。

『紙のプロレス』編集部を経て、2010年よりフリーとして活動。『KAMINOGE』、『Number』、『昭和40年男』、『BUBKA』などでレギュラーとして執筆。近著は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)。玉袋筋太郎、椎名基樹との共著『闘魂伝承座談会』(白夜書房)。藤原喜明の『猪木のためなら死ねる』(宝島社)、鈴木みのるの『俺のダチ。』(ワニブックス)の本文構成を担当。ABEMA「WWE中継」で解説も務める。5月31日には構成を担当した前田日明・藤原喜明著『アントニオ猪木とUWF』(宝島社)が発売される。



[リリース情報]

5月31日に宝島社から『アントニオ猪木とUWF』(前田日明、藤原喜明著/堀江ガンツ構成)が発売。

UWF設立から40年――猪木とUへの鎮魂歌。YouTubeでも話せない二人だけが知る濃厚秘話対談集。

 

 

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

 

 

 

 

 

加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のMCも務める。

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

『砂まみれの名将』(新潮社)

 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在7刷とヒット中。

 

 

 

 

 

今回のお二人の対談のテーマは「俺たちの全日本プロレス論」です。

 

 

全日本との出逢い、語りたい選手と名勝負について二人のプロレス者が熱く語ります!こちらがこの対談のお品書きです!

 

 

 

        

(主な内容)

1.全日本プロレスとの出逢い

2.『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)の魅力

3.二人が語りたい全日本プロレス選手(日本人・外国人問わず)

4.二人が好きな全日本プロレス名勝負

5.あなたにとって全日本プロレスとは?

 

 


 

『闘魂と王道』著者であるガンツさんと『砂まみれの名将』著者である加藤さんの対談は抱腹絶倒で大いに盛り上がりました!

 

この二人の掛け合いがまるで深夜ラジオ番組のようでした。主に1980年代から1990年代の全日本プロレスをテーマにしたディープでクレイジーでファンタスティックな内容になっております!

 

 

 

 

 

二人のプロレス者による狂熱の対談、是非ご覧下さい!

 

 

 

プロレス人間交差点 

「活字プロ格の万能戦士」堀江ガンツ ☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

前編「俺たちの全日本プロレス論」

 

 

 

 

 

 

 

 


全日本プロレスとの出逢い

「スーパー戦隊シリーズが始まる前に他のチャンネルを見ると、日本テレビで『全日本プロレス中継』が放送されていたんで見るようになって、18時になったらチャンネルを変えて『電子戦隊デンジマン』を見てました」(ガンツさん)

「幼稚園の頃から父が全日本と新日本のプロレス中継を見ていて、物心がついた時にはプロレスファンになってました」(加藤さん)



 
──ガンツさん、加藤さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回は全日本プロレスについて色々と語り尽くす対談をさせていただきます。よろしくお願いいたします!
 
ガンツさん よろしくお願いいたします!
 

加藤さん よろしくお願いいたします!
 
──まずはお二人の全日本プロレスとの出逢いについてお聞かせください。


 ガンツさん 僕にとって全日本プロレスとの出逢いはプロレスとの出逢いと一緒なんですよ。1980年、僕が小学一年生の頃『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)は土曜の17時30分~18時24分という時間帯で流れていて、もともとはその裏番組で18時から放送されていた『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』『太陽戦隊サンバルカン』といったスーパー戦隊シリーズ(テレビ朝日系)が大好きだったんです。
 
──多くの子供たちはスーパー戦隊シリーズが好きですからね。
 
ガンツさん 毎週土曜は外で遊んできて放送時間に合わせて家に帰ってきて視聴する日々を過ごしていたのですが、たまたま少し早く帰ってきた時にスーパー戦隊シリーズが始まる前に他のチャンネルを見ると、日本テレビで『全日本プロレス中継』が放送されていたんで見るようになって、18時になったらチャンネルを変えて『電子戦隊デンジマン』を見てました。それがいつしか『太陽戦隊サンバルカン』を見ずに『全日本プロレス中継』を最初から最後まで釘付けになった頃には完全にプロレスファンになってました。
 
──7歳から見ているのですから割と早い段階でプロレスに目覚めたんですね。
 
ガンツさん 全日本に登場する外国人レスラーは“怪獣”だらけじゃないですか。その辺は『ウルトラマン』シリーズやスーパー戦隊シリーズと地続きだったのですんなりプロレスに入り込めました。
 
加藤さん 『バトルフィーバーJ』なんて完全にIWGPですよね。
 
ガンツさん 各国代表のヒーローみたいな(笑)。実は僕が新日本プロレスを見るのは全日本よりもう少し後からなんですけどね。
 
──恐らく『全日本プロレス中継』が土曜17時30分という時間帯に放送されていたのが子供たちからすると入り込みやすかったのかもしれませんね。
 
加藤さん 『ビバ!ジャイアンツ』(毎週土曜17時15分から15分感放送された日本テレビ系のプロ野球・読売ジャイアンツの応援番組)からの『全日本プロレス中継』という流れが本当に絶妙なんですよ。
 
ガンツさん 『全日本プロレス中継』は1972年10月から1979年3月まで土曜20時からのゴールデンタイムで放送されていました。もし同じ時間帯でその後も流れていたら、僕は絶対に裏番組の『8時だョ!全員集合』を見ていただろうと思うので、そのタイミングではプロレスに出逢っていなかったと思います。『全日本プロレス中継』が、18時からのスーパー戦隊シリーズが始まる前の17時30分という中途半端な時間帯から放送されていたからプロレスを見るきっかけになったんです。
 
加藤さん あの時間帯で放送されると子供たちはみんなプロレス好きになりますよ。
 
──加藤さんが全日本プロレスとはどのような形で出逢ったのですか?
 
加藤さん 僕は1974年生まれで、松井秀喜世代なんですよ。もう幼稚園の頃から父が全日本と新日本のプロレス中継を見ていて、物心がついた時にはプロレスファンになってました。以前、ジャストさんにもお話ししましたが初めてのプロレス観戦が全日本なんです。幼稚園を卒業して、小学校入学前の1981年4月2日茨城県・水戸市体育館で行われた全日本プロレス『チャンピオン・カーニバル』開幕戦を母親にお願いして3000円のリングサイド席を購入しまして、観に行きました。これが会場でのプロレス初観戦でした。 
 
ガンツさん 初観戦がめちゃくちゃ早いですね!
 
加藤さん ガンツさん、この水戸大会のメインイベントがジャイアント馬場VSジャンボ鶴田の『チャンピオン・カーニバル』公式戦、30分時間切れドローだったんですよ。
 
ガンツさん 素晴らしいですね!地方大会のメインは普通、6人タッグマッチですから。馬場VS鶴田は贅沢ですよ!
 
加藤さん 小山ゆうえんちスケートセンターや宇都宮清原体育館だと6人タッグがメインですよね。『チャンピオン・カーニバル』だったということ、テレビ収録だったことが水戸大会で馬場VS鶴田の師弟対決が見れたのかなと勝手ながら推測してます(笑)。
 
──それはあり得ますね!
 
加藤さん  あとこの水戸大会はブルーザー・ブロディがウェイン・ファリスという白星配給係のような選手に僅か16秒、キングコング・二―ドロップでピンフォール勝ちしているんですよ。
 
ガンツさん プロレスマニアでは有名な試合ですよ(笑)。
 
加藤さん  元祖・秒殺試合をプロレス初観戦で見ちゃったんですよ(笑)。小学校入学前の僕にはブロディの秒殺劇はあまりにも衝撃で、そこからプロレスの虜です。
 
ガンツさん それはもうプロレスファンのエリートコースを歩んでるじゃないですか(笑)。
 
加藤さん プロレスにおいて慶応幼稚舎に合格したような感じかもしれませんね!僕もガンツさんも北関東でプロレスファンをやっていたという部分でかなり共鳴するところがあるなと思いますよ。



1989年の全日本について新発見!

「実はファン主導による全日本の民主化という大きな流れが起きていたのは1989年なんですね!」(加藤さん)

「そうです!週刊プロレスと全日本の共犯関係が成り立っていた一番いい時代ですよ」(ガンツさん)



 
ガンツさん 北関東は東京と距離こそ離れていても視聴しているテレビ番組は東京と一緒なんですよ。そこが強みだったと思います。ちなみに僕が初めて東京でプロレスを観に行ったのが中学三年生の時で、全日本の後楽園ホール大会だったんですよ。
 
加藤さん 全日本なんですね!どんなカードが組まれていたのですか?
 
ガンツさん これが僕の観戦歴の中でもトップクラスで興奮した興行で、1989年3月29日の後楽園ホール大会でした。1989年は百田光雄ブームがあった年なんです!
 
加藤さん あああ!そうだ!
 
ガンツさん あの頃の全日本・後楽園ホール大会は常時ハイクオリティーな興行を展開していて、突然の百田ブームによって「百田」コールが爆発したんですよ。そして日本初のブーイングが起こったのも1989年で、確か五輪コンビ(ジャンボ鶴田&谷津嘉章)がものすごいブーイングを浴びていた時代でした。
 
加藤さん いわゆる「オー!」と「オリャ!」の時代ですね!
 
ガンツさん そうなんです。まだ鶴田さんの「オー!」をお客さんが馬鹿にしていた頃で、ジャンピング・ニーを放った後に本人が言う前にお客さんがフライングして「オー!」と言っちゃってたり、五輪コンビへの嫌がらせをしていた時代だったんですよ。百田さんは渕正信さんが保持する世界ジュニアヘビー王座に挑戦して、百田さんには「百田」コールが起こって、渕さんにはブーイングだったんです。
 
──声援が両極端ですね!
 
ガンツさん 世界ジュニア戦が終わってセミファイナルが五輪コンビVSフットルース(サムソン冬木&川田利明)で、五輪コンビにはブーイングと「オー!」と「オリャ!」コールをやったんですよ。でもこの試合の鶴田さんがとにかく強いんですよ!フットルースをめちゃくちゃにやって、お客さんが感服しちゃって試合後に初めて「鶴田、オー!」コールが巻き起こるんです!
 
加藤さん 歴史的転換点ですよ!
 
ガンツさん 「鶴田、オー!」というコールは発明ですよ!なんてセンスのいいコールなんだと…。あのコールによって鶴田さんがベビーフェースにターンしていったんです。そこからお客さんが「鶴田、オー!」コールがやりたくなって鶴田さんに大歓声が起こるようになったんです。
 
──元々「鶴田」コールだったじゃないですか。それが1989年の五輪コンビVSフットルースがきっかけで「鶴田、オー!」コールに変わったんですね!それは凄い!
 
ガンツさん 鶴田さんは全日本のエースなんですけど、試合があまり面白くないということで1989年2月からブーイングを浴びていたんです。そこから「鶴田、オー!」コールをお客さんがやりたいということでベビーフェースになるという謎の展開が起こったんですよ。
 
加藤さん ガンツさん、全日本の歴史を考えると1990年のSWS騒動があって、三沢光晴さんが二代目タイガーマスクの仮面を脱いで、超世代軍フォーバーがあった時期がどうしても語られがちですけど、実はファン主導による全日本の民主化という大きな流れが起きていたのは1989年なんですね!
 
ガンツさん そうです!週刊プロレスと全日本の共犯関係が成り立っていた一番いい時代ですよね。
 
──週刊プロレスの市瀬英俊記者が提案したカードが採用されて、名勝負が量産されていた時代ですよね。
 
ガンツさん まだ竹内宏介さんや菊地孝さんが健在している中で、週刊プロレスのターザン山本さんや市瀬さんが全日本の内部に入り込み始めた時代でマッチメークも明らかに変わっていったんです。
 
加藤さん 市瀬さんのファン心理を巧みに読んで、世論を後楽園ホール大会の空気を反映させたマッチメークが実現していたのがあの時代ですよね。
 
ガンツさん 当時のプロレス界はUWFブームの真っ只中なんですよ。新日本もソ連のレッドブル軍団を呼んでやや格闘技寄りだった時代。そんな中、全日本は「みんなが格闘技の走るので、私、プロレスを独占させていただきます」という馬場さんのポスターとともに、プロレス本来のおもしろさを打ち出した。豪華な外国人レスラーと、ジャンボ鶴田vs天龍源一郎の鶴龍対決が共存していた、最高の時期が1989年だったと思います。
 
加藤さん 1990年はSWS騒動があって天龍さんが移籍して、大量離脱があったわけですけど、1989年は全て揃っているんですね!
 
──アジアタッグ戦線も1989年は加熱してますよね!
 
ガンツさん そうなんです。ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)vsマレンコ兄弟の伝説的な一戦が後楽園で行われたり、カンナム・エクスプレス(ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット)がアジアタッグ王座を初めて獲得したのが1989年でした。
 
加藤さん 僕は当時、中学三年生で、プロレスなんか見たことがないクラスメイトから「カンナムとマレンコ兄弟(ジョー&ディーン)の試合、めちゃくちゃ面白かった」といきなり話しかけられたことがありましたよ。当時の『全日本プロレス中継』が日曜22時30分という後に『電波少年』や『ダウンダウンのガキの使いやあらへんで』をやる時間帯で流れていたんですよね。
 
ガンツさん 凄くいい時間帯で『全日本プロレス中継』が観れた時代だったんですよ。
 
加藤さん そこから『全日本プロレス中継』は日曜深夜にお引越しをするんですけど、福澤朗さんが登場してエンタメ化していって高視聴率を獲得するんですけど、あの日曜22時30分からの一時間というのは世間とのタッチポイントとしてはたまらない時代でしたよね。
 
ガンツさん 僕も22時30分時代が全日本にとって最高の時代だったんじゃないかって思っています。
 
──『 オシャレ30・30 』(毎週日曜22時から日本テレビ系で放送された古舘伊知郎と阿川泰子が司会を務めるトーク番組)の後に『全日本プロレス中継』が見れたんですよね。
 
加藤さん 古舘さんからバトンタッチを受けて全日本という不思議な流れがあったんですね。22時30分という、30分から始まるというのがいいんですよ。
 
──今思うと22時30分で毎週プロレスが観れたというのはものすごく贅沢な時代ですよね。
 
ガンツさん そうですね。80年代末から90年代初頭って我々の世代がちょうど中学生や高校生になるくらいで、22時~23時台のテレビ番組が大好きになるんですよ。おもしろい深夜番組がどんどん出てきた時代。
 
加藤さん 『19XX』や『カノッサの屈辱』といった斬新なテレビ番組の同一線上に『全日本プロレス中継』があるという文化が当時、確かにあったんですよ。福澤さんの「プロレスニュース」なんてちょっとサブカル志向じゃないですか。サブカルとプロレスの距離感がすごく密接な時代だったんですよね。
 
ガンツさん 同じ頃、新日本は土曜16時から放送されていました。でも中学生や高校生ぐらいになると土曜16時は外に遊びに行ってるんですよ。本当にプロレスが好きな人間しか見ていないんです。すぐゴルフ番組の特番で放送中止になるし(笑)。でも全日本の日曜22時30分はみんな観ていたんですよ。
 
加藤さん 1990年4月27日に新日本・東京ベイNKホール大会で武藤敬司さんが凱旋してものすごい試合をやって、明らかに新時代の到来を告げたじゃないですか。でもその頃、みんな部活をやっていてテレビを視聴していないんですよ。グレート・ムタVS馳浩(1990年9月14日・広島サンプラザ)は凄い試合だったから、クラスのみんなと共有したいのに、誰も見ていないとか(笑)。




1990年代の全日本・武道館大会について
「ガンツさん、やっぱりあの頃の全日本の武道館大会はどうかしてましたよ!休憩時間にウェーブが起きちゃうんですから(笑)」(加藤さん)

「武道館ってドームに比べると小さいから、波の流れが洗濯機みたいにぐるぐる回ってすごく速いんですよ(笑)」(ガンツさん)






──ハハハ(笑)。今の話をお伺いすると1990年代に10代後半や成人を迎えた世代にとっては全日本には郷愁を抱きやすいのかもしれませんね。
 
加藤さん そうですね。ガンツさんの東京初観戦が1989年3月の後楽園ホール大会なら、僕の東京初観戦は1990年12月7日の全日本・日本武道館大会『世界最強タッグ決定リーグ戦・最終戦』でした。高校一年生で平日の授業が終わってから、常磐線で水戸から二時間、鈍行列車に乗って東京に行くんですよ。ガンツさん、やっぱりあの頃の全日本の武道館大会はどうかしてましたよ!休憩時間にウェーブが起きちゃうんですから(笑)。しかもウェーブという文化が発生したばかりで、武道館のウェーブが本当に波が起こっているようなんですよ。
 
ガンツさん 武道館ってドームに比べると小さいから、波の流れが洗濯機みたいにぐるぐる回ってすごく速いんですよ(笑)。
 
加藤さん 僕は武道館の二階席で見てましたけど、一階のアリーナ席からウェーブが始まった時は本当に泣けてくるくらい嬉しかったんです。ものすごく強いジャンボ鶴田さんに対して三沢さん、川田さん、小橋(健太)さんの超世代軍が立ち向かっていくという構図が少年ジャンプのような世界観があって、ティーンエイジャーの気持ちにフィットしていたのが1990年代の全日本だったのかなと思います。
 
ガンツさん 超世代軍は感情移入できる存在でしたよね。初代タイガーマスクを観ていた頃は僕らは全然子供で。鶴龍対決の頃の鶴田、天龍も「大人」だったじゃないですか。でも、超世代軍は初めて我々と同世代が活躍している感覚を持って見ていたところはありました。
 
──超世代軍は俺たちの代表ですよね。
 
加藤さん とにかく鶴田さんが強くて、今でも動画で見ても面白いんですよ。
 
ガンツさん その通りです!僕の中でジャンボ鶴田のベストバウトは1990年9月1日・日本武道館で行われた三沢光晴戦なんですよ。
 
──同感です!次期三冠ヘビー級挑戦者決定戦で、1990年6月8日・日本武道館大会のリターンマッチですよね。
 
ガンツさん 一回目の鶴田VS三沢は、丸め込みで三沢さんが勝つじゃないですか。9・1武道館は、前回敗れたジャンボがイメージを挽回させるためかものすごく過剰な怪物性が出ていて、鶴龍対決でも出ていない新たな魅力がリング上で爆発しているんです。鶴田さんが三沢さんに「俺とお前ではレベルが違うんだよ」という圧倒的な強さを見せつけたのが鶴田VS三沢の再戦だったと思います。
 
加藤さん 「全日本プロレスに就職します」と言ってプロレスラーになった鶴田さんがトップアスリートとして「なんで俺が三沢に負けなきゃいけないんだ!」という想いを溜めに溜めてドカンとマグマのように爆発させたのがあの三沢戦でしたね。
 
──鶴田さんがイス攻撃とか頭突きまでやって何としても勝つ姿勢を示したのが1990年9月1日の三沢戦だったんです。
 
加藤さん 確かあの頃、鶴田さんが「三沢が俺に勝つのは三年早い」と言っていて、割とすぐだなと思いましたよ(笑)。
 
ガンツさん スポーツマンらしいですよね。「40歳を超えたらトップを譲ってもいいけど、まだ3年早い」っていう(笑)。
 
加藤さん ハッタリじゃなくて、本当に鶴田さんの人柄が出ている発言ですよ。
 
──10年早いとか100年早いじゃなくて、3年というのが妙にリアリティーがありますね!
 
ガンツさん これは鶴田さんの本音だったんでしょうね。「3年が経てば譲ってもいいけど、今はまだ俺だ」という鶴田さんの意思のような気がします。これは野球でいうところのエースや四番の座を譲るようなことですからね。
 
加藤さん 鶴田さんはそういうことにこだわりがない方なのかなと思ったんですが、ずっと全日本のエースとして団体を支えてきたというプライドを三沢さんとの再戦でのファイトで感じましたよ。
 
──1991年4月18日・日本武道館で行われた鶴田VS三沢の三度目の対決になってくると、鶴田さんの引き出しの多さと懐の深さが出た試合になりますよね。
 
ガンツさん あの頃になると鶴田さんの人気が爆発してましたね。恐らく鶴田さんにとって一番気持ちが良かった時代だったと思います。
 
加藤さん 鶴田さんの強さを万人が認めるようになったんですよね。あとスーパーヘビー級である自身の体格を活かせるスタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムスといったライバルに恵まれたと思います。
 
──ファンがようやく鶴田さんの見方が完全に認知されるようになったのが1990年代ですね。菊地毅さんを徹底的に痛めつけて鬼と化したりとか。
 
加藤さん あれで菊地さんが受けの凄みを見せつけて光るんですよ。怪物に向かって全力で向かっていって、拷問のように痛めつけられて耐えに耐え抜くことで菊地さんの人気に繋がったわけで、本当にあの頃は幸福な時代ですよね。



『全日本プロレス中継』の魅力とは?

