ブラジルでの力道山、清美川 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

1958年、60年と、力道山はブラジルに遠征し、試合をした。これは、日本からブラジルへの移民が開始されて50周年記念事業だった。以下は現地での力道山の試合記録である。

 

1958年11月13日【サンパウロ】○力道山対ロボーデ・アラゴン●

 

11月16日【サンパウロ】○力道山対ロマノ●

 

11月20日【サンパウロ】○力道山対ピロッタ●

 

11月23日【サンパウロ】○力道山対ホセ・ルイス●、反則

 

11月27日【サンパウロ】○力道山対ピロッタ●

 

11月29日【アラサッパー】力道山対?

 

11月30日【サンパウロ】○力道山対ホセ・ルイス●

 

12月4日【サンパウロ】○力道山対マリオ・デ・ソーサ●

 

12月8日【マリリア】力道山対?

 

12月10日【ロンドリーナ】力道山対?

 

12月11日【ブラジルの?】△力道山対コンスタンチノ・コストリアス(ジョニー・コスタス)△

 

1960年3月10日【ブラジルの?】○力道山対インディミ・バラキオ●

 

3月13日【ブラジルの?】○力道山対カルーソ●

 

3月15日【ブラジルの?】○力道山対インディミ・バラキオ●

 

3月17日【ブラジルの?】○力道山対ブナニ●

 

3月不明【ブラジルの?】○力道山対マリオ・デ・ソーサ●

 

相手は無名ばかりである。名前を聞いたことがあるのは、マリオ・デ・ソーサ、ジョニー・コスタスである。

 

ソーサはオーストラリアでもよく闘っていた。それにブラジルと、南半球でしか名前を聞かないので私は彼のことを「南半球オヂサン」と密かに呼んでいる。

 

コスタスは65年秋に来日した。

 

力道山の遠征時、プロレスのことを現地では何と呼んだか?ルタ・リーブリである。ならば、34年に三宅多留次、エリオ・グレーシー、カロル・ノウィナが参戦したルタ・リーブリと歴史的な連続性があるのか?これはわからない。

 

「ルタ・リーブリ」を名乗る興行である以上、ブラジリアン柔術の名手が力道山の相手にいたのなら興味は湧く。なぜこの時グレイシー一族が出てこなかったのかは、考察に値する。

 

試合の方は、大半は力道山のワンサイド、秒殺試合だったようだ。アラゴンは目潰しに来たという。が、これだけではヤオガチ論争をするにも資料がなさすぎる。要は力道山を勝たせるマッチメークだったという推測は成り立つが、決めつけは避けておきたい。

 

60年代の半ば以前に清美川がブラジルに航ったことがある。清美川は56年にメキシコに渡ってからから70年まで、プロレスが行われている国のほとんどの国のリングに上がった。ブラジルで自分がプロモートして興行会社を立ち上げたとは考えにくい。プロモーターに呼ばれたのであろう。 このブラジルで清美川に弟子入りを願い出たのが横内信一、のちのシャチ横内である。清美川は断った。そして、ブラジルは商売にならぬと、ヨーロッパに飛んだ。

 

60年に日本からペルーに航った小島康弘、後のヒロ・マツダも「南米では商売にならぬ」と、メキシコに飛んだ。ここでいう南米とは、南アメリカ大陸、すなわちパナマより南の部分である。 この辺りで南米はプロレス不毛の地となったということだ。

 

確かに70年代、猪木はブラジルで興行を打っている。が、あれは新日本プロレスの出張である。パット・パターソンは79年、リオデジャネイロでのトーナメントに優勝しWWFインターコンチネンタル王者となったが、トーナメント自体がフィクションである。 地元資本、地元レスラーによる定期興行が行われない限り「不毛」とすべきである。

 

プロレスにおいて「ブラジル」と聴いて我々が思い出すのはボボ・ブラジルである。これが実体だ、とすべきであろう。