・独り薩摩路・・・(1) | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 考えてみれば(否、みなくても・・・汗)、8月も4日になっている・・・。

 

 つまりは、

「Nippon全国、夏休み(=旧盆・・・)Week・・・」

の一週間前と云う訳だ・・・。

 と云うことは、昔の田舎では、

「家族揃って、墓掃除・・・」

に勤しまなければならない時期であると、今朝気付いて・・・(汗&笑)

 

「ならば今日は・・・!」

とならなければいけないところだが、何せ「この熱さ・・・」を考えれば、

「昼間は、危ない・・・!」

と勝手に決め込み、

「殊勝は後回し(=夕方・・・)」

にして、先ずは、先日山仲間の友人がUPしたFacebookに在った

「我が故郷、薩摩の世界遺産・・・」

を観るために、故郷薩摩の路をオンボロ愛車で独り旅とシャレ込んだ訳で・・・。

 

 台風8号の前風で、昨日までに比べれば随分涼しく感じられる日なのだから、「この熱さ・・・」などと云うのは、単なる云い逃れでしか無い訳で、つまりは

「面倒は後回し(=先延ばし・・・)」

にする性癖が兆しただけの話である・・・(汗)

 

 で、その世界遺産とは、

「関吉の疎水溝(せきよしのそすいこう)・・・」

と云う場所で、2015年に、

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」

との名目で、

「世界文化遺産・・・」

に登録された場所だそうだが、お恥ずかしながら、小生、数ヶ月前にNHKのブラタモリで放映されるまで、まったく存じ上げなかった・・・(汗)

 

 

 詳しくは、

「 関吉の疎水溝(Wikipedia) 」

をご一読頂くとして・・・。

 

 まあ、事を平たく簡単に云えば、

「幕末、薩摩の英明藩主として近代西欧文化を導入しようと努めた島津斉彬(=28代当主)が、単独の技術で大砲を造ったりする動力源にすべく引いた水力動力の源(取水口・・・)」

とでも云えば善いのか・・・⁈

 

 

 島津斉彬と云えば、昨年の大河ドラマの冒頭、あの渡辺謙さんが力演した役だが、42歳にして漸く藩主の座に就いたは善かったが、僅か7年にして早逝(=病死=暗殺説もある・・・)してしまった悲劇の名君にして、あの維新の英傑、大西郷や大久保利通らを育てた殿様としても有名である・・・。

 

 その名君が、

隣国清のように)西欧に攻め込まれない日本国・・・」

を創るには、

「西欧の近代軍事力に負けない工業力を備えなければならない・・・!」

と想い極め、その最優先として

「大砲の鋳造・・・」

を試み、その為の製鉄施設と

して

「反射炉(=集成館・・・)」

を造った訳だが、そこの製鉄火力を起こす風力(=フイゴ的役割)として水車を回し、また出来上がった鋳鉄に砲門を刳り貫く為のドリルの回転力としても、この水力落差で水車を回して回転させたのだと、今日、現地のボランティアガイドさんが、

「自信たっぷり・・・」

に教えて下さった・・・(汗)

 

 否々、我が故郷薩摩とは、

「何とも素晴らしい先駆者(=名君)を持っていた・・・!」

と改めて感服した・・・(笑)

 

 では、早速、その取水口をご案内すると・・・。

 

 

 田園地帯を少し登った狭い谷間に、その史跡は、

「今まで、忘れられていた・・・」

と云う静かな佇まいで迎えてくれる・・・。

 

 入り口を少し入ると、直ぐに小高い溶結凝灰岩の岩崖に挟まれる・・・。

 

 

 否々、この岩盤を斫って水路を開くには、相当の労力を要したことは、容易に推察できるが・・・。

 

 

 通路の直ぐ脇を、清らかな水が勢いよく流れて居るが、この水路の流末地点との落差は

「延長約6キロメートルにして、僅か8メートル・・・」

しか無いのだそうで、その傾斜角は、0.077°にしかならないと聞くと、この流速が嘘のようだが、この流速を得るための工夫は、

「溝の幅・・・」

に有るのだそうだ・・・。

 つまり、溝の幅を広くしたり狭くしたりして、この勾配の無い水路に相応の流速を与えていると云う訳だ・・・。

 否々、先人たちの叡智とは、斯くも素晴らしい・・・。

 

 

 此処は、現在の取水口だが、幕末の頃までの取水口は、この少し下流に

「板堰・・・」

を懸けて、河を堰き止めて居たのだと、現場に居た女性のガイドさんが教えて下さった・・・。

 

 

 上の写真の中央付近の岩を支えにして堰き止めたのだそうだ・・・。

 左の岩に、その痕跡を示す四角い縦溝が刳られている・・・。

 延長6キロメートルを昇って来て、取水出来る高さを、この岩の存在にしてやっと得られたと云うことらしい・・・。

 この水路が最初に穿かれたのは、

「元禄4(1691)年・・・」

で、下流の水田用として当時の代官の手に依るのだそうだが、それを、1,722年に、当時の藩主、島津吉貴(=第21代当主)が、島津家の別邸である仙厳園の用水として延長させ、それを、斉彬が、工業用として利用したと云う訳だ・・・。

 つまり、この取水関こそ、

「我が日本の工業化の源動力・・・」

だったと想うと、先人たちの労苦に

「頭を垂れなければならない・・・」

と想うべきだが、この禿ジジイには、そこまでの殊勝な心掛けの起きようはずも無く・・・(汗)

 

 この谷間の川を渡って吹く風は流石に涼しかったのだが、残念ながら、この涼風に涼む人はそう多くは無かったのが、些か残念ではある・・・。

 もっと多いと想って来たのだが・・・。

 

 先人の叡智と労苦につくづく感心し、水の力の凄さを再認識する30分間を過ごし、もう一度約400メートル手前に在る駐車場に戻ったが、そこには、ご多聞に洩れず

「物産館・・・」

が営業しており、往復で照り炒られた体を冷やすべく覗くと、入り口直ぐに、

「如何にも夏(=西瓜・・・)」

が置かれていた・・・(笑)

 

 

「5L・1玉、1,500円也・・・!」

のシールが貼られて居た・・・(笑)

 流石に、これを一個求める勇気はなかったが、如何にも美味しそうに見えたのは、外の熱さの所為だったろうか・・・(汗)

 

「当初の一目的・・・」

は順調に達したが、此処(=鹿児島市内・・・)まで来れば、この際、もう一ヵ所行って措きたい場所が有る・・・。

 これも、山仲間のFacebook記事で識ったのだが、

「稲庭風うどん・・・」

なる食べ物の店と云うのが在って、そこがなかなか美味しいのだとか・・・⁈

「此処まで来れば、行かずばなるまい・・・(汗&笑)」

と云う訳で、

「あと一脚・・・」

を延ばすことにした・・・。

 と云うのは都合の善い云い訳で、此処に脚を向けた段階から、そこまで行くのは

「最初から織り込み済み・・・」

だった訳だが、

「稲庭風・・・」

とは、果たしてどんな風(ふう)なのか・・・(笑)

 

(「その2」につづく・・・)