「『全日本プロレス中継』の魅力は音楽の使い方だと思います。番組プロデューサーの梅垣進さんが作り上げていた映像の世界観がおしゃれですごくポップでかっこよかったんです」(加藤さん)

「今見ても素晴らしいと思うのはカメラワークですよ。『ワールドプロレスリング』とはかなり大きな差がありました」(ガンツさん)



 
──ありがとうございます。では次の話題に移ります。ガンツさんも加藤さんも全日本との出逢いは日本テレビ系で放送された『全日本プロレス中継』だと思います。この番組の魅力について語っていただいてよろしいですか。
 
加藤さん これはガンツさんもジャストさんも同じ意見だと思いますが、『ワールドプロレスリング』はやっぱり古舘伊知郎さんじゃないですか。『全日本プロレス中継』は倉持隆夫さん、若林健治さん、福澤朗さんもすごく個性があって素敵な実況アナウンサーですよね。でも『全日本プロレス中継』の魅力は音楽の使い方だと思います。番組プロデューサーの梅垣進さんが作り上げていた映像の世界観がおしゃれですごくポップでかっこよかったんです。ミル・マスカラスのテーマ曲としてジグソーの『スカイ・ハイ』を採用したり、ブルーザー・ブロディのテーマ曲『移民の歌』(ロック・メッセンジャーズ)なんて、元祖のレッド・ツェッペリンよりも、インストカバーを先に知りましたから(笑)。
 
ガンツさん ブロディが新日本に移籍してから、本物の『移民の歌』(レッド・ツェッペリン)を使って入場してもどうもしっくりこないんですよ。本物なのに、プロレスファン的にはニセモノ感があって(笑)。
 
──全日本版『移民の歌』でファンが慣れてしまっていたのかもしれませんね。
 
加藤さん あとミラクルパワーコンビ(スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ)や鶴龍コンビ(ジャンボ鶴田&天龍源一郎)がタッグチームとして活動した時にテーマ曲をどうするのかとなった時に両者の格を落とさないように合体テーマ曲で入場させるのは名案でしたし、あの辺の強引さがものすごく楽しくて『全日本プロレス中継』で流れるテーマ曲がまた魅力的だったんですよ。
 
ガンツさん あとはザ・グレート・カブキさんのテーマ曲『ヤンキー・ステーション』(キース・モリソン)とか素晴らしかったですよね。
 
加藤さん ガンツさん、カブキさんの日本初上陸ってすごくなかったですか。
 
ガンツさん 次週登場の予告から最高でしたよ!どっかのお寺で修行してるプロモが流れて(笑)。
 
加藤さん ハハハ(笑)。あのカブキさんの凱旋のときめきはちゃんと語り継いでいきたいですよね。カブキさんは職人肌でうまいプロレスラーという見方が通説かもしれませんが、違うんですよ。本当はアトラクティブ(魅力的、人を引き付ける)で際立ってカッコいいプロレスラーなんです。
 
ガンツさん 僕らの世代では初代タイガーマスク以上にザ・グレート・カブキが直撃なんですよ。タイガーマスクのデビューが小学2年で、カブキは小学4年でしたから。学校のクラスでもカブキ人気が凄かったんですよ。
 
加藤さん ヌンチャクがほしくなりましたし、通販でカブキのマスクみたいなものが売っているけど、お金がないから買えないとか(笑)。
 
ガンツさん 校庭の水飲み場で水を口に含んで、毒霧パフォーマンスをやってみたり(笑)。
 
加藤さん アッパーカットも真似たりとか(笑)。
 
──カブキさんの「三種の神器」はアッパーカット、毒霧、トラースキックですよね。
 
加藤さん 連獅子の衣装もかっこよかったですよね。
 
ガンツさん フィニッシュホールドだけは、「これってホントに痛いのかな?」とは思いましたが(笑)。
 
──セカンドロープ上を綱渡りするように歩いてから、倒れている相手の胸元に正拳突きを叩き込むんですよね。
 
加藤さん カブキさんはいつの間にか日本陣営の中堅レスラーに収斂されていく切なさみたいなものがありましたね。でも水戸大会で『ヤンキー・ステーション』が爆音がかかると大歓声が巻き起こってました。
 
ガンツさん ちゃんとカブキさんは会場入りする時は頭巾を被ってペイント前の顔が見えないようにしてましたよ。
 
加藤さん ガンツさん、『プロレススーパースター列伝』のカブキさん回はよかったですよね。
 
ガンツさん、加藤さん、連載末期の時にカブキさん回は掲載されたんですよね。熱々な砂の中に手を突っ込んで鍛錬するシーンが描かれてましたね(笑)。
 
加藤さん 本当にメディアミックスですね。
 
ガンツさん あとカブキさんは『世界のプロレス』(1984年10月20日から1987年3月まで毎週土曜20時からテレビ東京系列局で放送されたプロレス番組)にも出ていて、テレビ東京と日本テレビをまたにかけてカブキさんの試合が流れていたんですよ。
 
加藤さん 子供ながらにテレビ局の縛りみたいなものがあるというのは理解していたので、「カブキさん、テレビ東京に出ていいの?」と思っちゃいましたね。『世界のプロレス』の話が出たのでやはりロード・ウォリアーズ(ホーク・ウォリアー&アニマル・ウォリアー)は触れたいと思います。ガンツさんは1985年3月9日両国国技館で行われた鶴龍コンビVSロード・ウォリアーズの試合はリアルタイムでご覧になられましたか?
 
ガンツさん テレビで流れた特番を見ました。確か『土曜トップスペシャル』だったと思います。 『土曜トップスペシャル』の放送時間が1時間半なのがいいんですよ。
 
加藤さん ビッグマッチ感も出ていますよね。あとロード・ウォリアーズのテーマ曲『アイアンマン』(ブラックサバス)と煽りのPVが最高でしたね!
 
ガンツさん 来日前から『フレッシュジャンプ』で連載された『プロレススターウォーズ』と『世界のプロレス』でロード・ウォリアーズ幻想が高まっていたんですよ。その中で来日したので大フィーバーでしたよ!
 
加藤さん 『プロレススターウォーズ』を読んでいたのが40年くらい前なんですけど、50歳になっても未だにこの漫画の話をみんな熱く語れますからね!
 
ガンツさん もう『コロコロコミック』を卒業した我々からすると『フレッシュジャンプ』が最高に面白くて、小学校高学年をターゲットにしていた“俺たちのマンガ誌”でしたよね!
 
加藤さん 『プロレススターウォーズ』ではブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカが一度仲間割れをして、もう一度組むことになった時に「俺はあまり記憶力がよくないんだぜ」となぜか粋なセリフを言ったり(笑)。
 
ガンツさん 日本でもベビーフェースだったハルク・ホーガンがアメリカンプロレス軍に反旗を翻して日本側についたり (笑)。
 
加藤さん 恐らく権利関係がぐちゃぐちゃですよね。今だったら『プロレススターウォーズ』は絶対にアウトですよね。漫画で勝手に言わせているんですから。
 
ガンツさん あれは東京スポーツの桜井康雄さんが「その辺は俺を通せば大丈夫だから」と言ったらしいですよ(笑)。
 
加藤さん ハハハ(笑)。
 
ガンツさん あの頃のプロレス界は東京スポーツが事実上コミッショナーのような存在だったので、東京スポーツがOKと言えば、大丈夫だったんでしょうね。
 
──話が脱線しましたが、『全日本プロレス中継』の魅力についてガンツさん、語っていただいてもよろしいですか。
 
ガンツさん 今見ても素晴らしいと思うのはカメラワークですよ。『ワールドプロレスリング』とはかなり大きな差がありましたよね。
 
加藤さん その通りです!
 
ガンツさん 『ワールドプロレスリング』は長い歴史がありますが、ずっとカメラワークがいまいちな印象があって、なんでこの名シーンをリングサイドのハンディーカメラで撮っちゃうのか。それだと迫力が薄くなるじゃないかと。うまい具合に2階からカメラを使ったりとかしないんですよ。『全日本プロレス中継』の代表的な名カメラワークはやっぱり1981年12月、スタン・ハンセンの最強タッグ登場ですね!
 
加藤さん あれは最高でしたね!僕の母親が当時美容師をしていて、美容室店舗の隣で『全日本プロレス中継』をテレビで見てたんですけど、プロレスを知らない勤務中の母親に「お母さん、大変だよ!全日本にハンセンが来ちゃったよ!」と伝えに行きましたよ。
 
ガンツさん 全国の視聴者が実況の倉持さんと同じタイミングで『あっ、スタン・ハンセンだ!!』と言ったはずですよ!ハンセンがブロディとスヌーカの背後に私服姿で入場した時に、控室のカメラがハンセンの顔が映らないように背後から撮っているんですよ。
 
加藤さん あのハンセンの背中がいいんですよ!
 
ガンツさん ハンセンの背中をカメラが追って、カメラが切り替わって入場口から見えた瞬間にブロディ、スヌーカの後ろにハンセンの顔が映るという見事なカメラワークで素晴らしい構図ですよ。
 
加藤さん そこはプロ野球の読売ジャイアンツの試合を長年放映してきたスポーツ報道の盟主である日本テレビの「数字を取れるコンテンツを生み出せるのは俺たちだ」というプライドを感じますね。
 
ガンツさん あとカメラの数が『全日本プロレス中継』は『ワールドプロレスリング』より絶対に多いですよね。
 
──『全日本プロレス中継』のカメラのスイッチングの的確さもあるかなと思います。
 
ガンツさん 1983年の最強タッグ最終戦でミラクルパワーコンビVS鶴龍コンビが闘うことになって、ハンセン&ブロディが優勝するのですが、フィニッシュとなったハンセンのウエスタン・ラリアットが、2階カメラからハンセンのブラックサポーターでの予告シーンを見せて、その次のスイッチングで場外でもがいてグロッキー状態の鶴田さんを映しているんですよ(笑)。
 
加藤さん ハハハ(笑)。
 
ガンツさん 最後は2階カメラからハンセンが天龍さんをロープに振って、ものすごい勢いで返ってくるところをラリアットを決めて、天龍さんを逆さまになるように豪快にやられるシーンが最高のカメラワークによって伝説に変わるんですよ!
 
加藤さん これが土曜17時30分から18時30分で地上波テレビで流れているんですから、凄い時代ですよ!
 
ガンツさん 大人のプロが本気で作っている至高のエンターテインメントですよ!
 
(前編終了)








 

 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

 今回のゲストは、プロレス団体GLEAT代表であり、リデットエンターテインメント社長・鈴木裕之さんです。

 




(画像は本人提供です) 


 
 
 
【インフォメーション】
2024.4.17(水)新宿FACE
LIDET UWF Ver.4
開場17:30開始18:30
ent.lidet.co.jp/event/
#GLEAT #LIDETUWF #LIDET 



 

プロレスとの出逢い、初めて好きになったプロレスラー、プロレス業界に関わる以前の経歴、プロレス業界に関わる経緯、SANADA(真田聖也)選手をマネージメントしたした時期の話、プロレスリングノアのオーナー企業になった経緯、ノア時代の苦悩、田村潔司選手が鈴木社長にプレゼンした時の話、GLEAT旗揚げ、LIDET UWF、GLEATの今後について…。

 

鈴木さんから興味深い話が次々と飛び出しました。

 

  

 

私とプロレス 鈴木裕之さんの場合「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」


私とプロレス 鈴木裕之さんの場合「第2回 『脱・三沢光晴』を掲げたノア時代とGLEAT旗揚げ」




 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 鈴木裕之さんの場合
「最終回(第3回) ベンチャー団体GLEATの未来予想図」
 
 
 
「GLEAT実験マッチ」の意図


──鈴木さんが創設した新団体・GLEATでは旗揚げ発表後にYouTube公式チャンネルで「GLEAT実験マッチ」と題して道場でのプロレスやUWFルールの試合を定期的に動画配信されました。これはどういった意図があったのですか?

 

鈴木さん 実験マッチは田村潔司エグゼクティブディレクターの提案です。GLEATを創設した2020年はまだコロナ禍であり、大会スケジュールが組みづらい状態で、それでも2021年7月1日の旗揚げ大会まで何かしらのプロモーションと所属選手に経験を積ませることが大事だったので、主にメジャークラスの大会を経験された他団体またはフリーの選手に参戦していただき、伊藤貴則と渡辺壮馬の成長過程を実験マッチと称してYouTube配信させていただきました。


──伊藤選手と渡辺選手はGLEATに来てかなり変わりましたよね。伊藤選手は体重を絞って精悍な感じに変貌しましたし、格闘技経験がなかった渡辺選手に至ってはキックボクシングの試合にもチャレンジしましたから。プロレスラーとしての太い軸がGLEATに入ってから出来たような印象があります。


鈴木さん そうですね。私としては当時の所属選手4人の中でも伊藤貴則、渡辺壮馬にGLEATのエースとして活躍してほしいと伝えていたので自覚も強くあったでしょうし、田村潔司エグゼクティブの教えも力になったと思います。



当初、田中稔とCIMAは相容れない関係と強く感じていた




──その後、プロレスリングHEAT-UPから飯塚優選手が移籍したり、田中稔選手や松井大二郎選手が入団されましたね。


鈴木さん はい。あと実験マッチしている頃に#STRONGHEARTSがGLEATに参戦してくれて、入団するまでの関係を構築できたのは大きかったですね。


──#STRONGHEARTSは国内と国外の団体を転戦していて、CIMA選手はAEWにも参戦していたのですが、コロナ禍があって海外に行きにくいという状況でしたね。


鈴木さん 恐らくコロナが解決すれば#STRONGHEARTSとしてアメリカはもちろん世界中で活動と活躍を予定していたと思います。でも実験マッチで縁があって最終的には入団をしてくれて、本旗揚げ前のGLEATに大きな注目と期待を得るきっかけとなってくれました。


──彼らの入団は驚きました。#STRONGHEARTSがいればプロレス部門(G PROWRESTLING)は確立できますからね。


鈴木さん そうですね。#STRONGHEARTSは「プロレスで人の心を掴む」スペシャリストです。その対極として田中稔は「UWFをやりたい」と言ってくれたので、選手兼任でUWFルールテクニカルオフィサーに就任していただきました。G PROWRESTLINGはCIMA、LIDET UWFは田中稔が責任者として仕切ることになるのですが、当初、田中稔とCIMAは相容れない関係と強く感じておりました。


──そうなんですか!イデオロギーがぶつかっているのですね。


鈴木さん 日本プロレス界で一時代を築いてきた選手同士リスペクトはありながら、育ってきた環境と教育は全く異なるのでイデオロギーの対峙は当然のことでした。その二人にカズ・ハヤシがスーパーバランサーとして大きな力を発揮してくれました。カズ・ハヤシがいなかったら早い段階で破裂していたかも知れません。


──カズ選手、CIMA選手、田中選手は日本ジュニアヘビー級戦線におけるレジェンドレスラーですからね。


鈴木さん 確か3人ともタイトル記録保持者でしたね。カズ・ハヤシが全日本の世界ジュニアヘビー王座最多連続防衛保持者(17回)で、CIMAがドラゴンゲートのオープン・ザ・ドリームゲートの記録保存者(最多連続防衛回数:15回、最多通算防衛回数、最長連続保持期間:574日、最長通算保持期間:1056日 )で、そして田中稔は新日本・全日本・ノアのメジャー団体ジュニア王座グランドスラムを達成していて、IWGP Jr.最多連続防衛保持者(11回/覆面レスラー「ヒート」時代)という凄い記録を持っていると本旗揚げ後に知りました。


──実績が桁違いの皆さんですね!


鈴木さん 三人には各々に強烈な実績と個性、生まれ育った団体の文化があるので、カズ・ハヤシがバランスを取ってGLEATらしさを構築してくれているところです。


──カズ選手は社長の経験があるのが大きいですよね。


鈴木さん カズ・ハヤシは実績が示す通りプロレスラーとしても超一流ですが、プロレス団体の社長経験もあり、私のことを力強くサポートしてくれます。




ハードヒットとの全面対抗戦は私達フロント側すら大会をきちんと最後まで大会を成立させられるのかと緊張感と殺伐感を体験させていただきました




──素晴らしいですね。GLEATは2020年10月15日・後楽園ホールでプレ旗揚げ戦、2021年5月26日に新宿フェイスで『G PROWRESTLING Ver.0』、2021年6月9日に新宿フェイスで『LIDET UWF Ver.0』を開催していきます。特に『LIDET UWF Ver.0』では「現在進行形のU」を標榜するハードヒットとの全面対抗戦が行われました。ハードヒットとの対抗戦についてはどのようにご覧になられましたか?


鈴木さん LIDET UWFをやるにあたって、私はハードヒットの大会をはじめて観戦に行きました。すると「LIDET UWFで考えているスタイルを既にやっている団体があった」「しかもUWFと田村潔司という名前にかなりシビアだぞ」というのが率直な感想でした。


──ハードヒットのUWFに対する執着心は凄まじいですよ。


鈴木さん なぜかUWFではなくハードヒットと名乗り、「現在進行形のU」と主宰の佐藤光留選手を筆頭に選手たちは口を揃えて言ってました。そして赤いパンツの頑固者と言われる田村潔司エグゼクティブに剝き出しの闘志を感じさせる白いパンツの頑固者和田拓也選手にも衝撃を受けました。そうなるとハードヒットとの対戦は絶対に避けて通れないので、ならば一発目の興行で決着をつけようと決断にいたりました。ハードヒットには自分たちがUWFを守ってきたという愛とプライドがあって、LIDET UWFも中途半端な気持ちではやっていないことを証明するためにも全面対抗戦を実現させて、勝負を決する道を選びました。昭和のプロレスって緊張感と殺伐感に溢れた試合が多かったじゃないですか。その一方で平成後期になって見やすい試合が多くなっている印象があります。


──確かにそうですね。


鈴木さん ハードヒットとの全面対抗戦は私達フロント側すら大会をきちんと最後まで大会を成立させられるのかと緊張感と殺伐感を一発目の大会で体験させていただきました。


──個人的にはLIDET UWF VS ハードヒットは最高の対抗戦でした。ものすごい刺激物であり、劇薬だったと思います。


鈴木さん ありがとうございます。ハードヒットの選手は本当にUWF愛が凄いです。伊藤と渡辺はUWFと言われても、田村潔司という凄い人に教わっていることもピンときてない印象でした。伊藤はPRIDEが好きだったので田村エグゼクティブの試合は見たことがあるかもしれませんが、渡辺に関してはハッスルがプロレスを好きになるきっかけでしたから・・・


──それは知りませんでした。


鈴木さん ハードヒットとの対抗戦で「これからの道は簡単ではない」と伊藤と渡辺はよく理解してくれたと思います。


──「生半可な気持ちでUWFを名乗らないほうがいい」ということをハードヒットが教えてくれたような気がします。


鈴木さん 色々と現実を認識した大会が『LIDET UWF Ver.0』だったかなとは思います。



UWFはかっこいいだけでもダメだし、強いだけでもダメで、両方を備えているべき



──これは持論なんですけど、UWFはプロレスと格闘技の間なんですよ。LIDET UWFとハードヒットはUWFスタイルを標榜しながら、目指すものが違っていて、プロレスと格闘技の配合具合がかなり異なっているんです。LIDET UWFはUWFインターナショナルに近くてプロレス7.5割、格闘技2.5割。ハードヒットはパンクラスに近くてプロレス5割、格闘技5割という印象があって、配合の違いが試合になった顕著に現れるんですよ。だからハードヒットは「相手の光を消す」というのがやり方ですので、LIDET UWFの強さが目立ちにくい傾向があるのかなと思います。


鈴木さん おっしゃる通りです。LIDET UWFはファッショナブルでスター性のある選手を重視していて、ハードヒットは泥臭くても強い実力者が主に参戦していると感じます。第2次UWFはこれらをミックスアップした選手たちがやっていたから凄いです。船木誠勝選手なんてその象徴じゃないですか。


──確かにそうですね!


鈴木さん UWFはかっこいいだけでもダメだし、強いだけでもダメで、両方を備えているべきと考えています。


──LIDET UWFのプロモーション戦略とハードヒットの強さが重なると凄いUWFが生まれそうだなと感じました。


鈴木さん あとハードヒットとの闘いでは、LIDET UWFの選手は佐藤光留選手から得たものや授かったものがたくさんあると思います。佐藤光留VS青木真也(2023年4月12日・後楽園ホール/LIDET UWF初代王者決定トーナメント準決勝)は本当に「ザ・UWF」みたいな緊張感が充満した試合でしたから。「LIDET UWFはこうあるべきだ」を一番体現しているのはハードヒットの城主である佐藤選手かも知れません。


──それは興味深い話ですね。佐藤選手はなんだかんだ言って鈴木みのる選手のイズムがあるんですね。色々と口撃するけど、最終的にはその団体にとって有益になるものをきちんと提供している印象があります。


鈴木さん その通りです。




内部充実を図っていく事がGLEATにとって一番の課題




──ありがとうございます。次の話題に移りますが、鈴木さんはGLEATという団体はプロレス界でどのような立ち位置にあるとお考えですか?


