続プロシタン通信

続プロシタン通信

プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

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1960年、力道山とそりが合わずに日本プロレスを離脱したヒロ・マツダが日本に里帰りしたのは、力道山が亡くなってから1年後の64年の暮の事でした。この時はリング上から挨拶をしましたが、試合は行いませんでした。

 

その1年半後の66年5月、マツダはデューク・ケオムカと共に、再び里帰りします。この時は、7月まで日本プロレスのリングに上がりました。マツダと手が合う、エディ・グラハムとサム・スティンボートもフロリダから参戦しました。

 

シリーズ終了後、マツダは新団体旗揚げを準備し、10月、日本プロレスを退社したばかりの吉原功と、国際プロレス設立を発表します。そしてグラハムの全面協力のもと、67年1月に旗揚げ興行を打ちました。

 

ところが、ケオムカはその年の4月、日本プロレスのワールドリーグ戦に参加します。ケオムカがマツダと仲違いしたわけではありません。フロリダでは仲良くやっております。これは、ケオムカが日本プロレスの外国人レスラー招聘担当のミスター・モトと従兄弟同士だったことが大きいのですが、フロリダサイドとしても、日プロとのラインを保険として残しておこうという目論見があったと思います。そしてマツダは67年秋に国プロと切れた後、フリーとして、ほとぼりが冷めた69年暮に日プロのリングに上がります。

 

72年秋に全日本プロレスが旗揚げされると、フロリダ地区は提携先を日プロから全日本にチェンジします。フロリダ地区は先を読んだのでしょう。マツダが初めて全日本に上がったのは、73年4月のことで、同月、日本プロレスは崩壊します。

 

ところが、77年3月、全日本のフロリダ遠征終了直後、マツダは「日本選手権に参戦」を宣言します。「猪木とも戦う用意がある」とのコメントは、新日本プロレスとの提携宣言でした。NWA加盟団体の多くが全日本と提携する中、あえて逆を貼ったのですね。そして、マツダを初め、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデスなど、それまで全日本のマットに上がっていたスターたちが、新日本のリングに上がり始めます。

 

ところが、これで全日本とフロリダ地区が切れたわけではなかったのです。例えば78年に個人ルートでやってきたミスター・サト(ザ・グレート・カブキ)は全日本所属を解いたわけではありませんでしたし、サトに引っ張られる形で全日本所属の天龍源一郎も78年11月からフロリダ地区で闘っています。当時は気づきませんでしたが、全日本でメキメキ売り出したディック・スレーターのホームリングは実はアマリロではなく、フロリダでした。馬場もスレーターだけは確保した、と言う形です。

 

フロリダ地区はかつて、国プロと提携しながら、日プロを保険としました。この時も、新日本と提携しながら、全日本を保険としました。、

 

80年10月開幕の新日本「闘魂シリーズ」にはフロリダ系のポール・オーンドーフ、スティーブ・カーン、ジム・ガービンが参戦しています。ところが、フロリダ地区のヒール側マネージャーのタイガー服部は、11月開幕の世界最強タッグ決定リーグ戦に帰国し、全日本のリングにレフェリーとして上がります。これは、フロリダ地区が再び全日本とラインを作ったということです。なぜ、そんなことが起こったのでしょうか。実は、80年の10月ごろから、実質的な全日本のメンバーだったドリー・ファンク・ジュニアがフロリダ地区のブッカーに就任したからでした。そして81年3月、ドリーのブッキングでブリスコが全日本に復帰します。

 

これでフロリダ地区は全面全日本かというとそうではなく、マツダは新日本に来続けます。85年にグラハムが亡くなり、マツダ&ケオムカが後を引き継ぐと、マツダ=馬場ライン復活は不可能でしたので、提携先は87年2月にクロケット・プロに吸収されるまで新日本一本となります。

 

「バルカン政治家」という言葉があります。バルカンというのは南ヨーロパのバルカン半島のことです。ギリシャの東側にある、地中海に面した半島です。そこに位置するクロアチアはミルコ・クロコップを輩出しています。「バルカン政治家」とは、状況により敵味方を変える政治家のことです。地政学的に、列強に挟まれるバルカン半島ではそのように振る舞う政治家を輩出し、彼らにつけられた異名でした。

 

ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスと行った特大都市を地区内に持たないフロリダでしたが、盛況になるにつれいいレスラーが集まって来ます。ゲート収入以外に他地区へのブッキングフィーで稼ぐ場合、適度に興行戦争が起こる日本はお得意さんになります。ビジネスライクさでは日本人離れしたマツダを内部に取り込んだグラハムは、ある団体と提携しつつも、そのライバル団体を保険にする方式を取りました。

 

ジュニアヘビー級でスタートし、あちこちの地区で苦労しながら最終的にフロリダに定着し他という点でグラハムとマツダには共通点があります。そのスタンスはまさしく「バルカン政治家」です。若い時に苦労した経験がそんな選択をさせたとしか思えません。

 

昭和アメリカンプロレス、テリトリー時代のフロリダ半島は「マット界のバルカン半島」だったことになりますね。