~ぶらぶら江戸散歩~vol.41『八丁堀』 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

今回ご紹介しますのは地元「八丁堀」。
お邪魔するも何も、日ごろ時間を過ごしている場所ですのでご紹介したいところも盛りだくさん。今回は、そんな中から厳選した場所、情報をお届けいたします。

まずは、八丁堀の場所と由来につきまして。
電車は、東京メトロ日比谷線、そしてJR京葉線が通っております。銀座からも割と近く徒歩圏なものですので、最近では八丁堀を「裏銀座」と呼ぶこともあるようです。確かにスタンディングで飲めるワインバーや、ちょっとした居酒屋割烹のお店が路地に有り、小粋な佇まいを醸し出しております。

「八丁堀」の名前は、時代劇ファンなら誰もがご存知の地名。江戸の町の治安を預かった町奉行所同心の別名ともなっております八丁堀。そもそもの由来は何だったとおもいますか。八丁堀の駅を降りましてすぐ、「桜川公園」という公園が目の前に広がります。
この公園内に名前の由来の答えが書かれている碑があるんです。
それによりますと、八丁堀は2つの堀川に囲まれた地域になります。
堀川のひとつが、「桜川」公園の地名で残っている堀川です。そしてもうひとつが、「楓川」(もみじがわ)。この2つがぐるっと囲む堀川の長さが8町(945メートル)ほどでした。
そのため、「八町堀」と名付けられたそうです。丁の漢字は町の略字。江戸時代の古地図には、「八町堀」の記載もありました。

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さて、前述の江戸町奉行同心につきましてですが、この八丁堀に与力同心組屋敷が有りました。その範囲は中央区八丁堀1~2丁目、そして日本橋茅場町の1~3丁目の広大なエリアであったことが伺えます。
組屋敷の広さは、南北700メートル、東西300メートルと言われておりました。総面積は32,800坪になりました。
与力は、奉行の配下、同心の上司にあたります。与力、同心は世襲制でしたので2~3年で交代する町奉行より職務に詳しかったと言われます。組屋敷に住む与力50人、同心280人は南北の両町奉行に別れて勤務いたしました。与力の屋敷は300~500坪、同心は100坪ほどと、現代から考えますと、たいへん広い家に住んでいたことが分かります。
同心は、袴をはかず着流しに羽織姿、朱色の十手を懐に隠し、その粋でいなせなスタイルは庶民の人気となりました。

さてさて、八丁堀には七不思議と言われるお話が存在いたします。
諸説ありまして、そのほとんどは、根拠が不明なものばかり。例えば「奥様あって殿様なし」や「寺有って墓なし」、「貧乏小路の提灯横丁」など。そんな中、実際に本当のお話がございます。
それが、「女湯の刀掛け」。
どんな事かと言いますと、銭湯の女湯に与力同心が刀を預ける刀掛けが有ったという事です。なんで女湯に刀掛けが?と不思議に思いますよね。江戸時代当時は、朝風呂の時間帯は女湯は止め湯と言われ、言わば与力同心の貸切風呂だったのです。

江戸っ子は銭湯好きでした。そこで、銭湯には情報が集まったのです。与力や同心は女湯に入って、隣の男湯で交わされる会話に耳を傾け、情報収集したと言われます。

与力・同心組屋敷跡は1929年(昭和4年)に小学校「京華小学校」として開校いたします。しかし1993年中央区の児童の減少とともに惜しまれながら閉校いたしました。
建物を取り壊す計画も有りましたが、外観はそのままに「京華スクエア」として蘇ることとなりました。建物の中には、中央区のシルバー人材センターや、コミュニティーセンターとして地域に根差した活動拠点になっているほか、早稲田大学のエクステンションセンターも入り、社会人の学びの場ともなっております。
いわゆるオープンカレッジ。早稲田の先生たちがキャンパスを越えて、学びを求める人たちに様々なジャンルの講座を開講しております。

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夕方ともなれば、ワインを飲みながら気取らずにつまみを食べられるちょっと素敵なお店に灯が灯ります。裏銀座で小粋なひと時もなかなか乙なものです。
それではぜひ、皆さんも『八丁堀』をブラブラ散歩してみてください。

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