鈴木さん  プレ旗揚げ戦(2020年10月15日・後楽園ホール大会)、旗揚げ戦(2021年7月1日・TDCホール大会)もそうですが、プロレス界のスター選手が集結して、GLEATの所属選手がそこに挑んでいくという闘いが主軸だったと思います。旗揚げ戦は新日本のSHO選手がメインイベントのUWFルールで参戦して、伊藤と対戦しました。それが週刊プロレスの表紙を飾りましたが、団体が旗揚げ戦してからしばらくはスター選手のゲスト参戦で「次、誰が出るのだろう」と興味を引かせてきたのが初期GLEATでしたね。


──割と驚くゲスト参戦の選手が多い印象がありましたね。


鈴木さん それが2023年には所属選手19人、フルグレイトの石田凱士も入れると20人ということで、所属選手の数が日本のプロレス団体では割と多い団体になってきました。最初はスペシャルゲストの参戦が軸でしたが、今は、タイトルマッチを主軸にして内部充実を図り、所属選手でメインイベントを締めれる大会が増えてきている状況ですね。


──ビッグマッチ『GLEAT ver.MEGA』(2023年8月4日・両国国技館大会)で行われたシングルのタイトル戦は、T-Hawk VS 田村ハヤト(G-REXタイトルマッチ)の所属選手同士でしたよね。


鈴木さん 両国国技館大会のG-REX戦だけ所属選手2人の試合で、あとの試合は対外敵の試合が軸となりました。これからも内部充実を図っていく事がGLEATにとって一番の課題になると思います。




予定外の開催だったGLEAT両国国技館大会



──『GLEAT ver.MEGA』はGLEATにとって旗揚げ以後、収容人数最高となるビッグマッチでした。この大会が決まった経緯について教えてください。


鈴木さん これは全く予定していなかったビッグマッチでしたが、新日本プロレスさんを退団された飯伏幸太選手にGLEATの課題を相談させていただいたのが事の始まりです。


──そうだったんですね。


鈴木さん TDCホールで1200~1300人の観客動員数を記録したのですが、2000~3000人という数字が見えないことを飯伏選手に相談すると「だったら両国国技館大会をやったらいいですよ。」と言ってくれました。飯伏選手の様々なお話しすべてに熱があり理にかなっており、両国国技館大会開催を決心する事ができました。


──ちゃんと両国国技館のスケジュールも空いてたんですね。


鈴木さん GLEATが両国国技館で平日に開催するにはまだ力不足と考え、担当者に幾度も両国国技館に土日祝日で日程の空きがあるのかを確認してもらいました。結局、土日で空きがなくて最終的に2023年8月4日の金曜日に入れてもらいました。7月12日にTDCホールで2周年記念大会があって、8月23日に後楽園ホール大会がある中でしたが、結果、それでもやって良かった思える大会になりました。


──実際に両国国技館大会をやっていかがでしたか?


鈴木さん 2500人のお客様が来場してくださり、2000人を超えたのが初めてだったのでいい経験になりました。目標は3000人だったので数字は届きませんでしたが、2500人はいったので及第点です。あとYouTube配信の再生回数が5万回くらいのアッパーだったのですが、両国国技館大会は10万回再生をあっという間に超えたんです。年末の12月30日のTDCホール大会は過去最高の1500人を超えましたし、2023年は前年対比で観客動員数を大きく上げることに成功できました。飯伏選手をはじめスーパースター選手にも多数ご参戦いただけたことはもちろん、ファン皆様、所属選手や社員、関わって下さった皆様の力でGLEATをより多くの方に知っていただく事ができたのが両国国技館大会でした。


──素晴らしいですね!思えば飯伏選手はDDTがまだ後楽園ホール大会を集客に苦戦していた頃に両国国技館大会を開催するという大博打を打って、興行が大成功する光景を当事者として目のあたりにしているから、その経験に基づいて、鈴木さんに両国国技館大会を進言したんでしょうね。


鈴木さん おっしゃる通りで、その話をされてましたよ。飯伏選手が「両国国技館大会を経験すると、こんなに大きな世界があるんだと知りましたよ」と言ってました。


──先ほど鈴木さんは2007年の棚橋弘至VS後藤洋央紀の話をされていましたけど、この大会の観客動員の実数は2000人弱なんです。


鈴木さん ええええ!!


──棚橋選手の著書『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』(飛鳥新社)には「じつを言えば、棚橋VS後藤のIWGPヘビー級タイトルマッチをメインイベントにしたこのときの両国大会は集客に苦しみ、実質2000人ちょっとしかお客さんが入っていなかった。だけど、大会は異常に盛り上がった。とくに、メインの棚橋VS後藤がものすごい盛り上がりを見せて、観戦していた東京ダイナマイトのハチミツ二郎さんが『平成新日本のベストバウトだ!』と絶賛してくれた。プロレスファンのあいだでは『新日本の両国大会がすごく盛り上がった』と評判になったという」と書かれているんですよ。


鈴木さん たとえ集客に苦戦したビッグマッチだったとしても、一大会1試合で流れが変わることがあるんです。棚橋VS後藤の会場での熱狂は凄まじかったですから。


──2007年の新日本は後楽園ホール大会が顧客満足度が高くて素晴らしかったんです。後楽園ホール大会の熱気を両国国技館大会に持ち込むというムードがあったように感じました。


鈴木さん 棚橋VS後藤の熱狂は1990年代の四天王プロレスを見ているような印象を受けました。   



GLEATが仕掛けていきたい戦略とは?




──それはあるかもしれませんね。ではプロレス界で生き抜くためにGLEATが仕掛けていきたい戦略はありますか?


鈴木さん ひとつひとつの興行を「次また見たい」と思ってもらえるような大会運営を継続するだけですね。今のプロレス界は選手よりも一部のファンの方が凶暴になっているなという感覚があって、選手に対して上からものを言う状態が横行していると感じます。それはプロレスラーと団体側の責任でもあって、私はプロレスラーは超人であれ、超人が集う闘いがプロレスであるべきだと考えているんですけど、人を超えた存在であるべきプロレスラーが神棚から降りてきている傾向があると感じます。


──同感です!


鈴木さん 新日本の選手はまだ神棚の上にいて、スターダムの選手もそこに近しいスタンスかなと。でもGLEATも含めたその他の団体の選手はファンと横にならんでしまって近い関係になってしまっているんです。超人ではなく人でしか見れない状態からどうやって神棚に上げることができるのかというのがありますね。


──そのためのブランディングやナビゲーションは重要ですね。


鈴木さん そうですね。AKB48はスターを夢みる人たちが段々と神棚に上がっていくドラマだと思っていて、最終的には握手したくてもできない領域に持って行ったんです。だから今後は「会えないけど、会いたいと思わせる」「選手を神棚に上げていくこと」がGLEATにとってステップアップするために必要な戦略かなと思います。あとはエンターテインメントであることが大事で、変に格闘技面しないこと。GLEATというエンターテインメントが何をお客さんに届けたいのかですね。


──LIDET UWFという格闘プロレスをやりながら、エンターテインメントの根本は忘れないということですか?


鈴木さん 私はLIDET UWFをプロレスという括りをしていて、GLEAT MMAは格闘技なんです。それを『GLEAT VER.MEGA』だとG PROWRESTLING、LIDET UWFはプロレス、GLEAT MMAは格闘技と2種三つのブランドを観戦できます。GLEATのナンバーシリーズではG PROWRESTLINGとLIDET UWFの二つのプロレスが観戦できる形にしています。あと、怪我や不慮の事故が発生すると親が子供に見せられなくなるじゃないですか。


──確かにそうですね。


鈴木さん リング上で凄い闘いが展開されることは重要なことですが、いかに大怪我をさせずに最後まで試合を成立させることがより重要だと思います。


──GLEATの医療体制はどうなのですか?


鈴木さん  各大会は極力、ドクターを呼ぶようにしていて、ビッグマッチは必ずドクターが来場しています。どうしてもドクターがいない場合は緊急対応してくれる病院を下調べしておいて、そこにすぐご相談させてもらうような体制にしています。あとは試合会場と連携して対応していくという形でスタッフ間浸透させるようにしています。



鈴木さんが選ぶプロレス名勝負




──ありがとうございます。では鈴木さんが選ぶプロレス名勝負を3試合、選んでください。


鈴木さん  先ほどから言ってますが、1試合目は棚橋弘至VS後藤洋央紀(新日本・2007年11月11日・両国国技館大会/IWGPヘビー級選手権試合)です。


──実は棚橋選手も自身のベストバウトとして後藤戦は上げているんですよ。


鈴木さん そうなんですね。あとは船木誠勝VS鈴木みのる(パンクラス・1994年10月15日両国国技館大会)は名勝負でした。


──確かに素晴らしい試合でした!


鈴木さん それから三沢光晴VS川田利明なんですよ。どの時期とは言えないんですけど、シングルマッチでもタッグマッチでも三沢さんと川田さんの絡みが強烈な印象で覚えています。


──鈴木さんから見て三沢VS川田はどのような試合に映ってましたか?


鈴木さん 三沢VS川田は愛と憎悪が入り混じった試合でした。お互い愛し合ってんだけど憎しみ合いもしていて、それがどっちも愛と憎悪が中途半端じゃなくて、フルボルテージでぶつかっている感じがしました。


──同感です。


鈴木さん 川田さんには三沢さんという超えられない壁がずっとまとわりついていて、三沢さんには川田さんを超えさせない壁であり続けたわけで、三沢VS川田は唯一無二の特別な決闘で、感動というより胸が苦しくなるような試合で、人として生きていく上で必要なものを与えてくれたのかなと思っています。そういう意味では人間賛歌なのかもしれません。    

 


GLEATを自立自走させることが大事。そのためには選手を増やしていくことだけではなく、削ることもあるかもしれない

 


──ありがとうございます。では鈴木さんの今後についてお聞かせください。


鈴木さん まずはGLEATを自立自走させることが大事ですね。みんなよくやってくれているので収益性は拡大してますけど、まだ持ち出しはありますから。あと2年で自立自走できるようにしていきたいですね。そのためには選手を増やしていくことだけではなく、削ることもあるかもしれません。規模感は小さくなってはいけないと思いますけど、ただ試合をしている人が残っていくというのではなく、本人はもちろんGLEATが人気を得るための強烈な努力を継続している選手だけが団体に残るべきだと考えます。それができない選手には団体を去ってもらうしかありません。今は団体を残る人が正義で、辞めてもダメだし、辞めさせてもダメという風潮があるじゃないですか。


──確かにそうですね。


鈴木さん 私は選手にも各々に合った団体があると考えます。まだGLEATに上がっていない選手の中に適性がある方もいるかもしれませんし、逆にGLEATに上がっているけど他の団体の方が合っている選手もいるかもしれません。限りある時間でそこの無駄なやり取りはあってはならないので、GLEATに根を張れる選手たちだけ団体に残ってもらえる見極めがこの1年間なのかなと考えています。日本プロレス界の過去約70年で様々な団体から選手が集まっている団体って崩壊しているところがほとんどじゃないですか。


──その通りです。外様が集まった団体はスタイルが違う者がくっついていることが多くて、まとまりがなくなって最終的に内ゲバになって崩壊していくという印象があります。


鈴木さん 生き残っている団体は生え抜きの選手の割合が多いとか、生え抜きのスーパースターがいるというのが大きな要因の一つであると考えます。外様が悪いわけではないんですが、「他がある」とお考えならばGLEATからはお引き取りいただくしかありません。他から参戦した選手でも「GLEATにたどり着くために生きてきた」という選手を生み出し、歓迎していくことが今後の課題ですね。


──「GLEATでのしあがっていくんだ!」という信念を持つ選手は生き残っていくということですね。


鈴木さん そうですね。口だけじゃなくて、行動も含めてGLEATに骨を埋めることができる選手を輩出できるかです。そのためにはGLEAT版棚橋弘至選手を生み出すことが大事ですね。口だけ番長じゃなくて、周囲が納得せざるを得ない行動や試合をやってきたのが棚橋選手で、目標を語って責任を取って、そこに向かっていって結果的に逆算型で叶えていくのが棚橋選手の凄さです。日本のプロレス界は棚橋弘至選手がいてよかったですよ。ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんに継ぐ偉大な存在ですよ。


──棚橋選手は鈴木さんの発言を知ると泣きますよ(笑)。


鈴木さん 棚橋選手がいたから自分の中で「諦める」という概念は消えましたよ。




あなたにとってプロレスとは!?



──ではここで最後の質問です。あなたにとってプロレスとは何ですか?


鈴木さん プロレスとは…自分ですね。私はプロレスによって形成させているものが多くて、プロレスから得たものから会社の社長をさせていただいています。私という人間の半分以上はプロレスによって形成されているので、プロレスは自分を作ってくれた源であり、原子なんですよ。


──これでインタビューは以上となります。鈴木さん、長時間の取材にお受けいただき本当にありがとうございました。今後のご活躍とご健勝を心よりお祈り申し上げます。


鈴木さん こちらこそありがとうございました。


(私とプロレス 鈴木裕之さんの場合・完/第3回終了)










 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

 今回のゲストは、プロレス団体GLEAT代表であり、リデットエンターテインメント社長・鈴木裕之さんです。

 




(画像は本人提供です) 


 
 
 
【インフォメーション】
2024.4.17(水)新宿FACE
LIDET UWF Ver.4
開場17:30開始18:30
ent.lidet.co.jp/event/
#GLEAT #LIDETUWF #LIDET 

 

プロレスとの出逢い、初めて好きになったプロレスラー、プロレス業界に関わる以前の経歴、プロレス業界に関わる経緯、SANADA(真田聖也)選手をマネージメントしたした時期の話、プロレスリングノアのオーナー企業になった経緯、ノア時代の苦悩、田村潔司選手が鈴木社長にプレゼンした時の話、GLEAT旗揚げ、LIDET UWF、GLEATの今後について…。

 

鈴木さんから興味深い話が次々と飛び出しました。

 

  

 

私とプロレス 鈴木裕之さんの場合「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」




 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 鈴木裕之さんの場合
「第2回 『脱・三沢光晴』を掲げたノア時代とGLEAT旗揚げ」
 
 
 
なぜリデット体制のノアは「脱・三沢光晴」を掲げたのか!?


──鈴木さんがノアでされた変革の中に「脱・三沢光晴」というものがありました。これはどういった意図で行われたのですか?

 

鈴木さん ノアの経営に関わるようになって、選手や社員の皆さんと面談をさせてもらった中で「なんでノアに残っているのですか?」と聞くとほとんどの方が「三沢さんが…」という話になるんですよ。恐らく「三沢さんが作った団体だから残したい」ということなのでしょうが、三沢さんという名前が隠れ処にもなっているような気がしたんです。


──お気持ちはよく分かります。


鈴木さん だから三沢さんからみんなで脱却して、自分たちの団体としてプロレスリングノアをやっていこうよということを示すために「脱・三沢光晴」を掲げることにしました。あと「脱・三沢光晴」を行うことで、もう一度三沢さんの名前を浮上させたかったんです。三沢さんがいた時代のノアよりも、今のノアがより面白いものを提供するんだという対立構造を浮き出させるために、三沢さんから親離れするために、そしてノアを存続させる以上は、三沢さんを忘れてはならないという意味も込めて「脱・三沢光晴」を打ち出したのです。


──鈴木さんは「脱・三沢光晴」を掲げた時にプロレスメディアで意図を丁寧に説明されていた印象があります。その姿勢にものすごく好感を持ちましたよ。


鈴木さん ありがとうございます。ファンの皆さんは「ノア=三沢さん」で見ているところがあったと思うんですけど、「今のノアって何なの?」というのは全く不明だったので、だから選手、社員、ファンの皆さんも含めて意識改革する必要がありました。



──今の話はユークス時代の新日本がやっていた「猪木イズムからの脱却」に似てますね。


鈴木さん そうかもしれませんね。当時、棚橋弘至選手が道場にあった猪木さんのパネルを外したりとか「今の新日本」をひとつ形付けようとしてたと思うんですよ。ノアの場合は三沢さんが絶対的な存在であっても、隠れ処にしてはならないので。


──「三沢さん」という言葉を逃げ道にしないで、三沢さんが作ったノアを残すために頑張るしかないんですよね。


鈴木さん その通りです。だから三沢さん時代のロゴやマットの色は全部変えました。それでも三沢さんを感じさせたいと思う選手はコスチュームとか何かしらの手法で表現すればいいんです。その部分を選手や社員の皆さんにちゃんと丁寧にご理解していただくことからスタートしました。最初はSNSとかで批判が凄かったんですけど(苦笑)。


──確かにそうでしたね。でも、説明なしにされているわけではなくきちんと説明されていたので素晴らしかったですよ。あと「脱・三沢光晴」は誰かがやらないといけないことだったと思います。


鈴木さん それによって拳王選手や清宮海斗選手を筆頭に皆さん腹を決めてくれて「自分たちのノアにしていこう」と歩み始めてくれました。





「三沢光晴さんの正統後継者は潮崎豪選手。私が希望していたのは、三沢さん──潮崎選手──清宮選手という方舟の皇位継承ラインができること



──リデット体制のノアは一年だったと思いますが、振り返ってみていかがでしたか


鈴木さん 最終的に2019年11月2日両国国技館で行われたビッグマッチが5523人の満員で、本当に選手、社員の努力によって瞬発力が効いた状態だったので11月から各大会の観客動員数が良くなってきました。「毎日チケットがもっと売れるように努力してほしい」と口が酸っぱくなるほどお願いしてきて、皆さんが応えてくれて、すごく結束力というかそういうのを感じ取れるかけがえのない1年でしたね。


──先ほども言いましたが、リデット時代のノアはユークス時代の新日本を見ているようで、復調の兆しを感じさせてくれましたよ。


鈴木さん ユークス時代の新日本さんはかなり参考にさせていただきました。2007年11月11日両国国技館で行われた棚橋弘至VS後藤洋央紀のIWGPヘビー級選手権試合がものすごい名勝負だったので、5ちゃんねる(当時は2ちゃんねる)で新日本さんに対しては批判しかなかったのに、この試合で一変して、「今の新日本、いいんじゃないか」というムードになっていったんです。一つの試合で人の流れが変えることができるということをファンとして見ていたので、2019年11月11日の両国国技館大会までうまく繋いで、ビッグマッチを大成功させるという目標がありました。


──両国国技館大会でノアの評価を一変させようと考えたわけですね。


鈴木さん あと以前、鈴木秀樹選手が潮崎豪選手に「ノアはお前だよ」と言ってたじゃないですか。全く同意で、私は三沢さんの正統後継者は潮崎選手だと思っていたので、パブリックな部分は丸藤正道選手が後継者で、リング上の闘いは潮崎選手が三沢さんを継ぐべきと考えていました。色々とあって引き継ぎはうまくいきませんでしたが、パブリックは丸藤選手に任せておいて、試合で潮崎選手がノアの中心となって牽引していくのが一番の理想でしたね。


──そうだったんですね。


鈴木さん 私が希望していたのは、三沢さん──潮崎選手──清宮選手という方舟の皇位継承ラインができることでした。当社がノアを離れる少し前に潮崎選手がGHC王者になってくれたのはよかったです。以前、潮崎選手は三沢さんの緑と小橋建太さんの紫が入った黒のショートタイツを履いていて「それは違うよ」と思っていて、彼は色々と気を遣える人なので、三沢さんと小橋さんの魂を背負うという気持ちが強かったのでしょう。でも私は潮崎選手に「あなたは三沢さんだよ」と言いました。鈴木秀樹選手は「ノアはお前だよ」と言いましたが、私からすると「三沢さんはお前だよ」と。そこから清宮選手が潮崎選手から継いで、方舟の皇位継承というドラマが生まれるのかなと考えたんです。


──これはノアだけの話ではなく、日本プロレス界正統派の皇位継承なんですよ。


鈴木さん そうなんです。丸藤選手がずっと身体を張って「ノアは俺だ」とやってくれていたのですが、どちらかというと会社を背負うのではなくプロレス界の象徴として自由に好きなことをやってもらうのが丸藤選手の役割だと思うんです。当時ノアの象徴は潮崎選手だと信じていたので、彼の王者時代にサイバーエージェントさんに団体をお渡しすることができたのはよかったと思います。


──潮崎選手はノアの守護神ですよね。潮崎選手が試合でノアを引っ張っていって、GHC王座も一年を通してずっと防衛してきて、凄い名勝負を量産していったのが2020年のノアだったと思います。


鈴木さん 2020年の潮崎選手はGHC王座を防衛し続けますが、身体もボロボロで肩を怪我してずっと満身創痍だったと思いますが、そこから王座転落後に長期欠場に追い込まれたのはもったいなかったですね。あと私がノアの経営に関わる当初は「次は誰が辞めるんだろう」というネガティブなイメージがあったので、丸藤選手、杉浦貴選手、潮崎選手には「団体に骨を埋めると言えますか?」と問いました。「いつか辞めるかもしれないけど、今の気持ちはどうなのか」を示さないとファンの不安は払拭されないですから。それでも3人ともX(当時はTwitter)で宣言してくれたんです。


──「ノアに残って、骨を埋めます」という内容の発信ですね。


鈴木さん 丸藤選手、杉浦選手、潮崎選手はどの団体に行っても通用するじゃないですか。でも彼らはノアに残っている。それならノアに命を尽くしているということを自分から発信する責務があります。3人が迷うことなく「骨を埋めます」と言ってくれたので、団体に漂うネガティブな風向きは少しずつ変わっていきました。




リデット体制のノアがYouTube配信を活用した理由






──リデット時代のノアではYouTubeを活用されていた印象がありましたが、ネット配信に関しては意識されて運営されてましたか?


