パット・パターソンの記憶メカニズム | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

 

出生:1941年1月19日、カナダ・ケベック州モントリオール

 

デビュー:1962年5月30日【カナダ・モンクトン】○アレックス・メディナ 対 パット・パターソン●、反則

 

ラストマッチ:1985年2月27日【カルガリー】(テキサスデスマッチ)○パット・パターソン&アンドレ・ザ・ジャイアント 対 ビッグ・ジョン・スタッド&ケン・パテラ●

 

ここで一旦引退だが、 2000年6月25日【ボストン】(WWFハードコア)○クラッシュ・ホリー対パット・パターソン●

 

 

パット・パターソンといえば50代半ばの我々世代には77年暮に大阪でアントニオ猪木と好勝負を繰り広げた渋いレスラーである。が、90年代にWCWとのマンデー・ナイト・ウォーズの頃楽しんでいた方々には、アティテュード路線の主要プロデューサーの一人として映ることであろう。88年にはロイヤルランブルを考案したこと、そして現在もWWEのクリエイティブコンサルタントに名を連ねているあたりに、相当の切れ者なのだろうということになる。

 

パターソンがWWF(WWEの前身)デビューしたのは、79年の4月17日のペンシルバニア州アレンタウンはアグリカルチャー・ホールで行われたテレビ収録であった。パターソンはこの日2試合行い、スティーブ・キング、ジョニー・リベラに連勝した。

 

さて、アレンタウンといえば我々世代にはビリー・ジョエルの同名の曲を思い浮かべるかもしれない。いやいやちょいと待て、猪木がニコリ・ボルコフを弓矢固めで降しNWF王座を防衛した会場じゃないか、との茶々も入りそうだ。左様。パターソンのWWFデビューと猪木のNWF防衛は全く同じ日、同じリングである。

 

パターソンはキラー・コワルスキーのコーチを受けプロレス入りした。ブレイクしたのは65年のサンフランシスコ地区だった。その直前までオレゴン地区新居てカジモトのライバルだった。カジモトとは武者修行時代の猪木の当地でのリングネームである。

 

キラー・コワルスキーのコーチを受けたといえば、ビンス・マクマホンの娘婿であるトリプルHと同様だ。日本風に言うとパターソンはトリプルHの兄弟子ということになる。そういえば共通の師匠のコワルスキーもWWWF(WWFの前身)で活躍したレスラーだった。

 

パターソンはWWFデビューした段階で、レイ・スティーブンスとのコンビでAWA世界タッグチャンピオンだった。WWFはテレビ録りのみとし、普段はAWAのサーキットに参加していた。WWFハウスショーのサーキット一本としたのは、その年の8月の末の事である。

 

パターソンの2度目のWWFテレビ録りは5月8日だった。場所は同じアレンタウン、その日も2試合で相手はフランク・ウイリアムスとドン・デヌーチだった。ウイリアムスには完勝しデヌーチにはリングアウト勝ちした。デヌーチはオーストラリアではIWA世界王者だった。サンフランシスコではUS王者だった。数多あるUS王座の中でサンフランシスコ版の権威は「世界」に準ずる。そんなデヌーチは79年には有望なヒールに対する噛ませ犬になっていた。

 

さて、パターソン、コワルスキー、デヌーチとくれば68年の第10回ワールドリーグ戦である。パターソン、デヌーチにとって初来日であった。当時の日本には今のような高速道路網はない。原則的に鉄道で移動する。長野県松本と言えば現在であれば東京や名古屋から車で飛ばせば3時間切るかもしれない。しかし、鉄道移動であればトンネルの連続なので初めての人には山を越え谷を越えたどり着いた先の盆地である。

 

1968年4月22日、日本プロレスのワールドリーグ戦が松本市県営体育館にやってきた。当時高校生だったあるマニア君が、ニューヨークで発行されていた雑誌”レスリング・レビュー”のある号を持って外人側控室を訪ねた。なぜその号を持って行ったかというと、コワルスキーの写真が掲載されていたからである。

 

コワルスキーは感動した。

 

「日本の、こんな山の中に”レスリング・レビュー”を持っているボーイがいるなんて・・・。日本は何ていう国なんだ?」

 

情報が瞬時に行き届く今日においてネパールの山の中で水前寺清子のCDを持つ少女にである確率よりも、あの時代に松本で”レスリング・レビュー”に出会う確率はどっちが高いかは知らないが、外人側のボス、コワルスキーの感動にシンクロした外人レスラーがいても不思議ではない。

 

「ああ、君はあの時”レスリング・レビュー”を持ってきたボーイだね」

 

パターソンは何年かしてマニア君との再会の時に、こう言ったと言う。プロレスラーと話していて感じるのは、記憶がいい人とそうでない人がいることだ。パターソンは間違いなく前者である。私は、発想は発想として独立しているのではなく、発想を生かす大きな要因に記憶があると考えている。

 

パターソンの発想力は最初に書いたとおりである。そしてその発想力は何年も前の松本での”レスリング・レビュー”がきちんとインプットされている記憶のメカニズムにあるように思う。