鈴木さん これは武田さんの考えで「ノアの闘いは面白いし、もっと伝える必要性があるからYouTubeで流した方がいいだろう」と配信をしたら、2019年の年末から2020年諸島にかけてノアの売上がよくなった要因のひとつはYouTube配信も大きかったですね。実はこの時期に海外の団体からノアと提携ができないのかという話があったんです。


──そうだったんですね!


鈴木さん その団体が一番ほしがったのは映像資産だったんです。旗揚げ時から現在までの映像はノアが持っていると考えていたようですが…。


──ノアは日本テレビが放映権を持っていたので、全盛期のビッグマッチを中心とした映像資産を団体で保有してません。ね


鈴木さん その団体からすると映像資産を団体が持っていないことはクレイジーな話なんです。この話は実現しませんでしたが、現在GLEATではテレビ局は介さずにYouTubeで大会配信をし続けているのは、テレビ局ではなく団体で映像資産を保有するためなんです。


──後々のことを考えてのことなんですね。


鈴木さん そうなんですよ。ノアでの提携話で体感した「映像資産は団体で保有しないといけない」ということを教訓にして今のGLEATを運営させてもらっています。大会の無料配信を行ってどんどんアーカイブを溜めていって、毎月いくらかの広告収入を得ていますので。



巨大企業サイバーエージェントへノアを譲渡



──2020年1月29日に日本のIT業界を牽引する巨大企業である株式会社サイバーエージェントがノア・グローバルエンタテインメント株式会社の100%株式を取得。連結子会社化することになりました。サイバーエージェントがノアのオーナー企業になった経緯を教えていただけますでしょうか。


鈴木さん 2019年11月の両国国技館大会が終わったタイミングで、武田さんに「もうこれ以上はうちの力では厳しいです。吸収合併も含めてノアを買ってくれるところを探していきませんか」とお話をさせていただきました。私としてはノアでの役割は終わっていて、どこかの団体に吸収合併をさせた方がいいのかなと考えていました。すると武田さんから「やっぱりノアは残すべきですし、残したいです」という反応だったんです。


──そこからノアを買ってくれる企業探しに入るんですね。


鈴木さん リデット時代のノアの盲点は映像系で、YouTubeのチャンネル登録者数や視聴回数も多くありませんでした。すると武田さんが『ABEMA』の北野雄司プロデューサーと以前一緒に仕事をしていたということだったので、「北野さんにこの件についてご相談できませんか?」とお伝えしたと記憶しています。


──『ABEMA』の北野さんは元々、テレビ朝日で映像制作をされていて、現在は、サイバーエージェントとテレビ朝日が共同で展開するインターネットテレビ局『ABEMA』格闘チャンネルでK-1・プロレス・格闘技の中継やABEMAオリジナル番組などの放送コンテンツに携わるプロデューサーで、確か『新日本プロレスワールド』の企画を立ち上げたのが北野さんなんですよ。


鈴木さん そうなんですよ。北野さんがテレビ朝日にいた時代に、武田さんは新日本でよくお仕事を一緒にしていて、気心が知れた関係だったようです。それで私は「サイバーエージェントさんが受けてくれるなら、ノアを譲渡することは大賛成です」と武田さんにお話をして、そこから武田さんがサイバーエージェントグループであるDDTの高木三四郎社長にご相談して、サイバーエージェントの藤田晋社長のOKをいただけました。武田さんと次のオーナー企業を探そうという話をしてから確か2~3週間で決着したと記憶してます。


──決断が早かったですね。確かDDTがサイバーエージェントの子会社になるときもかなり早くスピードで決まっていったと思います。ノアの身売り先が決まった時の心境はいかがでしたか?


鈴木さん 2019年12月初旬くらいだったかな。私が麻疹になっちゃったんです。完全隔離で家から出れなくなったで、ずっと家から電話でやり取りしていて、武田さんが全部動いてくれて、ものすごくいい条件でサイバーエージェントさんにノアを引き渡すことになりました。2020年1月末でお引渡しの契約が成立したんです。2020年は1月からコロナの話が出ていたので、もう少しズレていたらこの話はなかったかもしれません。


──運がよかったですね!


鈴木さん 今でも色々な方から「あのタイミングで決まったのはすごかったね」とよく言われます。藤田晋社長と高木三四郎社長、北野雄司プロデューサー、サイバーエージェントの皆さん、そして武田さんにリデットエンターテインメントは救われました。感謝しかないです。


──確かにそうですね。


鈴木さん リデットとしてはあのタイミングを逃したらどうなっていたのかと考えると…。


「ノアに関しては寂しさもありましたけど、やれることはやりきれた」



──ノアはリデット体制からサイバーエージェント体制に変わりました。リデットはGLEATを立ち上げるまで期間が空いていると思います。ノアをサイバーエージェントに譲渡してからはプロレス業界に関わるという考えはありましたか?


鈴木さん プロレスに関わるつもりはありませんでした。サイバーエージェント体制になってからもノアのスポンサーになって、リングマットに広告を入れたりしてました。それはプロレスファンとしてノアをサポートしたいなという考えでした。


──あとこれはお聞きしたかったのですが、ノアがリデット体制になってから拳王選手がかなり体制に反発していました。「金剛」というユニットを立ち上げた経緯として「親会社の言いなりにならねぇ」という反骨心があったからです。その拳王選手が2020年1月29日後楽園ホール大会での試合後のマイクで「元親会社のリデットエンターテインメントに一言、言いたいことがあるぞ!俺たちのブランド力をここまで上げてくれて、そしてな、スポンサーとして残ってくれてる?…いつもプロレスリングノアのために、強烈な努力をいただき、誠にありがとうございます!今後とも、何卒プロレスリングノアを宜しくお願い致します!」と語り、「金剛」のメンバーと共にリデットの社旗に頭を下げました。あれは嬉しかったんじゃないですか?


鈴木さん 私、会社の席で大泣きしちゃいましたよ…。そこにファンの皆さんからX(Twitter)でリプとかいただいて本当に涙が止まらなかったですから。もう胸が苦しくてしょうがないほど。


──拳王選手のリデットへの感謝のマイクに感動しましたよ。あのマイクはノアファンの総意だったと思います。


鈴木さん もう感動を超えちゃってましたよ(笑)。ノアに関しては寂しさもありましたけど、やれることはやりきれたという想いはありました。拳王選手の挨拶で、ひとつの大きなけじめがつけられたと思います。



新団体・GLEAT旗揚げの経緯



──ここから鈴木さん率いるリデットは2020年8月20日に新団体・GLEAT旗揚げを発表されました。新団体旗揚げの経緯についてお聞かせください。


鈴木さん 実はノアを運営した頃に田村潔司さんがリデットの社外取締役兼エグゼクティブディレクターに就任しているんですよ。ノアは厳しい練習はしているけど、それがあまり伝わっていないので田村さんがエグゼクティブプロデューサーとして入ることでプロレスの道場論を復活させ、世間に発信できるのではないかと考えました。でもそれが夢半ばで終わったんですけど、田村さんがYouTube動画でプレゼンをしてくれたんです。


──田村さんのYouTubeチャンネル『一人UWF放送室』ですね。


鈴木さん 私は田村さんと「何かやりたいですね」と話していたので、田村さんは自分がやりたいこと、私がやりたいことを動画でまとめてくれたんです。それがUWF女子でこれから人気が出るものだとホワイトボードに色々と書いてプレゼンしてくれてましたね。


──えええ!プレゼンター田村さんは誰も想像がつかないですよ(笑)。


鈴木さん それが細かく懇切丁寧にプレゼンしてくれましたので、完全に理に適っていたので「是非やってみたい」と思いましたよ。私はリデットで長州力さんを顧問、田村さんを社外取締役としてお迎えしているのかというと、二人とも常識人なんです。プロレス業界の中でも長州さんと田村さんはかなりしっかりしている人と私は思っています。


──そうなんですね!


鈴木さん あと長州さんや田村さんは物事の三階層、四階層の先を考えているんですよ。


──先々のことを考えているんですね。


鈴木さん その頃、NOSAWA論外さんもリデットの執行役員だったんです。NOSAWAさんから「どうやらWRESTLE-1が活動休止するようです。カズ・ハヤシさんが次の行き場所を探しているので一度、お会いしますか?」という話がありました。


──WRESTLE-1は2013年に全日本プロレスを退団した武藤敬司が設立したプロレス団体で、2020年4月1日、後楽園ホールで行われた無観客興行をもって活動休止。団体に所属していた選手たちはさまざまなリングに散り散りとなっています。カズ・ハヤシ選手は2017年からWRESTLE-1の社長を務めていました。


鈴木さん カズ選手にお会いして「マネジメント契約しましょうか」という話をさせてもらったのですが、「あと二人います。伊藤貴則と渡辺壮馬です」と言われて、伊藤選手と渡辺選手にお会いしました。瞬く間に仲間が3人になっていたんです。するとNOSAWAさんが「3人いたら団体ですよ」と言ったので、田村さんに相談したら「その団体を進めたらいいんじゃないですか。練習も見ますよ」という話になりました。



UWFは選手育成にものすごくいいブランド



──UWF女子の件は一旦置いて、新団体に向けて始動したわけですか。


鈴木さん はい。まずはカズ選手、伊藤選手、渡辺選手の三人は田村さんが主宰する登戸のU-FILE CAMPに週2回通って練習をスタートさせたと記憶しています。


──鈴木さんは田村さんの指導をご覧になられたことはありますか?


鈴木さん 1回あるかないかぐらいで、ちゃんとは見れてませんね。田村さんの指導はほとんど要所要所の大事なところしか喋らない、きちんと礼節の指導があるという話は聞きます。スパーリングしてくれる時もあれば、懇切丁寧に指導してくださる時もあるし、自分で考えなさいという時もあったりするようです。現在は井土徹也選手と福田茉耶選手がU-FILE CAMPに通ってます。


──リデットと鈴木さんがGLEATでやられた中でかなり大きなポイントになったのが令和の時代にUWFを復活させましたよね。団体内ブランドとしてLIDET UWFを立ち上げたのはどういった理由だったのですか?


鈴木さん 当初のGLEATはカズ選手が今までレスラー人生で経験されてきた日本、アメリカ

、メキシコのスタイルを取り入れたプロレスが主体になるのかなと考えていました。UWFは選手育成にもものすごく良いブランドだと思っていて、ロープには飛べないし、ルールの制約が厳しいプロレスなんです。でも、その中でエンターテインメントとして昇華させないといけないし、ファンに面白いと感じてもらわないといけないわけですから。


──選手育成の観点でUWFを捉えていたのですね。


鈴木さん UWFスタイルは寝技、打撃、投げ技と一つ一つの技を大切にじっくりとした攻防や殺伐感、緊張感を表現する闘いでありプロレスだと思うんです。だからカズ選手、伊藤選手、渡辺選手にはUWFの試合や練習をしてもらいながら、純プロレスもやってもらう形で進行することにしました。



(第2回終了)







 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、プロレス団体GLEAT代表であり、リデットエンターテインメント社長・鈴木裕之さんです。

 




(画像は本人提供です) 


 
 
 
【インフォメーション】
2024.4.17(水)新宿FACE
LIDET UWF Ver.4
開場17:30開始18:30
ent.lidet.co.jp/event/
#GLEAT #LIDETUWF #LIDET 


 

プロレスとの出逢い、初めて好きになったプロレスラー、プロレス業界に関わる以前の経歴、プロレス業界に関わる経緯、SANADA(真田聖也)選手をマネージメントしたした時期の話、プロレスリングノアのオーナー企業になった経緯、ノア時代の苦悩、田村潔司選手が鈴木社長にプレゼンした時の話、GLEAT旗揚げ、LIDET UWF、GLEATの今後について…。

 

鈴木さんから興味深い話が次々と飛び出しました。

 

  

 

 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 鈴木裕之さんの場合
「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」
 
 
 
鈴木さんがプロレスを好きになったきっかけ
 
 





──鈴木さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
鈴木さん こちらこそよろしくお願いします!

──まずは鈴木さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。

鈴木さん 初代タイガーマスクの試合をテレビで見たことがきっかけですね。プロレスから目が離せなくなって好きになりました。

──実際にテレビでプロレスを見てどのような感想を抱きましたか?

鈴木さん 初代タイガーマスクの試合を見ると超人的な動きじゃないですか。同じ人間の動きにはとても見えなくて、漫画やアニメの世界のスーパーヒーローは実在するんだなと感じましたね。


──今の話をお聞きすると初めて好きになったプロレスラーは初代タイガーマスクということですね。初代タイガーの魅力はどこにあると思いますか?

鈴木さん プロレスは闘いなんですけど、勝敗ではなくエンターテインメントとして魅せられたのかなと思います。試合開始からフィニッシュまでずっと目が離せない試合をしてきたのが初代タイガーの魅力かなと思います。


──初代タイガーは1981年にデビューしてほとんど負けることなく1983年に突如、引退しました。これは結構、驚かれましたか?

鈴木さん そうですね。ポッカリ穴が開いて、大きな喪失感を感じました。

──ちなみにプロレスファンから離れたわけではなかったのですか?

鈴木さん そこは、アントニオ猪木さん、長州力さん、藤波辰巳(現・辰爾)さん、ハルク・ホーガンさんといった選手を応援するようになっていたのでプロレスを離れることはなかったです。
 
 
昭和の新日本プロレスは「理想の地球」をリングで体現していた


──プロレスの入口は初代タイガーだけど、次第に新日本の魅力にハマっていったという感じでしょうか?

鈴木さん そうですね。当時の新日本さんはラッシャー木村さん、キラー・カーンさんとか身近には間違いなくいない人たちがリング上で色々なドラマを展開されていて、目が離せなかったですね。

──カーンさん、木村さん、アニマル浜口さんは確実に一般社会にはなかなかいないでしょうね。

鈴木さん あと新日本さんには外国人レスラーも凄いメンツが揃ってましたよね。子供ながらも今で言うダイバシティ「理想の地球」をリングで体現したのが新日本プロレスだったと思います。リングに集結した超人たちが時には仲間に、時には敵になったりして、大河ドラマを繰り広げてましたね。仮に勝敗と優劣はついていたとしても諦めなければタイトルは狙い続けることができるわけで、続けていくことの大切さをプロレスは教えてくれました。


──「理想の地球」という表現は素晴らしいですね!よくよく考えるとIWGPのロゴにも地球が描かれてますよね。では初めての会場でのプロレス観戦はいつ頃ですか?

鈴木さん 実は16歳の時からプロレスやコンサート会場の警備や誘導員のアルバイトをしていたんです。だから観戦というより仕事でプロレス会場に入ってました。色々な会場でアルバイトしましたけど、一番インパクトが強かったのは1987年12月27日・新日本さんの両国国技館大会ですね。

──あの伝説となった両国暴動事件ですね!この事件については堀江ガンツさんがNumber webで詳しく書かれているので、読者の皆さんにはチェックしていただければありがたいです。https://number.bunshun.jp/articles/-/846451 
 
では殺伐としたあの現場にいたのですか?

鈴木さん そうなんです。私は警備スタッフとして、会場入りした長州力顧問のアテンドしたり、背が大きいというだけでリングサイドの警備をさせられたんですよ。最終的に暴動に発展するのですが、リングサイドに人が押し寄せたり、リングに物が投げ入れられたりする光景を間近で見てしまいました…。両国暴動事件は自分が今まで見てきたプロレス興行の中で一番ショッキングだったので、あれはトラウマになりましたね。

──それほどの衝撃だったんですか!

鈴木さん  今でも脳裏にフラッシュバックするほどのトラウマですから。消せない記憶ってあるんですよ…。「もう絶対に許さない!」という1万人の熱狂と暴動を見て、人の怒りのエネルギーって凄いなと感じました。警備員として現場にいて、とても会場から出られる気がしなかったですから。

──そこからプロレスとはどのように接していたのですか?

鈴木さん 社会人になってから天龍源一郎さんが抜けた後の全日本プロレスさんの興行をよく見に行ってましたよ。毎月、後楽園ホールか日本武道館大会を観戦してました。
 
 
 
「お金に振り回される人間ではなく、お金を振り回せる人間になりたい」


──ありがとうございます。では鈴木さんがプロレス業界に関わるまでの歩みをお聞かせください。

鈴木さん 高校を卒業して、コンサートやプロレス興行とかイベントの警備員を派遣する会社を起こそうと思って起業したのですが失敗して、父の勧めもあり約2年間イギリスに行ってました。

──イギリスから帰ってきてからどのような生活をされていたのですか?

鈴木さん 22歳で帰国してからもやはり社長になりたいという想いが途切れることがなくて、仕事をして行くなかで逆算して15年後の37歳には社長になろうと思うようになりました。広告代理店やパチンコホールで働いて、常に社長になるためのその人脈とか学びを得ていく日々を過ごしてました。32歳に今の会社に入ったんです。実はリデットエンターテインメントと(当時はエス・ピー広告)という会社は私が創業者ではないんですよ。

──そうなんですね!

鈴木さん 現在、創業者であるオーナーは引退されておりますが、2007年、37歳の時にリデットエンターテインメントの社長になりました。

──ちなみになぜ会社の社長になりたかったのですか?

鈴木さん 私の幼少期に『火曜サスペンス劇場』(日本テレビ系)とかサスペンス系ドラマを見ていると、お金を巡る身内の争いによる殺人事件が多かったんです。鈴木家も遺産とかお金についてシビアな争いがあったので、子供ながら「人はお金に振り回される」と感じたんです。だからお金に振り回される人間ではなく、お金を振り回せる人間になりたいなと思ったときに将来の進路は総理大臣か社長の二択しかなかったんです。


──それは究極の二択ですね!

鈴木さん 総理大臣になるには凄く清廉潔白じゃないといけないのかなと思っていたので、色々な挑戦をしてみたいという想いを抱いて、社長を志すようになりました。お金をコントロールできる立場、自分で使えるお金を手に入れるには社長になるしかなかったんです。子供の時に、お金による親の喧嘩とか家族の変化を見てきたので。

──以前、『ハゲタカ』というドラマで「誰かが言った。人生の悲劇は2つしかない。1つは金のない悲劇、そしてもう1つは金のある悲劇。世の中は金だ。金が悲劇を生む」という名言があったんですよ。

鈴木さん 本当にその通りだと思いますよ。お金は大事だなと痛感しましたね。
 
 
 
低迷期の新日本を支えたエース・棚橋弘至選手の凄さ
 


──あまり思い出したくないと思われる実体験を語っていただきありがとうございます。リデットの社長になられてからどのような経緯でプロレス業界に関わっていくのですか?

鈴木さん 一番最初は私がプロレス好きということを知った、弊社の専務が社員の時いきなり新日本さんに連絡したんですよ。

──なかなか無謀なことをされたんですね。

鈴木さん その電話に応対してくれたのが、今はサイバーファイトでノアを統括している武田有弘取締役だったんですよ。「広告の仕事を出せるかわかりませんが、来てみますか」と言ってくれて、そこから細いながらも新日本さんと広告の関わりができました。


──最初にプロレス業界に関わったのはやはり新日本だったんですね。

鈴木さん 当時の新日本さんは棚橋弘至選手が全力プロモーション活動で頑張ってましたね。チケットも買わせていただいて、弊社のクライアント様へご招待や、社員共々多くの興行を観戦してました。


──団体のエースとして低迷期の新日本を支えて見事に復活させた棚橋選手は今や社長です。棚橋選手が新日本の社長になられると思われましたか?

鈴木さん 将来は社長になる人だなと当時から思ってました。色々なことがあって新日本を辞めるタイミングがあったのに、棚橋社長は辞めずに実力と努力でのし上がってきて、試合後にはマイクで「愛してま〜す!」と拳を突き上げたんです。当初はブーイングも飛んでいました。でも、挫けることなくずっと「愛してま〜す!」を貫いて、途中からブーイングから歓声に変わり、自身のプロレスが完成されていくことによって、最終的には大歓声を呼んでみんなの心を掴んでいったんです。棚橋選手への反応が変わっていく瞬間を拝見していて、「いかなる苦境も信念を貫くことの大切さを教えてもらえましたし、この人はいずれ新日本を取りまとめていくんだろうな」と。

──そうだったんですね。当時の棚橋選手は全国津々浦々、一人で地方各地でプロモーション活動を展開していた時期なんですよね。

鈴木さん 私はよく覚えているのが、大阪府立体育会館第二競技場大会で棚橋選手のサイン会があったんですけど、誰にも囲まれてなかったんですよ。それでも挫けないで、大きな声をだして前を向いている棚橋選手の姿を見て「組織の流れを変えることができる人」と感じました。


──棚橋選手によると「疲れない」「落ち込まない」「諦めない」は「逸材三原則」だそうですよ。

鈴木さん 本当の「逸材三原則」に則って、有言実行された人です。「ファンを愛している」「プロレスを愛している」といくら言っても、それがきちんと多くの皆さんに伝わったのは棚橋選手の偉大さですよ。プロモーション活動も「休まずにどんどん入れてほしい」と言っていたという話を聞いたことがありますから。

──地方に関してはコミュニティFMまで出向いて宣伝活動をされたそうですよ。

鈴木さん プロモーション活動も精力的にされて、肉体も維持して、あれだけ激しい試合をしていた棚橋選手には本当に尊敬しかないです。
 
 
フリー時代のSANADA選手をプロデュース


──ありがとうございます。これは棚橋選手は喜ぶと思いますよ。新日本との懸け橋となった武田さんが退社されてからリデットに入社されますよね。

鈴木さん 武田さんは新日本さんを辞めてから違う仕事をされて2年ほど経ってから「もう一度プロレスに関わりたい」というお話があったんです。その頃のリデットは対企業として広告のお仕事をしてましたけど、対顧客としてエンターテインメントのお仕事をやっていきたいなと思いまして、武田さんに「プロレスを事業化してくれませんか」とお願いすると快く承諾してくれてその後リデットに入社していただきました。

──武田さんは低迷期の新日本を裏方として支え、団体の執行役員を務め、コンテンツ事業で復活の後押しをされた功労者ですよね。

鈴木さん 弊社でももの凄い活躍とかけがえのない財産をのこしてくれました。

──リデットに入社された武田さんと最初はどのようなことをされたのですか?

鈴木さん 当時、アメリカから帰国したSANADA(当時は真田聖也)選手とマネジメント契約を結びまして、「1年間、やれるところまでやってみよう」とプロデュースすることになりました。


──確かSANADA選手は当時、大日本プロレスを主戦場にしてましたよね。実際に関わってみて、彼の印象はいかがでしたか?

鈴木さん 大変申し訳ありませんが、当時の真田聖也選手を一プロレスファンとして見ていて、技術は凄いんですけど表現力がないなと思いました。でも実際に接すると奥行きがある方で、ファッションとか興味があることにはとことん深掘りして形にしていった印象がありますね。私たちはSANADA選手の導線を作っただけで、あとは本人が頑張って走ってましたよ。彼が主戦場にしていたのは大日本プロレスさんですが、そのひたむきさはものすごく好感をもてるプロレスラーだなと思いました。

──SANADA選手が参加していた頃の大日本はメンバーが強豪ぞろいで豪華だったんですよ。2016年に開催された『一騎当千』というリーグ戦には彼以外に、関本大介選手、佐藤耕平選手、岡林裕二選手、石川修司選手、浜亮太選手、鈴木秀樹選手と実力者が集結してましたから。

鈴木さん 大日本プロレスの登坂栄児社長もSANADA選手に活躍の場を快く提供していただいたので、本当にありがたかったですね。


──SANADA選手はそこから新日本に参戦されますよね。

鈴木さん あれはものすごく運がいいと思いますよ。新日本に参戦するまでの1年間は弊社が担当したわけですが、彼が会場に登場した時にあまり反応がなかったんですよ。そこから瞬く間に逆転してたんで、それはよかったなと思います。

──2016年4月10日に新日本・両国国技館大会で行われたオカダ・カズチカ vs 内藤哲也のIWGPヘビー級戦で内藤選手が率いるロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン(ロス・インゴ)のメンバーとして乱入したのがSANADA選手でした。実は解説の金沢克彦さんが驚いて「遂に来た!!」とちゃんと中継で彼についてきちんと補足してくれたので、映像を見た皆さんは「これはサプライズなんだ」とよく理解できたのかなと思います。

鈴木さん そうだったんですね。会場にいた時は「まだこのくらいなんだな」と言う感じだったんですよ。

──乱入したSANADA選手がラウンディングボディプレスやスカルエンド(胴絞めドラゴンスリーパー)を出してから観客から大きな反応があったような気がします。

鈴木さん いづれにせよSANADA選手はロス・インゴに入ったことが、その後のプロレスラー人生を激的に進化させたと思います。
 


なぜプロレスリングノアのオーナー企業となったのか⁈


──そこから次はどのような形でプロレス業界と関わることになるのですか?

鈴木さん 東京愚連隊興行やメキシコAAA日本公演に携わりまして、そこからDDTの新人育成ブランド『DNA』にお手伝いをさせていただきました。私としては『DNA』を預かってずっと運営させていただきたかったですが、当時の私はまだ力不足で目算が外れたところがありました。なので3~4ヶ月の関わりで離れる事となりました。

──確かにリデットが運営に関わっていた『DNA』は短かったですよね。

鈴木さん そこから弊社顧問である長州力の興行を4度開催させていただいて、2018年12月からプロレスリングノアの経営に携わることになりました。

──2018年2月28日、鈴木さんが社長を務めるリデットがノア・グローバルエンタテインメント株式会社の株式75%を取得して子会社化。そこからリデットがノアのオーナー企業となりました。なぜ、ノアを子会社にしたのですか?

鈴木さん 知人のご紹介で仲田龍さん(ノアで取締役統括本部長やゼネラルマネージャーを務めた方舟の参謀)が存命中の頃からノアとの接点は少しずつあったんです。仲田さんからも色々とお話しはあったものの形にはならず・・・当時、ノア社長・不破洋介さんからノアを引き継がせていただきました。私としてはひとりの選手のマネジメントからスタートして、単発興行、数か月だけど定期興行もやって、今度はメジャー団体の経営に関わる機会が目の前にあって「是非やってみたい」と即決させていただきました。

──思い切った決断をされましたね。

鈴木さん 武田さんから「本当にお金がかかるけど大丈夫ですか」と言われましたね。私としてはノアの経営に関わることで、団体を復活させることは難しいかもしれないけど、下げ止めをできる自信はあったんです。


──そうだったんですね。ノアを子会社にした当時のノアはどのように感じてましたか?
 

鈴木さん もう今日を生きるのに精一杯で明日がない会社でした。税金や年金とかもお支払いできていないという逼迫していて、企業として体を成してない状態ではありました。しかし、当時の全選手、全社員、誰よりもファン皆様から三沢光晴さんの旗揚げした団体を遺したいという強い志は感じ取ることができ、それが唯一の希望となりました。

──もしリデットがノアに手を差し伸べなければ、そのまま倒産という可能性はあったのですか?

鈴木さん ギリギリのタイミングではあったんですが、ノアだったら誰かが買ったと思います。出逢いさえあれば「ノアの経営に関わりたい、三沢光晴さんの旗揚げした団体を遺したい」と手を挙げる企業や個人の方はいたのではないでしょうか。但し、莫大な資金が必要なため中継ぎのような形でどこかの企業がお金を出して使い切って終わって別の企業に譲渡されていくという状態で、団体の生命を繋いでいくような形でノアは残ったかもしれません。


(第1回終了)


 
 

 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、「魂の絵師」連れてってくれ1000円さんです。

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 

   

連れてってくれ1000円

小学生の頃にプロレスに心奪われ、中学生の頃に三沢光晴に命を救われたノアオタ。
イラストや動画などを通じてプロレスの面白さを伝えるべく活動中。
・X:https://twitter.com/shun064 

・YouTube:「あつまれのあのあファンチャンネル」https://youtube.com/@user-so8er3dx1e
 

 

 

私は連れてってくれ1000円さんが運営されているYouTubeチャンネル『あつまれのあのあファンチャンネル』にゲスト出演させていただきました。

 

 

 

 

 

また、私のXでのアイコンは連れてってくれ1000円さんが作成してくださいました。

 

 

 

何かとお世話になっている連れてってくれ1000円さんにロングインタビューをさせていただきました。

 

プロレスとの出逢い、初めてのプロレス観戦、好きなプロレス団体、好きなプロレスラー、YouTubeチャンネルを始めるきっかけ、好きな名勝負…。

 

そして、連れてってくれ1000円さんが長年、ファンとして追い続けているプロレスリングノアについてじっくり語ってくださいました。

 

 

 私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合「第1回 三沢さんが生きる目標だった」



私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合「第2回 推しは人格で選ぶ」






 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合
「最終回(第3回) 『あつのあ』と今の方舟について」
 
 
 
YouTubeチャンネル「あつまれ!のあのあチャンネル」を始めた理由
 


──連れてってくれ1000円(以下・連れ1000)さんは非公式ノア専門YouTubeチャンネル『あつまれ!のあのあチャンネル』(以下・『あつのあ』)を立ち上げられています。YouTubeを始めた経緯についてお聞かせいただければありがたいです。

 

連れ1000さん ノアをもう一度見るようになって、気になったのが「ノアファン怖い」というイメージでした。ノアファンのイメージを和らげることで、ノアが盛り上げればいいなという想いで始めました。あとイラストの投稿もSNSでやるようになって、ノアで絵師やっている人があまりいなくて、その時ノアを描いてたのはTACKさんやsiroiroさんくらいだった気がします。


──新日本を描く絵師さんは多かったですよね。


連れ1000さん そういうところも差を感じてしまって、なんとか埋めたいなあと思って描いてましたね。動画に関しては、20211月に「潮崎豪はなぜプロレス大賞MVPを取れなかったのか」をテーマに最初の配信を行いました。潮崎さんが大活躍したのに2020年のプロレス大賞を取れなかったんですよね。







──2020年のプロレス大賞は新日本の内藤哲也選手がMVP、潮崎選手は殊勲賞でした。


連れ1000さん この年の新日本はコロナ禍で割と興行を休んでいて、内藤さんが一年を通して活躍したのかというとそうでもなかったんですよ。IWGPヘビー級&インターコンチネンタル王座の二冠王にはなりましたけど。


──2020年はEVIL選手がIWGPヘビー級&インターコンチネンタルの二冠王になって、反則絡みの試合内容が多かった印象があります。


連れ1000さん あの時の新日本は不透明決着も多かったじゃないですか。それもあって新日ファンがノアも見てくれるようになった。ABEMAでノア中継がスタートした頃で、拳王VS潮崎豪(ノア/2020810日・横浜文化体育館・GHCヘビー級&GHCナショナル ダブル選手権試合)を見て「これが見たかったんだ!」というファンの声が多かったんですよ。


──確かにそうですね。


連れ1000さん それなのに潮崎さんがプロレス大賞を取れなかった。あまりにも悔しすぎて自分らで選ぼうと思って、XTwitter)でベストバウトとMVPを募集したんですよ。それが結構な応募数になったのでYouTubeを発表しようかなということで動画を配信しました。



──潮崎選手がプロレス大賞を取れなかったことがYouTubeを始めるきっかけだったんですね。


連れ1000さん そうですね。


──ちなみに2020年のネット・プロレス大賞のMVPは潮崎選手で、2位が内藤選手でした。だからプロレスファンはきちんと見てますよ。あと潮崎選手はコメントとかで発信するのではなく、主に試合内容で発信していくスタイルがまた三沢さんや小橋さんを彷彿とさせますね。


連れ1000さん それは嬉しかったですね。『あつのあ』を始める当時が新しいファンが流入している時期でイメージを変えてどんどん入りやすくしたくて、あと三沢さんや小橋さんを知らない人も増えてきたので、動画という形で彼らの功績を語っていきたいなといくつか動画を作らせていただきました。


──それが『俺たちの三沢光晴』という動画だったりするわけですね。


https://youtu.be/GANLseI5FWw?si=H-dRlAB-PZtIIZsI





https://youtu.be/3ZnAxNb6cZ8?si=1Pdbcqrn1Rsfsmh0



https://youtu.be/HzK22xnUCb4?si=DVusA-RuzvsF-qB0




連れ1000さん その一方でノア好きのプ女子会をやったりして、新旧ノアファンの溝を埋めたかったんですよ。


──『俺たちの金剛』はめちゃくちゃ面白かったですよ!


https://youtu.be/_btnqORDmdw?si=Q0tj1InXpNb3cWCN



https://youtu.be/w9kXwOMj87g?si=JZwo9jqUxmqyMeRW



https://youtu.be/YIKmVjb3ahI?si=BDJcHfO2NDDbnRNb



https://youtu.be/omWScM0cTjE?si=iTGC6Tg7p_yj6AMO




連れ1000さん ありがとうございます。あの回は熱かったですね!


──大変聞きにくいことですが、しばらく『あつのあ』の配信が途絶えていますよね。


連れ1000さん そうなんですよ。『あつのあ』をやることでファンも増えたかもしれませんけど、批判もありました。以前、ノアコーデという企画があって、誰でも参加できるという形でやったんですよ。それを「内輪で盛り上がっているだけ」と言う人もいたり、どんな人に対しても門戸は開いていたのですが


──それはノアに限ったことじゃないような気がします。


連れ1000さん だからみんなを巻き込んで何かをするのはやっぱり難しいですね。そこで挫折したかもしれません。


──そのお気持ちはよく分かります。みんなを巻き込んで何かをやろうとしても、みんなの気持ちは案外バラバラですよ。自分が思った通りに行くわけがないですし、ファンをまとめることは難題ですよね。


連れ1000さん 参加して楽しんでくれた人たちからは喜んでもらえたと思うんですけど、そこに入りきれない人たちからすると「一部で楽しそうにやっているだけ」と捉えられたりとか。でも入りたくても入れない方の気持ちはよく分かるんですよ。


──彼らからすると仲間外れにされている感覚はあるかもしれませんね。でもそれを内にとどめておけばいんですけど、不特定多数の皆さんが閲覧するSNSで発信するんですよね。


連れ1000さん 結構厳しい意見ありましたし凹みましたね…。今後、どのような形になるかはわかりませんが、また何かを発信することはあるかもしれません。


──ありがとうございます。連れ1000さんにお聞きしたかったのが、今のノアについてどのように捉えているのかを教えていただけますでしょうか。


連れ1000さん 今のノアは、明らかにターゲット層を変えてますよね。以前、新日本も同様なことがあったと思います。好きな男性プロレスラーを「推し」と呼ぶ女性ファンの皆さんは良い潜在顧客なわけですから、そっちの方向に舵を切るのは良いことだと思います。あとはその流れに対して僕も含めてこれまでのファンがどう受け止めるのかという問題があるんですよ。


──確かにその通りです!


連れ1000さん 今はプロレスが好きというより、アイドルやアニメとかを見る感覚でプロレスラーを応援している人が多いのかなと感じてますね。もちろんファンが増えるならそれもいいことだと思います。まあ時代ですね。


──今のノアについて色々とジレンマを感じている人たちは多いんじゃないでしょうか。


連れ1000さん  古参のノアファンは結構去りましたよね。以前新日からノアにファンが流れてきてたように、今は古参ファンは全日本に流れている印象があります。寂しいですね。



連れ1000さんが選ぶ名勝負とは!?


──ありがとうございます。ではここで連れ1000さんの好きな名勝負を3試合、挙げてください。


連れ1000さん これは僕の人生を変えた試合を主に選びました。まずは三冠ヘビー級選手権試合・川田利明VS小橋健太(1995119日・大阪府立体育会館)です。      


──この試合の二日前の1995117日に阪神・淡路大震災が発生し、甚大な被害と多くの死傷者がでました。中止になるのかと思いきや全日本は大阪大会を開催。メインの川田VS小橋の三冠戦は大熱闘となり、結果は60分引き分けで終わり、全日本コールも発生するなど、震災直後、被災者たちを元気づける伝説の三冠戦ですね。


連れ1000さん この試合は現地で見ました。僕は京都なので、阪神・淡路大震災では被害もありました。やるかやらないか分からないけど大阪大会に行くことにして、途中に神戸によって震災の被害をこの目で見ようと思ったんです。するとこんな言い方は適切か分かりませんが、がれきの山でまるで戦争の跡みたいな感じなんです。あまりに衝撃を受けました。全日本の大阪大会は中止じゃなくて開催されていて、馬場さんがこの日の全選手のファイトマネーを全額寄付を発表したんですよ。


──ありましたね!


連れ1000さん そしてメインの川田VS60分時間切れ引き分けなんですけど、最後の2分くらい小橋さんがずっと逃げてるんですよ。あとは川田さんがフォールに行けば勝利という場面で、小橋さんが這って逃げようとしている。その姿に感動しましたね。あの後、神戸は震災を乗り越えて立ち直りますけど、そのパワーの一つになったのは川田VS小橋の三冠戦だったんじゃないかなと思います。プロレスは人々を勇気づける力があるんだなとすごく感じました。


──小橋さんは感情を表現するアクションが天才なんですよね。


連れ1000さん そうですよね。あれは感動しましたよ



──小橋さんは人々の感情を揺さぶったり、心を振るわせたりする才能がずば抜けているのかもしれません。では2試合目をよろしくお願いします。


連れ1000さん この試合は僕がプロレスにハマるきっかけになったザ・ファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク(全日本・19771215日蔵前国技館/世界オープン・タッグ選手権公式戦)です。テリー・ファンクがものすごく心を震わすんですよ。倉持隆夫アナウンサーの「テリーがいった!左のストレート!」という名実況がたまらなく好きで、ブッチャーのフォーク攻撃を右腕に受けて退場をして包帯を巻いて帰ってくるんですよ。


──日本プロレス史における屈指の名シーンですよね。


連れ1000さん テリーのファイトは痺れましたし、かっこよかった!あんな勧善懲悪な試合をまた見たいなと思いましたね。


──ありがとうございます。では3試合を挙げてください。


連れ1000さん 拳王VS潮崎豪(ノア/2020810日・横浜文化体育館・GHCヘビー級&GHCナショナル ダブル選手権試合)ですね。


──あの試合は素晴らしかったですね!令和の四天王プロレスを見ているようでした。


連れ1000さん 正直、四天王プロレスは心の中で否定しながらも、どこか求めてしまうところがあるんですよ。ああいうハードなことはやらなくなった中で拳王VS潮崎はギアが一個、違ったのかなと。拳王さんのフットスタンプがあの試合に関しては体重の乗せ方とかヒットしてからの踏み込み方がエグいですよね。だから仕掛ける拳王さんと受けとめる潮崎さんからも「爪痕を残してやる!」という覚悟を感じました。


──ネットで「どこまでやるのか!」と湧いていた記憶があります。


連れ1000さん 拳王VS潮崎から「ノアがきている!」という追い風を感じましたね。僕が「連れてってくれ1000円」という名前でXTwitter)やYouTubeをやるようになったすべてのきっかけになった人生を変えた試合ですね。お互いのファイトスタイルが違うじゃないですか。平成の川田VS小橋、昭和の藤波VS前田(日明)、令和の拳王VS潮崎はたまらなく好きですね。


──ありがとうございます。


連れ1000さん これは1試合多くなりますけど、やっぱり三沢さんの試合は外せないですね。特に三沢光晴VSジャンボ鶴田(全日本/1990年6月8日・日本武道館)は今までプロレスを見てきてあの試合ほど燃えたことはないですね。


──今思うと当時の全日本ではあり得ないマッチメイクですよね。


連れ1000さん あの試合も若林アナウンサーの実況がいいんですよ!「両足にはまだボルトが入っているんです!」「こみ上げてくる瞬間にしかできないことがあります!」とか。


──「三沢に『ショートタイツになってみたら?』と言うと『両足にボルトが入っていて履けないんです』と語った」とか。


連れ1000さん 試合内容は19909月の三冠挑戦者決定戦、19914月の三冠戦の方がいいかもしれませんけど、三沢さんと一体になれた試合でしたね。


──個人的には三沢さんが鶴田さんに勝って、若林アナウンサーが実況を締める時に「プロレスラーを辞めなくてよかった」と言うんですよ。あれは三沢さんになり替わって出たフレーズだったんだろうなと思って感動しましたね。


連れ1000さん  みんな色々なものを三沢さんに乗せていたんでしょうね。僕らもうまくいかない人生の中で「三沢さんが勝てば人生が変わるかもしれない」って思えたんですよ。


──若林アナウンサーはよく「みんなの夢・三沢光晴」と実況してましたから。


連れ1000さん 今だと会社のプッシュなのかと思いがちですけど、当時はそんなこと全然考えてなかったですよ。何らかの意図はあったかもしれませんけど。



今後について



──ありがとうございます。ではここで連れ1000さんの今後についてお聞かせください。


連れ1000さん 『あつのあ』ではやりきれなかったプロレスの素晴らしさを伝えていきたいですね。プロレスと三沢さんに命を助けてもらった者としてどう伝えてくるのかという難しい課題はあります。でもなんとか僕なりの手法で若い世代に伝えていきたい。今は「推しの文化」が強くて、その場合は「この人、かっこいい」が中心ですよね。でもそれだとプロレスの魅力や楽しみ方の半分くらいなんですよ。奥行きのあるプロレスの魅力や楽しみ方を堅苦しい形ではなく柔らかい形で伝えていきたいです。


──素晴らしいと思います。連れ1000さんのようにイラストや動画といったビジュアルで伝えていく形はよく発信や拡散はされやすいのかなと感じます。


連れ1000さん そこをどう伝えていくのかを悩みながらやっていこうかなと。三沢さんにはみんながお参りに行けるようなお墓がないじゃないですか。今は三沢さんはみんなの心の中にあると思います。でもみんなの心から三沢さんがなくなってしまうと。そのために三沢さんの灯を絶やしたくないですね。三沢さんのことを伝えることで、生前にできなかった恩返しをしていきたいなと思います。


──私はブログやnoteで三沢さんの功績を綴ってきました。そのブログやnoteが生き続ける限りはネット上で三沢さんの凄さを伝えられるわけじゃないですか。そうすれば三沢さんがこの世にいなくても神話として生き続けるような気がするんです。連れ1000さんにはご自身の表現で今後もプロレスや三沢さんを伝えていってほしいなと思います。


連れ1000さん ありがとうございます。プロレスの魅力はもっといっぱいあるはずなので、ファンの声とかを拾い上げながら伝えていきたいですね。あと潮崎さんが今年デビュー20周年なので、これは華々しくやりたいです。三沢さんがいないので、僕の思いを託せるのはやっぱり潮崎さんなんで。

 



あなたにとってプロレスとは!? 



──連れ1000さんにとって潮崎さんの存在はかなり大きいですね。では最後にお聞きします。あなたにとってプロレスとは何ですか?


連れ1000さん これは難しいんですよ。ずっと考えているんですよ。うーんプロレスは応援歌です。僕の人生において特につらい時にはプロレスにずっと「頑張れ!」と励まされて勇気をもらってきたような気がします。近年はプロレスは楽しんだもの勝ちっていうところもあって、重く考えるとプロレスに対しても厳しく見ちゃうじゃないですか。プロレスを崇高だと思えば思うほど。


──重く思えば思うほど反動が出ますよね。それが結果的にプロレスを嫌いになる傾向もあります。


連れ1000さん 今の時代はプロレスをただ楽しんで見るだけの方が合っているんじゃないですか。プロレスに対してのリスペクトは常に持ちつつも、あまり神格化しないで日常にあるものと捉えることは大事ですよね。深く考えつつも、難しくは考えすぎないという絶妙なバランスでプロレスと接したいところで、プロレスをずっと楽しんで見ることはなかなか難しいですよね。


──同感です。今の時代は長期で愛するというよりも、短期で愛する感じなのでなかなか長続きしにくい傾向はあるかもしれません。


連れ1000さん そうなんですよ!今はファンの推しの団体やレスラーがよく変わる印象があります。あとはしんどくなってプロレスから離れるとか。


──もったいないですよね。プロレスは長く見れば見るほど面白いですから。これでインタビューは以上です。連れ1000さん、今後のご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げます。ありがとうございました。


連れ1000さん こちらこそありがとうございました。


【私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合 /3回終了】













 


 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、「魂の絵師」連れてってくれ1000円さんです。

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 

   

連れてってくれ1000円

小学生の頃にプロレスに心奪われ、中学生の頃に三沢光晴に命を救われたノアオタ。
イラストや動画などを通じてプロレスの面白さを伝えるべく活動中。
・X:https://twitter.com/shun064 

・YouTube:「あつまれのあのあファンチャンネル」https://youtube.com/@user-so8er3dx1e
 

 

 

私は連れてってくれ1000円さんが運営されているYouTubeチャンネル『あつまれのあのあファンチャンネル』にゲスト出演させていただきました。

 

 

 

 

 

また、私のXでのアイコンは連れてってくれ1000円さんが作成してくださいました。

 

 

 

何かとお世話になっている連れてってくれ1000円さんにロングインタビューをさせていただきました。

 

プロレスとの出逢い、初めてのプロレス観戦、好きなプロレス団体、好きなプロレスラー、YouTubeチャンネルを始めるきっかけ、好きな名勝負…。

 

そして、連れてってくれ1000円さんが長年、ファンとして追い続けているプロレスリングノアについてじっくり語ってくださいました。

 

 

 私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合「第1回 三沢さんが生きる目標だった」


 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合
「第2回 推しは人格で選ぶ」
 
 
 
「炎の飛龍」藤波辰爾選手の凄さと魅力
 



──ここで連れてってくれ1000円(以下・連れ1000)さんの好きなプロレスラーの凄さと魅力について大いに語ってください。まずは藤波辰爾選手です。

 

連れ1000さん 初めて見たのが小学生の頃だったんで、もう単純にかっこよかったんですよ。これは長州力さんや天龍源一郎さんもそうですけど年を取ってから面白がられる傾向があるじゃないですか。ドラゴンリングインとか。『マッチョドラゴン』も当時はそこまで変だとは思ってなかったですね。


──『マッチョドラゴン』は1985年に『コサキンワールド なんでもねぇんだよゲベロッチョ』の人気コーナーだったコサキンソングとして取り上げられり、『電気GROOVE ビリビリ行こうぜ』や『スーパーFMマガジン』でも紹介されたり、プロレスファン以外の層にに届いたある意味「伝説の名曲」ですよね。


連れ1000さん プロレス界隈ではかっこいいと思われていたのかもしれませんね。藤波さんは日本プロレス界において「ザ・ベビーフェース」であり、最初のヒーロー。猪木さんが「かっこいいレスラー」となると最初かもしれませんが、個人的にはかっこいいプロレスラー第1号は藤波さんだと思っています。




「完全無欠のエース」ジャンボ鶴田さんの凄さと魅力




──アントニオ猪木さんはスーパースターであり、超人なんですよね。確かに藤波さんはヒーロータイプで、子供たちに「大きくなって頑張ればこんなに強くなれる」と勇気を与えてくれた存在だったような気がします。次はジャンボ鶴田さんの凄さと魅力について語ってください。


連れ1000さん  僕が好きだった鶴田さんは善戦マンの頃なんですよ。


──トップレスラーと闘って敗退したり、タイトルマッチになると王座奪取に失敗し続けた頃の鶴田さんということですね。


連れ1000さん  はい。でも鶴田さんの技が凄くて、4種類のスープレックス(ジャーマン、フロント、ダブルアーム、サイド)が大好きでした。特にジャーマンは何回ビデオを巻き戻して見直すほど美しいんですよ。あと鶴田さんは人柄が見えた最初のプロレスラーだったのかなと。笑顔が素敵ですよね。


──確かにそうですね。


連れ1000さん  鶴田さんは普通にいい人なんですよ。僕が好きなプロレスラーは人柄で選んでいるかもしれません。長州力さんや天龍源一郎さんのように「プロレスに人生を賭けている」生き方にハマるファンが多かったと思いますが、鶴田さんのような「リングはリング」という仕事とプライベートをきっちり分ける生き方が好きでした。片手間でやっているように見えても強いじゃないですか。


──鶴田さんの魅力が浸透するには時間がかかるましたよね。


連れ1000さん  スポ根全盛の時代だったので鶴田さんの生き方は時代にマッチしてなかったんでしょうね。だから鶴田さんが日本人初のAWA世界王者になった時は嬉しかったんです。やっと鶴田さんが世界を取ってくれたので


──これはお聞きしたかったんですけど、連れ1000さんは一時期プロレスから距離を取られて、三沢光晴さんが2代目タイガーマスクの仮面を脱いだ1990年から本格的に戻られるじゃないですか。鶴田さんは三沢さんが率いる超世代軍の高き壁として立ちはだかりました。その頃の鶴田さんについてどのようにご覧になってましたか?


連れ1000さん  もう三沢さん推しでした。鶴田さんはあくまでも三沢さんのライバルという捉え方をしてました。多分鶴田さんが主人公になった全日本にあまり興味を持てなくなってしまったんですよ。当時若い頃の僕には今は素晴らしいと思えるオーバーリアクションとかも、周りの目とかもあって見ていてしんどくなってきてました。だから三沢さんには鶴田さんを乗り越えてほしいと強く願ってました。


──超世代軍と相対した時の鶴田さんが妙に色々な引き出しを開けてくるんですよね。


連れ1000さん 僕が好きだった頃の鶴田さんとは全然違う動きになってましたね。かなりえげつない攻めが多かったですから。天龍さんに引き出された部分が大きいと思うんですけど。ジャンピング・ニーの角度も違いましたから。


──あとキチンシンクも凄かったですね。


連れ1000さん あれめちゃくちゃ痛そうですよね。ジャンボラリアットも豪快にフルスイングして振り抜いているので、今だったらフィニッシュ級の破壊力がありますよ。




「プロレス界の盟主」三沢光晴さんの凄さと魅力




──ありがとうございます。次は好きなプロレスラー・三沢光晴さんの凄さと魅力について語ってください。


連れ1000さん 三沢さんは僕にプロレスを見ることに自信を持たせてくれました。今までこっそり1人でテレビで見てたものが、友達とみんなでワイワイ語れるようになるきっかけを与えてくれたのは三沢さんのプロレスでした。一時期、全日本ブームになってましたから。


──確かに1990年代前半は観客動員数、若い女性ファンが増えてましたね。


連れ1000さん あの頃は友達とかに「こんなに身体を張って闘っているんだよ。だから見てほしい」と全日本を布教しまくってましたよ。もし三沢さんがいなかったらプロレスから完全に離れて見なくなっていたかもしれません。あと当時の僕は毎日死にたいという精神状態だったので、受けて、受けて、立ち上がってから最後に逆転するという三沢さんのファイトに勇気をもらいましたね。


──三沢さんはどんな相手でも逃げずにちゃんと正面突破してくれるんですよ。


連れ1000さん 三沢さんってやられる時に耐える顔や反撃していく時の顔とかグッとくるんですよ。あと実況の若林健治アナウンサーが名調子なんですよ。



──確かに!若林アナウンサーと解説の竹内宏介さんの「若竹コンビ」が最高にいいんですよね。


連れ1000さん その通りです!熱くて最高なんです。「三沢が泣いてますよ!」「両ヒザにはまだボルトが入ってるんです!」とか。あの時代の全日本は色々と変わっていったので、タイミングが合ってましたね。


──若林アナウンサーは三沢さんのお母さんに取材してきて、それを実況に活用されてましたね。(199091日・日本武道館/三沢光晴VSジャンボ鶴田)


連れ1000さん  若林さんの実況はプロレスが大好きなのがものすごく伝わりますよね!


──ちなみに四天王プロレス(三沢さん、川田利明さん、田上明さん、小橋健太さんによる限界を超えるような技の攻防が繰り広げられる壮絶なプロレススタイル)についてどのようにご覧になってましたか?


連れ1000さん  当時はただただ「どうだ!これが全日本だ!」「これこそが最高のプロレスだ!」と思ってました。正直、頭から落とす技も多かったので危ないじゃないですか。でもね、僕は大丈夫だと思ってました。


──四天王プロレスはかなり危険な攻防が多かったですよね。


連れ1000さん   以前、全日本道場での練習で横になった小橋健太(現・建太)さんに菊地毅さんが頭の上に乗って、小橋さんが首を動かすように鍛錬している映像を見たことがあるんです。自らの頭に人が乗っている状態で、首の力で人を持ち上げるんですよ。あれを見ているので大丈夫なんやと思っちゃったんですね。


──鍛えられ方が尋常じゃないからということですね。


連れ1000さん 当時、まことしやかに「プロレスラーは鍛えられているからトップロープから頭から真っ逆さまに落ちても大丈夫なんや」と言う人がいたんですよ。だから小橋さんの練習風景を見ると大丈夫なんだろなと思ってましたね。


──プロレスラーは超人であり、選ばれた人間なので、その極みに達すると四天王プロレスのような凄まじい闘いができる場合もしれませんね。


連れ1000さん でも三沢さんがリング禍で亡くなったことによって、あれはやっぱり大丈夫じゃなかったと。そこから四天王プロレスのような闘いは控えてほしいなと思うようになりました。


──以前、渕正信選手が三沢さんは通常は背中で取る受け身を首筋の下で取って、危険な攻防を乗り切っていたというエピソードを語っていたことがありますね。


連れ1000さん 首で受け身って凄すぎですよ。小橋さんのバーニングハンマーのように完全に頭から落下している技とかあるじゃないですか。


──小橋さんのバーニング・ハンマーを初めて受けた時は、頭から落下するギリギリまで目を見開いて落ち方に合わせてなんとか首で受け身を取ったようです。四天王プロレスは肉体と技術、精神を極めた選ばれし者だからできたのかもしれませんね。


連れ1000さん できたと言うべきなんでしょうか?


──できたんですけど、あまりにも代償が大きかったですね。


連れ1000さん そうなんですよ。三沢さんは亡くなりましたし、川田さん、田上さん、小橋さんは未だにそのダメージを負って日常生活を送っていますよね。だから「あの頃は凄かった」とかは僕はちょっと言えないです。四天王プロレスを賛美していいのだろうかという疑問があるんですよ。


──それはありますね。


連れ1000さん だから三沢さんが亡くなったことをきっかけに頭から落とすような危険な攻防にブレーキがかかった部分はあるかなと思いますね。




「鉄人」小橋建太さんの凄さと魅力




──それはありますね。次の好きなプロレスラー・小橋建太さんについて語ってください。


連れ1000さん 僕は京都出身なので、小橋さんは地元のヒーローですよ。



──小橋さんは京都府福知山市出身ですね。


連れ1000さん 小橋さんに関してはデビューから引退までしっかりと追うことができた初めてのプロレスラーでした。やっぱり小橋さんと一緒に自分自身も強くなっていったような気がします。


──三沢さんはどちらかというと後ろについてこいという感じで、小橋さんは一緒に走ろうというタイプですよね。


連れ1000さん 菊地毅さんとアジアタッグを取ったり、三冠王座を取ったりして駆け上がっていく姿が眩しかったですよね。小橋さんは途中大きな挫折もあったかもしれませんけど、最終的には右肩上がりでレスラー人生を終えていったという印象が強いんですよ。


──そうかもしれませんね。


連れ1000さん 最初から見ていたという部分で小橋さんには思い入れがすごくありますね。腎臓ガンから復帰した時もものすごく勇気をもらいました。


──小橋さんは2006年に腎臓ガンが発覚し手術を受けて、2007年に奇跡の復帰を果たします。しかし、その後怪我が絶えず、欠場と復帰を繰り返し、最終的に首の状態が悪化してドクターストップがかかり2013年に引退しました。小橋さんの引退についてはどのように感じましたか?


連れ1000さん 小橋さんの引退試合は現地では見れませんでしたが、映画館が会場のクローズドサーキットで観戦しました。もう十分、小橋さんを堪能することができました。レスラー人生を全うされたと思います。


──同感です。


連れ1000さん 小橋さんのレスラー人生って栄光も挫折も含めてストーリーとして出来すぎぐらいに美しいですよね。新人時代に台頭してきた時の期待感とか凄かったじゃないですか。


──天才タイプではなかったかもしれませんが、色々な技ができて体力と肉体とハートを兼ね備えていて、とてつもない可能性を20代前半の小橋さんから感じることができましたよね。


連れ1000さん あれは好きになりますよ。新日本では武藤敬司さんが華やかなプロレスをされてましたけど、全日本ではオレンジ色のショートタイツの小橋さんがムーンサルトプレスを使っていたのは、全日本ファンにとっては希望の光でした。


──小橋さんのレスラー人生は劇画に描きやすいんですよ。


連れ1000さん その通りなんですよ!小橋さんと一緒に握り拳を握るように、見ている側が気持ちを乗せやすいんですよね。




「豪腕」潮崎豪選手の凄さと魅力



──ありがとうございます。では連れ1000さんが選ぶ好きなプロレスラー。最後に語っていただくのは潮崎豪選手です。


連れ1000さん 潮崎さんのプロデビュー戦は生観戦していて、当時のノアでは小橋さん、三沢さん、秋山準さんの次が出てこないという状況があって、丸藤正道さんやKENTAさんはいるけどジュニアヘビー級なんですよ。ヘビー級の正統派レスラーが待望されていました。


──力皇猛さん、森嶋猛さん、杉浦貴さんとなると少し違うんですよね。


連れ1000さん 片や新日本には棚橋弘至さんがいて、中邑真輔さんがいて、柴田勝頼さんがいました。その状況下で2004年にデビューしたのが潮崎さんなんですよ。あのルックスと身体能力。凄い高いジャンプでムーンサルトプレスをするじゃないですか。彼が育てば三沢さんはやっと引退できるなと思いましたよ。


──確かにそうですね。


連れ1000さん 三沢さんとのコンビでグローバルタッグリーグ戦を優勝して、その後のGHCタッグ戦で三沢さんが亡くなり、翌日に潮崎さんは力皇さんを破り、GHCヘビー級王者になりますよね。ただ三沢さんが亡くなったことのショックが大きくて…。また小橋さんがノアを離れて引退されて、秋山さんや潮崎さんがノアを退団してバーニングとして全日本に移籍するじゃないですか。


──201212月で秋山選手、潮崎選手、金丸義信選手、鈴木鼓太郎選手、青木篤志さんがノアを退団。2013年に全日本へ移籍しています。


連れ1000さん そこでノアから少し距離ができてしまった。ノアの情報は追ってましたけど、会場に行くまでの想いはなくなってしまいましたね


──2015年に鈴木みのる選手が率いる鈴木軍がノアに襲来した時は忸怩たる想いがあったんじゃないですか?


連れ1000さん うーん。逆にノアを盛り上げてくれて僕はありがたかったですけどね。そんなノアを一時期離れいた自分を引き戻してくれたのが、実は拳王さんなんですよ。


──そうなんですね!


連れ1000さん 拳王さんが週刊プロレスのインタビューで、「昔、三沢や小橋が好きだったけど今は会場に来ていないやつらがいるだろう。その時代に三沢と小橋が好きだったヤツらはそこそこお金に余裕があるはずだ。そういうヤツらは俺を見にノアに来い」と言うわけですよ。


──なかなか踏み込んだ発言ですね!


連れ1000さん 一時期はホームレスになるくらい商売がうまくいかない時もありましたが、頑張って商売を浮上させて、生活が安定してきたんですけど、今度はそのお金をどう使えばいいのか分からない。楽しみというか目標がなくなっちゃったんですね。そんな時に拳王さんが「俺たちに預けてみないか」と言っている。「これや!」と思ってまたノアを応援するようになって、さらに2015年に潮崎さんが全日本を退団してノアに戻ってくるんですよ。ノアに帰ってきた潮崎さんが金髪になっていてめっちゃカッコよくなっているんですよ。試合内容は四天王プロレスみたいなことをしていて「これは推さねば」と思いました。そこから潮崎さんを激推ししています。


──そうですよね。


連れ1000さん 2020年の潮崎さんと拳王さんの対決は小橋VS川田を見ているようで、四天王とは違うハードヒットという形でプロレスの限界に挑んでいるような気がしました。潮崎さんからは三沢さんの魂を受け継いでいる部分を感じますよね。


──2020年の潮崎さんはMVP級の活躍をされましたね。


連れ1000さん 頑張りましたよね!「I am NOAH」を名乗るようになって、藤田和之さんに勝って、齋藤彰俊さんとの試合もよかったし、中嶋勝彦さんや杉浦貴さんとの試合も素晴らしかったですね。あまりの激戦でダメージが深くなって長期欠場に追い込まれてしまうところまで師匠の小橋さんっぽい(笑)


──潮崎さんの魅力はどこにありますか?


連れ1000さん 彼は多くを語らないんですけど、表情やちょっとした動きとかでいろんなことを伝えてくれる。マイクやSNSに頼らない、三沢さんや小橋さんの歴史や伝統を感じますよ。ラーメンとかで例えると、具材で派手に見せるんじゃなくてちゃんとしっかりとしたスープの生地を取って、ちゃんとした麺を作っているという感じですね。


──別にみんなみんな喋って言葉でプロレスをする必要はないわけで、色々な表現方法があっていいと思いますね。


連れ1000さん 確かに。あとめちゃめちゃ受けてくれるから対戦相手はみんな潮崎さんのことを好きになるでしょ。業界で潮崎さんの悪口はあまり聞いたことがない。これも人柄なんでしょうね。


──そうですよね。


連れ1000さん 実は僕の息子が潮崎さんの大ファンなんですよ。僕が三沢さんや小橋さんが好きで、息子が潮崎さんが好きになったというのも偶然とは思えなくて、やっぱり趣向も親と子で受け継がれたのかもしれません。今は親子二代で潮崎さんを応援させてもらえているので、それが嬉しいですね。息子も潮崎さんをきっかけに歴史を遡って知ろうとするわけで、そうなると息子と三沢さんや小橋さんの話ができますから。それは三沢さんの得意技エメラルドフロウジョン、小橋さんの得意技ムーンサルトプレス、チョップ、ラリアットを使い続ける潮崎さんがいるからその光景は成立しているんです。これは潮崎さんに感謝しています。


──素晴らしいですね!


連れ1000さん  僕は三沢さんがいなかったら、この世にはいないです。そうなると息子も生まれてない。あと息子の誕生日は三沢さんのデビュー日(821日)なんですよ。そこも何かで繋がっているような気がするんです。


(第2回終了)



 

ジャスト日本です。

 

 

 

 

「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで3度の刺激的対談が実現しました。

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 

 

 

前編「逸材VS闘魂作家」  

 

 

後編「神の悪戯」 

 

 

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!

 

前編「偉大な盗人」 

 

 

後編「闘魂連鎖」 

 

 

 

プロレス人間交差点  佐藤光留☓サイプレス上野 

 

前編「1980年生まれのプロレス者」 

 

 

 

 

後編「幸村ケンシロウを語る会」 

 

 

 

 

 

 

4回目となる今回は作曲家・鈴木修さんと作編曲家・安部潤さんのプロレステーマ曲の巨匠対談をお送りします。

 

 

 

 

 

 
 
 

 

(写真は本人提供)

 

 

鈴木修

作曲家、ギタリスト。1965年静岡県出身。

1986年よりTV番組や舞台音楽制作者として活動。三冠王者、IWGP、GHC、G1 チャンピオンなど多くの選手達に楽曲を提供。、プロレスファンの間では「ミスター・プロレステーマ曲」と呼ばれている。現在はプロレスや舞台の創作を中心に、放送関係出演、個人様御依頼の制作や演奏といった多岐に渡る音楽活動を行っている。

 

主な楽曲提供選手:遠藤哲哉、藤波辰爾、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝、佐々木健介、小橋建太、越中詩郎、小島聡、秋山準、潮崎豪、ジェイク・リー、グレート・ムタ等。

 

X(Twitter)https://x.com/OTOSAKKA56

 

 

 

 
 

 

 

(写真は本人提供)

 

安部潤

3歳より、ピアノ講師である母のもとピアノを始める。92年より上京、作編曲家・サウンドプロデューサーとして、J pop、Jazz Fusionシーンにおいて数多くのレコーディング、ライブツアーに参加、また映画、イベント、またテレビやラジオのCM音楽など、多岐に渡るジャンルの音楽を幅広く手がけている。「初⾳ミク」のLA公演、タイのジャズフェスへの自己グループでの出演、中国の国民的アーティストの楽曲の編曲など、海外での活動もめざましい。LAやNYレコーディングを含むJazz Fusion系のソロアルバムを3枚リリースしている(最新作、「Walk Around」Sony Music)。昭和音楽大学非常勤講

 

オフィシャルウェブサイト

https://junabe.jp/

 

X(Twitter)https://x.com/JunAbe_JunAbe2

 

 

 

 

 

 

新日本プロレスの数々のオリジナルテーマ曲を世に生み出した「ミスタープロレステーマ曲」鈴木修さん。ウッドベル時代の新日本プロレスのオリジナルテーマ曲を制作された「インストゥルメンタル・アーティスト」安部潤さん。プロレステーマ曲の巨匠二人による対談はおおいに     

 お二人のテーマ曲との出逢い、テーマ曲の作り方、思い出のテーマ曲など対談は大いに盛り上がりました。

 

 

 

是非ご覧下さい!

 

プロレス人間交差点 鈴木修☓安部潤 前編「プロレステーマ曲の巨匠対談」 

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 

鈴木修☓安部潤

後編「コブラさんからの手紙」

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

グレート・ムタのテーマ曲『MUTA』誕生秘話

「色々なシチュエーションに融合していくのを最初からイメージして作ったのが『MUTA』」(鈴木さん)

 

 

 

 

──実は今回、昭和プロレステーマ曲研究家のコブラさんからお手紙を預かっているんですよ。

 

安部さん ちなみに大変失礼かもしれませんが、コブラさんはどういった方なんですか?

 

──昭和プロレステーマ曲研究家で、プロレステーマ曲に関しては多分日本でトップクラスで詳しい方なんですよ。

 

安部さん そうなんですね。

 

鈴木さん コブラさんや木原文人リングアナウンサーが揃ったらすべてのプロレステーマ曲は網羅できますよ。私は自分のテーマ曲のこともこの二人に聞きますから。どの日にどの会場で流れたとか。みんな教えていただいてますよ。あの域に達するのは本当にすごいと思います。

 

──コブラさんの著書『昭和プロレステーマ曲大事典』は尋常じゃないほどのマニアックな作品なんですよ。そのコブラさんの手紙には鈴木さんと安部さんへの質問がございましたので読ませていただきます。

 

「鈴木さん、ご無沙汰しております。昨年のGスピリッツのインタビューの際はお世話になりました。安部さん、初めまして。昭和プロレステーマ曲研究家のコブラと申します。今回はジャスト日本さんにお願いしまして、失礼ながらお二方に書面という形でご質問させていただきます。よろしくお願い致します」(コブラさんからの手紙より)

 

鈴木さん  よろしくお願いします。

 

安部さん よろしくお願いします。

 

 

 

──「一つ目の質問です。グレート・ムタについてお二方にお聞きします。まず鈴木さんへの質問です。別キャラの曲をアレンジするという手法は90年代のテーマ曲界において最大の発明であり快挙だと思っているのですが、最初に『HOLD OUT』を和風アレンジにするというアイデアは如何にして生み出されたのでしょうか?」(コブラさんからの手紙)

 

鈴木さん   ムタのテーマ曲を制作することになって、「ムタは忍者なので曲調は和風だよな」というイメージができてました。私が若い頃から色々な神社や仏閣巡りをしていて、そこから得たヒントも入れたり、あと歌舞伎や能楽の色々な楽器を使って、津軽三味線とかも全部自分の中でごちゃまぜにして、忍者と和風をイメージして『HOLD OUT』の旋律に乗せて作ったんですよ。『MUTA』のプロトタイプは音を一個ずつ流して繋げていって、シーケンサで最初のベースとドラムのテンポだけ作っておいて、あとは全部手で弾きました。「ムタ」「よぉー」という掛け声を自分でマイクに言って完成しました。制作時間が短くてあっという間にできたテーマ曲でした。

 

──冒頭の「ムタ」の掛け声は鈴木さんの声だったんですね!

 

鈴木さん マイクを持って掛け声するとメーターの針が左右に揺れまくったんですよ(笑)。CDのレコーディングの時にエフェクターの方からもっと叫ぶ感じでやろうとか色々なアイデアが出たんですけど、私はボソッと言った方がいいと思ったので、プロトタイプもCDでも掛け声は同じでしたね。

 

──それは正解ですね。あれで不気味さが増しましたから。

 

鈴木さん ありがとうございます。ムタがスーパー・ストロング・マシンとよみうりランド(1991年8月25日)で闘った時に月が出ている中で入場したりとか、色々なシチュエーションに融合していくのを最初からイメージして作ったのが『MUTA』でした。私も楽しく制作できたので本当に感謝しています。

 

 

 

──鈴木さんが制作した『MUTA』の次にムタのテーマ曲を担当されたのが安部さんです。コブラさんの手紙でも言及されているので読ませていただきます。

 

安部さん はい。

 

──「安部さんへの質問です。ムタの手法は『トライアンフ』に変わってからも受け継がれ、『愚零闘武多協奏曲』を安部さんが編曲という形で手がけられました。この曲の製作秘話のようなものがあれば是非お聞きしたいです」(コブラさんからの手紙)

 

安部さん 『愚零闘武多協奏曲』も鈴木敏さんからの指示でしたね。この曲も含めた7曲収録のイメージアルバムで出したんですが、ムタって悪役ではありますけど悲壮感もありますよね。そうしたものも出しつつ、劇判(映画やドラマなどのストーリー中に流れる音楽)のようなイメージで製作した記憶がありますね。

 

 

小島聡選手のテーマ曲『RUSH!!』誕生秘話

「小島さんは僕の中では正統派プロレスラーのイメージがあったので、ちょっと色を出すのは難しかったような記憶があるんですよ」(安部さん)

 

 

──ありがとうございます。ここからコブラさんの次の質問です。

「お二方への質問です。お二方両方とも作曲された数少ない選手の1人が小島聡選手なんですが、それぞれどういったイメージで作曲されたのでしょうか?(鈴木さんは『STYLUS』、安部さんは『RUSH!!』)」(コブラさんからの手紙)

 

 

 

鈴木さん 武藤全日本時代に木原文人リングアナウンサーからご依頼を受けて制作した小島選手のテーマ曲が『STYLUS』。武藤全日本において小島選手がチャンピオン、トップレスラーとしてやっていくというイメージで作りました。2021年に出したCD(『鈴木修ワークス 爆勝宣言』)の中に『STYLUS』が収録されていますが、これは現場で使われたものじゃないんです。現場で使われていたのはプロトタイプで、力強く音の輪郭の部分がうまく出せなくて、そこは残念だったなと思います。でも2021年発売のCDではうまく制作できたなと思っています。

 

──小島選手のテーマ曲に関しては鈴木さんよりも安部さんが制作した『RUSH!!』のイメージが強くなってしまうんですよね。

 

鈴木さん そうなんですよ。私は新日本担当を離れてから他団体も含めてあまりプロレスのテーマ曲を聞かなくなったんですよ。小橋さんの時の全日本やノアの時に比べるとそこまでガッツリ関わったわけではない時にご依頼を受けたので、その辺がテーマ曲制作においてちょっとピントが絞り切れていなったなという反省点がありますね。

 

──安部さんは小島選手のテーマ曲『RUSH!!』をどのようなイメージで制作されましたか?

 

安部さん 小島さんは僕の中では正統派プロレスラーのイメージがあったので、ちょっと色を出すのは難しかったような記憶があるんですよ。直線的なイメージで曲を作ったような感じです。

 

──『RUSH!!』は名曲で未だにこの曲がかかると自然発生的に「小島」コールが発生しますからね。

 

安部さん そうなんですね。余談ですけど、近くのカレー屋で偶然、小島夫妻にお会いしましてご挨拶させていただきまして、緊張しながら「小島さんのテーマ曲を制作させていただきました」とお伝えすると気を付けして深々とお礼して「ありがとうございます」と言ってくださり、本当にいい人でした。

 

──安部さんが制作されたテーマ曲の中でも『RUSH!!』はプロレスファンに愛されてる屈指の名曲だと思います。

 

安部さん ありがとうございます。

 

 

 

なぜ、藤原喜明選手は一時期『ダーティーハリー4 』をテーマ曲にしていたのか?

「この曲の件で藤原さんとお話はしてなくて、田中秀和リングアナウンサーから『UWFの匂いがしないものを』と言われたのは覚えています」(鈴木さん)

 

 

 

 

 

──コブラさんからの鈴木さんへの質問です。

 

「去年のGスピの取材で聞けなかった事なんですが、昭和63年に藤原喜明がドン・ナカヤ・ニールセンと異種格闘技戦を行なった時から『ダーティハリー4』に変わったのは、どういう経緯だったのでしょうか?あれだけ定着していたワルキューレから変えるのはかなりの決断だったと思います。自分としては、当時は前田らが新日を離れて新生UWFを立ち上げた頃なので、藤原からUWF色を払拭する狙いがあったのかなと予想していたのですが。あと、出来れば選曲理由もお聞かせ願えれば幸いです」(コブラさんからの手紙)

 

鈴木さん これは新日本からUWFの匂いを消すというようなことを依頼されまして、『ワールドプロレスリング』の中で関節や小物を折るSEをつけて『ダーティハリー4』を採用させていただきました。この曲の件で藤原さんとお話はしてなくて、田中秀和リングアナウンサーから「UWFの匂いがしないものを」と言われたのは覚えています。

 

 

 

『炎のファイター』オーケストラバージョン誕生秘話

「全然予算がなかったので、全部打ち込みでやりました。当時はソフトシンセとかなかったので、CDとかを駆使して頑張って作りました」(安部さん)

 

 

──ありがとうございます。コブラさんから安部さんへの質問です。

「『炎のファイター』をはじめ『パワーホール』や『燃えよ荒鷲』など過去の名曲のアレンジをご担当される事が多いですが、その際に心がけていた事はございますか?『トライアンフ』よりもさらに『古典』というべき曲ばかりなので、かなりのプレッシャーもおありだったかなと思いますが、そのあたりのご心境もお聞かせ願えれば幸いです」(コブラさんからの手紙)

 

安部さん どの曲も原曲がインパクトが強かったんです。音は昔の音源はあるけど、CDにするときに演奏の権利上できないときは完コピが多かったんですね。『燃えよ荒鷲』は結構大変でしたけど。『炎のファイター』も完コピバージョンも作ったことがありました。

 

──『炎のファイター』オーケストラバージョンに関しては後に藤田和之選手がPRIDE参戦時から使うようになりましたね。

 

安部さん あれは何も知らなかったですよ。藤田選手が好きでテレビでPRIDEを見ていたらいきなり流れてきたのでビックリしました(笑)。猪木さんが亡くなってからも色々なテレビ番組でもこの曲が使われているので完全に独り歩きしてますよ。『炎のファイター』オーケストラバージョンは全然予算がなかったので、全部打ち込みでやりました。当時は

ソフトシンセとかなかったので、CDとかを駆使して頑張って作りました。

 

──安部さんが手掛けたリアレンジがかなり古典の曲でしたが、こちらに関するプレッシャーはありましたか?

 

安部さん プレッシャーはもちろんありつつも、自分がそれに携われる喜びの方が強かったかもしれないですね。

 

──これでコブラさんから質問は以上です。手紙の最後に「鈴木修さん、安部潤さん両氏の今後一層のご活躍を期待しております」という一文で締めくくられておりました。

 

鈴木さん ありがとうございました。

 

安部さん ありがとうございました。

 

──では最後の質問をさせていただきます。お二人にとってプロレステーマ曲とは何でしょうか?

 

鈴木さん この質問はよくいただきますし、私も年々、言うことが変わっていっています。この年齢になって感じることですが、選手の人生と一緒に歩んでいけたり、自分の主観と客観、選手の主観と客観とかあらゆるものが交わる部分を担うのがプロレステーマ曲なのかなと思います。

 

──ファンと選手交わる分を接着する役目を果たしているということでしょうか?

 

鈴木さん そういう捉え方もできますし、選手にとってテーマ曲は人生の中の思い出のひとつになったり、自分を奮い立たせるものにもなりますし、それが何か色々なもので繋がっているような気がしますね。時々、選手と会場で会ってテーマ曲の話になって、ファイトスタイルとかプロレス観を聞くと色々なものがそこでクロスオーバーしているなと感じますね。

 

──ありがとうございます。安部さん、よろしくお願いいたします。

 

安部さん 鈴木さんに素晴らしいことを言われてしまい、その後言うのは恥ずかしいんですけど(笑)。映画音楽や昔のヒット曲を聴くと当時の自分を思い出したりするじゃないですか。プロレステーマ曲も昔のことを思い出させてくれる音楽のひとつだと思います。映画とかヒット曲よりも、もしかしたら人によってさらに深い音楽の一つかもしれません。

 

──確かにそうですよね。

 

安部さん プロレステーマ曲は背景音楽の中でもマニアックな世界観があって、人によっては人生の応援歌になっているのかなと思います。仕事に行く前にプロレステーマ曲を聴く人もいるでしょうから。

 

──鈴木さん、安部さん、これで対談は以上となります。ありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。

 

(プロレス人間交差点 鈴木修✕安部潤・完/後編終了)

 

 

 

 

 

 

 

 

【特別掲載】

鈴木修さんと安部潤さん主要テーマ曲リスト

(昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさん作成)
※こちらに掲載している鈴木修さんと安部潤さんが作曲に携わったテーマ曲は主なものをピックアップしています。もし抜けがあったりした場合はコブラさんまでご一報よろしくお願いします!今回、掲載しているリストは2020年4月17日に追加させていただきました改訂版です。
 
昭和プロレステーマ曲研究家
コブラさんのX(Twitter)
https://x.com/kokontezangetsu
 
 
(鈴木修さん)

 

 

 
 
(安部潤さん)
 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで3度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 



プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!


前編「偉大な盗人」 


後編「闘魂連鎖」 


プロレス人間交差点  佐藤光留☓サイプレス上野 


前編「1980年生まれのプロレス者」 



後編「幸村ケンシロウを語る会」 





4回目となる今回は作曲家・鈴木修さんと作編曲家・安部潤さんのプロレステーマ曲の巨匠対談をお送りします。

 

 

 

 

 



(写真は本人提供)



鈴木修

作曲家、ギタリスト。1965年静岡県出身。

1986年よりTV番組や舞台音楽制作者として活動。三冠王者、IWGP、GHC、G1 チャンピオンなど多くの選手達に楽曲を提供。、プロレスファンの間では「ミスター・プロレステーマ曲」と呼ばれている。現在はプロレスや舞台の創作を中心に、放送関係出演、個人様御依頼の制作や演奏といった多岐に渡る音楽活動を行っている。


主な楽曲提供選手:遠藤哲哉、藤波辰爾、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝、佐々木健介、小橋建太、越中詩郎、小島聡、秋山準、潮崎豪、ジェイク・リー、グレート・ムタ等。


X(Twitter)https://x.com/OTOSAKKA56



 




(写真は本人提供)


安部潤

3歳より、ピアノ講師である母のもとピアノを始める。92年より上京、作編曲家・サウンドプロデューサーとして、J pop、Jazz Fusionシーンにおいて数多くのレコーディング、ライブツアーに参加、また映画、イベント、またテレビやラジオのCM音楽など、多岐に渡るジャンルの音楽を幅広く手がけている。「初⾳ミク」のLA公演、タイのジャズフェスへの自己グループでの出演、中国の国民的アーティストの楽曲の編曲など、海外での活動もめざましい。LAやNYレコーディングを含むJazz Fusion系のソロアルバムを3枚リリースしている(最新作、「Walk Around」Sony Music)。昭和音楽大学非常勤講


オフィシャルウェブサイト

https://junabe.jp/


X(Twitter)https://x.com/JunAbe_JunAbe2





新日本プロレスの数々のオリジナルテーマ曲を世に生み出した「ミスタープロレステーマ曲」鈴木修さん。ウッドベル時代の新日本プロレスのオリジナルテーマ曲を制作された「インストゥルメンタル・アーティスト」安部潤さん。プロレステーマ曲の巨匠二人による対談はおおいに     

 お二人のテーマ曲との出逢い、テーマ曲の作り方、思い出のテーマ曲など対談は大いに盛り上がりました。


 

是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

鈴木修☓安部潤

前編「プロレステーマ曲の巨匠対談」









プロレステーマ曲巨匠二人の想い

「鈴木修さんが新日本で作られてきたテーマ曲を作り変えるという話がきて、そこで僕はテーマ曲制作に携わることになりました。僕も含めてプロレスファンには鈴木修さんの作品が根付きまくっていて、リニューアルすることには抵抗がありました」(安部さん)

「安部さんは音楽家として実績を残されているので、この対談でお話をお伺いして勉強させていただきます」(鈴木さん)




──鈴木さん、安部さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回は数々の名プロレステーマ曲を作曲された音楽家対談を組ませていただきました。テーマ曲マニアにとっては夢のマッチメイクだと思います。よろしくお願いします!


鈴木さん よろしくお願いいたします!


安部さん よろしくお願いいたします!


──まずはお二人のプロレステーマ曲との出逢いについてお聞かせください。


鈴木さん やっぱりアントニオ猪木さんの『炎のファイター』ですね。あとアブドーラザブッチャーの『吹けよ風、呼べよ嵐』は素晴らしいですね。私がプロレスを見始めたのが新日本プロレスと全日本プロレスが旗揚げ当初だったので、アントニオ猪木VS大木金太郎の喧嘩マッチ、アントニオ猪木VSストロング小林での猪木さんのジャーマンとか鮮明に覚えています。テーマ曲がない時代からプロレスを見てますが、なんとなく自然にテーマ曲に馴染んていけましたね。


安部さん 猪木さんの『炎のファイター』は知らず知らずのうちに聴いていて、テーマ曲を意識して聴くようになったのはミル・マスカラスの『スカイ・ハイ』です。中学校の時に吹奏楽部にいて『スカイ・ハイ』をよく演奏していたんですよ。



──ちなみにお二人がお仕事でプロレステーマ曲と接点を持たれたのはいつ頃でしたか?


鈴木さん 新日本の1986年10月9日・両国国技館大会ですね。アントニオ猪木VSレオン・スピンクス、前田日明VSドン・中矢・ニールセンが行われた興行で、「お前、プロレス詳しいからやってみろ」と言われて、テーマ曲を現場で出す仕事に携わりました。本当に新人で機械の扱いは慣れてなかったので緊張したのを覚えています。


安部さん 僕の場合はウッドベルの鈴木敏さんから依頼がきたのがきっかけです。確か1997年くらいだったと思います。鈴木敏さんは若くして亡くなってしまい本当に残念です。



──ウッドベル代表でプロレステーマ曲のプロデューサーとして活躍された鈴木敏さんは2007年に54歳の若さで他界されました。



安部さん 鈴木修さんを前にして言うのは大変おこがましいのですが、長らく鈴木修さんが新日本で作られてきたテーマ曲を作り変えるという話がきて、そこで僕はテーマ曲制作に携わることになりました。僕も含めてプロレスファンには鈴木修さんの作品が根付きまくっていて、リニューアルすることには抵抗がありました。でもそこに挑んだので責任重大だったと記憶しています。


──鈴木修さんが手掛けたテーマ曲は定番であり、スタンダードになってましたよね。


安部さん そうですよ。僕も作り手ですけど、ファン心理がわかるので「いいのかな?」と思いながら制作しましたから、ちょっと心苦しかったですね。だから今回の対談でお会いできて本当に嬉しいんですよ。


鈴木さん 安部さんは音楽家として実績を残されているので、この対談でお話をお伺いして勉強させていただきますよ。



テレビ番組での選曲について

「例えば何かしらで闘う場面があった時に映画『ロッキー』のテーマ曲を使うのは、全国ネットの番組でそれは安易だから使えない。だからプロとしてこのフレーズを使っていないけどイメージに合う違う曲を探してくるという作業を日々、やってました」(鈴木さん)




──今回の対談はテーマ曲マニアからすると奇跡の遭遇ですよ。元々、鈴木さんはオリジナルテーマ曲を制作する以前は既存曲をテーマ曲として選曲されていたんですよね。



鈴木さん はい。当時私がいたTSP(東京サウンド・プロダクション)は代々、新日本プロレスの選曲に関わっていて、前任が引き継ぐ形で選曲するようになりました。これはなかなか説明にくいのですが、テレビの音響効果とか選曲はTSPがやっていて、新日本の選曲=テレビの選曲だったので、番組の担当者と一緒に選んでました。『ワールドプロレスリング』が1987年に「ギブUPまで待てない!」に改編してスポーツ局から編成局制作3部(主にバラエティー番組を手掛ける部門)に変わって、またスポーツ局に戻りかける過度期に番組の担当になって、選曲にも携わるようになりました。


──『ワールドプロレスリング』が放送時間や番組内容が変わったり、何かと混沌としていた時期ですね。


鈴木さん 番組の音響効果を2年くらいやりましたね。


──当時のテレビ番組ではシンプルな選曲をあまりしなかったという話を聞いたことがありまして、例えばタイガーを伝える話題に対して、タイガーという曲名が入ったものを使うとかはご法度だったとか。


鈴木さん そうですね。やっぱりテレビ番組は毎日色々なジャンルが放送されていて、例えば何かしらで闘う場面があった時に映画『ロッキー』のテーマ曲を使うのは、全国ネットの番組でそれは安易だから使えない。だからプロとしてこのフレーズを使っていないけどイメージに合う違う曲を探してくるという作業を日々、やってました。番組の選曲に関わった皆さんは探し当てる作業に苦労されていて、本当にプロフェッショナルなんですよ。



──最適な1曲を探すのに1日かけて行う場合もあると聞いたことがあります。


鈴木さん やっぱりそういう場合もあるし、とことんこだわる人もいましたね。私はそこまで時間をかける方ではなかったのですが、やはり慎重にやらなきゃいけないところがあって、その時はあの先輩から何度もダメ出しを食らってから選曲したこともありました。番組の選曲や音響効果に関わった皆さんは本当に苦しい想いをしてやってたので、なかなかその現場にいないと分からないかもしれません。  




ウッドベル時代のテーマ曲制作体制

「プロデューサーの鈴木敏さんとディレクター、作曲家の古本鉄也さん、そしてギタリストであり作曲家のVEN(戸谷勉)さんらとの3、4人のチームで制作しておりました。一人でいくつかのペンネームで書いてた作曲家もいたりしましたね」(安部さん)



──安部さんは元々ミュージシャンをされていて、既存曲ではなくオリジナル曲を制作する側として、テーマ曲に関わりますよね。


安部さん はい。前にいた事務所の人と鈴木敏さんが知り合いで、そこからテーマ曲制作に関わりました。プロデューサーの鈴木敏さんとディレクター、作曲家の古本鉄也さん、そしてギタリストであり作曲家のVEN(戸谷勉)さんらとの3、4人のチームで制作しておりました。一人でいくつかのペンネームで書いてた作曲家もいたりしましたね。


──ウッドベル時代のテーマ曲は平田淳嗣選手のテーマ曲『ミッドナイト・ロード~迷信~』や大谷晋二郎選手のテーマ曲『キャッチ・ザ・レインボー~流星~』は”N.J.P.UNIT”が演奏されています。それが安部さんや古本さんたちのチームだったわけですね。


安部さん そうです。テーマ曲のレコーディングに関わるエンジニアには後にMISIAやゴジラ、ウルトラマンの音楽に関わる川口昌浩さんが合流して、みんなで一緒にテーマ曲を作ってましたね。 



藤波辰爾選手のテーマ曲『RISING』誕生秘話

「これは藤波さんを鼓舞するような力強いテーマ曲を作らないといけないなと思いまして、最終的には『変わっていくんだ』と藤波さんと話ながら制作していったのが印象に残っています」(鈴木さん)




──数々のウッドベル時代の貴重な話をいただきありがとうございます。ちなみにお二人はどのようにしてプロレステーマ曲を制作していくのか、テーマ曲の作り方についてお聞きしたいです。


鈴木さん 元々私は自分のバンドがあって、既存曲を選びながらも作曲思考が強かったんですよ。私たちの周りにでは音楽制作に力を入れている人も多くて、当時在籍していたTSPの中でも「既存曲で行くのか、オリジナルで行くのか」というせめぎあいがありました。そこを最初は上から指示されたことをやりながら、テレビ朝日の番組の中に少しずつ許可を得ながらオリジナル曲を制作して使ったりしてました。テーマ曲の作り方について結論から言いますと、決まりとかないんです。自分で頭の中で思い描いたメロディーをずっと溜めて、それを何かの形で音にしたり、ギターを弾きながら「これ、いいな」とか、鍵盤を鳴らして「このフレーズに合った曲ができたからこうしよう」とかケースバイケースですよ。


──決まったパターンでテーマ曲は生まれていないということですね。


鈴木さん プロレスの場合は選手と一緒に同行することが多いので、テレビや試合以外の彼らと接してきたので、その関係性やコミュニケーションからヒントを得た部分もあったかもです。



──鈴木さんが初めて手掛けたオリジナルテーマ曲は藤波辰爾選手の『RISING』です。この曲はどのようにして誕生したのですか?


鈴木さん  メインのフレーズを当時色々なものを自分の中で蓄えてまして、あの頃の藤波さんがビッグバン・ベイダーとか怪物と相対していて、「もっと力強い試合をしなければいけない」とおっしゃっていた時期で、色々とお話をさせていただき、これは藤波さんを鼓舞するような力強いテーマ曲を作らないといけないなと思いまして、ビクターレコードさんからCDを出しましたが、最終的には「変わっていくんだ」と藤波さんと話ながら制作していったのが印象に残っています。


──『RISING』はこれまでの藤波選手のイメージを一変させたテーマ曲でしたよね。


鈴木さん 藤波さんのテーマ曲といえば『ドラゴン・スープレックス』が一番華やかですごく人気があったんですけど、『RISING』をやる時の年齢は立場や状況も変わってきていたので、それを踏まえて制作させていただきました。


──1988年12月9日・後楽園ホールで行われたケリー・フォン・エリック戦(IWGP&WCCWヘビー級ダブルタイトルマッチ)で『RISING』が初披露されました。


鈴木さん あの時はプロトタイプの『RISING』が会場に流れましたね。



ウッドベル時代の秘話公開

「(小川直也さんのテーマ曲)『S.T.O.』は最初は風の音だけ流れて、そこから宇宙戦艦ヤマトっぽい曲調で仕上げたあのテーマ曲は僕が制作したもので、橋本(真也)さん向けに作ったつもりが結果的に小川さんのテーマ曲になったんですよ」(安部さん)



──ありがとうございます。安部さんはどのような形でテーマ曲を作成していくのですか?


安部さん 自分からこんな感じを作るのではなく、ウッドベルの鈴木敏さんから「こういう感じで作ってほしい」という明確なビジョンを聞いてから制作してました。以前、橋本真也さんの新テーマ曲を制作したことがあったんです。橋本さんのテーマ曲といえば鈴木修さんが制作した『爆勝宣言』があまりにもハマっていたので、「やり変えていいのか」という葛藤があったのですが、作ってみると橋本さんよりも小川直也(当時、プロ格闘家として新日本に参戦)さんの方が合うということで小川さんのテーマ曲として採用されたことがありました。


──それが小川直也さんが主に新日本参戦時に使用していたテーマ曲『S.T.O.』だったんですね!


安部さん 『S.T.O.』は最初は風の音だけ流れて、そこから宇宙戦艦ヤマトっぽい曲調で仕上げたあのテーマ曲は僕が制作したもので、橋本さん向けに作ったつもりが結果的に小川さんのテーマ曲になったんですよ。テーマ曲は個性がはっきりわかる選手は作りやすいですよね。


──個人的には安部さんが制作された『S.T.O.』が小川さんに一番合ったテーマ曲だと思います。


安部さん ありがとうございます。あと長州力さんの『パワー・ホール』も作り直したことがあって、曲調は同じなんですけど、音とかを新しくしたんですよ。でも作業をしながら「これは原曲を超えるものにはならないな」と。頑張って作ったんですけど案の定、僕が作り直した『パワー・ホール』はあまり使われなかったですね。


──確立された原曲をリニューアルすることはなかなか難しいですよね。では今まで制作された曲の中で思い出に残っているテーマ曲についてお聞かせください。


鈴木さん 橋本さんの『爆勝宣言』、武藤敬司さんの『HOLD OUT』、蝶野正洋さんの『FANTASTIC CITY』、佐々木健介さんの『POWER』、越中詩郎さんの『SAMURAI』は特に印象に残っています。あと全日本で小橋健太(現・建太)さんのテーマ曲作成依頼を受けた時に、小橋さんからもかなりご指摘をいただき、意向を取り入れて『GRAND SWORD』という曲を作りました。作成に時間をかかりましたし、自分の中では初めての体験ができたテーマ曲でした。結果的に私が制作したテーマ曲の代表作になりましたので、小橋さんには本当に感謝しています。


──小橋さんの『GRAND SWORD』は素晴らしい名曲ですよね!


鈴木さん ありがとうございます。それから潮崎豪選手の『ENFONCER』、ジェイク・リー選手の『戴冠の定義』も印象に残っています。ジェイク選手に関してはサウンドからどんな風に作るのかということも確認しながら制作するという初めての手法でした。あと近年ではDDTの秋山準選手ご本人から直接ご依頼を受けて、テーマ曲『FINAL EXPLODER』を手掛けました。曲のベースにイントロとか最初の部分の激しさとかはすごくリクエストをいただいて、この部分を盛り上げていくのかという付け足す手法で挑みました。



新日本・テレビ朝日側にいたテーマ曲担当の本音

「日本テレビさんが手掛けた全日本のテーマ曲がクオリティーが素晴らしくて、当時テレビ朝日側にいた私は『完全に負けたな』と思ってました」(鈴木さん)




──鈴木さんは近年は全日本、プロレスリング・ノア、DDTといった団体の選手のテーマ曲制作に関わってます。以前、ジャイアント馬場さんのお別れ会(1999年4月17日・日本武道館)で馬場さんのテーマ曲『王者の魂』ギターバージョンを演奏されました。これはどういった経緯で決まったのですか?


鈴木さん これはお別れ会の2~3日前にご依頼をいただきまして、ベースだけ作っておいて、あとは本番で演奏させていただきました。実は私は猪木さんの30周年記念大会が横浜アリーナ(1990年9月30日)で開催されたときに猪木さんのかつてのライバルが登場したセレモニーがありまして『炎のファイター』スローバージョンの作成依頼が来まして、制作したことがありました。そのイメージがあったようで馬場さんのお別れ会の時に全日本からご依頼を受けたということです。



──猪木さんの『炎のファイター』スローバージョンを作られたことがあったんですね。


鈴木さん あとジャンボ鶴田さんのテーマ曲『J』スローバージョンにも関わりました。私はジャンボさんの『J』がプロレステーマ曲の中で一番好きなんですよ。とにかく日本テレビさんが手掛けた全日本のテーマ曲がクオリティーが素晴らしくて、当時テレビ朝日側にいた私は「完全に負けたな」と思ってました。だから『J』をカバーすることになった時は安部さんのように「私が触っていいのだろうか⁈」という葛藤はありました。



nWoJAPANテーマ曲誕生秘話

「あの前奏の『エヌ・ダブリュー・オー』は鈴木敏さんの声なんです」(安部さん)




──『J』スローバージョンは個人的に鶴田さんのレスラー人生に凄く合っていて、いい曲だと思います。安部さんは今まで作られた中で思い出のテーマ曲はありますか?


安部さん 小川さんの『S.T.O.』と後年、藤田和之さんが使っている猪木さんのテーマ曲『炎のファイター 』オーケストラ・バージョンですね。あと白使VSアンダーテイカー(みちのくプロレス1997年10月10日・両国国技館)で白使のテーマ曲を作るために新崎人生さんにイメージを聞きながら、一緒に付きっきりでテーマ曲制作したことは印象に残っています。人生さんは素晴らしい方で人格者でしたよ。



──安部さんはnWoジャパンのテーマ曲や前奏にも関わっているんですよね。


安部さん そうなんですよ。あの前奏の「エヌ・ダブリュー・オー」は鈴木敏さんの声なんです。プロレステーマ曲を制作させていただいて嬉しかったのはレスラーの皆さんの素顔を知れたことですね。蝶野さんや天山さんのヒロ斎藤さんに対するリスペクトとかザ・グレート・サスケさんがエレクトーン5級を持っていたとか、佐々木健介さんが息子さんを連れてレコーディング現場に来られたりとか、中西学さんはコスチュームに着替えて「こういうイメージなんです」と言われたときは面白かったです(笑)。



──ありがとうございます。ちなみに個人的にお聞きしたかったのが鈴木さんは後藤達俊さんのテーマ曲『Mr.B.D.』を制作されていますが、この曲はどういうイメージで作られたのですか?


鈴木さん 私はよく新日本の道場に行って、橋本さんと遊ぶことが多かったんですよ。テレビ解説でお世話になり可愛がっていただきました山本小鉄さんもよく道場に来られていて、小鉄さんが道場にいると緊張感が走るんですよ。隅っこにいると小鉄さんから「こっちに来なよ」と言われてセンターを座らせてもらうと、横から後藤さんの影が見えたんですよ。小鉄さんが退席された後に後藤さんから「俺の曲はまだなのか」と言われて、これがいつもの恒例みたいになってきてたんですよ(笑)。


──ハハハ(笑)。


鈴木さん 何度も「俺の曲はまだか」というのがいじりとかじゃなくて本当の「まだか」に気がついて急いで制作したのが『Mr.B.D.』なんです。


──この『Mr.B.D.』は基本的に同じメロディを繰り返すような構成をされています。後に中邑真輔選手の新日本時代のテーマ曲『Subconscious』が『Mr.B.D.』の曲調に似てまして、中邑選手自身がレイジング・スタッフが大好きで、「(レイジング・スタッフの選手のテーマ曲は)曲としては単調かもしれないけど、ベースがよくて、レスラーと相まって独特の味がしみ出てくる」と語っているので、後藤さんのテーマ曲から影響を受けていると思われます。


鈴木さん そうなんですね!ブロンド・アウトローズ(レイジング・スタッフの前身となるユニット)のテーマ曲『禿山の一夜』がイメージに合っていて素晴らしかったので、そこからの後藤さんの『Mr.B.D.』に繋がったと思います。    




二人の今後

「プロレスは以前に比べてファン目線に戻ってきていて、楽しく観戦しています。その辺をエッセンスとして取り入れて、今後もテーマ曲制作に携わりたいと思います」(鈴木さん)

「今後、あのようなイベント(『シンニチイズムミュージックフェス』)があれば参加したいですし、鈴木さんとも共演したいです」(安部さん)




──ありがとうございます。ではここからはお二人の今後の活動についてお聞きしたいと思います。


鈴木さん プロレスだけじゃなくてあまり知られてない部分だとかジャンルを問わずに活動しているので、これからも継続してやっていきたいですね。あとプロレスに関しては選手とか団体の関わりが近年大きく変わったと思います。若い世代の音楽家の皆さんとか感性の違う方々が今、すごくいい曲を制作されています。私も依頼を受けたテーマ曲はしっかりとやっていきます。あとプロレスは以前に比べてファン目線に戻ってきていて、楽しく観戦しています。その辺をエッセンスとして取り入れて、今後もテーマ曲制作に携わりたいと思います。


──鈴木さんのX(Twitter)を見ているとプロレス熱が戻ってきているなと強く感じますよ。


鈴木さん ありがとうございます。自分が少年時代にプロレスを見ていた時のように「やっぱりプロレスラーは凄いな」という見方が強くなってますね。


──プロレス熱が戻ってきた鈴木さんからまた名作が生まれるのではないかと期待しています。では安部さん、よろしくお願いします。


安部さん 僕はプロレステーマ曲に関しては20年くらい関わっていませんが、今までやってきた色々なアーティストのサポートや自分のライブとかを地道にやっていきたいと思います。でも現在でも唯一プロレスと接点があるのが、プロレスラーだけどバークリー音楽大学出身の矢口壹琅(雷神矢口)さんとすごく仲良くさせてもらっているんですよ。


──ええ!!そうなんですね!


安部さん 矢口さんがプロデュースしている怪獣プロレス(プロレスと怪獣と音楽が融合した総合エンターテイメント)で二回演奏する機会をいただきました。矢口さんは色々な団体と絡んでいてさまざまな経験をされていてお話もすごく面白いんですよ。先日私のライブに矢口さんに出ていただいたりもしました、とてもいい経験でした。


──素晴らしいです!


安部さん あと最近、松永光弘さんと仲良くさせていただいていて、松永さんと矢口さんが別々に出てるライブをち見に行ったりしましたよ。松永さんも謎の音楽活動をされてますよね(笑)。


──松永さんはオブジェなどを改造して作る自作楽器作りが趣味で、2019年のR-1ぐらんぷりアマチュア部門で古時計を改造した楽器で優勝しているんですよ。


安部さん 松永さんのライブを拝見しましたけど、何とも言えない凄いライブでしたよ。



──安部さんは著名なミュージシャンのアレンジに携わったり、作曲でご活躍されています。これは鈴木さんも出演された『シンニチイズムミュージックフェス』(2022年11月17日・国立代々木競技場第一体育館)という“奇跡のプロレス入場曲フェス”のようなイベントが今後開催されたら、安部さんは参加したいというお考えはありますか?


安部さん あれはちょっと悔しかったんですよ。親しくさせていただいている山本恭司さんや石黒彰さんが出ていたので、「残念だな」と思いながら見てました。だから今後、あのようなイベントがあれば参加したいですし、鈴木さんとも共演したいです。


──鈴木さんと安部さんの共演は見たいです!


安部さん 鈴木さん、よろしくお願いします!


鈴木さん 安部さん、こちらこそよろしくお願いします!


(前編終了)